第141回 ROOF TOP 2009年12月号掲載
「闘いすんで日が暮れて……祭りの終わり」

 新宿LOFTで行われた約30日間にわたるパンクロックの祭典、「DRIVE TO 2010」が先日やっと終わった。出演総数250組以上、参加音楽関係者1200人、のべ動員数1万3000人。オールナイト公演7日、消費ビール約1万9000杯(笑)と、そのスケールはまさに、ロフト38年の歴史を塗りかえるほどの大イベントになった。
 客寄せ外タレも呼ばず、流行りのJ-POPには一線を画し、有名バンドも無名バンドも個人参加も、客が動員できるか否かを問わずステージを踏んでもらったという、画期的なイベントだった。常時2つのステージ、時には3つ目の臨時ステージを設けながらこのお祭りは催され、惜しまれながら終わったのだった。以下、今回のイベントの仕掛人・地引雄一氏へのインタビューである。


オルタナティブなもう一つのロックをライブハウスで表現したかった

平野「J-POPに一矢報いる、みたいな悲壮感が地引さんの中にあったみたいだけど……?」
地引「いや、それを言い出したのは清水寛さん(このイベントのもう一人の仕掛人)なんだけど……。ロックってさ、本来同じ所から出発したのに、とても人気があるロックと、オルタナなあまり人が聞いてくれないロックがあるんだよね。ただ心地良い言葉やフレーズを並べる音楽とは違うロックを表現したかったんだね」
平野「それは成功したのかな?」
地引「イベント総体を見れば、やはりテーマは“ロックとは何か”をしっかり実直に問うことができたイベントだった」
平野「結構メジャーシーンで活躍してるバンドなんかも出演していたと思うけど、それによって新しくオルタナティブなロックを知った、若い人もいただろうね。でも、何日か客席がスカスカの時もあったよね」
地引「それは無理でしょ、30日間毎日満員というのは。ロフトをそんなに儲けさせてどうする(笑)。そう、出会いなんだよね。無名なバンドでも、君の心の底まで感動させるバンドってまだまだたくさんあるんだよ、っていうことを伝えたかったんだ」
平野「俺が今回思ったのは、突然段ボール、恒松正敏バンド、リザード、S-KENなんかの大御所にしても、あれから30年、音楽をより勉強しているなって感じたことだな。彼らがまた活躍しだしたら面白いな」
地引「そうだね、そうしたら日本の音楽状況が変わるよね」


写真家でもある地引氏は、最近『TOKYO STREET ROCKERS 1978→1981』(リトルモア)という写真集を出した。さらに70年代のパンクシーン誕生を記した『ストリート・キングダム』(K&Bパブリッシャーズ)も再発

出演者と店員とのコラボレーション

平野「今回、ほとんどマスコミ関係のプロモーションが見あたらなかったけど」
地引「もはやこういうオルタナな音楽を扱ってくれるのは『ミュージックマガジン』ぐらいだし、後は全部ネットと出演者側の告知だけ。それであれだけの人数が集まった」
平野「出演者側の感想はどうだった?」
地引「各バンドがこのイベントに賭ける意気込みは凄かった。この日のためだけのセットを組んでくれたり、アレンジしてくれたり再結成してくれたりして、特別な意識を持って臨んでくれたのは非常に嬉しかったね」
平野「それは良かった」
地引「昔、非常階段とか暴力的なバンドってライブハウス側の従業員が嫌がっていたでしょ。それで平野さんも頭を痛めて出入り禁止にしたりした。でも今回、非常階段がまた臓物を客席に投げたり、前列は雨合羽で武装しなければ聞けなかったバンドも少なからずいたんだけど(笑)、ライブ終了後、店員の若い子達が喜んで掃除をしてるのには感激したな。打ち上げなんか、店員と出演者やスタッフが記念撮影したり。最終日の朝には、みんな一緒に酔っぱらったまま、花園神社にお参りに行ったりしたんだよ」
平野「そういえば小林社長が、だんだんロフト店員の目つきが変わってきたって喜んでいたよ」


