src="../../ojisan_img/spacer.gif" おじさんの部屋

第142回 ROOF TOP 2010年1月号掲載
「新宿の師走にひとり思う」

かくして新宿LOFTは歌舞伎町に誕生した

 1976年に新宿にやって来たロフト。今から34年も昔のことだ。71年、京王線の千歳烏山駅を皮切りに、西荻窪(73年)、荻窪(74年)、下北沢(75年)と、ロック居酒屋やライブハウスを展開してきたはてに、ついに天下のターミナル駅・新宿にたどり着いたというわけだ。
 当時の私には、東京の文化の中心は中央線や私鉄沿線の時代は終わっていて、新宿・渋谷・池袋などのターミナル駅周辺に集中して来ている、という感触があった。若者達の新しい音楽の流れは、いわゆる中央線や大阪発信のフォークから、シティポップやニューミュージックに変わろうとしていた。都市で洗練された生活をする若者像があこがれの対象となり、ターミナル駅に進出しないと時代から見放される、といった脅迫観念があったのだ。実際、渋谷屋根裏や新宿ルイードといったライブハウスが、次から次に新しい音楽を排出していた。
 私たちが新宿に見つけた店舗は、それまでの店の倍近いキャパの300人規模で、巷では「本格的ライブハウスの出現」とも言われた。そして新宿西口・小滝橋通りに新宿ロフトが誕生し20年近くが過ぎ、1999年、トークライブハウス・ロフトプラスワンと共に、歌舞伎町のど真ん中に移転したのだった。


そして誰もいなくなった……歌舞伎町のど真ん中の広場。コマ劇場も閉館し、20軒近くあった映画館も、今や数軒になってしまった

歌舞伎町は世界で一番怖い街か?

 新宿駅東口を出て、アルタの左横の道をまっすぐ通り抜けてゆくと、すぐに靖国通りにぶち当たる。通りを渡った向こう側、周囲600m四方が、東洋一の歓楽街と言われる歌舞伎町である。漂流街、眠らない街、欲望の迷宮都市、日本一危ない街、不法労働者の街、ヤクザの街……、いろいろと形容される。ドラッグ、売春、抗争、殺人、脅迫、不法滞在……。あらゆる欲望を抱いた人がこの街には集まってくる。
 しかし、負の部分があるからこそ繁華街は面白いともいえる。新宿の風紀の乱れは、何も今に始まったのではない。江戸300年以来このかた、「お上に逆わらず、従わず」という、アナーキーなエネルギーの発散の場として、様々な文化が生まれてきた。「歌舞伎町は怖いか」と聞かれれば私は、「必ずしも怖いばかりではない」と答える。ハメを外して図に乗ればそれなりに痛い眼にあうのは、繁華街であればどこでも同じだろう。そして、歌舞伎町の周辺にもまた、別の意味で魅力的な風景が広がっているのだ。


師走の新宿駅東口周辺

100円玉の偽善とささやかな幸せ

 歌舞伎町に木枯らしが吹き抜け、救世軍の募金のラッパが鳴り響く師走。いつの頃からか私は、新宿大ガード下のホームレスや、西武新宿駅前に毎夜立ちつくす「妖精」に、100円玉をあげるのが常となっている。
 夜更けの駅までの帰り道。通りがかりにホームレス諸氏と目を合わせ、にっこり笑いながら100円玉をカンパする。今日のホームレスも、「兄さん今日もありがとうな」と、髭モジャのいい笑顔を返してくれた。それだけで私の気持ちは充分満たされ、救われた気持ちになり、幸せを感じてしまう。「あのホームレスは、私があげた100円を何に使うのだろう」と、いろいろ想像しながら、酒臭い超満員の終電に飛び乗るのだ。
 乞食や貧しい人たちにカンパをあげる思想は、海外を旅する中で教わった。日本では、乞食という職業は絶対成立しないと言われている。平均的な日本人は、乞食を認めない。「お前、自分で働けよ」ということなのだろうが、私から言わせれば、乞食は立派に働いている。人々は、街角の乞食の姿を見て、自分の今の幸せを感じるのだ。だからその幸せの分け前を、ちょっとだけ乞食に支払うのである。


