第139回 ROOF TOP 2009年10月号掲載
「時代はchange……古き衣を脱ぎ捨てよ!」

選挙だけが政治に参加する方法ではない

 新しい時代がやって来た。アメリカでは愛国ブッシュの時代が終わり、なんと黒人、それもアフリカ系であるバラク・オバマが、「change」を合い言葉に大統領に就任した。やっとアメリカも、あの9.11の「報復」の悪夢から覚め、まともな国に生まれ変わろうとしているように見える。
 その連鎖なのか?
日本でも8月末の衆議院選挙では、長い自民党政治に大多数の国民が「NO!」を突きつけた。先日の世論調査では、70%以上の国民が民主党政権に期待しているという結果が出た。まさに「静かなる革命」だ。
 その選挙の直前、ある学生がテレビのインタビューにこう答えていた。「もちろん投票には行きますよ。国民の義務ですからね」 。私は実に違和感をもった。多分この学生は、学生運動や市民運動や地域運動や、まして反戦運動なんかやったことがない青年だと思った。選挙で一票入れることが、彼の世界では一番正しい政治的な選択だと思っているのではないか。政治に参加するには選挙しかない、と。さらに言えば、選挙で一票入れることが彼の唯一の社会運動なのだろう。
 私は一票入れることだけで満足していない。これまで、選挙で選ばれた議員達が決めたことに腹が立ったら、選挙であろうとなかろうと抗議行動をしてきた。そもそも私は、常に少数派でもあり続けてきた。だからあまり「選挙、選挙」といわれるとどこかとまどってしまう。投票に行かないことも何度もあった。さらにはどんな政治勢力も、権力を持ったら信用しないのが私の主義だ。何の社会運動をやったこともない連中に、「選挙に行かないなんて最低」と言われても、「私は一歩足を踏み出せば、他にたくさん発言の場があることを知っている」と答えるだろう。そういう市民の運動があって、選挙があるのだと思う。


選挙戦最終日の荻窪駅前に立つ保坂展人・社民党候補。あまりいい表情をしていないなって思ったら、自民党の石原慎太郎の世襲息子に負けてしまった。石原伸晃は自民党の中でも評判がいい。落ち目の社民党からでは勝てるわけがない。民主党から出ていたら……。相当な接戦に持ち込んだことは評価
9月3日、阿佐ヶ谷ロフトAの「8.30総選挙徹底総括 遂に政権交代!日本はCHANGEできるか?」トーク。オヤジ勢力vs団塊ジュニア。民主党勝利に喜ぶオヤジと、選挙に相変わらずシラけている若者達の討論は白熱した。二木啓孝(ジャーナリスト/元日刊ゲンダイ編集部長)、萱野稔人(政治哲学者/『国家とはなにか』『権力の読みかた――状況と理論』他)、元木昌彦(編集者/元「オーマイニュース」代表)、松本 哉(素人の乱)、古木杜恵(ジャーナリスト)、赤木智弘(フリーライター/「丸山眞男をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争」他)、緊急ゲスト・平野貞夫(元参議院議員)

政治に期待できる時代になったのか?

 歴史を振り返ってみると、土地を持つ領主や貴族達が国を一手に支配する封建主義の時代があり、その後、領主や貴族はブルジョアジー(資本家)に倒され、力を失ってゆき資本主義体制に取って代わられる。すると、今度は国家と資本家が結びついて利潤の独占をはかり出す(これを国家独占資本主義と呼ぶのだそうだ)。
 そこには、圧倒的な数の労働者階級が生まれてくる。権力を持っている資本家は、その労働者達の不満を和らげるために、いわゆる「ブルジョア議会」を作り、病院とか学校とか保育所を作り、幻想を作り上げた。彼らの利潤(=搾取)の分け前を、働く者にも少しだが分け始めたというわけだ。
 権力者はいつでも都合が悪くなれば議会なんかなくして、クーデターをやったりして独裁政治を行ってきた。いまだに、世界を見わたしてもそんな国は北朝鮮を筆頭にいくらでもある。何百年と変わらず、そんな歴史が続いてきたのだ。
 それにしても、オバマといい、鳩山民主党といい、出だしは素晴らしい。オバマがプラハで行った「核廃絶の誓い」や「国民皆健康保険」政策、民主党の「徹底的に行政の無駄をなくす」「政治は官僚に任せない」といった方針はいい人気取りのため、適当に「自民党をぶっ壊す」と言った小泉純一郎の言葉は、皮肉だが現実となったのだ。自民党は本当に壊れた。私にとって、60数歳にして初めて政治に期待する気になれたのはうれしい限りだ。
 どんな国に行っても──特に貧しい国に行けば行くほど──そこに住む多くの住民達は、自分が生まれた土地が好きだし、誇りを持っている。私も、別に日本が嫌いなわけじゃない。ただ、押しつけがましい「愛国」はいらない。明治時代までは、愛国心なんてものは日本人はなかった。支配階級は主君と藩が全てで、そもそも「国家」という考え方がなかったのだ。国歌、国旗を法制化したときには、「別に強要するのではない」と言っていたはずだが、今では、物知り顔の奴らがつまらん愛国心を強要してくる。「俺は愛国者だ、だから国のためにはいつでも死ねる。お前はどうなんだ、自分の国を愛していないのか?」と。そのような愛国心は、自分の国しか愛さない擬製の愛国心じゃないのか。鈴木邦男『愛国者は信用できるか?』(06年/講談社現代新書)を読み直しながら、そんな風に思ったのだった。