大菩薩峠のふもと、西沢渓谷の山道だ。これだけで、今年の紅葉の落とし前はすんだ感じだ

ライブハウスの魅力を取り戻したかった

平野「ロフトとしても、これを機に若い奴らに昔のいいバンドを知ってもらいたいというのもあった」
地引「今回、ライブハウス本来の面白さを取り戻したいという意図もあったわけ。今の若い子って、いわゆる色々なバンドが観られるイベントには来ない。お目当てのバンドのワンマンライブしか来ないから、ライブハウスで知らないバンドをみつけたりする機会がなかなかないわけ。お客さんから『ライブハウスってあんな楽しい場所だとは知らなかった』って感想メールがたくさん来たよ」
平野「新宿LOFT店長の大塚君が言っていたけど、今回のお客さんは30〜40代が多くて、酒はがんがん飲むし、あっちこっちで遊ぶしナンパはするし(笑)、多分昔よく通っていて、ライブハウスでの遊び方を知っている人が多かったのが実に勉強になった、って」

 まだ紅葉が里に下りて来ていない11月上旬。昨年の秋はピースボートに乗っていて、日本の紅葉をまったく見られなかったので、今年は何とか見逃すまいと思うことしきりだった。
 ネットで紅葉最前線を探るが、なかなかどこに行けばいいのかわからない。思い切って適当に甲府方面の中央線下り列車に乗った。なんとなく降り立ったのは塩山駅。一日3本しかないバスに乗り、西沢渓谷に行ってきた。夕刻の山道は危険だったけれど、途中、動けなくなるような色彩の中にしばし身を預けてみた。これこそ紅葉の醍醐味である。


今月の米子

今回は私の書斎で偉そ〜な米子とオー君だ。大事な事はみ〜んな猫に教わった。そう、自分勝手に生きる方法を…そして…私はまた悩む…猫の気持ちがわからないのです…って




色んな音楽家と出会った。写真、勝手に適当に載せましたが悪しからずご了承を。
みんなお疲れ様!
――平野より――
モモヨ キース
ジュネ s-ken
西村茂樹 恒松正敏
原マスミ 突然段ボール
さよこ 巻上公一
地引氏から来た写真。やはりプロの写真家なので無断で使うことが出来ないと言って原爆スター階段の日のスナップだけくれた
ミチロウと消化器
新星リザートを見よ!
これは最後の打ちあげのスナップ



ロフト35年史戦記・21世紀編 その1
第48回
世界同時多発テロとはなんだったのか? その3(2003年)

「黒雲立ちこめる開戦前夜のバグダッド イラク訪問記 その3」

 先月に引き続き、2003年2月、イラク戦争開戦直前に筆者がイラクを訪問したときの記録を記しておきたい。たった一週間ちょっとの滞在であったが、それはスリリングななりゆきになった。
 2003年初頭に、イラクに対する軍事介入の恐れが高まった。9.11テロ以降、アメリカのブッシュ政権は「はじめに戦争ありき」の姿勢を貫いていた。戦争の目的も、最初は「対テロ」だったものが「大量破壊兵器廃棄」に変わり、最後は「体制転換(=フセイン政権転覆とイラク国民解放)」と、ご都合主義的に二転三転した。そうした独りよがりの理屈で独走するアメリカに対し国連安保理は、反対する非常任理事国の数を増やすことはできなかった。このバカな戦争の開戦からもう6年以上経つが、未だにイラクでは自爆テロが後を絶たず、戦争は終わっていない。

