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バッド・ミュージック ゼネラルマネージャー能野哲彦

元マネージャーは忘れない、"ラフィン・アルタ前"のあの日を!

一番最初に付き合ったの、たぶん蟹江さんだと思う。プレスクラブミュージックっていう、PCMで。まだPCMにも所属のバンドはいなかった。たぶん大学やめてぶらぶらしてた頃じゃないかな。江口さんと門やん(門池さん)がPCM作って、なんとなくそこに居てっていうくらいです。自分で音楽やるのは、高校時代にもう諦めました、俺よりギターが上手いヤツがいたから(笑)。

マネージメントをするのは、もうあと2年くらいしてから。たぶんラフィンをうちがやったのも蟹江さんの時じゃないかな。(町田)町蔵の時に蟹江さんだった、それは確実。町蔵が安いライヴやって。ドリンク込みで1000円だったかな。(平野)悠さんと話して、満杯になるだろうって思ってたから。その時は70%とかチャージバックで、チケットが安いから折半にしたのかな。で、ギャラで残ったのがたぶん5万もなかったはず。で、(新宿)南口の台湾料理屋にみんなで酒飲みに行って、終わりだったような気がするな(笑)。

PCMは、ライヴの企画から始めて。ちょうどバンド・ブームとかの時代でしたね。色々出てきて。なんか面白かったんじゃないですかね。あの頃は。あの頃はって言うと、今がつまんないみたいだけど、あの頃はあの頃で、活気があったような気がする、ライヴハウスに。

“インディーズ御三家”は全部関わってましたね。ラフィンがまずデビューして。その時ラフィンも自分達の事務所作ったじゃないですか。で、ウィラードもデビューして、シンコー行ったのか。有頂天はキャニオンでデビューして。で、有頂天はPCMでやりました。有頂天はマネージャーやりましたね。筋少もマネージャーで、筋少もそうとうやったもんな、ロフトで。

(ここでライダーズのヴォーカル、オオノが乱入。オオノ、車の話をしきりにする。で、ロフトの資料に目を通し)
オオノ「オレらの名前ないじゃないか。オレら360人入れたって、ちゃんと書いといてよ」(と言い残し、オオノ去る)

この前ロンドン行ってきたんですよ、2週間くらい。ミッシェル(ガン・エレファント)のライヴやったんです。パブでやったんですけど、匂いが同じなんですよ、ちっちゃくて、狭くて、なんかヤニ臭い、酒臭い。ああ、どこにでもあるんだな、って思って。

一番の思い出は、やっぱりラフィン。リハをやり終わってから、アルタ前行ったんだ。そしたら人いっぱいで。けっきょく、あのソノシートってどうしたんだっけ、記憶ないなぁ。アルタ前<注1>ではまいてない。まけなかった。で、ロフトに戻ってライヴやったんですよ。なんかあの日は興奮したような気がする。打ち上げの記憶とかあんまりないのも、どうしたんだろう。

有頂天も、いつだったかわかんないけど、ワンマンやった時に、ふた開けてみたら満杯だったっていう。デビューの全然前。NHKの番組やったあとかな。

なんかね、味わっちゃうと、やめられないっすよ。何回やめようと思ったか。戻ってくるはずじゃないんだけど(笑)。たぶん今でも思ってるんじゃないかな。でも、たぶん、次は(戻ってくることは) ないだろうね。次はないと思う。何でしょうね、自分でもわかんないんですよ。(失踪することが)伝説になってるもん。自分でいうけど(笑)。先のことはわかんないですよ。明日になったらいなくなってるかも…。ま、でも、僕がいなくなっても、ロフトは残ってるでしょう?(笑)。

<注1>アルタ前
大ビジョンのある東京・新宿の有名な待ち合わせ場所……なワケはなく。1985年4月28日にあった、ラフィンノーズのソノシートばらまきのことを、その場所から通称”アルタ前”と言う。実際は1200人もが集まってしまい、引換券を発行、のちにレコード店で交換された。