JR相模線。橋本から茅ヶ崎まで走っている。単線だぞ。田舎の風景に出会える

盛りの終わった海の匂いが恋しくなって……

 日曜日の午後遅くに、京王線の調布駅のホームに立っていた。時間は午後3時を回っている。山の空気を吸いたいと思って家を飛び出し、武蔵野方面に行くつもりだったが……突然、海の空気が吸いたくなった。
 きっと今日の海風は優しいに違いないと思った。海に向かって大きく息を吸い、気功をやりたかった。満月に近い夜の、澄んだ星空を感じたかった。夜ごとのざわめき、夏の宴の去った後の初秋の海岸を歩きたくなった。
 調布から京王線で橋本に向かった。橋本から単線のJR相模線に乗り継ぎ、茅ヶ崎まで一時間強。何の変哲もない茅ヶ崎駅前から、小さな巡回バスに乗ってテトラポットの海に出た。
 海岸線を歩いていると、海の向こうに江ノ島がぽっかり浮かんでいた。湘南海岸からはサンセットは見えなかった。明るい太陽が丹沢山嶺とその向こうにある富士山の影に、真っ赤になって落ちていった。ものすごい夕焼けだった。
 日が沈むと、小さな浜辺は真っ暗になってゆく。夜の海辺の再演の始まりだ。湘南の海を街の明かりが灯し出す。薄明かりの中、まだサーファーが黒いカラスのような点となって、小さな波に向かっていっせいにこぎ出してゆくのを右手に見ながら歩く。茅ヶ崎〜辻堂〜鵠沼海岸と海岸線を歩いた。海はいい。また、毎晩、毎晩、酔っぱらいの私と対話してくれる友とともにピースボートに乗って、世界中の星空と絶えず変化する世界中の海が見たくなった。

 暑さに目がくらくらする夏が過ぎた。秋が深くなれば、真っ赤に染まった日本各地の紅葉を見にゆく楽しみが待っている。山あいの紅葉と温泉と、せせらぎを聞きながら読み切れていない本を読む日々を待っている。


サンセットの湘南海岸。真っ赤な夕日が丹沢山嶺に沈んでゆく。

今月の米子

私の書斎に家に4匹いる猫のうち3匹が集まった。珍しい。左から、テル(10歳・雑種・オス)、オーくん(5歳・スコテッシュ・オス)、米子(4歳・アメショー・メス)だ。毎朝、いっせいにこの猫達がうんこをする。その臭いがすごいので、換気扇をフル稼働する。猫の糞尿ってなぜこんなに臭いのだろうか?





ロフト35年史戦記・21世紀編 その1
第46回
世界同時多発テロとはなんだったのか?(2001年)

21世紀初頭のつかの間の平和……そしてあの事件が起こった

 激動の「ロフト35年史戦記」も時代は21世紀となった。新宿LOFTが誕生して25年という歳月が過ぎ、オルタナティブな時代になっていた。振り返って見れば、ノストラダムスの大予言も外れ、あれだけ騒がれたパソコンやらなんやらの「2000年問題」も、結局ほとんど何も起こらなかった。2000年を期に、人類はどこか大変化があるのかと思っていたがそんなことはなく、戦争と平和、差別、地球環境悪化、貧困等の難問を抱えて21世紀に突入することになった。
 私はその頃も相変わらず、世界でも一番スリリングで面白い街・新宿に、1995年にオープンしたトークライブハウス・ロフトプラスワンの運営に追われていた。その空間は、日本で一番刺激的なサブカルチャー・スポットとして徐々に認知され始めていた。扱うテーマも含めて一段と大きくなり、マスコミにも注目を浴びる存在となっていた。私にとって、やはりプラスワンという新しい創造空間が毎日の中心であり、自分の関心の大半を占めていた。……そう、あの2001年9月11日の、ニューヨークを襲った同時多発テロで世界が変わるまでは……。
 私にとって、21世紀のロフト(特にプラスワン界隈)を語る上でどうしても避けて通れないのが、この9.11同時多発テロ事件だった。店の現場からは少々離れてしまうが、9.11とその後の劇的な世界情勢の中で、私が何を考え、どう行動したかをこの連載で語っておきたい。


