第143回 ROOF TOP 2010年2月号掲載
「これも青春さ……」

20歳までに共産主義にかぶれない者は情熱が足りないが、20歳を過ぎて共産主義にかぶれている者は知能が足りない。──チャーチル

左翼に純粋にあこがれた10代の頃

 私は長いこと、いわゆる「反権力」を信条としてきた。それは筋金入りなつもりだ。もともとは高校時代に「社会主義思想」に触れた。もう崩壊してしまったソビエトや中国が、その頃の私には素晴らしい国に見えた。「搾取のない社会」「労働者の国」、ソビエト国旗の「槌と鎌」が好きだった。
 一方で、アメリカ文化のジャズやゴスペル、リズム&ブルース、テレビ映画『大草原の小さな家』なんかに憧れながらも、思想としては断固「反米」だった。
 日本共産党にも憧れた。死をも恐れず、あの太平洋戦争に反対した、唯一の素晴らしい反戦政党だと思っていた。共産党の下部青年組織、民主青年同盟──当時は30万人の同盟員がいた──に入り、地区のキャップまでやった。「平和と民主主義を守る高校生会議(平民高協)」や「日朝高校生友好会議」にも参加した。
 その後大学に入り、バリケードに封鎖された中での学生集会を眺めていると、いわゆるトロツキスト(新左翼諸党派)がやって来て、私の思想、というか、今まで思い描いて来た日本共産党が教える「マルクス主義」が、理論上木っ端微塵に粉砕させられた。
 彼らは、「ソ連や中国が素晴らしい社会だなんて、バカなことを言ってはいけません」と言うのだった。あんな国は、ただのスターリニスト官僚の、人民を抑圧するだけの「堕落した労働者国家」だという。その頃の私は、マルクスの本も社会科学の本もほとんど読んでいなかった。共産党発行の新聞『赤旗』や、党に関するする本しか読んでいなかったのだ。もちろん、サルトルもトロツキーも吉本隆明も知らなかった。


30数年前はこの人(チェ・ゲバラ)が我々青年の「あしたのジョー」だったのだ

「一生、革命家になろう」

「えっ、君はこんな本も読んでいないの?」と、新左翼学生活動家からバカにされ、悔しくてそのまま本屋に行き、『賃労働と資本』『空想から科学へ』なんていうマルクス哲学の基礎となる本を買って読んだが、やはり解らないところだらけだった。
 だから私は、自分の脆弱な思想を木っ端微塵にしてくれた、新左翼諸党派の集会やデモに参加するようになった。クラス委員にもなった。他党派との内ゲバにやられ、入院手術までしたこともある。
 1960年代後半、ベトナム戦争が激しくなる頃、私は「王子野戦病院反対闘争」のデモで、機動隊にボコボコにされながら初めて逮捕された。任侠映画の主人公ではないけれど、晴れがましい気持ちだった。「革命運動」をやるということは、刑務所に入ることも覚悟の上だと思っていたのだ。
 出所してから私は、「一生、革命家になろう」と本気で思った。20歳そこそこで、若かった。「革命」のため、捨て石になる気でいたのだ。
 私は党(ブンド)の指令で大学を辞め、秘密裏に運動するために高卒の資格で郵政省に入った。東京地方貯金局という、3000人も職員がいる職場だった。「革命とは学生とか一部インテリがやるものでなくて、労働者が主体となるべき」という、レーニン思想の基本に忠実になろうとしたのだ。
 まもなく私は、革命組織「共産主義者同盟(ブンド)」の党員になった。そしてお決まりの党分裂。ぐちゃぐちゃになって内ゲバのはてに赤軍派も生まれた。超過激派がもてはやされ、手にするのは角材を使ったゲバ棒から硬質の鉄パイプへ、そして爆弾による闘争まで視野に入れる状況になっっていった。
 私には、どうしても党派間内ゲバの殺し合いや、この爆弾闘争(武力闘争)路線にはついていけなかった。そしてついに私はその職場と組織から逃走した。長いこと身を隠していた。……話が長くなるのでこの辺でやめる。


