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サエキけんぞう

荻窪ロフトの常連客は、ロックの移り変わりの全てを見てきた!

西荻も行ったし、荻窪も行ったし。当時、雑誌か何かに出たんですよ。ライヴハウスみたいのが出来るって。ジャンジャンはあったんですけど劇場って意識が強くてライヴハウスって感じじゃなかったですね。実際はジャンジャンが日本のライヴハウスの草分けをしていたワケですけど、荻窪ロフトの方が本格派って感じがあったんですね。

開店記念にティンパンアレイのセッションやるってことで行ったんですね。汚かったですよね。木造っぽいんですよ、壁とかが。でも音がキンキン言わなかったんですね。非常にいい音響だったと言えるんですよ。で、荻窪ロフトの欠点にものすごい大きな柱が真ん中にあるんですよ。それがあるおかげで客の4分の1位は見えないっていう(笑)。 今のクアトロの柱なんて比じゃないんですよ。だから行く前の期待はすごく大きくて、カッコいいのができたのかなって思ったら、土蔵を改良したというか、そういう印象が強かったですよ。ただ、音がよかったんで、それに関しては今でも覚えてます。偶然、お金がないから生んだ音ですね(笑)。 地下にあるわけですが、路上のドブ板みたいのがあって、そこから音がもれてたっていう(笑)。

GSの頃までって言うのは、ロックもおもしろかったんですけど、ちょっと単調な感じがありましたよね。74年にロフトが開店したと思うんですけど、そのくらいからいろんなタイプのバンドが出てきたんです。センチメンタルシティロマンスとか、久保田麻琴とかね。そういう音楽に対応する感じがあったんですね、プログラムの中に。だから、なんか汚かったんだけども、メニューにはきらびやかな感じを覚えましたけどね。そういう意味ではその後の新宿ロフトよりも広がりがあった時代だったと、売れてる音楽の縮図がそこにあったんだと思います。

ピストルズが全てを変えた

77年くらいの、パンク出るまではちょっとおもしろくないかなって感じで。荻窪ロフトが76年に閉鎖するんだと思いますけど、ひょっとしたらロフト自体がどうすんのかって時期だったと思うんですよ。66か67年くらいの暗さ、未だに忘れられないですね。日本のロックが超不作だったワケですよ。なんかの拍子にセックスピストルズがデビューしてないってことになると、日本のロックは終わったかもしれないですね。ピストルズに全てかかっていたと言っても過言ではないですよね。直接的なあの影響力がないと、パンクシーンって出てこなかったし、パンクシーンがなければ、ロフトも覚醒化することはなかったと思われるんですよ。決定的なわかれ目だったんじゃないかと、ピストルズのデビューは。ビートルズよりも決定的だと思いますね。つまり、日本ではベンチャーズの方がバンドブームには貢献してるのであって、ビートルズは音楽を聴く側のための物だと思うんです。ベンジャーズ以降、やる側として影響を受けるのは、やっぱりピストルズだったんじゃないかと思うんですね。

ロフトに最初に出たのは、80年の 4 月かな。東京ロッカーズの後がまの、東京ネットワークっていう(笑)、ちょっとイマイチだなと思ったけど、後発だからしょうがないっていう感じで。出演することよりもですね、終わった後にたまり場に来る人がいて、そっちの方が印象的でしたね。ロッカーならロフト、みたいになったワケですね。

けっこう毎月出てたんですよ、80年は。2 バンドでやった時にファンがあまり増えなくて。90人くらいまで来たんですけど、それから先、しょうがないからヴォーカリストが2人で路上に立って客寄せしてました(笑)。 それで来るわけじゃないんだけど、そんなことまでしてました。こねぇなとか言って。

あと下北ロフトで、東京ニューウエイブっていうイベントだったんですけど、それを見たときに初めて、ポゴダンスといわれる、縦に飛び跳ねながらするダンスを踊るのを見て、 衝撃を受けたのを覚えてます。それはあまりにも恐かった。それ以後は何を見ても恐いと思わなくなったという(笑)。 恐い顔してロックを見るっていうのは、それ以前なかったワケですよ。恐そうな人が見に来てることはあっても。見てる雰囲気が恐かったことはあとにも先にもあれが一番最初で。それ以後恐いロックが誕生した、そういう全ての最初が、下北ロフトのポゴダンスだったんじゃないかと僕は思いますね。

荻窪ロフトに、ティンパンアレイ系はよく見に行ってたワケですけど、並んでる人間間でコミュニケーションが芽生えて、そういった交流というのはけっこうありました。民家の中に並ぶんですよ、それもまたなんとも言えない哀愁があるというか。街灯に照らされて並ぶという。

そういえば、この間、久々にちらしを見せてもらったんですね、当時の。めちゃめちゃ誤字脱字が多いのはちょっとびっくりしました(笑)。 よくあれでアーティストから苦情出なかったって。すごく多かったですよ(笑)。

荻窪ロフトは、メジャーなアーティストも出てるけども、あんまり公な感じはしなかったですよね。アーティストもマネージャーがいるのかいないのかわからないような状態で出てるし、合間に僕らと会話してしまうし。だいたい見てる客が多くて100人から200人ですし。そうは言っても、あののんびりとした感じは忘れられないですね。聡明期の良さっていうんですか、本当の意味でファンとプレイヤーの間に壁がないっていう。

新宿ロフトがスタート地点となった

僕、歯医者とか目指してたこともあって、青春としてロフト堪能したって感じじゃなかったですよね。もっとそういう時間があればよかったかなと思いますね。74年から75年の最初の1、2年のロフトが一番おもしろかったんじゃないかと。その頃は平野さんもずいぶんやりがいがあったんじゃないかと思いますね。しかし、76年〜77年くらいの頃に、平野さんがどう思っていたか知りたいですね、やめるか、続けていくかの、境目だったんじゃないかと思うんですね。で、やっていこうと決めたのは、勇気ある決断だと、僕は思うんですよね。

その後ハメルンズがデビューデビューすることになるわけで。そのデビューアルバム発売記念ライヴっていうのをロフトでやって。なんやかんや言っても、それが僕のスタート地点だったわけだし。その時の、関係者が少し来てて、あんまり客がいない感じが、忘れられないですね(笑)。

ロフトプラスワンはおもしろいですね。雑誌で見た時に、これはおもしろいってことをすぐに感じまして、僕の方から連絡付けさせていただいたくらいなんで。思想というか、こういうお店はすごく画期的な事だと思うし、平野さんホントにやりたいことなんだろうけど。未来的な感じがすごくするんです。本当に未来につなげられるかは今後次第っていう。だから平野さんの頭の中では、今までのロフトを完全にしのぐような存在なんじゃないかと思いますけど、現実にお客さんの動員が、なかなかね。(笑)。

僕もおそらく毎月やってるって意味では最長プログラムになりつつあるんじゃないかと。回数的にはもっと多い人いるかもしれないですけど、コンスタントにずっとやってるっていうのでは。平野さんと気持ちが通じ合ったのかな、と思いますけれどもね(笑)。

僕は平野さん、ロフトプラスワンで初めて会ったので、当時は全然知らなかったです。今の方が目立ってるんじゃないのかな(笑)。