ワールドピースナウのイラク戦争反対デモの先頭集団。アメリカでもヨーロッパ でも20〜30万人クラスのデモ参加者があるのに日本では最高4万人と低調だった。なぜ?

テロ直後のニューヨークに行きたい! と思いたった

 旅客機を乗っ取り、そのまま目標に突っ込むという、前代未聞、史上最悪のテロに襲われ、国家の威信を傷つけられた超大国アメリカは、「国家対テロ組織」という新たな戦争を開始する。2001年9月11日以来、世界は一気に戦争拡大へと動きだした。東西冷戦が終わり、世界は一瞬ホッとしたが、また新たな戦争が始まったのだ。  突然の大規模テロは、世界を混乱に落とし入れた。テロの標的となったワールドセンターでは、3〜4万人が死んだと言われるなど(実際は約3000人)、情報は虚実入り混じって飛び交った。結局、世界は石油利権を狙うネオコン(ブッシュ政権)の罠に、見事にハメられた。
 私は、「このまま何も声を上げられなければ悲惨な世界になる」と痛切に思った。すぐにイラク戦争阻止のデモや集会、「WPN(ワールドピースナウ)」の抗議行動にも積極的に参加するようになる。
 次に私は、「とにかく惨事の現場に行きたい!」と切実に思った。アメリカ行きの航空券を手に入れ、ニューヨークのケネディ空港の再開を待っていた。「とにかく現場に行って、何か解らんけど自分の目で確かめるしかない」と激しく思ったのだ。
 アメリカは、「報復」という名の下にまた戦争を始めようとしていた時期だった。怒りと悲しみと戦意高揚のアメリカの姿をこの目で見たかった。10月始め、やっとケネディ空港が再開された。成田からニューヨークに向かうジャンボジェット機はガラガラで、500人は乗れる機内に客は5人だった。飛行機がアメリカ大陸に接近すると、ジャンボを挟み込むように2機の護衛機がスクランブル発進し、ケネディ空港までついてきた。


