第140回 ROOF TOP 2009年11月号掲載
「10年ぶりのパンクの祭典が始まった」

「DRIVE TO 2010」の興奮さめやらず

 秋の夜長、60代半ばにして、毎日のように新宿LOFTに通い詰めている。「DRIVE TO 2010」というパンクのお祭りが壮大に行われているのだ。
 なんでも、1980年のあの伝説のイベント「DRIVE TO 80’s」から30年経ったから、今回は「30days」をやるんだそうだ。「なに! 初日は相対性理論とコクシネルが対バンだって! サブステージでは、コンクリーツに毒キノコホテルかね」といった具合で、前から噂では聞いていて、体験してみたいバンドがたくさん並んでいる。それはそれは壮観なラインナップなのだ。
 しかし、毎日爆音に接していると、難聴気味になり60歳を過ぎた私は疲れる。いつもより若干年寄り気味な聴衆を見わたしながら(当たり前だが、バンドと共にファンも年をとるのだ)、「それでも多分、この中で一番俺が年長なんだろうな……」と、心の中でぼやくことしきりだ。でもそんな自分をとても幸せに感じたりする。
 しかし、このイベントの開催一週間にして一番見たかった、「非常階段30周年記念特別ライブ/原爆スター階段(原爆オナニーズ&スターリン&非常階段!)」の日、私は体調を悪くして新宿に向かうことを断念せざるを得なかった。次の日、企画者の地引雄一氏から、「平野さん、なぜ来なかったの? 凄く、凄く良かったのに……」と言われたときにはとても悔しい気分になった。ライブって、誰かに「あのライブは良かったよ」なんて言われると、その時参加していない自分はとても損した気になるから不思議だ。すなわちライブとはやはり、その現場にいなければ全く話にならないということなのだ。 ※当日の様子はweb Rooftopのライブレポートを見て欲しい


左から、地引雄一氏、清水寛氏。日本のパンク仕掛け人と言っていいだろう。もう2人とも還暦である。話すは年金のことと健康のことと思いきや、「今回のイベントでJ-POPと一戦を交えてみせる」と鼻息が荒い。おっと……
ステージに立つサエキけんぞう氏は今回のイベントのオルガナイザーでもある。パール兄弟のサエキさんが、これほどコアなパンクな演奏をやるとは思わなかった。いい演奏だったな

商業主義の波をもろに受けていた30年前のライブハウス

それにしても、「そうか? あれからもう30年も経つのか?」と思う。私もまだ30歳ちょっと過ぎた位、独身で若かった。烏山、西荻、荻窪、下北沢、新宿、自由が丘と、都内に6軒ものライブハウスやロック居酒屋を展開して、えらくいい気になっていた頃だった。
 それまでロフトが支持し続けてきたニューミュージックが市民権を持ち始め、大手レコード会社が青田刈りをはじめた頃だった。たいして実力もないバンドもメジャーデビューしていった。彼らはメジャーデビューすると、「今やライブハウスに出演するなんてかっこ悪い」と言い出す。それまでバンドの友達なんかがやっていたスタッフに代わって、大卒のレコード会社や大手プロダクションから派遣された連中が、バンドに関わる様になった。そんな連中が、「狭い、汚い、暗い、マイナーだ」と言われるライブハウスに出演するなんて、かっこ悪いと思うのは当然だった。
 簡単に言えば、売れはじめたら(いや、売れるためには、か?)、そんな小さなライブハウスなんて目もくれなくなるという、「商業主義」の自然な論理の帰結だったわけだ。ホールややたら収容人数のあるデカ箱──“ライブハウス”を名乗っていたが、私にしてみれば、これは単なる椅子のないホールだ──で成功し、レコードの売り上げを増やすことに全力を傾けはじめるのだ。ちなみに当時は、ネットもなく、タワーレコードやHMVのような、あらゆるジャンルを網羅する大型レコードショップもほとんどなかった。今のようにインディーズのまま何十万枚を売り上げるのは不可能。売れるためにはメジャーデビューは必須だった。
 そうして、それまでやっと何年もかけて育ってきて、動員も増えてきたロフトのドル箱スター達は、根こそぎ出演してくれなくなった。まあ仕方がないことなのかもしれないが、ライブハウスなんていうものは、アマチュアバンドが成功しメジャーに上りつめてゆくための、階段のようなものだと、私は身をもって実感した。簡単に言えば、お客さんが入らない時にはライブハウス、客が入り始めると、ホールやデカ箱に行ってしまって、またレコード会社から契約を切られて、動員が落ち目になるとライブハウス、という循環形式……そんな事態に防衛的に発案されたのが悪名高い「バンドに動員のノルマをかける制度」なのだろう。この矛盾は、ライブハウスを運営するものにとってはとても悲しいものなのだ。


