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フライングパブリッシャーズ 代表取締役石井康則

パンタのマネージャーは、ちらしを配っていて新宿ロフトの誕生を知った?

下北はよく行ってた。西荻、荻窪は行った記憶は何回かはあるんだけど。下北が出来た頃は、まだ学生やってましたね。学園祭のコンサートの企画とかをよくやってたんですよ。その頃って学園祭はセクト(学生運動の中心的派閥のようなもの)が握ってるでしょ、その付き合いの関係で。悠さんって、中央大学のその関係でしょ。だから僕が入学した年はね、ロフトが企画やってたのね。シュガーベイブとか、明治大学の生田校舎の大教室で聞いたりしたんですよ。

新宿ロフトの出来る年は、その頃音楽事務所で企画とか宣伝とかやってて。新宿で、チラシまいてた。その時、悠さんと偶然すれ違うんだけど。立ち話みたいに、「新宿ロフト作るんだよ」って言って。何百人入って、PAもガーンとした音の最高の物作るから、って。へぇ、悠さん、すごいね、って、立ち話したのを覚えてる、新宿の雑踏の中で。家、担保に入れて借金して、そんなこと言ってた気がする。

新宿出来た78年にその事務所やめて、秋からパンタ&ハルのマネージメントやりだしたんですよ。それで、月1ロフトやろうよ、みたいな話を、悠さんとしたのかなぁ、どちらからともなく。

あの頃ライブハウスの店員っていっても、自覚あったかどうかわかんないけど、普通の喫茶店みたいに灰皿片付けるワケでもないし、やってる悠さんにしても、店員っていう風に言われてるポジションの人達もそういう意識もなかったんじゃないかな。仲間的な感じが強かったんじゃないですかね。

全然儲からなかったですよね、当然ね(笑)。儲けようって気もあんまりなかったんじゃないかな。でもね、そん中で、比較的、悠さんとか、ビジネス考えてた人じゃないかな、やっぱりそういう人がいないと、僕ら自身も、出来ないし、バンドにもちゃんとお金が回っていかないし。

向こうのヒッピー、ドアーズだとかね、ジェファーソンとか、あれだってすごいちゃんとビジネスとして成立してたバンドで、ちゃんとヒット曲も作ってるし。だからって誰もそれロックじゃないやとか、ね、言わないし。お金の使い方を、きっちり考えていかないと、続かないですよね。そういったことを最初に考えた人なんじゃないかな、最初から方法があったワケじゃなくて、みんなでって言うか、悠さん辺りがすごく悪口言われながら(笑)、作ってきたんじゃないのかなって気がするんですよね。

ロフトって安心して飲める場所じゃないかな。打ち上げはお客さんもスタッフもミュージシャンもわけわかりません、みたいな感じで話してるし。みんなで場所共有してるみたいな感じになった。打ち上げの時は、ライブやってる時とかよりも(笑)。

昔ロフトでパンタ4デイズとかやったことがあって、4日間ともきっちり
打ち上げやるわけですよ。もう死にそうになりましたね(笑)。もう汚いのが当たり前って言う時代だから、Tシャツ変えるワケじゃなし、靴下変えるワケじゃなし、たぶん4日間着っぱなしで、なんか臭ってたんじゃないかな(笑)。夜中か明け方まで飲んで、近所のヤツの所転がり込んで、いっけねぇ昼だ、って、行ってリハやって。ライブやって、また飲んで。いやぁ、恐ろしい場所ですよね(笑)。

ロフト作る前に、悠さんと新宿の雑踏の中で「今度ロフト作るんだよ」ってそう言う話を聞いたことが、一番なんか思い出深いな。自信満々か崖っぷちかどっちかだろうな。どうなんだろうな、わかんないけど、決意はすごかった。今、命かけてやるんだ、みたいなエネルギー感じましたよね。