日本出発前の記者会見

 2003年2月。アメリカによるイラク攻撃が迫っている中で、現地に赴き反戦を訴えることを目的とした、「ブッシュ政権のイラク攻撃に反対する会」(総勢36名)が結成された。世界情勢は緊迫の一途を辿っていた。我々、イラク渡航組に対しては、日本政府の「渡航自粛要請」が出された。「行くのは勝手ですが、外務省(=日本国)は責任を持ちませんよ」という意味だった。
 出発直前の2月13日、ロフトプラスワン。参加者の記者会見が、公安や一般客の前で行われた。
木村三浩(団長/新右翼・一水会会長)「人間の盾となる意欲、決意、覚悟を持って、戦争の足音が近づいてくるイラクに行き、戦争反対をアピールしたい。これは左翼か右翼かなどの問題ではない。私たちが行って戦争を止められるかどうかわかりません。しかし、アメリカがイラクを攻めることは、歴史に大きな禍根を残すことになるのです」 沢口ともみ(副団長/反戦ストリッパー)「アメリカの同盟国の日本人がたくさん行けば、少しは戦争への抑止力になると思います。この戦争は絶対ダメです」 塩見孝也(元赤軍派議長)「自分はこれまでの人生の中で、色々世間を騒がせてきた。世界で日本人はアメリカの戦争に賛成しているように見られているが、そうではないことをアラブの人たちにアピールしたい。今回は誰が見ても納得する所で死にたい。もし僕が死んだら、皆さん赤飯で祝ってください」
と、参加者それぞれが決意表明をしていった。私自身は、
「我々は生きて再び日本の地を踏めるかどうかもわからない、緊迫した状況下でイラクに行くことになってしまった。私自身はただ、『現地はどうなっているんだ?』と興味津々なだけで……危なくなったら、率先して臆病に振る舞うつもりです」
なんて、相変わらず勝手なことを言っていた。


砂嵐のバクダッド。これはスゴイ。昼間でもあたりは薄暗くなる。「この砂嵐の力でアメリカ軍は攻めて来れない」なんていう話があったけど、アメリカ軍の近代装備はそんなもの問題にしなかった。遠くにパレスチナホテルとフセインの銅像が見える。
戦争直前のバクダッドの水タバコ屋はいつもの通りにぎわっていた。「金持ちはみんな外国に逃げた。今ここに残っているのは逃げる費用がない奴ばかりさ」と市民は言う

バクダッドへ陸路1000kmを時速180kmで駆け抜ける

 先月号で書いた通り、イラクへの空路入国は空港閉鎖で断念するしかなく、隣国ヨルダンの首都・アンマンからバクダッドまで、1000kmを陸路で走破することになった。
 出発前、「非常事態に備えて各自各班、懐中電灯、クスリ、包帯を持ち、各班長は短波ラジオで情報を得るようにしてください」と、緊張気味に通達する沢口副団長。朝、車1台に4人づつ乗車し出発。10時過ぎにはヨルダンとイラクの陸路ボーダー(国境)を、9台の頑丈な大型RV車がゆっくりと越えた。
 ボーダーの向こうは、延々とカーキ色の瓦礫の砂漠が続いていた。現在、イラクの首都・バクダッドには「戒厳令」が敷かれ、その他のボーダーは閉鎖されているということだった。いつアメリカの爆撃や侵攻があってもおかしくない、緊迫した情勢なのだ。我々は、そのただ中に、全く命の補償のないまま突っ込んでいこうとしている。
 ヨルダン人の運転手も実に複雑な表情をしていた。国境からバグダッドまでの陸路は、途中盗賊が待ちかまえている危険地帯で、ヘタをすればアラブの山賊とのカーチェイスになるかもしれないのだ。車はコンボイ(護衛のための編隊)を組み、互いに連絡しあいながら、時速180km以上で砂漠を走り続けた。
 国境で出会った現地の連中は盛んに、「今バクダッドはどうなっている? 戒厳令? フセインは国外逃亡した?」と我々に質問を浴びせかけて来た。「そんなことはない。イラクの軍隊は正常に動いている。フセインは最後まで闘う。アメリカとその同盟国は、イラクの強力な軍隊と砂嵐にやられ、バクダッドには侵攻できない」と、団長の木村氏は熱っぽく答えていた。砂漠に照りつける太陽は激しく、車のフロントガラス越しに肌を刺すようだった。