愛国心の象徴国旗と国歌があふれかえっていたNYcity。

戒厳令下のニューヨークの不気味な不安と悲しみ

 2001年10月19日、ニューヨークに到着した私はホテルに荷物を置いて、早速消滅してしまった世界貿易センター「グラウンド・ゼロ」に直行した。同時多発テロ事件が起こって1カ月が過ぎようとしている晩秋のニューヨークは、なんとも悲しく重い空気がただよっていた。不気味な「炭疽菌」事件(炭疽菌入りの郵便物によるテロが横行していた)も起こり、多くのニューヨーク市民の恐怖を煽っていた。
 摩天楼の街角や小さな広場のフェンスには、「尋ね人」の張り紙がボロボロになって悲しい悲鳴を上げていた。付近には目に涙をためた、人種を越えたそれぞれの悲しい顔がたくさんあった。現場は物々しい軍隊と警察の警戒に囲まれ、大型トレーラーが巨大な焼けこげた鉄骨を運び出している。まだ白い煙が立ちあがり、風にふかれた異様な悪臭が鼻をつんざく。残骸の内部は、まだ数百度の熱を持っているという話だった。
 アメリカ合衆国は、急遽、挙国一致体制を確立させていた。町は愛国心の象徴の国旗と国歌で埋め尽くされ、圧倒的な数の私設ガードマンがビルや公共施設を警備し、街角には警官、軍隊が目を光らせ、大型消防車や警察、軍事車両がサイレンを鳴らし道路を無尽に走る。突然道路が封鎖される。まさに私は、ニューヨークが戒厳令態勢の瞬間に行き会わせていたのだった。
「報復戦争」派の共和党コンビ、ブッシュ大統領とジュリアーニ・ニューヨーク市長の鼻息は荒い。スローガンは「ゴット・ブレス・アメリカ(アメリカに神の祝福を)」であり、「アメリカ・イズ・ビューティフル」そして「がんばれアメリカ」であり、常にアメリカは正義なのだった。10月2日には、アメリカ主導のNATO軍により、アフガニスタンへの空爆が始まっていた。アフガニスタンは、テロの首謀者とされたウサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダが潜伏していると見られていた。
 しかし、ブッシュは「これは戦争だ」と言っているのに、ニューヨーカーの戦争に対する高揚感はほとんど見られなかった。ベトナム戦争の時のように、「戦争賛成/反対」の声が対立し、街頭集会やデモに発展することは当面なさそうだった。多くのニューヨーカーは、不安な表情の中に「世界一の都市、アメリカ資本主義の象徴、マンハッタンに住んでいれば、どんなこと、どんな事件があっても不思議ではない」といった覚悟を持って、一抹の不安を抱えながら生活しているように思えた。
「何と長い一カ月だったのだろう。何とたくさんの涙と怒りにあふれた一カ月だったのだろう。しかし、これがまだドラマの序幕としたら……。これから何が起こるのか不安は尽きない。しかし深い悲しみ、苦しみ、怒り、憎しみ、嘆き、ショックとどの言葉にも言い尽くせない思いだ。献身的に尽くす医師、看護婦の方々、救済に命がけで臨まれている消防士、警察の方々……これらの人々の善意の大きな大きな輪と波……これらを知るに連れアメリカの人々は何と博愛とボランティアの精神に満ちあふれいるのだろうかと胸を打たれ、これこそが自由と正義を求めた本当のアメリカの姿なのだ。そして世界中の自由を愛する国民が今、このテロリズムという敵に立ち向かうべく協調体制にはいっているのだ」(『u.s.Town Journal』2001.Oct号より)
 この意見は、私がマンハッタンで出会った極めて平均的なアメリカ人の素直な感想である。この言葉を素直に取れるか、それとも何と独善的と取るかはあなたの自由である。


街角の至る所でこんな光景に出会った。

グラウンド・ゼロで私の友人も眠っている!

 私はニューヨークで、日本で持っていた「アメリカの中東政策破綻のツケがこの大惨事を招いた」という意識は木っ端みじんにはねつけられてしまい、「ウサマ・ビン・ラディンや国際テロ組織アルカイダへの報復攻撃は仕方がない」という気になってしまっていた。私は、アメリカ人の巨大な怒りと悲しみの中に入り込んでしまっていたのだろう。この意識は絶対あの場(ニューヨーク=グラウンド・ゼロ)にいた人々にしかわかりようがない、とさえ思ったのだったが……。