会場に人の音楽ライター陣が顔を揃えた。左から志田歩、小野島大、吉留大貴の3氏。「参ったよ、仕事は少なくなるしギャラは半分に削られるし。今、生命保険を崩して生活 しているよ」なんて声が聞こえて来た?
ケラさん(左)と恒松さん(右)。現場で写真を撮るのは難しい。私でさえもお客さんから注意される(苦笑)

それは新宿LOFTでのふとした雑談からはじまった

 当時、私はあせりまくっていた。前月まで動員が10名以下だったバンドが、テレビかなんかに出て突然ヒットすると、もう翌月には平気でスケジュールをキャンセルしてくる。経営者としても、頭を抱える日々だった。
 1979年、夏のことだった。どんなに頑張っても天下の(?)新宿LOFTのスケジュールが埋まらない。確かにその頃、メインカルチャーシーンとは別の所で、ロンドンやニューヨークからやってきたパンクが日本に上陸し、細々とだがそのシーンを形成しているのは知っていた。しかし、ニューミュージック育ちの私たちはほとんど興味がなかった。さらに巷では、パンクバンドの奇行が噂されていた。○○が全裸になった……○○で機材が壊された……○○が麻薬で捕まった……。都内のほとんどのライブハウスはパンクバンドを敬遠していた。
 私の記憶に間違いがなければ、当時の日本のアンダーグラウンドなパンクシーンの中心だった東京ロッカーズの連中が、初めてロフトに出演したのは、その年、下北沢ロフトだったはずだ。興味本位で私も観に行った。それほどお客が入った訳ではないが、私はパンクバンドの評価を若干変えた。しかし別にそのバンドにぶっ飛んだわけではなかった。ぶっ飛ぶのはその随分あとの話だ。
 話を元に戻そう。1979年の夏、ロフトブッキング陣はスケジュールが埋まらず困り果てていた。そんなある日、新宿LOFTの入り口付近で、写真家・地引雄一氏、建築家・清水寛と立ち話をしていたとき、私はふっとささやいてみた。彼らはミュージシャンではないが、東京ロッカーズ周辺にいた人間だった。「どうだろう、この8月の夏休み、あんたらで一週間ほどパンク系のお祭りを仕掛けてみないか?」「それは無理ですよ。自分たちはイベントの素人だし、ロフトに迷惑がかかる。自信はない」「でもさ、今パンクはまとめるリーダーを捜しているはずだよ。いわゆるパンクバンドは、全国にたくさんいるはずだ。この際、一挙にみんなに声をかけたら? いいよ、失敗しても。どうせ毎年8月は東京に人はいないし、この時期ロフトはいつも赤字なんだから……」。なんてことから、パンクのお祭り「DRIVE TO 80’s」ははじまったのだ。そして、そのムーブメントは、すさましい勢いで拡大していった(詳しくは『ROCK IS LOFT 1976-2006』(2006年刊/ぴあ/LOFT BOOKS)などを読んでみて欲しい)。その後、亡くなった者、行方不明の者、今なおステージに立ち続けている者……。とにもかくにも、それが現在開催中の「DRIVE TO 2010」まで繋がっている、というわけだ。

 秋も深まってきた。相変わらず歩くことにこだわっている。1日に1万5000歩(約8km)を、ただひたすら愚直に毎日歩き続けている。ふと、歩く旅の本を出したい、と思った。関東近郊で20コースなんてどうだろう。そんなことをロフトブックスの旅本専門家・今田に相談したら、「群馬県の月夜野あたりから出発し、湯宿温泉、猿ヶ京温泉と旧三国街道を上って行き、苗場から西に山越えってどうですか? 山中に電気は自家発電、電話もない秘湯・赤湯温泉があり、そのまま西に山道を抜ければ平家の落人の里・秋山郷。ここにもたくさん秘湯がありますよ。一週間の歩きの旅路の果てに紅葉の秘境にたどり着くのは、なかなかいいストーリーじゃないですか。」と言われた。そこでひたすら歩く練習をしていたのだが……、膝を痛めてしまった。秋は徐々に深まっている。紅葉が終わる前にどこかに旅立てるだろうか。


芸術の秋の一日、オルセー美術展開催中の世田谷美術館で一休みする平野さん。豪華すぎる。世田谷区は金持ちだな

今月の米子

キャットタワーに乗り、政権交代を受け世を監視する。「鳩山政権もまあまあだな。でもあのカラス気になるにゃ〜」と言ったかどうか。オー君(スコッテッシュ/オス/5歳)とまー君(雑種/オス/6歳)。