ホテルで取材を受ける、木村団長(中央)と塩見孝也(右)。左は故・沢口ともみ副団長
イラク外務省にあったこんなスローガン、イラク国民は誰も信用していない

不安なまどろみの中、バクダッドに到着した

「私の予測では、イラク訪問中にアメリカの空爆が始まる確率は20%です」と、アンマン出発前に木村団長から聞いていた。「おいおい、そんなに高い確率なのか?」と、私はその言葉に驚きを隠せず、出発してからもずっと脳裏に焼き付いたままだった。バグダッドへ向かう車中で、いつしか私は、言いしれぬ不安の中でまどろんでいた。終戦直前の東京で、無抵抗の住民10万人以上を無差別に焼き殺していった、アメリカ軍の空襲のイメージと重ね合わせていたのだった。
 私は長いこと悪夢と格闘していた末に、「平野さん、起きてください。もうバクダッドの市内です。イラク政府から迎えのパトカーまで来ていますよ」という声に起こされた。アンマンを出発してから14時間が経っていた。
 パトカーは、我々をホテルまで先導してくれるらしい。到着したのは、後に爆撃で有名になるパレスチナホテル、全世界のマスコミ関係者が投宿しているホテルだった。ロビーにはバカでかいフセインの肖像画が飾られ、我々を見下ろしている。ホテル前方の広場には、のちにアメリカ軍のバクダッド入場の際に引きずり倒された、あのフセインの巨大な銅像がそびえているのが見えた。「独裁者って、どうしてこうも自分の銅像とか肖像画が好きなんだろう?」と、一人首をひねった。
 ホテルの部屋に入ると、広いバルコニーからチグリス川が、その向こうにフセインが暮らす宮殿が見えたが、軍隊らしきものは影もなく、とても戒厳令下の都市とは思えなかった。ホテルのレストランは我々のために開かれていた。「これはスゴイ、国賓待遇だ。バース党とフセインの御威光のおかげだな〜」と、ちょっと苦笑まじりに思った。


この女性が首都防衛軍総司令官だそうだ。いい女だ。アメリカは、ほとんど反抗も受けずバクダッドを制圧したと言っていたが……。彼女は今頃どうしているのか? この愚かな戦争でアラブ人100万人が死んでいる。戦争は絶対防がねばならない
バクダッドから100kmほど行ったところに、空中庭園で知られるバビロンの古代遺跡があった。こんな危険な時期に訪れる観光客は私一人だ

情報省につかの間の安全を確認する

 到着翌日の朝。団体行動のスケジュールを見せられたが、私はそれを無視して外人記者クラブがある情報省を訪ねた。省内は、開戦間近ということで怒号が乱れ飛び、雑然としており活気があった。その中に一人だけ、共同通信の若い日本人記者がいた。
「日本から反戦会議出席のため来ました。平野と申します。今この国にいる日本の通信社は、共同通信1社ですか?」「そうですね。他はみんな引き上げました。残った我々も、国防省から数日中に退去を求められています。そちらは、木村さん達のグループで来られたのですね。できたら後で取材させてください」「構いません。木村にそう伝えます。ところで一番気になるのは、アメリカの攻撃がいつ始まるかということなんですが、何か新しい情報はありますか?」「昨日、国連安保理でアメリカが更なる査察継続に同意したそうです。なので、平野さん達が滞在するこの一週間は、攻撃はないと言えます」私はちょっとだけホッとした。
「フセインはイラク国民から支持されていますかね?」「20年以上も酷い独裁者として君臨しているフセインが、支持を受けているわけがありません。アメリカの侵攻を望んでいる市民はたくさんいますよ」「フセインって親族一党の独裁政治で、気に入らない奴をぶち込む強制収容所を持っているという話を聞いたことがありますが」「それはヒドいもんです。密告が怖くて、何も言えないのが今のイラクです。私でも、アメリカの侵攻がこの国にとっていいのか悪いのか悩むところです」
 そのとき、ふと隣のジャーナリストが話しかけて来た。「反戦運動で来たのか?」「そうだ。でもイラクを支持しに来たんではない。現地に興味があって来ただけだ」「人間の盾にならないのか?」と意地悪な質問をしてくる。「なるべくならならない。逃げる。とりあえず今は安全とわかったから、これからバビロンに観光に行ってくる」  唖然と見送る記者に手を振って、私は情報省を後にした。空には、砂嵐の前触れと思われる重たい雲がのしかかって来ている。肌を刺すような光を放つ太陽が隠れはじめた。

