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エンサイクロメディア 代表取締役前田祥丈

荻窪ロフトのスケジュール・ブッキングには、こんな人脈の秘密があった!

(※当時は前田至)
ロフトとの付き合いが始まったのは西荻なんですよ。僕が「風都市」っていう事務所にいて、ここ、もともとはハッピーエンドの事務所だったんです。そこでその頃に南佳孝さんとか吉田美奈子さんとかが、レコード・デビューするんですよ。それで南君とかを西荻に出してもらったりして、そういう事からロフトとの交流が始まっていったんですよ。
その後、次の年かな、荻窪が出来たのは74年か。僕は柏原卓っていう人と、長戸芳郎さんっていう人と一緒に「テイク・ワン」っていう事務所をやっていて。山下洋輔トリオ、シュガーベイブを一緒にやってる事務所だったんですよね。その時に、荻窪ロフトのスケジュールをやんないかっていう話しがあって。1年くらいやったのかな。

西荻っていうのは、吉祥寺のフォークの流れを組むって感じがあって。荻窪は、フォークの人達も出てたけど、ハックルバックとか、いわゆるティンパン系 <注1>の人達がよく出てたし。ユーミンも出たことあるし。アッコちゃん(矢野顕子)とか出たことあったっけかなぁ。そういう時代の中での、まだマスコミが騒ぐ前の、とがった所を結果的にやってたっていう感じはしますよね。
坂本龍一なんかも当時のお客さんだったから。たしかそれがきっかけで、友部(正人)さんとかのバックするようになったりして。出演してる人と仲良くなったりとかはけっこう多かったですよね。ステージ終わると、出演していた人もそこで飲んでいったりとか。そこでいろんな交流が生まれたりというのがすごくあったんですよね。大変だったんですけど、実状はね。絶対にみんな食えない時代だったから。大変だったけど、やっぱりなんとなく熱いものがあったよね。

一応平野さん、毎日ほとんど来てた。平野さん自体も若かったし、おもしろかったのかもしれない。ミュージシャンとすごく話したりしてたし。熱く語る?(笑)。ほとんどライヴとか顔だしていたから。そういう物に触れながら、何か企んでいたよね(笑)。
焼きそば、焼うどん。あれはありましたよ、昔から。平野さんも作ってたもんね。まんなかにブレイクがあるライヴとかあったんですよ。ちょっと休憩取って、その間も売ってた、食い物を(笑)。

普段は普通のテーブルで、ライヴがあると小学校で使うようなちっちゃい椅子をで〜〜っと並べて。スタンディングって発想なかったなかったですよね、当時は。レコード会社も、こういう場所をどう利用していいかわかってない時代だったんですよね。むしろ、ほんとにやりたいものをやる。やりたい物だけやりたいんだけど、お客さん入んないから、どうしよう、みたいな悩みですね。だから逆に、あんましビジネスの匂いがしない所がよかったんだよね、きっと。ごちゃごちゃと、サークルの延長みたいな感じ。
必ずしも最初の頃は、ライヴやってお客集めるってことでもなかった気がする。ただ営業してた方が儲かるっていうさ(笑)。でも好きだったと思うんだ。そういう所でライヴやったりして、ムーブメント作っていこうっていうのはあったと思う。今やってるロフトプラスワン、ああいうのも、一種そういうのの発展なんだよね。トークライヴみたいなものは昔、悠さんは普段の営業の中でかってにやってた気もしますが(笑)。
いやあ、でも、きれいなお店つくんなかったのがよかったんじゃないですか。白い建物のトレンディなお店にしなかったのが、よごれが目立たないって(笑)。そのへんがあるんじゃないかなぁ(笑)。

<注1>ティンパン系
細野晴臣、鈴木茂のいた“ティン・パン・アレイ”とつながりのあるミュージシャンやバンドを総称するひとつの言い方。はっぴいえんどをルーツにした、はちみつぱいやムーンライダース、あるいは交流のあった矢野顕子や南佳孝、あがた森魚なども含めてティンパン系の音楽と表現することもある。