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サインズ 音楽事業部 制作 / ユイステージサービス 課長中島儀幸、森山朝雄

元新宿ロフトPA担当者と、イベント企画者が、今明かす秘密対談!?

中島「僕がね、スタッフとして新宿ロフトに出入りするようになったのが、84年くらいだったと思うんですよ。まだその時は悠さんが日本にいて、店長が……山崎さんだ」
森山「店長が山崎だった? 長沢が下北に移って、その後山崎で、蟹江さん荒さんか」
中島「荒さんはねバンド・ブームの頃に戻ってからですよ。まだイベントの日にちをもらえるとかって身分じゃ全然なくて、赤坂さん(バンビ・ミュージック代表)の使いっぱでチラシまきに行ったりとか、搬入搬出手伝ったりっていう」
森山「今って照明いるのかな。俺らの頃、山崎がやったり、俺がやったり。22の時だから…17年くらい前か」
中島「80年に僕、初めてロフトに入ったんですよ。潜水艦があったような」
森山「僕は潜水艦知らないんだけど、そこに掘りごたつ作って、PA卓と照明のスイッチがあった。潜水艦がなくなってすぐじゃないかな、最初にPAやりたいんですって言いに行った時、金子マリさんだった。ああ、金子マリさんだ、すげぇって。でも、客ぱらぱらとしかいなくてさ、あららららって思った」
中島「はじめはね、いつ行っても客が20人とか30人とか、これはどうやって経営してるんだろうかって」
森山「こんなんでやっていけるのかなってすごい思った。で、最初の給料もらった時に、やっていけるんだ、って(笑)」
中島「俺がそう思ったのはね、よくわかんないバンドがいっぱい出てるんだけど、100人くらいお客さん入ってるワケ。それがなんでかわかんなくて。あとになって、それはノルマで集めてるんだってわかったの。打ち上げも最初は不思議で、あの光景だけは20年間変わらない光景なんじゃないですかね。昔はボトルが出たんですよ」
森山「うん、出た。ブラック・ファイブ・オーが。おつまみも出しても、お客さんがそれ以上落としていってくれるから。すごいそこでもうかってたんだと思う。打ち上げやってくれないと、もう、悠さん、逆上してた(笑)。”帰っちゃったよ”って」

二人とも一度就職して戻ってきてしまった

中島「で、僕と森山さんは、ロフトの中ではあんまり会話はなかったんですよね。そのあと、バンド・ブームのイベントとかでたまに会うようになって。僕は音楽を本業にするつもりはぜんぜんなくて、ただライブいっぱい見たいし、いろんなバンドを世に出していければおもしろいし。出す方法いろんなやり方があると思ったから、それをやってみたかった。大学生の自由研究みたいなものですよね。そのうち、そこでの儲け方っていうか、ノウハウも身についてきて。卒業して僕は1回就職するんですよ、まっとうに。でも戻ってきちゃうんだけど(笑)」
森山「僕もね、日本電子専門学校ってそばにあるでしょ。あそこにね、通ったの。1回社会人、普通のサラリーマンになって。で、こりゃダメだな、自分のやりたいことやらないと、ずっとおもしろくないだろうなって学校に入学して。で、そしたら近くにライブハウスがあって。ここで働かせてもらえないかな、ついでに金も稼げれば御の字だ、みたいな。でも生活費は稼げなかった。とてもじゃないけど(笑)。それで3年くらいいてね、1回やめたの。で、BOØWYかルースターズでロフトに行ったら、悠さんが「戻ってこいよ〜」って。お金の話で、”最低これだけくれなきゃぜったい戻らない”って言ったら、「じゃ、やるよ」って。なんだよ、最初から出せるじゃないかよって(笑)」
中島「ライブハウスが良かった時代っていうのは、80年だ初頭から、バンド・ブームまでじゃないかなって気がするんですよ。もちろん今でもいい遊び場所でもあるし、役目としても、広い意味で文化も発しているような場所でもあると思うんですけど。ただ、あのうさんくさい、よくわからない雰囲気が」
森山「それは、僕らが変わったんだよ。まだ憧れてる連中には、やっぱりうさんくさい所だよ、今でもきっと。ただ、同じくらいの規模で、どんどんキレイなライブハウスができてるから、それが変わったなって。例えば下北とか、ちょっと見、小綺麗なところがどんどんできちゃって、その辺が、昔と状況が違うよね」

つまり、ロフトとは”平野悠”なんだ

中島「今、話を聞きながら、なんだったんだろう、あれは、って思うと、やっぱり平野悠だったりするんですよ(笑)。悠さんが放浪の旅から帰ってきて、シェルターオープンして。数日後にシェルターの前で悠さんにあって、それが8年ぶりくらいの再会で」
森山「俺はどのくらいかな。10年…放浪の旅に出る前に会ったきりだよ。新宿の厚年(厚生年金会館)の近くでバッタリ会って、おう、お前今何やってるんだよ、って」
中島「何か、エピソード的なものって、あるようで、ないんですよね。ひとつだけ思い出すのはね、ロフトのね、年間動員のその年のワースト2とワースト3を作った(笑)。2月にね、お客さんが19人とかhsか入らない日が1日会ったの。(当時店長の)蟹江さんにね”お前これ、この年の最低だぞ”って言われて。しばらくして”ごめん、ごめん、ワースト1あった。チャンスオペレーションとなんかが、16人だった”って」
森山「それって俺がいた頃じゃないか、チャンスオペレーションやってたもんな」
中島「そのあと秋に、今度21人っていうのやっちゃって。でも当時のロフトはね、チャージ・バック7割っていうのが保証されてたんですよ。だからね、ギャラはくれるんですよ」
森山「じゃ、ワースト1だったのかな、あれ。8人か6人の時。あ、あと、バンドが来なかったっていう(笑)。客も5人くらいしかいなくて蟹江だったかな、山崎だったかな。クリエイションで。クリエイションっていえば、あんなに売れてたのにって思うんだけど、その頃は全然お客さん入んなくて。月1で3ヶ月やったのかな、で2回目の時に、来ないの。6時半になっても、メンバーひとりも来なくて。電話したら、リハやってた。”今日、本番? 明日じゃなかった?”ってなんじゃそれは(笑)」
中島「今日は、自分としてはね、あんまり思い出話っぽくはしたくなかった。きっと歴史みたいな話は誰かがするだろうから。俺としては、テーマを”平野悠はいかに変人か!”っていう」
森山「(笑)。あの頃から、”つまんない”って言ってた(笑)」
中島「このバンド、つまんないな〜って」
森山「ぜんぜん、おもしろくねえな、って言ってましたよ。3年放浪して、戻ってきて、半年くらいして、また戻ってきて、俺がいた頃はずっとそうでした。ほとんど金勘定は(佐藤)文さんに任せてて」
中島「悠さんが帰ってくると、みんなで、悠さんもう帰ってきちゃったよって。で、おだてて、また旅に出すの(笑)」
森山「そうそう、それやってたね、俺も(笑)」