ロフト35年史戦記・21世紀編 その1
第47回
世界同時多発テロとはなんだったのか? その2(2001〜2003年)

「イラク戦争直前に独裁者フセインから招待された? イラク訪問記 その1」

 またしても、ロフトの歴史とはちょっと離れた記事になる。時代と共に生きてきたロフト35年の歴史を鑑みながら、「ロックは社会を変革する力があるのだろうか?」「ロックに批判能力はあるのか、もしあったのなら、それは現代でも通用するか?」なんていう、時代外れな問題提起をしたかったのだが、そんなことを考えているうちに、イラク戦争の、あの緊迫した時代のことが沸々とわき上がって来た。やはりこれを書かずに、次の章「新宿LOFT30周年編」には進めないと思った。しばらくご辛抱願いたい。

「これ以上殺すな!」9.11後の世界で反戦を叫ぶ

 2001年の世界同時多発テロ事件は、世界が凍りついた瞬間でもあった。報復が報復を呼び込み、憎悪が激しく燃える。前号で書いた通り、それを私は、ワールドトレードセンター崩壊直後のニューヨークを訪れ、グラウンド・ゼロに立ちつくし、俯瞰で見ようとした。
 しかし、あまりにも激しいアメリカ人の怒りと悲しみの連鎖に触れ、現地では私自身が自分を失っていた。そのことに気がついたのは、日本に帰って来てからだった。そして帰国後、私のスタンスは明確になった。多くのアメリカ人による激しい報復意志を肌で感じ、「これから世界は大変なことになる。私も何かやらねばならない」と自分を大きく変えたことは確かだった。
 アメリカとその同盟国は、テロの翌月にはアフガニスタンを攻撃していた。アフガンには、テロを実行したとされるアルカイダの親玉、ウサマ・ビン・ラディンが潜んでいるとされていたのだ。しかし原理主義のタリバーン政権は崩壊したが、ビン・ラディンの生死は不明のままだった。
 そこでアメリカは今度は、当時、フセイン大統領が独裁政治を敷いていたイラクを、イラン、北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」、大量破壊兵器を有する「テロ支援国家」とみなし、核攻撃も辞さない戦争を仕掛けようとした。戦争を支持するイギリスや日本、オーストラリアなどと、反対するフランスやドイツなどで世界の大国が二分した。悲しいかな、我が日本国の当時の小泉自民党政権は、いち早くブッシュの報復戦争宣言に同調した。ということは、沖縄をはじめ日本中にある米軍基地はまさに後方基地であり、日本はまさしくこの戦争に巻き込まれるということだった。これはかつてのベトナム戦争時の状況と同じではないか?
 それから約1年間、私は「(これ以上)殺すな!」を合言葉に、反戦運動に積極的に参加してゆくようになるのだった。


ロフトプラスワンでも「イラク訪問団」のイベントが開かれた。右から故・沢口友美、パンタ、鈴木邦男、塩見孝也、木村三浩、雨宮処凜、そして私
出発前の雨宮処凜……かわゆいな