フセインの自慢の銅像は引きずり下ろされた、アメリカ軍の手で……。イラク戦争ほど嘘とペテンばかりの報道は前代未聞だった

ニューヨークとは好対照なバグダッドの街角

 今すぐ爆撃の恐怖はなくなった。フセインの招待でこの国に来た我々は、いうなればフセインの親衛隊みたいなものだ。現政権に不満を持つクルド人の反乱が起きたり、フセインが突然亡命でもしない限り、しばらくは我々の安全は確保されたのだった。
 バクダッド市内を散策する。これから戦争が始まる国とは思えないほど、みんなどこかのんびりして賑やかだ。根の明るいアラブ人気質は、街角ですれ違っても気持ちがいい。酒と風俗が禁止されているアラブ社会。髭面の大きな男どもがアイスクリームを食べている光景が、何ともほほえましく映った。
 9.11後のニューヨークで、おびただしい軍隊と警察、警備員が悲壮な顔をして街の警備にあたっていたのと比べると、実にアラブ人の性格がよく見える感じがした。「威勢のいいことばかり言うフセインは、アメリカと闘う気があるのだろうか?」と疑うばかりな街の雰囲気だ。しかし、市民に「あんたはフセインをどう思うか?」という質問を投げかけても、ほとんど返事がない。「私たちはこの無謀な戦争を止めるために日本からやってきた」と告げても、相手はシラけるばかり。イラクの人々は、長いこと自由にものが言えない暮らしを強いられてきた。独裁政権が、徹底的な反政府勢力の弾圧をやってきた国なのだ。
 しかし、ピンク映画が上映されていたり、エロ本まで路上で売っているのにはびっくりした。イラクは石油資源が豊富で金持ちな国でもある。ヘジャブ(頭部を隠す布)をかぶっていなかったり、厚化粧をした女性もいる。自由な言論や政府批判、民族差別なんかをあきらめれば、結構楽に暮らせそうな国にも見えたが……。
 バビロンの遺跡には、タクシーを雇って行くことにした。市内から車で1時間半かかって着いた遺跡は、観光客は私一人で閑散としていた。案内人(たぶん館長)と誰もいない遺跡を歩いた。「もうすぐ戦争が始まるかもしれないけれど、ここにある数々の貴重な遺跡は安全なのか?」と尋ねてみた。「いや、警備の役人達もみんな逃げてしまったし、政府は管理する能力はないし、残るのは私とあと数人だけだ。後は、盗賊どもがいつ入って来て貴重な遺産が盗まれてしまうか、時間の問題ですよ」と寂しげに言った。カンボジアのアンコールワットや、アフガンのバーミヤンもそうだったが、こういった貴重な歴史的遺跡がいとも簡単に壊されてゆくのも、戦争という現実なのだということを知った。
 次の日の朝、私は副団長の沢口から激しい抗議を受けた。「平野さん、勝手な行動を慎んで、ちゃんと団体行動をしてください。訪問団としてのスケジュールがあるんです。みんなが参加してくれないと、私が団長から怒られます。明日からは本格的な会議が始まりますから、絶対参加してください。平野さんの班が一番、勝手な行動ばかりしている……」
 確かに我々の班は、魑魅魍魎な奴らの集まりだった。元右翼に左翼、一発当てようとするライター、イラクに恩義ある元商社マン、ジャーナリスト崩れ、観光気分のノンポリ学生等々……。私同様、勝手な行動をしているヤツも多いようだ。早くも初日に、禁止区域に入り込んで写真を撮っていた団員が首都防衛隊に捕まるという事件が発生、幹部は対応に走り回っていたのだった。(次号に続く)

イラクについての基本情報(2003年4〜5月現在)

国名 イラク共和国
首都 バグダッド
人口 2520万人
公用語 アラビア語
国家元首兼政府首班 サダム・フセイン(4月まで)
暫定占領当局代表 ポール・ブレマー(5月から)
死刑制度 4月まで存続、その後停止
女性差別撤廃条約 批准(留保付き)
女性差別撤廃条約の選択議定書 未署名
石油埋蔵量 世界第2位
国教 イスラム教


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

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