外山恒一の2007年都知事選ポスター。政府転覆とはなんともダイナミックなフレーズだ

反権力か権力か? 民主党政権下での悩み

 昨年8月の衆議院選挙で、民主党が権力をとった。日本はやっと、長い「政官財癒着」の自民党政権から脱皮出来たのだと、実にうれしい気分だった。
 昨年9月22日、国連の場で鳩山首相が公約した「温室効果ガス25%削減」には感動したし、次々と出される民主党の「コンクリートから人へ」の政策には、「自民党政治」は本当に終わったんだな、と実感した。この年になって、脆弱ながらだが民主党の手による「無血革命」を見た、と思った。
 しかし権力側を応援している自分に、違和感を感じることもまた多かった。長い間、反権力、反体制、自主性などを信条としてきた自分の人生が、何かガラガラと崩れ落ちてゆく感じなのだ。今まで、ただ無責任に、政府がやることに反対を唱えていたけれど、それで本当に「反権力の人」だったのだろうか。疑問は湧いて尽きない。一方で、「今更、信条を変えて権力なんかを応援できるか?」と思う気持ちもあるのだが、さりとて野党の自民党を応援する気にもならない……。


夕暮れの砧公園に日が沈む。まばらな冷たい北風が吹き抜ける

少女と、老人と、古いトランクと

 忘れていた。 このところ歩いてばかりいて、自転車に乗ることを……。
 どうやら「歩く」ことに若干飽きたようで、数日前より私の「機動力」は、また自転車に変わった。昨日はお昼過ぎから3時間ほどかけて、世田谷中を自転車で回った。
 土曜日、夕暮れ時の砧公園には、もうまばらな人しかいなかった。もやった真っ赤な太陽が遠くの丹沢連山に沈み始める頃、みんな家路に帰る支度に余念がない。大きな楡の木の下に、小さな女の子と老人がぽつんといた。何か不思議なオーラが漂っている感じがした。二人はなにやら真剣な表情で、大きなトランクを前にしゃがんでいる。少女は体育座りで足を組み、膝の上に顔を乗せ、じっとトランクを見ている。
「よし……すみちゃん……開けるぞ……」という老人の声が聞こえた。
「うん、いよいよだね……」と、少女が目を輝かせながら言った。
 ちょっとした 「沈黙」が周囲を支配した。太陽は着々と沈みかけている。西の空から赤い夕日が木陰に差し込んできて、その少女をまぶしく照らし始めていた。
 私も、そのトランクが気になって仕方なくなっていた。一つの古ぼけた皮のトランクの中に、老人と少女のどんな謎が詰まっているのだろうか? と……。
 無意識に私は、彼らに近づいておそるおそる中をのぞき込もうとしていた。ふいに少女が顔を上げ、私に気がついた。そして首から下げているカメラを見て、ばたんとトランクのフタを閉めた。不用意に近づきすぎた。私は何か、とてつもなく悪いことをした少年のように、ちょっと慌てて二人のそばから離れた。
 しばらくしてそっと後ろを振り返ると、二人はトランクを開けるのを止めてしまったようだった。老人と少女は大きなトランクを持ち、私のいる方向とは逆の、遠くの森の奥へと去って行った。
 赤い特注の自転車を懸命に漕ぎ家に向かいながら、環状八号線を流れる赤いテールランプの曲線を目で追いながら、私は、二人のことを考え続けていた。あのトランクの中身、どうしても知りたいと思ったが、やはり二人の後を追うことは出来なかった自分を、よしとした。


行きつけの銭湯と自慢の特注自転車

今月の米子

米子ももう4歳。私の家出記念(本当は寂しかった)に、ペットのコジマで10万円で買った。生まれたばかりだった。萌え〜だよにゃ〜。名前についての質問が編集部に来ていた。「一生食べるのに困らないように」と思ってこう名付けたのだ





ロフト35年史戦記・21世紀編
第50回
実験劇場型ライブハウス・Naked Loftの誕生 その1(2004年)