一水会・木村三浩さんの突然の誘い

 久しぶりの寒波が日本を襲っていた、肌寒い2003年1月中旬。アメリカのイラク侵攻が、いよいよ間近だとささやかれていた。ある日、私の事務所に新右翼・一水会代表の木村三浩氏が訪ねてきた。木村さんは突然切り出した。「平野さん、イラクに一緒に行かないか?」
 外務省でもイラクとのパイプはほとんどなく、大手マスコミはイラクから危険回避のために引き揚げている。そんな中、イラクとの強いパイプを持つ木村さんが言うのだ。これにはびっくりした。
「えっっ……。木村さんは、日本では数少ないバース党員という噂があるけどホント?……」「それはいいとして。この戦争を止めるため、『イラクへの戦争と侵略に反対する国際会議』に出席するために行く。平野さん、協力してくれ」「俺はブッシュも嫌いだけど、中東の独裁者フセインも好きではない。彼の独裁を支える気持ちは毛頭ない」と、私は言ってみたものの、一方で「戦争間近のイラクに行ってみたい」と好奇心が頭をもたげていたのも事実だった。
 木村さんはさらにこう言うのだった。「確かにフセインにも若干の問題はあるが、私は何回も行っているが、単に独裁国家とは括れない国がイラクなんだ。今回のアメリカのイラク攻撃には、まさに“アメリカの栄光はアラブの屈辱”という構図が当てはまる。日本人はアメリカではなく、むしろイラクなどのアラブ・イスラム世界の“声なき声”を聞き、パレスチナ人をはじめとする被圧制民族を異民族支配のくびきから解放するために、労を取るべきではないだろうか。この戦争を止めるため、世界中の人がイラクに集まるんだ。アメリカのイラク侵略はまもなく始まる。しかし、世界の平和を愛する人々がバクダッドに大勢いたら、アメリカもそうは簡単に手は出せない。これこそ、平野さんが目指している反戦運動ではないか? これには右翼も左翼もないんだ」
「命をかけろ、人間の盾になれと? アメリカの攻撃が始まったらどうするのか?」「場合によっては“盾”になるが、攻撃が始まったら脱出に全力をあげる。我々は反戦国際会議に出席するためにイラクへ行く。平野さんはロフトプラスワンを中心に、参加者を組織して欲しい」「しかし当然、日本政府から出国許可は出ないだろう」「我々はイラク政府の招待で行く。ビザはヨルダンのアンマンで取得する。オランダ経由でアンマンへ向かい、戦況を見ながらその地で最終決断する。アンマンからは、車で1000kmの道を疾走してバクダッドに向かう。バクダッドに着いたら、ホテル代や食事等々の費用はNASYO(国際NGO非同盟学生会議)が持つ」木村さんの“作戦”は、かなり具体的に考えられていて、これは本気だな、と感じた。
「わかった。俺は参加する。何人集められるかわからないが、人選を急いでみよう。でももし、フセインがアメリカに勝ったら、油田の一つぐらい欲しいな」と、冗談を言ってみた。
「バカを言うな! 出発は2月15日だ。準備期間は1カ月ない」木村さんはそう言い残し、事務所を後にした。
 日本国内で、あまり緊張感のない反戦デモに何度も参加するより、イラク行きの方が意義もあるし、面白い経験になるに決まっている。うまくいけば、古代遺跡のバビロンやチグリス・ユーフラテス川、12年前の湾岸戦争の傷跡も見られるかもしれない。イラク探訪、フセインとは何か? 命の危険より現場に行くことの興奮の方が増してくるのを、ひしひしと感じていた。


オランダのアムステルダムは運河の街だ。中央はアムス中央駅
アンマンのホテルで不安そうな平野さん。なんと情けない顔しているのだろうか?

訪問団「ブッシュ政権のイラク攻撃に反対する会」結成

 その頃、ヨーロッパを中心に反戦機運が盛り上がっていた。2003年1月18日には、国際反戦デーが全世界で開催された。アメリカでもワシントンで50万人、サンフランシスコで20万人が集まり、全世界では何百万人もの人々が「イラク戦争阻止」を叫び始めていた。
「今日のデモンストレーションは、戦争は支持を受けているという神話を打ち砕きました。世界の至るところで、今のうちに戦争を止めることのできうる、民衆の力というものを示したのです」と、国際反戦組織のA.N.S.W.E.R.に参加するグループのひとつ、“市民正義のためのパートナーシップ”のマーラ・バーヘイデン・ヒリアード氏は語った。
 そんな中、小泉政権はすでにアメリカの要請により、アメリカから買ったイージス艦や給油艦をペルシャ湾に派遣し、沖縄や日本各地の米軍基地からは、毎日のように戦闘機が飛び立っていた。実質アメリカの戦争準備計画に参加している日本の首都・東京で、反戦デモは5000人をちょっと上回る程度の参加者しかいなかったのに、私は愕然としていた。
 私は、ことによったら命の危険があることを承知で、訪問団に参加できそうな人たちを集める作業に取りかかった。宮崎学氏率いる電脳突破党の党員や、元赤軍派議長・塩見孝也氏、頭脳警察のパンタ氏などに声をかけた。木村さんを団長にしたメンバーは、塩見孝也さん、パンタさん、鈴木邦男さん、雨宮処凜さん、沢口友美さん、大川豊さんなどをはじめ、最終的に36名にもなった。
 参加メンバーは多士済々、思想も立場もバラバラだった。ジャーナリスト崩れ、反戦オタク、元教師、元左翼・右翼、ロッカー、ストリッパー、ノンポリ学生、フリーター、元石油商社マン、そして、とある皇族の子息……。「フセイン独裁政権を支持するのか?」という議論は相変わらずあったが、「ブッシュのイラク攻撃は不当」という点では意見はまとまっていた。この旅は、イラクに到着以前に面白い旅になりそうな予感がしていた。
 しかし、私にとってひとつやっかいな問題が起きていた。プラスワンのアルバイトの学生2人が、私に隠れて参加申し込みをしていたのだ。私は彼らを呼びつけた。
「あのな〜、これは実に危険な任務なのだ。遊びではないんだよ。フセインはイラクで冷酷な独裁者で、俺たちはその招待客なんだ。イラク国民は、アメリカの侵攻を待ち望んでいる気配さえある。訪問中に、フセインに不満を持つ連中がCIAに踊らされて暴動でも起こしたら、我々の身も危ない。それを承知で参加申し込みをしたのか?」「そこまで考えたことはなかったんだけど、何か面白そうって思って。もう学生生活も最後だし……」「君達は、反戦デモにも参加したことないんだろ。君たちがこの店で働いていないんだったら、俺には無関係だし自由だ。だが、もし何かあったら君たちの親は必ず俺の責任を追及しに来る」「それは来るでしょうね」「俺は一応、世界の旅には慣れているつもりだ。何かあったら一人でも国外に脱出できる自信はある。だが外国もほとんど行ったことのない、旅の素人の君たちと心中するつもりはないし、君たちの安全には責任は持てない。参加はやめてくれ」私はきっぱりと言った。
「それはできません。もうお金は振込んでしまいました」。憮然とした表情で彼らが言い放つ言葉に、私は呆気にとられていた。


