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ダンステリア 代表取締役田中俊博

元新宿ルイードの店長も、ビルのオーナーと戦い続けた!

まず平野さんにおめでとうございます。っていうのがあります。よくしぶとくやりましたねっていうのが、最大の褒め言葉だと思うけど(笑)。平野さんは、ライヴハウスコミュニケーション(注1)の頃からの知り合いでね、かれこれもう12年くらいになるんじゃないですかね。同じライヴハウスの仲間ってことで。

僕が東京に来たのが1979年で、東芝EMIの芸能部にいたんですよ。演歌担当でちょっと辛くって。青春でしたからね、飛び出しましてね。で、たまたまふらっとルイード入ったんですよ、バイトって感じで。それがずっと、そのままライヴハウスの主人やってる。嫌な人生ですけどね(笑)。

ライヴハウスが大型になってきた第2次黄金期が88年から90年にかけてあるんだけど、第1次が82年から84年にかけて。ライヴハウスがいっぱいできたんですよね。それで僕が音頭を取って、当時12店舗くらい。ぴあとかシティロードみたいな情報誌に勝てる媒体を、我々自身が持てないかっていうテーマがあったんですね。若いしエネルギーがあったんです。ま、続かなかったですけど。1年くらい経ってフェードアウトしちゃうんですね。

平野さんはね、もう、15年前も15年後も、少年のままですね。それはみんなが認める事だと思いますけどね。基本的にテンションは変わらない。で、常に叫び続けてる。たぶんあと10年経っても相変わらず叫び続けてるでしょうね(笑)。ロフトプラスワンも100人くらいでいっぱいじゃないですか。で、赤字になってもやると。それは彼が空間をメディアとして捉えてて、彼自身のパフォーマンスが最大限発揮できる空間がまずあって、そこにいろんな人が集まってくるワケですよね。彼はメディアのひとつとしての空間を提供して、それを広げていく人、なんですよね。今の方がテンション上がってるかもしれない。なぜならばロフトプラスワンをすごく愛しているから。うん、むしろ昔より今の方がテンション高いかも。吠えるライオン!(笑)。百獣の王ですからね。

立ち退きに関しては、よく主張してるなって。我々はルイードでの立ち退き問題、主張すれば残れたのかもしれないんだけど、一歩引いたんですよね。あの当時の新宿ルイード、物理的な限界が出てて、ビルが壊れるか、床が抜けるか。あるいはビルのオーナーとクレームを言いながらやりつづけるかね。僕もね、8年間ずーっとオーナーともめてきましたしね。ビルの5階と3階とのやりとりも8年間ずっとでしょ。ボロボロになっちゃうんですね、精神的に。ロフトもそういう意味では、平野さんもほとほとね、疲れ切ったんじゃないかと思う。裁判まで起こすってことは、ワンステップその先だからね。

僕の覚えてる新宿ロフトでいうとね、ライブ終わったあとの飲み屋にしてましたね。朝4時までやってたのかな。だから、逆にルイードが終わってから飲みに行ってましたよ。それは平野さんの姿勢じゃないかなって思うんですね。議論ができる空間の提供が、彼にとって大きな意味があったのかもしれませんね。今僕がやってる(川崎クラブ)チッタとかの大型ライブハウスは、そういうことが不可能ですよね。だからライブの原点をやってるなっていうのは、当時からロフトに関しては思ってましたね。

規模の大小関係なくね、小さいは小さいなりにそのクラブの機動性を発揮したやり方はいっぱいあるんですよ。やっぱり1つの文化ですから。表現形式はなんでもいいと思うんですね、その空間で何を表現してるかが重要なんですね。平野さんには、吠えるライオンとして、これからも吠え続けて欲しいですね(笑)。

(注1)ライブハウスコミュニケーション
1983年頃、田中氏の呼びかけで東京を中心に全国のライブハウスがつながりを持って何かを起こそうとした試み。情報誌「REVIEW」の発行が大きな目的であった。が、しかし、ライヴハウスのおやじはどこも個性的な人が多いのか? 意見を統一して長く続ける事は難しかったらしい。