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楠瀬誠志郎

新宿ロフト・店員第1号は、「銀行員が来たぞ〜」と叫ぶのが仕事だった?

まず、間違いなく言えることは、ロフトがなかったら今この瞬間、ここでこうやって話をすることはなかったと思いますね。僕にとってロフトっていうのは、学校だった。悠さんとか、荒さんとか、(佐藤)弘さんとか、いろんな店長がいて、見る物、聞く物、全てがロフトからの物で。ロフトがあったから、悠さんが居てくれたから、今こういう風に歌を歌ったり、作ったりできたっていう。本当ロフトがなかったらたぶんこういう事はしてなかったと思いますね。

ちょうどウッドストックの伝説<注2>が終わって、インナーな音楽じゃなくて、少しロサンゼルスを中心にしたアウトドアな音楽がアメリカで嗜好された時に、僕がロフトに入ったんですね。例えばキャロル・キング、ジェームス・テイラー、一番大きかったのはカーペンターズで。世の中から軟弱ポップスだって言われた物が、ロフトではムーブメントだった。それで後ろからはちょうど東京ロッカーズのムーブメントが始まったんですね。アメリカンポップスを僕とかEPOがやってて、その後ろにはフリクションがいたんです。前には、大滝さんや、松本さんたち、いわゆるティンパンの匂いがあってっていう。

当時下北の店長は弘さん。新宿が荒さん。演じる側から見ると、新宿がNYなんです。で、下北がロスだったんです。たかが急行で2つくらいの場所が(笑)。 下北の方ではあの当時、チャーのスモーキーメディスンっていうグループがやってましたし。新宿の方では、まだイエローマジックとかやってましたからね。お客さん、ぜんぜんいなくて。

練習場所にしていいから、店手伝え

あのね、悠さんとの条件っていうのが、ひとつあったんですよ。何かっていうと、当時練習場所がなかったんです、今みたいなスタジオとかなかったから。お店は4時で終わって、開店は12時。そこを夜中、朝5時から10時まで練習場所に貸してやる、夜中にですよ(笑)。 そこで好きにやれ、その代わり店を手伝え。それが条件だったんです。食物も出してやる、交通費も出してやる、でも交通費もらったためしがないけど(笑)。 その代わり、お前らは店を手伝えっていうのが、悠さんの条件だった。みんな夜中に練習やってましたよ。も〜うしぼられました。たくさんの人が出入りしてましたから。ポップスとは、ロックとはなんぞやって事を延々語られたりとかね。今をときめく第一線でやってる人がたくさんいましたから。Gのコードっていうのはこういう風に弾かなければいけないんだ、って1日中話してましたからね。そういう時代でした。

高校1年から、4〜5年いたのかな。店の上が当時は銀行で、月曜日は朝礼です。下でドンドコドンドコやってると、必ず苦情が来るんですよ。僕は門番もやってましたから、年齢が一番下でしたから。先輩達が練習してると、「銀行員が来ました〜!」って。で、みんなさーっと散らばるんですよ。

悠さんは、音楽のことに関しては、一切、何も言いませんから。ふらっと来て笑って、行っちゃうだけですから。そこがまた凄いですよね。何も言わないっていう。

悠さん一時抜けたじゃないですか。島に行くって。これでもうロフト終わったと思ったんです。こういう人がいるから、あれができたんだと思う。僕は悠さんがロフト離れた時で、基本的に僕はロフトとはあの時点で切れたんです。悠さんがいないんであれば、もうこれはないって。やっぱり悠さんがいたから、あのちんちくりんなヒゲのめがねオヤジがいたから、僕はやれたんだと。その頃プロデューサーなんていう言葉はジャケットの上でしか見たことなかったんだけど、今から考えると、あの人が本当のプロデューサーだったんだろうなって。だからロフトはこれだけの出身者が出たんだろうなって。っていう風に、すごく思います。