アンマンからバクダッドへ。1000kmの砂漠の中の道を、時速200km近くで疾走する。怖くて前を見ていられない
ヨルダン、イラクの陸路国境。タンクローリーが編隊を組んでバクダッドに向かう

美しき中東の街 アンマンでの眠れぬ一夜

 2月15日、我々はつかの間の休息(トランジット)をアムステルダムでとっていた。日本出発前日、外務省から我々に「渡航自粛要請」が出た。もはやアメリカの空爆はいつ始まってもおかしくない状況だったが、とにかくやはりアンマンまで行って、そこで情報を収集して最終決定するしかない、ということになった。つかの間のトランジットの5時間、私はみんなから離れて一人こっそりとアムスの街に出、日本にはない喫茶店に寄り(笑)、レンブラントの「夜警」やゴッホ美術館にも行った。  2月16日の明け方、アムス発のヨルダン航空機はアンマンに着いた。到着早々、木村団長が激しく情報収集に動きまわる。もうバクダッド空港は閉鎖されているという。定期バスの運行もない。イラクの軍隊は首都(バグダッド)防衛体制に入り、戒厳令が敷かれているとか。途中の砂漠では、山賊がたくさんいるという情報もあった。オンボロ車では山賊に捕まってしまう。バグダッドに入るには、特殊車両を雇って編隊を組み、1000kmの砂漠をノンストップで、時速180〜200kmで突っ走るしか方法はないという。当然、高額な料金を請求されるのは目に見えていた。  ヨルダンはイラクと陸路で国境を接した国であり、イラクから石油を依存している国だった。首都のアンマンは“中東の真珠”といわれるくらい美しい街である。  私は一人、アンマンのホテルの一室でビビっていた。イラク国内が混乱していて、フセイン独裁のバース党は崩壊し、それまでフセインに抑圧されて来たクルド人はじめ反政府勢力が決起したら、国内は荒れ放題になるだろう。フセインがすでにどこかに亡命でもしていたら、我々はどうなるのか? 私はかつて25年も前、世界を放浪していた際に、いたるところで内戦や暴動に遭った経験がある。その時の混乱と恐怖を考えると、とめどがなかった。  日本の主要マスコミは国外に引き上げている。現地の日本大使館は空っぽだという。フセインを憎む民衆に捕まるのではないか?誰が我々の身の安全を図ってくれるのか? そんなことを考え続けているととても眠ることができず、底なしの不安とともに朝を迎えた。  朝7時、ホテルのロビーに出てみると、団員は皆黙々と荷造りをしていた。冗談を言う者も、イラク国内の情勢を聞きに行く者もいない。全員が固い決意を持っているように感じられた。  私は、朝のアンマンの街を一人散策した。イラクの隣国なので難民などによる混乱を予想していたのだが、ひんやりとした朝の風が吹き、静かなたたずまいだった。露天の水タバコ屋に立ち寄り、朝のチャイを飲んだ。  ホテルに戻ると、反戦会議と戦争を止めるための「人間の盾」になろうとする人々が、あらゆる方法をこうじて世界中からイラクに集結しだしている、という情報がどこからかもたらされていた。軽い食事を終えると、木村団長が手配したピックアップトラックが9台やってきた。これで編隊を組んで、1000kmの道を疾走するのだそうだ。(次号に続く)

「中東の真珠」といわれるヨルダンの首都・アンマンは落ち着いたたたずまいを見せていた
その後、アメリカに殺された独裁者・フセインとの記念撮影(国境にて)

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

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