BBS「おじさんとの語らい」常連某氏と談笑する新宿の「妖精」。手前は熊篠福祉学校長

新宿大ガード下の乞食のおばあさん

 もう何度かこのページに書いたことがあるが、10年近く前、私は乞食のおばあさんと仲良くなったことがあった。毎日、新宿大ガード下で、ムシロの上にちょこんと座って茶碗を置いている。それがあまりにも絵になっているので、通るたびに100円を置くようになった。何度も警察に排除されていたが、とにかく頑張ってその場所に座っていた。
 正月も過ぎ2月頃、突然、真冬のガード下からおばあさんがいなくなった。私はなぜかひどく気になってしまい、そのおばあさんを捜して新宿中を尋ね回った。いろいろな噂には出会えたが、ついに彼女自身を探し出すことはできなかった。最後は、新宿区役所の厚生課まで訪ねた。
 「大ガード下にいた乞食のおばあさんの消息を、と言われても、私たちはそこまで把握していません」「だって、あなたもきっとあのガード下をよく通るでしょ。なぜわからないのですか」と食い下がる私に、「新宿区では、毎冬100人以上のホームレスの人が亡くなります。せめて名前でもわかっていれば、どこの病院にいるか、位は調べられるのですが……」と言われ、返す言葉がなかった。「いえ、ちょっと彼女の命が心配だったものですから」と言いながら、私はすごすごと区役所を後にした。
 100年に一度の不景気と言われる今年の暮れ、また、行き場のない人たちの「派遣村」ができるのだろうか? そう思うと同時に、私は時折、あのガード下のおばあさんの笑顔が思い出されるのである。

 「人生は量でなく質である」という貴重な言葉をちゃんと突き詰めるべきの、1年最後の師走に入った。とにかく今年は、病気がちの生活をしながらも、今年もなんとか生き抜いた。しかし自分の「納得できる質」を持って生きてこれたのかどうかは、はなはだ自信がない。


新宿西口大ガード下のホームレスの寝床

今月の米子&O君

アメショー米子(4歳♀)が新年のご挨拶。「あけおめ」
スコッテッシュO君(5歳♂)も袋の中から「今年もよろしく」





ロフト35年史戦記・21世紀編 その1
第49回
世界同時多発テロとはなんだったのか? その3(2003年)

「人間の盾になり損ねたイラク訪問団 イラク訪問記 その4」

 2001年9月11日。旅客機を乗っ取り、乗客も一緒にそのまま目標に突っ込むという史上最悪のテロに襲われ、国家の威信を傷つけられた超大国アメリカ。その後、実行犯の背後にテロ組織・アルカイダとその首領、オサマ・ビン・ラディンがいると断定。アラブvs欧米社会という「文明の衝突」の図式に、全世界の国々を強引に巻き込んでいった。自国内では、徹底的な世論操作が展開され「愛国心」が強調されていった。そして、アルカイダの拠点とされたアフガンの次に標的とされたのが、25年間も独裁政治を行っていたフセイン政権のイラクであった。
 そんなアメリカのイラク侵攻が間近だと言われる最中、命の危険を顧みず、風雲急を告げるイラクに、私も含む総勢36名の日本人が訪れた。その記録を綴るのも、今月で最終回だ。
 団長は新右翼の一水会会長・木村三浩氏。以下、鈴木邦男、塩見孝也、雨宮処凜、パンタ、大川豊、宮崎学率いる電脳キツネ目組員、ロフトプラスワンのアルバイトやジャーナリスト崩れ、など多士済々。
 いざアメリカが攻め込んできたら「人間の盾」になる、と覚悟を持った我々は、表向きは「イラクへの戦争と侵略に反対する国際会議」参加のためバクダッドに入ったのだった。太っ腹なんだかやけっぱちなんだか、イラク滞在中の費用はすべて、フセイン政権持ちであった。