 ニューヨークやイラクなど、随分長いこと横道に逸れていたが、やっと本来の「ロフトの歴史」に戻って来れた。しかし、やはり私たちは世界のドラスティックな激動の中に存在しているわけで、世界で起こっている戦争や貧困や差別や文化状況とは無縁ではない。さらには「私たちの子孫に残すこの限りある美しい地球の存在を、温暖化や環境汚染(一番最悪なのは戦争行為だ)で消滅させるわけにはいかない」というメッセージが、この連載に含まれているということを理解していただきたい。ただロックやサブカルの表現空間だからといって、こういった世界で起こっている様々なことを素通りすることは出来ないのだ。
 72年の「ジャズ喫茶・烏山ロフト」誕生からすでに38年にもなり、この連載ももう5年近く続けていることになる。ちっぽけな空間が破れかぶれでなりふり構わず誕生し、時代の荒波にもまれながらここまでやって来た。そして38年のロフトの歴史に付き合ってきた筆者の私も年を取った。

旧西口新宿LOFTの挫折から4年……

 旧西口新宿LOFTは、新宿都市再開発計画とバブルの波にのったビル建て替えに伴う「立ち退き騒動」はあったが、最終的には存続を勝ち取った。しかし、その後のバブル崩壊のため、交渉相手のビルオーナーが倒産してしまう。90年代後半、新宿LOFTの入居していたビルは競売になりビル側と長い間交渉し続けてきた成果はすべて徒労となった。  私はその数年前まで、ドミニカ共和国という、カリブ海に浮かぶ真珠の様な小さな島で、日本レストランや貿易会社を経営していたが、部下に預けていた新宿LOFTの立ち退き騒動の報に、10年に及ぶ海外生活を終え、日本に帰って来たのだった。
 その東京で目のあたりにした90年代のライブハウス事情は、まさにバブル絶頂期そのもの、デカ箱一人勝ちのシーンだった。同じ新宿にあったせいもあるが、特にキャパ1000人の大バコ、日清パワーステーションは目立って見えた。パワステのスケジュールを見ると、「なんだ、みんな売れない時代にロフトに出ていたバンドばかりじゃないか?」といった感じで、「ロフト負けているな」と思ってとても悲しかった。
 パワステはロフトの様に薄暗いアングラな地下空間のライブハウスとは、まるっきり違っていた。入場口では宇宙服(?)を着たかわゆい女性が案内までしてくれる。天井も高いしステージも広い。スペシャルシートという席があって、チャージとは別に3000〜5000円を払うと、可愛い子と「洋風料理(カップヌードルではない・笑)」を食べながらステージを見ることだって出来たのだ。
 以前、ロフトでパンク系のブッキングをやっていた高橋伸一氏(現渋谷AX)の組むラインナップは、メジャーだけでなくマイナーシーンまでも取り込み、高橋氏をはじめスタッフのロックに対する愛情は実に見事だった。間違いなく一つの時代を作っていた感があった。
 そんなパワステも98年6月、開店から10年も持たずに一方的に閉店した。大企業が考えることはよ良く分からないが、ロックを「文化」だと思う意識が経営者に薄すぎたのだろう。
 90年代、この栄光のパワステ一人勝ちを横目で睨みながら、ロフトは東京のライブハウスの現況にくさびを打ち込もうとしていた。建て替えで大きくなるビルに再入居する新宿LOFTを、パワステに匹敵するライブハウスとしてリニューアルオープンさせる計画だった。ちなみに下北沢SHELTERは、2年はかかるという建て替え工事期間中の避難場所(=シェルター)として、オープンさせたのだった。
 しかし、オーナー会社の倒産と物件競売という状況により、再入居の目処は立たなかった。こうして1999年4月、新宿LOFTは新宿西口から歌舞伎町のど真ん中に店舗を移転した。
 そしてその2年後、手狭になりつつあったヘッドオフィスも、西新宿の小滝橋通りから新宿ハローワーク前の百人町ビルに移転する事になった。


通りから見たネイキッド。舗道からビニールカーテン越しに見えるのがスゴイ。さすがにスケベものイベントは黒いカーテンで遮る。こんなライブハウス世界探してもないと思うぞ