EPOなんかも一緒にやってましたね。それもまた悠さんの人徳なのかなぁ。お前ちょっとこれあそこまで持って行けっていう。顔見知りが全て店員だったんですね。誰が店員で誰が店員じゃないかっていうのが、誰も知らないんじゃないかな。正社員っていうのはいないですから。みんなよく言えばアルバイト、悪く言えば悠さんの奴隷(笑)。 その代わり練習させてくれた。3時4時、お店閉めるぞって時間になると、みんなぞろぞろ、ぞろぞろ入ってくるんですよ。で、男も女もみんなボロ雑巾のようになって寝てましたね。まだ潜水艦の時代だったんですよ。だから、看板の上でみんな寝てたような時代でしたね。ツアーに来た人も寝てました。上田正樹さんとかね。坂本 (龍一)さんもそうですね、今だから教授なんて呼ばれてますけど、当時はもうボロ雑巾、ゲタ履いて。教授はね、ピアノ1音のタッチの事に関してよくケンカしてました。達郎さんもそうでしたね、みんなそうでしたね。

ロフトレーベル<注3>っていうのがあったんです。(竹内)まりやさんなんかもそこで歌ったりしてるんだけど、すごく進んでたんですね、レーベル作っちゃうんですから。20年前にそういうことやってるってすごいよね。そうやって若い奴を発掘したり、練習場所を提供したり、レーベルの中で歌わせたりっていう。だからすごいラフな様に見えて、もしかしたら悠さんの中ではすごいシステム化してたんだと思うんですけど。

18歳で人生の到達地点と出会った

僕のフェイバリット・アルバムで、ブルース・ジョンソンっていう人がいるんですが、彼の『ゴーイング・パブリック』ってアルバムがあるんですね。これもう僕たぶん一生このアルバム越える物はもうないっていうくらい、自分が死んだら棺桶に入れてくれっていうアルバムなんですけど。このアルバムを作りたくて、自分でアルバムを作ってるようなもんなんです。これを教えてくれたのが、ロフトなんです。だから、僕の音楽人生の目標っていうか、到達地点を、もう18の時に教えてもらっちゃったんです。普通のレコード屋さんに売ってないレコードでしたから。当時、輸入盤の買い方なんかわかんないですよ。その時に、悠さんと荒さんが、「誠志郎、こういうアルバム誠志郎に向いてると思うよ」ってもらったのが、今でも大事にありますけど、『ゴーイング・パブリック』だったんです。これに尽きますね。スタートでロフトで教えてもらった物が、けっきょく最後の自分の目標になったという。これはもう感謝してますし、なんとかこういう物を作りたいなって、今でも悪戦苦闘しながら、やってるものです。

きっとそういう人が、僕の他にも。みんな与えられたんじゃないかな〜って思いますが。そのアルバムが、2000円くらいかな? それがもうお金ではすまない、いろんなことになってしまったっていうのがありますね。

そういう意味ではロフトには感謝してるし、最終的には、またロフトで歌うのかなって気もしてますし。その時には、ちゃんと悠さんにいいおみやげを持って行きたいなって思ってますけど。

<注2>ウッドストックの伝説
1969年8月に行われたロック・イベント「ウッド・ストック・ミュージック&アート・フェスティバル」。反戦、ヒッピー、ドラッグなどを側面にした60年代ロックを総括するイベント。アメリカ中から40万人以上が集まり、会場では裸でくつろぐ人もあれば、マリファナやセックスも自由に行なわれ、会場で子どもも産まれたと言われている。

<注3>ロフトレーベル
「1977年、チャー、桑名正博、南佳孝、山下達郎など、ライヴハウス出身のミュージシャンがブレイクした。そこでロフトは、ライヴハウス新人を発掘しようと、大手レコード会社と2年間のレーベル契約をする。そのうちの1枚『ロフト・セッションズVOL.1』では、竹内まりや、大高静子のデビューがあった。しかし、当時は全く売れず、それをもって契約は終わってしまった」と創始者・平野悠は振り返る。つまりロフトはレコードも出していたのだ。この『ロフト・セッションズVOL.1』は1997年5月にCDで再発された。