まるで緊張感のない脱力状態なバグダッド市民

 我々がバグダッドに到着した頃には、日本全権のイラク大使はとっくに国外に逃げていた。開戦が迫り、緊張している外国特派員達を横目に、公安の目をかすめて街を散策してみた。しかし、戒厳令下の市内にはこれから戦争が始まる緊張感はほとんど感じられず、軍事車両は見られない。60数年前、日本がアメリカと開戦を決意したときのように、国民全員がヒステリックな興奮状態にあるだろう、との私の予想は大はずれだった。  人目につかないように街の人々に話しかけてみると、多くの市民は、本音ではフセインの恐怖独裁政治に飽き飽きし、アメリカがフセインを倒してくれるのを期待しているようにも見えた。長いこと経済封鎖されているにもかかわらず、商店には野菜からパンまで物があふれていた。ネクタイを締め、アタッシュケースを持ったサラリーマンが通勤し、子供達はカメラを向けると人なつっこく笑顔で近寄ってくる。荘厳なコーランを読む声が、モスクから街々に響き渡る。一見、ごく一般的な、他のアラブの国家と変わらない表情のように見えた。  しかし、これでは戦争を防ぐため「反戦Tシャツ」なんかを着こんだりして、場合によっては「人間の盾」までになってこの戦争を阻止しようと海外からやってきた反戦活動家は、右往左往するばかりだ。これをアラブ人気質とでもいうのだろうか?  これまでも再三書いてきたが、9・11直後のニューヨークのグラウンド・ゼロ、テロの深い傷跡の前で、私は「怒るアメリカ」をこの目で見た。イラクの状況は、あのニューヨーカーの涙、悲壮感や戦争への決意とは全く正反対に思えた。  また、ニューヨークの前年に訪問した北朝鮮・平壌の、疲弊と緊張感がないまぜになった雰囲気とも別物だった。「平野さん、わかってください。この国(=北朝鮮)は今、アメリカと戦争しているんです」。よど号をハイジャックし北朝鮮に亡命した赤軍派の一人、小西隆裕氏が、私に語った言葉が思い起こされた。


先端に劣化ウラン弾が装備したトマホーク爆弾に直撃されたアメリア・シェルター。これだけのコンクリートの厚さをぶち破ってくる。スゴイ破壊力だ

フセインは戦争を予想していなかったのか?

 25年間も独裁者フセインが君臨するイラクは、100万の軍隊と5000輛の先頭車両を持つ中東最大の軍事大国だった。フセインの過去をひもとくと、政敵や宗教上の反対派であるシーア派も、フセインに従わないクルド人や各部族の首領、反体制活動家なども、とにかく敵対するものは弾圧し、極悪非道に処刑してきてのし上がっている。まさに恐怖独裁政治の典型だ。それはスターリンやヒトラーと、日本で言えば戦国時代の織田信長に似ていると思えた。
 フセインの周りには、「安心して下さい。世界はイラクの味方です」というイエスマンしかいなかった(独裁者には耳ざわりのよい情報しか集まらないのが常だ)。それでもここまでアメリカに楯突いてやってこれたのは、世界第2位という石油埋蔵量を背景に、その資金を飴と鞭に使ってきたからだ。
 街頭で売られている新聞を見ても、世界各地でどれだけアメリカを非難した反戦運動が盛り上がっているか、という記事ばかり。英字新聞には、「イギリスで反戦デモ50万人参加」という記事が、写真付きでトップに飾られていた。テレビのニュースもそうだ。だからイラクの人々も(フセイン自身も?)、まさかアメリカが本当に攻めて来るはずがない、そんなことは国連や国際社会が許さない、と本気で思っていたのだろうか?
 アメリカが攻撃の理由として挙げていた「大量破壊兵器」や「化学細菌兵器」がイラクにはないことは、フセインは一番よく知っていたはず。テレビでは、(アラブの独裁者のプライドなのだろうか?)相変わらずフセインの強気な発言が繰り返し報道されていたが、フセインはとにかく、どこかでアメリカとの「落としどころ」を探っていたいに違いなかった。いくらなんでも、戦争で勝てるとは思ってもいなかっただろうが。


ホテルで結婚式を挙げているカップルに出会った。戦争になれば新郎は死ぬかもしれないので早く式を挙げよう、って感じには見えなかった。みんな明るく普通の結婚式みたいだった

