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ミュージックライター / コーディネーター小島智

元アナーキーのマネージャー、謝ることはなかったのか!?

僕はアナーキーの現場マネージャーをやってて。82~84年代に、元パーソンズの本田君も一緒に、近郊のライブハウスツアーとかはまわってたりしてたんですよ。

僕も御多分にもれず、学生時代アマチュアバンドやってて、ブラックミュージックにはまっていたバンドだったのね。関西のその手のバンドが、下北ロフトとか西荻ロフトとか荻窪ロフトに出てて。70年代後半、自分で遊びに行くのはそっちが多かったね。

バンドで一晩やっても、ギャラが1万円位で、みんなでわけると1500円とか。こんなんじゃ仕事になるもんじゃねえなって思っててさ。それでアナーキーの事務所手伝う事になって、ライブハウスなんて商売になるって感覚ないわけね。プロでレコード出してるバンドが小さいライブハウスでやるってさえ信じられなくて、当時は。だから、ライブハウスでも200人集まればけっこういいギャラ担って、ビジネスになるんだな、みたいなことを考えた記憶はあったよね。

僕らがアマチュアバンドでやっていた場所がいい加減だったのかもしれないけど、新宿ロフトって当時からちゃんとPAと照明のスタッフがいて。話してると頼りなさそうだったけど、すごいロックが好き、っていうかな。照明に関しての話簡単にするじゃない。全部わかってますから大丈夫ですって言うわけ。ホントに大丈夫かなって思ってたんだけど、ちゃんと曲知ってて切り替えたりするのね。本当に好きでやってるんだなって感じがした。

あやまったりとかは、あんまりなかった。機材を壊したりとかはないんで。客がものすごい暴れたんだけど、当時アナーキー親衛隊っていう自発の団体がいたんですよ。すごいんだよ、全国組織でね。亜無亜危異っていう、あの例の当て字、あれに親衛隊って書いて。何とか支部局幹部みたいな名刺もってたりするんだよね。そいつらが、コンサートすると必ず警備してくれるわけ。

すごくよく覚えてるのがね、お客がみんな高校生くらいで、お金がないでしょ。何人かの客がね、飲み物いらねぇからチャージだけで入らせてくれって、平野さんともめてたシーンをよく覚えてる。ドリンク飲まないから、コレで入れてくれって必死に言ってるわけ(笑)。

荻窪とか西荻、下北は、すごくなんかマニアックな店っていうかね。例えば、クラブ251とか、チョコレイトシティってまだあるのかな。あのへんとか、高円寺の20000Vだっけ、あのあたりのお店の原型って印象の気がする。個性のあるアーティストをブッキングしてて、旧シティロード(注1)、コンサートガイドをチェックするのが楽しみだった。だから、下北、西荻の方に出入りしてたのが、いきなりアナーキーで新宿、カルチャーショックだなっていう。

あのね、長沢さん(1997年当時下北沢店長)、あの人ね優しくて、ツケで飲ませてくれるんですよ。仕事に関係なく友達と飲みに行って、お金がなくて、長沢さんにツケてもらえますって頼んで。それきり払ってないんだ(笑)。おそらく長沢さんは、それをね、アナーキーのライブチャージから事務所の上の人には内緒で、相殺してくれたんだと思う。

色々あったね。やっぱ、ライブハウスでやるのって、ものすごい重労働なワケですよ、スタッフにしても。終わってから、メンバーと一緒に搬出とかするワケじゃない。そういうの、よくお店のスタッフが手伝ってくれたんですね。こっちもロフトでライブがある時は一生懸命やっちゃうみたいな。一番充実してたころなんじゃない、ロフトで、アナーキーの頃って。

(注1)シティロード
今では「ぴあ」くらいしか情報誌を見かけなくなってしまったが、ぴあの前には、シティロードが主流だった時代があった。月刊だったので、ライヴ・スケジュールが目的の人には最適だったし、マニアックな連載も多かった。いったん廃刊しかかり、復活したが、結局やっぱり廃刊してしまった…。