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音楽評論家大野祥之

ヘヴィメタル・シーン到来の、仕掛け人は証言する!

当時、関西にはいいヘヴィメタル・バンドがたくさんいるんだってことに気が付いて。

1バンドだったら辛いけど、2つ3つで組んでやればやらせてくれる所もあるかもしれない。そう思って44マグナムと、マリノと、ラジャス、そういったバンド中核にして、関西ヘヴィメタルを東京に持ってきて、紹介したいなって思ったわけですよ。

そうなった時に、小屋もそこそこ知られてる方がもちろんいいわけだし。もうひとつには、80年代になってからのヘヴィメタルとかハードロックって、70年代のとニュアンスが違ってたんで、その違いが出た方がいいワケじゃないですか。パンクのイメージが強いロフトでヘヴィメタルをやることによって、違う味付けができるかもしれないって、そういう事も考えたと思います。で、平野さんに、まだどうなるかわからないけどとりあえずやらせてください、って言って。そしたら平野さんが、2つ返事で引き受けてくれて。

そのちらしをですね、知り合いのデザイナーが作ってくれて、知り合いの出版社のコピー機でコピーして、1000枚くらい、出版社さんには、ごめんなさいって感じで(笑)。新宿のツバキハウスとか野音とかで、ヘヴィメタルが好きな少年達に配ってもらったの。で、そしたらね、1回目からロフト200人超える満員盛況になってて。

PAはロフトのだったんだけど、照明はすごく安く借りてやってもらってたんですよ。けっこうみんな手作りで、なんか新しいムーブメントを作ろうってニュアンスが強かったんじゃないかな。それまではねハードロックって、でかく仰々しくやるものだったのを、パンクと同じレベルでやっちゃったから。だから実際、ギズムとかガーゼとか当時ロフトで頑張ってたコア系のバンドの連中が、すごいシンパシィ持って見に来てたりしてたから。逆にマグナムの連中の方は、パンクの人達恐いってビビったりしてたけども(笑)。

関西から来るんで、交通費とかかかってけっこうバンドは泣いてた。ギャラはそんなに出せなかったしね。だから44マグナムなんかは、俺ん家に泊まってた。大変でしたよ、ぜんぶで7人くらい、一番多い時で14人とか。

自分がいいと思って雑誌に書いてると、確かに読者のハガキとか返ってきたりするけど、具体的にライブで見せちゃって、客の反応見れば、自分が間違ってるか正しいかがわかるじゃないですか。そこが一番面白かったかもしれない。個人的にはね。

ロフトは盛り上がって本当に危ない状況になってたのね。酸欠だわ、倒れるわ、火災報知器すぐ鳴って消防車が来るようになって。これ以上ロフトでやってると危ないことになるっていう時にちょうど鹿鳴館が出来たの。広いからいいやってだんだん移っていったの。鹿鳴館、受け入れちゃったから未だにイメージがあるよね。かわいそうだったかもしれないね(笑)。

やっぱ平野さんがおもしろいアイディアやらしてくれるっていうのが大きいし、バックアップしてくれた。ロフトがなかったらあんなでかくならなかったし。レコード会社の連中も、ロフトで見るとすごいワケですよ。客はあふれてるし、上から水蒸気落ちてくるし、音はでかいし。みんなぼーっとしてるうちに、ね、いいでしょ、いいでしょ、契約してよ、契約してよ、って(笑)。

いろんな時代あったと思うし、基本的にパンクのイメージになってるけど、でもすごいフレキシブルな小屋だと思う。なんでも受け入れられるし。他のライブハウスと違うよね。なくなって欲しくないよね。新しいビルになっても、屋上とかやだよね、(笑)。地下の1階じゃないとね。