傷ついた子供達が政治に利用されるのはたくさんだ

 バクダッド滞在二日目。副団長の沢口ともみからの強い要請もあり、私はその日からの団体行動に参加するしかなかった。朝9時、ロビー前に何台かのツアーバスが並んだ。我々以外にも、反戦会議に参加する各国の団体が多くなり、政府公安の個々人への監視はほとんどなくなっていた。
 ツアーバスの行く先は、サダム・フセイン小児病院とアメリア・シェルターだった。1991年の湾岸戦争で、アメリカが使用した劣化ウラン弾の被害で、今なお子供達がいかに苦しんでいるかを見学するのだ。
 病院に着くと、100人以上の外国人がぞろぞろと、子供達が寝ている枕元へと院長に案内された。病室を平気で写真を撮る奴らもいた。私たちに向かって、院長が英語でそれぞれの子供の症状を説明する。今にも死にそうな子供の手を握る母親は、私たちが近づくと、嫌悪の表情を向けた。
 やがて院長がその場からいなくなると、その母親は私たちに、アラビア語でまくしたてた。意味は分からなかったが、「早く出ていけ! この子はお前達の見せ物ではない」と言っているように聞こえた。母親の憎悪は、劣化ウラン弾を落としたアメリカはもちろん、我々外国人全体に向けられているように思えた。私自身も加害者の様な気持ちになってしまい、もうこれ以上、病室を回る勇気がなくなってしまった。集団を離れ、一人こっそり病院の外に出た。
 ふと気がつくと、隣には鈴木邦男さんがいた。私と同じような気持ちになり、病室を回ることを拒否していたみたいで、ちょっと驚いた。「一体、俺たちは今死んでゆこうとしている子供や、それを必死に看病する母親にどんな言葉がかけられようか。子供と母親が見せ物にされ、政治的に利用されるのはたくさんだ」と思った。この病院は、外国人が訪れたら必ず案内される場所ということだった。
 次に訪問したアメリア・シェルターは、湾岸戦争の際、アメリカのロケット弾が直撃し、避難していた486人のうち472人が死亡したという場所だ。ロケット弾が突き破った分厚いコンクリートの屋根と、人々が死んだ地下室が当時のまま保存されている。なんともいたたまれない光景だった。
 ホテルに戻り、遅い昼食を食べた。午後3時からは、「国連査察団事務所」に対しての抗議が行われた。なんだかよくわからないが、私も参加するしかなかった。てっきりイラクにいる外国メディアもたくさん取材に来ると思ったが、そんなことは全くなかった。イラク政府から動員されたバース党員が200人近くと、我々外国人50人程度の抗議行動だった。


米軍占領超然のパレスティナホテルから見た美しバクダットの夜景。まさに砂漠の中のオアシスだ

「サダムに栄光あれ」と叫ぶ気にもなれず……

 バイキング形式であったが、パレスチナホテルの朝食は豪華だった。到着から三日目、今日はフセイン肝煎りの国際反戦会議の全体集会が行われる。  3000人も入る会場は満員だった。そのうち、外国人参加者は1割程度だった。多分、バース党員の子供達であろう迷彩色の少年少女達が大勢動員されていた。  会場のVIP席には、木村団長が各国要人と並んでいる。会議は、全員が起立してのイラク国歌演奏、イスラム教司祭によるコーランの読経によって幕を開けた。熱狂的な拍手に迎えられ、バース党幹部や政府要人、軍人達が登場し、会議がスタート。途中、歌や踊りもあったのは、平和をアピールしていたのだろう。進行のほとんどがアラビア語だったため、私には話がさっぱりわからず、雰囲気や人々の反応から想像するしかなかった。
 会議は途中から、「サダムを称える集会」に変わっていった。会場のバース党員の参加者から、延々と「サダムに我々の魂と血を捧げる」という大合唱がわき起こり、興奮のるつぼとなっていった。結局のところこの会議は、独裁者フセインとバース党の士気を高めるための集会でしかないのだった。
 会議は3時間も続き、ようやくフィナーレになった。最後は参加者みんな壇上に上り、「サダムに栄光あれ」と叫ぼうという演出だったが、私はとてもその気にはなれず、馬鹿馬鹿しくって、ただただ眠ることだけを心がけていた。
 夕方5時より、ホテルに戻り分科会が開かれた。これは、バグダッドに入ってから初めての、それなりに緊張感のある会議だった。なんといってもイラクのサブリ外相が出席して、重要声明を発表するらしいとのことだった。「もしかしてフセインも来るかも?」という噂もあったが、さすがにそれはなかった。
 この会議は英語が中心だったので比較的わかりやすかった。群がる外国プレスの前でサブリ外相は、「我々は誠意を持って国連査察団に協力しているのに、アメリカは我が国を侵略しようとしている」という泣き言を言うばかりだった。イラクは断固アメリカと闘う、という戦意は感じられなかった。
 会場を出たところで私は、デンマーク人の記者から簡単なインタビューを受けた。「どちらの国から参加されましたか?」「日本です」「日本はアメリカを支持していますね」「確かに今の日本政府の方針はそうですが、しかし日本人は過去辛い戦争を体験して、さらには世界で初めてにして唯一の、核兵器の洗礼を受けている国です。日本人の心の底には、いかなる理由があっても戦争は絶対ダメだ、という反戦平和の意識があります。だから、アメリカの戦争を支持するという現政権は長くは続かないと思う」と答えた。

