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ブラックボックス 代表取締役黒田義之

音楽の仕事をしながら、決して言えないコトを色々見てきた!?

俺はね、たぶん一番最初は西荻と荻窪。その頃まだ学生で、よく飲みに行ってたから。(久保田)麻琴ちゃんはよく出てたな、その頃俺、わりと仲良かったから。けっこうフォーク系の人も仲良かったんスよ。出てた人も何人かいたから、たまにそれ見に行ってたよ。その頃俺、吉祥寺住んでた。あの頃中央線沿線のそれぞれの駅にロック喫茶みたいなのがあったりした時代だからさ。ミュージシャンとかもみんな中央線沿線に住んでたから。やっぱりそういう意味では田舎から出てきた俺としてはさ、一応憧れだったから。

「ZOO」(注1)も、きっかけは、新宿のレインボーってロック喫茶。そこがね唯一DJが入ってる店だったの。皿回してた人達が、その当時評論家の卵だったんだよ。そこに入り浸ってて。ミニコミでもいいから自分たちの好きなこと書ける雑誌作ろうよって盛り上がって作ったのが「ZOO」なんだ。俺、デザイナーの羽良多平吉、宝島とかで一斉を風靡した人ですけど。が、友達だったの。この人引っ張ってきて、6人か7人で創刊したの。もちろん全然売れなくて、みんな手売りで(笑)。

西荻ロフトとか出来たの、その頃じゃないかな。そういう所見つけては遊びに行ってたから。広告もらえるものなら広告もらおうと思ってさ(笑)。マメに歩いてたよ。普通の本屋に置けなかったからさ、そういう所に置いて売ってもらってた。だから最初は本置いて欲しくて行ったのかもしれない。

俺は「DOLL」の20何号までいた。10年くらいいたのかな。で、その後5年EDISON系(注2)にいて、今うちが5年ちょっとだから。俺はね、洋楽とか書いてたけど、東京ロッカーズ系の人はみんな仲良かったから、よくライブとかは見に行ってた。

EDISONの頃は、すぐそばだったり、必ずロフトってノリだったから。ロフトで、ガスタンク、2daysやって入り切らなくて、2日で3回ステージやったのが一番記憶にあるよ。

ま、縁じゃないですか、今さら全然違う仕事をやろうって気はしないもの。原稿書くより音作った方が手っ取り早いんじゃないかなって思う時期があって、作る側に回ったって感じだと思う。やっぱり音一発出されたらさ、文章で何書いても負けちゃう気がしたんだよね。そういう風に思う気持ちが強くなったら、原稿書くのいやになったね(笑)。

バンドブームの頃? どうだったんだろうね。一番最初に、それまでのインディーズ、いわゆるライブハウスでやってるバンドに、ちょっと金を持ってる人達が参加した時期でしょ。それがEDISONだったり、宝島だったり。それがよかったのか悪かったのか、それはもうなんとも言えないよね。でもま、そういう時期で来るべくして来たんじゃないのって気もしなくはないけど。昔はもっとマーケットが狭い世界だったじゃん。そういう意味では逆に面白い部分もあったよね。

今でも行きますよ、ライブとか。それでもだいぶ減ったけどね。で、打ち上げで飲んだくれますよ、相変わらず。でも、ま、それなくなったら、なんか、違うような気もするし(笑)。

ロフトでのドラマですか、それはもう何回も拝見はしてますよ。さしさわりのないのは、ないな(笑)。遺書に残しとくわ(笑)。まあでもいっぱいいろんなことがあったからおもしろかったって気がするけどね。何もない場所だったら、それはそれで平穏でいいけど、何年か経った時にはさ、あんまり記憶にないかもしんないじゃん。たぶん、ロフトがある限り続くんじゃないですか、ロフトとの縁は。

(注1)ZOO
文中で話された通り、表現する場がないのなら自分達で作ってしまおうということで発行されたミニコミの音楽誌。雑誌として名称を登録しようとしたところ、既に同名の雑誌があったため、「DOLL」と名を変え、以降2009年に至るまでパンク雑誌「DOLL」として継続されていた。
(注2)EDISON
全国に展開したレコード店。インディーズ・レコードに強く、アーティスト・グッズやミニコミなども置いていた。その後インディーズ・レーベルを作りレコード制作にも関わる。系列会社にミュージック・ビジョンという、アーティスト・マネージメントを主とする事務所もあって、ケンヂやガスタンクなどが所属していた。