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蟹江信昭

元新宿ロフト店長は、生活の全てがロフトだった!

えっとですね、一番最初は単にお客さんですね。特にARBとか、アナーキー、ルースターズ。81年位に高校卒業して東京に出ていきまして、音響関係の専門学校に行ってたんですね。卒業近くなった頃にロフトがPAの見習いを募集してて。あ、これはいいなと思って話を聞きに行ったんです。そしたらその頃のロフトの見習いっていうのは、本当の見習いで、ギャラが一銭も出ないんですよ。卒業してアルバイトしながらって考えたんですけど、長沢さんが店長の頃で、顔とか覚えてもらってて、店員の方だったらバイト給は出すからって。もうそういう意味では新宿ロフトに既にはまってましたからね。PAだろうとてにんだろうといいやって。いわゆるロック少年ですから、卒業を待ってすぐ入ったんです。

正直言ってその頃にしても安かったと思いますけどね(笑)。でもみんな好きでやってるって時代だったんじゃないですか。だからあまり深く考えずに、とりあえず新宿の近くにマンションを友達と借りて。住み始めてから実際の時給を聞いて(笑)。もう部屋借りちゃったけどどうしようかっていう感じでしたね。とにかく飯は食えましたしね、お店で。お酒も店で飲めるし。他に遊びがなかったですっから、好きだったから休みの日でも店行ってましたもんね。他の世界がなかったですよ。

僕が入った時点で長沢さんは下北にいて、山崎さんがチーフだったんです。小林シゲ君は俺よか先輩なんですね、実は。その頃シゲちゃんは週末くらいしか来てなかった。4月にバイトで入ってその年の暮れ、店長さんがやめて、次の人も2ヶ月足らずで離れて、急遽話が回ってきた。俺の身分じゃないだろうって思ったけど、他の人達は結構バンドにかけてたりが多かったから。俺なんかでいいんであれば引き受けますってことで。その頃は悠さんがほとんど日本にいらっしゃらなかったから(笑)。悠さんはほとんど俺のことなんか知らなかったと思うんですよ。その時21〜22だったかな。よく俺なんかに任せたなと思って。あんまり拘ってなかったのかな。他はだいたいオーナーの人が兼ねてる店が多かったし。ロフトくらいでしょうね、悠さんみたいに若い者にどんどん任せたっていうのは。

結果的にパンク解禁のきっかけを作った

俺ね、やめたのが89年とかかな。平成元年ですか。結構後半の頃って、ほとんど自分の中で整理できてないんですよね。いわゆるバンドブームにかぶって来た辺りでやめてますから。とにかく堰を切った如く、レコード会社関係とかの人が、なんかどこどこどこ、急にどかどかどかって来たんで。そこでばーっと引いて、もう新潟の方に引っ込んでしまったので。

僕が新宿ロフトに入った時点で、パンクはダメだったんですよ。一番最初の頃の、スターリン、じゃがたらの頃とか、ガーゼ、ギズムとかが出て来た頃っていうのは、かなりひどかったらしいんで。さすがにその頃、既に店のことに無頓着だった悠さんもたまりかねたらしくて、ダメだってなってたんですね。

で、80〜84年頃は大阪のヘヴィメタルばっかだったんですよ。僕、あんまり好きじゃなかったんで(笑)。それで店長になってしばらくした頃に、とりあえずスターリンはもう昔のパフォーマンスとかじゃないところで勝負してるから1回やりましょうよって(佐藤)文ちゃんに相談して。で、やったらなんとなく新宿ロフトパンク解禁状態って取られたんです。それでまた、ダダダダダと企画が入ってくるようになって。また問題起きてやらなかったバンドってのもあるんですけど。それまでは、スタークラブだけですからね、許されてたの。硬派なバンドだったんで、スタークラブだけはコンスタントに続けてましたけど。それ以外は一切ダメでしたね。

結構あの、こういうこと言っちゃうと身も蓋もないけど、その時その時の店長の嗜好だったと思います。だから例えばテレグラフ系のミュージシャンっていうのも少なかったと。そのへんのスケジュールを切ってはいなかったと俺は思うんだけど。ないがしろにしてた、みたいな事を、こないだも、悠さんに言われましたしね(笑)。

結局店の側の人間として考えると、新宿ロフト開けて閉めるまで、大変なのはパブタイムなんですよね。300人、400人詰めるのも大変ですけど、詰め込んどきゃいいワケじゃないですか。音出ちゃえばそこはミュージシャンの責任だから、で、終わったら片付ければいいだけのことだから。それは3時間ぐらいで終わる仕事じゃないですか。終わってからが長かったワケですよね。ARBとかアナーキーの頃なんて、見に来た客がほとんど残っちゃったんじゃないかってくらいぐちゃぐちゃになって。彼らもファンがいようといまいと、酒飲んで暴れる時は暴れてましたから。

そんな中から喧嘩沙汰は、山ほどありましたから。もうとにかく問題起こすのは、いつもアナーキー(笑)。切り込むのはアナーキー、でしめるのがキースなんだけど。キースはやっぱり親分だったから。正直言ってあまり腕力とかないんだと思うんだけど、気質っていうのかな。飲むともう日常でしたから。こっちにしても結構日常茶飯事的に考えていたところもありますよね。あまりいいことじゃないけど(笑)。

時たま、普段怒んない人が怒った時はやっぱり怖かったですよね。どこのバンドもドラムの人って力持ちじゃないですか。だからアナーキーでコバンを怒らせちゃいけないとか、ルースターズで池畑さんを怒らせちゃいけないとか、必ずあったものです。とってもにこやかなBOØWYのまことさんが1回怒ったところ見たことあるんですよね。他の人なら止めに行こうと思うんだけど、普段切れない人が切れると、ちょっと誰も。お前止めてこいよって若いやつらに言っても、え〜まことさん怒ってますよ、大丈夫ですか、って言ってたくらいだから(笑)。

なんでもありの自由な場所だった

一時けっこう、ジョニー・サンダースとか、G.B.H.なんかもあったと思ったけど、突然ライブをやりましたね。その日突然告知して夜やっちゃうとか。ロフトだったらなんとかしてくれるだろうっていう。今日、申し訳ないけどパブタイムやりませんって言って、実はその後にライブあったりとか。スケジュールに残ってないのも、けっこうあったんじゃないかな。そのへんはけっこう臨機応変にやってましたね。入りきれないから、2ステージにしちゃえとかね。ガスタンクで500人とか600人集まっちゃって。どうやったって入らないですから、じゃ2ステージにしてしまえって。確かその日の夜にジョニー・サンダースか何かやってるんで、1日の間にお客さんが1000人近く入れ替わりで入った日が、確かそうだと思うんだよね。そんなことがありました。そういうのが、逆に面白かったんですね。ある程度なんか、なんでもあり、みたいな感じでしたからね。

確かにもっと引きつけるようなバンドがいっぱいあったら残ってたかもしれないけど。でも、そのへんってきっとシゲちゃんなんか大変だったと思う、俺よか全然。彼だって俺と同じ時期からバイトしてますから、当然そういう一連のノリを全部知ってるワケじゃないですか。でも彼は俺よか頭の切り替えが早いっていうか、ビジネスマンみたいな感じがあるから、今までうまくやってこれたと思う。俺みたいに、あの頃は良かったなって言ってる人間はあの時点で引いたのが正解だったろうって。

俺の頃は悠さんはほとんどいなかったですから、好きなようにやれましたからね(笑)。久しぶりにシゲと話して、今は今で、いろんな事考えて、動き回っているみたいで。すごくよかったですよ、元気もらったってかんじで。