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自由が丘ロフト オーナー佐藤弘

元下北沢ロフトの店長は、ず〜〜っとロフトと共に生きてきた!

俺は最初は西荻とか荻窪の客、俺は飲む方だな。近かったから、たまり場的な。で、下北ができるっていうんで、ちょっと手伝ってくれよみたいな。いいですよ〜ってやってたら、最初の店長の荒がすぐ辞めちゃってさ。で、俺、すぐに店長だよ。だから、実質的な初代店長は俺だなと(笑)。

2年かしてから、新宿がオープンしたワケ。悠さんとかみんな、新宿、新宿って言ってさ(笑)。だから下北は下北で、色々やろかっていう人を集めて、独自の色を出してたワケだな。

そのあと荻窪行った頃は、テクノやパンクの元締めみたいな友達がいてさ。3バンドとか4バンドかけてやったら、すごい入るようになって、その流れで新宿行ったようなもんだよな。で、そのあとが東京ロッカーズとか。そこらへんの初期の頃は、悠さん知らないと思うけどさ、荻窪でやってたんだよ。

最初は、烏山だからね、平野さんも言ってると思うけど。それまでのジャズ喫茶と違って、話もできるし、リクエストもできる。それを言えば初期だろうな。で、落書き帳とかさ、平野さんずっと今まであれがやっぱ必要なんだって言ってるけどさ。つまんないけどな、今な(笑)。ジャズ、ロック、フォークの壁を破って、日本語のフォークでもね。それでもやっぱり革新的だった。いいかげんって言えば、いいかげんだけどよ(笑)。

下北は関西系のが多かった。しょっちゅう飲みにきてたし。たあぼう(サザンオールスターズの大森)と毛ガニが働いていたのもその頃。メンバーもよく来てたしね。サザンなんか、店開ける前に練習とかやってたんだからさ。

悠さん、海外行って人生観変わったとか言ってるけど、全然変わってないね。無敵だよ、無敵(笑)。相変わらずの論法でやっつけられるもんな。敵いません(笑)。よくあれだけ出てくるよな、言葉が。

新宿ロフトが20年か、早かったな。最初潜水艦で大砲あったの知ってる? あのおかげで収容人数全然入んないってよ(笑)。久保田麻琴と夕焼け楽団(記憶違いで、正確にはめんたんぴんだったらしい)が、大砲の前じゃできないって言ってさ。下北も真ん中に柱あったよ。俺がじゃまだったけど、もうこれはしょうがねぇよな。

一番の思い出は、そりゃやっぱり下北、若かったしな。むちゃくちゃやったような気がするよ。面白かったことには面白いけどね。(近藤)房之助の、ブレイクダウンの連中がよく飲みに来てたんだ。その時にさ、常連のお客さんとちょっと揉め事起こしてさ、どっちもどっちだけどさ。ブレイクダウンの方が10何人いたわけ。相手は3人なんだよ、10秒だったね、10人がゴロゴロゴロって。そいつら東海大の空手部でさ(笑)。主将とかさぁ。

そんなことばっかりだよ(笑)。酔っ払って一升瓶持ってさ、このやろー、ガチャン! 週のうち…毎日喧嘩だな。ま、そういう所には人が集まるんだよな、みんながみんな確立されてない時だったワケだ。めちゃくちゃだったけど、そこから何か生むみたいなことあったもんな。下北だってさ、新宿できて負けるのは悔しいさ。こっちだって企画してさ。

でもまだこうやってやってるっていうのは、平野さんってすごいんだろうな、やっぱ。継続してっていうのはすごいことだ。それは認めてます。自由が丘は、状況的にライブできなかったんだろうね、ここも丸々17年か。多感な、青春時代から22年くらいロフトと共に経ちましたね(笑)。