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バッド・ミュージック 代表取締役門池三則

元ジュンスカのマネージャーは、メンバーと一緒にロフトで◯◯◯◯を出した?

そもそもロフトとの関わりっていうのは、渋谷のラママっていうライヴハウスを作ったのが。ま、めざせロフトみたいな、ね。その時、ジュンスカとかと知り合って、ジュンスカのメンバーが、ロフトにモッズやRC(サクセション)やARB、見に行って。デビューの頃でもあいつら一番前に言って。「エィ! エィ! エ〜!」とか(手を振り上げて)やってた(笑)。「これがおもしろいんですよ」って。だから俺、あいつらからARBやモッズとかよく話聞いてた。

あと、ラママやってる頃に「ライヴハウス・コミュニケーション」っていうユニオンを、ルイードの田中とかがやろうって言って。何やるかわかんないけど、情報交換みたいのやろうや、って。2回くらいしか、やってないんじゃないかな。言うこと言って(笑)。

「何かおもしろいことねえのか」「そんなこと俺はどうでもいいんだけど」って。おっかしいんだよ、変なオヤジっているなって思ったけどね(笑)。それが平野悠だった。頭でかい、態度もでかいし、なんだこりゃみたいな(笑)。あれ、最高やったね。ホンマ、あの印象すごかったわ。同じ平野っちゆうて名古屋のELLの、ふたりどっちもホンマに変なオヤジだけど(笑)。平野っていうのは変なオヤジ多いなってすごい印象あったけど。

ジュンスカのメンバーもロフトでいろんな友達増えて。俺なんかも色んなヤツを紹介してもらったりとかして。で、知り合ったのがキースですね。たぶん、あれ、宮田和弥がよくチンチン出したりとかすんのは、あれはキースの影響ですね。(笑)。なんか、俺までもチンチン出した気がするんだよな、ロフトで。

ライブハウス以前は、俺、バンドやってた、大阪で。バンドやるつもりで東京に来て。あくまでライヴハウスはメシ食うバイト代わりみたいな感じで。そしたら店が大変で、バンドやってる場合じゃねぇみたいな。当時はラママとロフトとあとは屋根裏。その後できたのがライブ・インか。最初、2年保てば5年は頑張れると、思ってやってたし。

ラママやってて、社長と意見が合わねぇから、俺やめる言って。大阪戻って、大阪のライヴハウス手伝って。その後PCM(注1)作ったの、東京で。PCMって言うのは、既存のイベンターがやらないイベントをやろうとして。

あくまでもやっぱ俺も、バンド、今でもやりたいしね。やっぱりやりてぇよ。平野のオヤジみたいにさ、自由奔放じゃないけどさ。会社維持するのがいややから。もうそろそろまたね、何かやるかもしんないけど、維持するためにやるのがイヤで。

この前プラスワンに行って、色々ちらしとか貼ってあるけど、あれ見るとおかしかったもんね。「来れるもんなら来てみろ、警察」だったかな。俺、笑ったもん。アレ見て。やっぱりオヤジだと思ったもん。あれですべてがOKだったね。我が道を行く〜。俺の店だ。あれは昔から変わってないね、ぜんぜん変わってない。

誰も日本のロックを変えようとか、思っちゃいないと思うよ。そこまで大層に思ってないし、平野さんも自分がビックになると思ってないし、たぶんそう言う所には燃えない人だと思うよ、平気で旅行ポンと行っちゃうしさ。

あの時代の人が、やっぱり今の日本の音楽関係も仕切ってるしね。インディーズ関係とか、新たなレコード会社とか、プロダクション。手本にはしなけど、おかしい。パワーや、パワーあるわ。俺は音楽業界のいろんな人がいるけど、平野さん別にしたいもん。一緒にしたくないもんね、個性強いから(笑)。

(注1)PCM
通称“ピー・シー・エム”という会社。最初はイベントを企画することから始まり、後にアーティスト・マネージメントをするようになる。有頂天、筋肉少女帯、ゴーバンズ等がいた。バンドブームの頃にはオムニバス形式で数多くのバンドのレコードをリリースするなど、新人バンドの発掘にも力を入れていた。