 前述した通り、街は一見、穏やかに沈んでいるようにも見えたが、一方で現地で個々に話をしてみると、そこには未曾有の無差別テロに対し、誰もが強い怒りを感じているのがはっきりとわかった。
「民間機をハイジャックして、民間人を人質にして、民間人が働いているビルに、それも丁度みんなの出勤時間に突っ込む。その結果、3000人もの民間人は一瞬のうちに消滅した。人類の歴史上、こんなテロ、それも政治的目的を持った集団のテロ行為はあっただろうか?」。  普段はおとなしい私のある友人は、このテロの話題を向けると激怒する典型的なアメリカ人になってしまっていた。この平均的なアメリカ人が、ブッシュの空爆(=報復=仇討ち)を80%以上の支持率を持って支えた。彼らにとっては、「報復攻撃やむなし」なのだった。 「アメリカ本土が、民間人が攻撃された。攻撃の対象が政府や軍機関なら少しはわかる。そういった所に勤めている人も、それなりの覚悟はできているはずだが、今回のやり方は罪のない民間人の大量虐殺を狙った、畜生にも劣る行為だ。あなたには友人や恋人、肉親を一瞬のうちに失った気持ちはわからないのか?」と、ものすごい剣幕で彼は言うのだった。
「しかし、アフガンやソマリアでアメリカがやっている行為も間違いなく同じ規模、いやそれ以上の人殺しだ。アフガンでは、核兵器に次ぐ破壊力だというデイジーカッター(燃料気化爆弾)とやらも使って、事実上、民間人が殺されている。死んでいるのではない。殺されているんだ。  世界の人殺し兵器の50%以上はアメリカ製だし、世界の富の大部分はアメリカにある。世界の環境問題にとって重要な、京都議定書や核拡散防止条約にもなかなか参加しようとしない。そもそも、アメリカが押し進めるグローバル化は、アメリカや一部先進国の一人勝ちで、その勝者の背後に幾千万の敗者を生み出している。難民、飢餓に第三世界の人たちは苦しんでいる。そのことをほとんどのアメリカ人は知らないでいる。
 今、本当にアメリカは正義なのかが問われているのだと思う。米国は世界を搾取しているという批判がある。今回のテロはそれとも無関係ではないはずだ」と、負けじと私は一挙にまくし立てた。
「無差別な殺人行為をすり替えないで欲しい。あのグラウンド・ゼロには私の友達も、何人もの日本人も眠っているではないか。あのテロリスト、ビン・ラディンどもは貧困の味方ではない。彼らは裕福だ。国際金融システムのマネーゲームや麻薬栽培で、莫大な利益を上げている集団だ。
 確かにアメリカの報復武力行使だけを見れば、適切とは思わない。しかし、9月11日に起きたことに対して、何らかの方法で応報するのは当然だ。こんな野蛮な行為を正当化できるものではない。3000人もの罪のない人を虐殺しておいて……。いい加減にしてくれ、彼らテロ組織の殲滅、これなくしては、これからも起こるであろう野蛮なテロは根絶できない。なんでこんな単純なことがわからないのか!」と、アメリカの友人は顔を真っ赤にして、マンハッタンの摩天楼に向かって叫ぶように言った。
「しかし、今やイスラムの問題抜きには世界は語れないことははっきりしているのでは?
東西冷戦が終わり、アメリカが押し進めるグローバル化によって、地球は一つになるってアメリカ人は信じていたんでしょ? 自分達が絶対正しいって。アメリカ的価値観、世界マクドナルド化を押し進める。すなわち勝者の文化が全て正しい、敗者の弱さを全く感じ取ろうとしないところが問題なのでは?」
「何度も言うが、アメリカはアフガンの被害を最小限にとどめようとしている。アフガンは民主主義が欠如している。アメリカはアフガンを支配する気はない。以前のアフガンを占領したソビエトとは違う。今回の事件で国際社会は何もしないわけにはいかない。あのテロは、どんな理由があっても許されない。国際テロ組織を根絶しないと、また同じことが起きる。今こそ国際社会は団結するべきだ」
 深夜のマンハッタンのアイリッシュバーで、私とアメリカ人との論争は続いた。どうもアメリカ人は世界の単独支配者になって、思考が独善的になっていると思ったのは、私だけだろうか……。

この写真は9.11当日私の知人、佐藤教授(コロンビア大学)が偶然自分のアパートから撮影したものだ。

そして9.11以後の激動の世界の現場へ

 ニューヨークでの一週間、私はやはり緊張していた。私は、笑顔が消えた街の表情を適切に語るべき言葉を持てないでいた。  マンハッタンの伝統ある反戦広場・ユニオンスクエアでは、小さな規模ではあったが、マルコムX集団の反戦集会に出会った。幸運にもヤンキースタジアムでマリナーズvsヤンキースの最終戦を観ることができた。スタジアムでは、出口のない戦争に入ってしまったニューヨーカーのエネルギーの発散を、怖いくらいに感じた。  ビン・ラディンTシャツを20枚も買ったが、とても着て歩くことはできなかった。これだけ厳重な警戒体制、ポリスや軍隊、ガードマンばかりが目立つマンハッタンは、今や世界で一番安全な都市ではないか、とも思った。巨大なラジカセを抱えた陽気な黒人達も、ストリートガールやプッシャーも、道ばたに無造作に捨ててある注射器も裏町から消えていた。世界のパンクスが集まるライブハウス・CBGBも、ことのほか元気がないように見えて仕方なかった。  一方で、ハーレムの夜は相変わらずスリリングだった。ジェームス・ブラウンやダイアナ・ロス、マイケル・ジャクソンなど数々の黒人スターを生んだ伝説のライブハウス・アポロシアターのライブ、アマチュアナイトを観ることができた。ハーレムで国旗を飾っているのは、郵便局とマクドナルドだけだった。公共機関の壁に、キング牧師とマルコムXの肖像画が同列に飾ってあるのには、カルチャーショックを感じた。  9.11を機に、私も私の回りの連中も、積極的行動をする中で、この戦争に対する「反対」の方法を模索してゆくことになる。この後、私は、イラクのフセインの呼びかけるアメリカ攻撃に対する「人間の盾」作戦に参加したのを皮切りに、ブッシュの言う悪の枢軸、イラク、イラン、北朝鮮の各国へも足を運ぶことになるのだった。(以下次号へ続く)


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

↑このページの先頭に戻る
←前へ   次へ→