会場の日本人達も壇上に上げられた。気勢が上がり「サダムに我々の血を捧げる!」と、彼らも言ったかどうか? 大川興業の大川豊さんや塩見孝也、着物姿の沢口ともみもいる

まるで支持のない官製反戦デモ

 この日の夜、キャンドルを手にしたデモが計画されていたが、砂嵐のため火が消えてしまう、と中止になった。イラクの軍人が「この砂嵐では、アメリカの戦車は前に進むことができず、戦闘機は飛ぶことができまい」と言った。「でも、アメリカ軍はそんなことは織り込み済みのはずだ」と私は答えたが、「大丈夫。我々はもう何十年も戦争をやっている。地上戦になったら勝つ。我々は戦争には慣れている」と、ニコニコして言う。もう、俺たちはなんのためにこの地まではるばるやってきたのか、わからなくなってしまった。命をかけて「人間の盾」にまでなってこの戦争を防ごうとしているのに……。
 4日目、我々の滞在中、最後の反戦デモをやるという通達が来た。ほとんど日本人とイラク人だけの、100人足らずの街頭デモだった。イラクの白バイ警官がデモの先頭に立って先導した。木村団長がイラク政府のベンツでやって来て、警護のパトカーのスピーカーからアジ演説を始めたのにはびっくり。完全な政府公認のデモだった。  デモ隊に手を振って返してくれるのは子供だけ。通行人やビルの窓から街の人々は我々を冷ややかに見るだけで、誰も隊列に加わろうとしなかった。

全体会議の後半は歌と踊りの会になっていった

さらばイラク、そして独裁者フセイン

 翌日、我々がバグダッドを去る日がやってきた。木村団長と沢口副団長、ほか数人のメンバーは現地に残るという。私は、一刻も早くこの地から去りたかった。
 ホテルの部屋から巨大なフセインの銅像や、4000年の歴史を刻むチグリス川を見るのもこれで最後だ。遠くの小高い丘にはフセインの宮殿。相変わらず、バグダッドは戦争準備をしている気配さえない。結局、ついに戦車や装甲車どころか、武装した軍人一人見ることはなかった。
 朝5時半、小雨がちらついていた。我々は、チャーターバスでバクダッドを逃げるように後にした。空が白くなり始め、砂漠の地平線から日が昇り始めた。美しすぎた。バスは延々と砂漠の中を走ったのち、ヨルダン国境に着いた。
 バスの中で誰かが「助かった! まだ命がある」と言った。バスの中が一瞬静まりかえり、そしてそれがいつの間にか大きな笑顔と歓声に変わった。

バクダッドでのアメリカ侵略戦争反対デモ。先頭は日本人軍団で雨宮処凜もいる
英語で書かれた横断幕を先頭に進むデモ隊
帰国後、報告会がロフトプラスワンで行われた。右からパンタ、沢口ともみ副団長、鈴木邦男、塩見孝也、木村三浩団長、雨宮処凜、そして私

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

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