コリアンタウン・新宿百人町の立地と歴史

 新宿駅東口を背に、靖国通りを渡り歌舞伎町に入り、つきまとう風俗の呼び込みを避けながら、コマ劇場の脇を突っ切る。すると、ネオン華やかな、世界最大ともいわれるラブホテル街が広がっている。これを見るだけでも歌舞伎町に来た価値がある。初めて足を踏み入れた人は、ディズニーランドに迷い込んだかのようなきらびやかなラブホテル街を前に、やはりドキドキしたり興奮したり、キョロキョロあたりを見渡したりするだろう。そして、そのホテル街を通り抜けたところにある大通りが職安通りだ。
 この職安通りから向こうの新宿百人町と大久保一帯が、「リトルソウル」「コリアンタウン」とも称される東京の異空間である。とにかく韓国料理屋と食材屋が至るところにある。つい4〜5年前から、この地区に出店するのがソウルの飲食店の一つのステイタスになってきている、ともいわれている。この街のほぼ中心に、山手線の新大久保駅がある。
 80年代以降に、日雇い労働者や在日朝鮮人が流入し、韓国・中国・フィリピン・タイなどアジア諸国の店舗が増加して行った。出稼ぎのイラン人やルーマニア人などの姿もよく見られた。そして、中でも韓国人の数が目立つようになり、このあたりがコリアンタウンと呼ばれ始めたのは、2000年前後の「韓流ブーム」からだという。


内装工事が終わり、ビールで乾杯する。ロフト内装制作チーム。左より故熊坂氏、加藤氏、小林社長。工事責任者、ミトさんそして私。後ろにテツオ店長が見える。

日本一デンジャラスな町へヘッドオフィス移転

 新事務所が移転した5階建て雑居ビル周辺の環境は、それはもの凄かった。近くにはヤクザの事務所がたくさんあった。職安通りから大久保通りにかけての路地は、安くうらぶれたラブホテルが並んでいて、街角には昼間から売春婦が立ち並び、「お兄さん遊ばない?」と声はかけてくるし、ヤクザが自転車で売春婦からショバ代の集金に回っている。一晩のみかじめ料を払って、ヤクザの監視の中、冬には北風の吹きすさぶ街路に立ち並ぶ国籍不明の売春婦達がたくさんいたのだ。
 このあたりは、イラン人を中心とする麻薬のプッシャー(密売人)達の巣窟でもあった。彼らは“逮捕=強制送還”をあらかじめ覚悟して、「(麻薬なら)何でもあるよ」と、小声で通行人に甘いささやきを投げかけてくる。東京のみならず、全国からジャンキーがここを目指して来ていた。近くには、シャブ抜き専門の医院まであった。女を買う目的の男達や麻薬を買い求めるジャンキー達のどこか不安げでうつろな眼も、至る所に徘徊していた。裏通りに平気で麻薬の空パケ(ビニール袋)が捨ててあるのは、まさにニューヨークの裏町に似ていた。
 また、街角での外国人マフィアとヤクザの抗争も日常風景だった。夜中になると一斉手入れの機動隊車両が並び、救急車が走り回る。こんな街は、日本全国を見わたしてもちょっとない。私はそのデンジャラスさにぶっ飛んでいた。「新宿にこんなスリリングな場所があったのか?」と思うことしきりだった。
 さて、新事務所の入居するビル1階にあったFというオープンパブは、プッシャーの溜まり場みたいなものだった。周辺同様、独特の怪しげな雰囲気を醸し出していたが、恐れを知らない事務所の若い連中は、平気で酒を飲んだり、来客の接待をしていた。
 しかしその頃、かの強権政治家・石原慎太郎都知事は「新宿浄化作戦」と称し、歌舞伎町を中心に、監視カメラ設置、違法風俗店やビデオ店摘発、不法滞在の外国人や暴力団組員排除などを進めていた。この波は、職安通りを挟んだ百人町側にも影響を及ぼした。酒場Fにも、当然のごとく大規模な手入れが何度もあった。町からは次第に、プッシャーも売春婦もジャンキーも消え、夜な夜な怪しげな人々で賑わっていた店には、閑古鳥がなくようになってしまった。しばらくして、Fは閉店することになった。かくしてこの町も、爆弾を抱えながら寂しくも平穏になった。


ネイキッドロフト・プレオープン初日。店の前で客の呼び込みをする、沖縄が生んだ偉大なコメディアンルンルン金城さんと現店長上江洲(沖縄出身・・・夢は那覇にロフトを作ることだそうだ)

22坪の空間でどうすればライブハウスが出来るのか?

 Fの閉店を受けて困ったビルオーナーは、ロフトに店をやらないか、という話を持ってきた。オーナー自ら「店を借りてくれ」というだけあって、入居費用は格安だった。だが、22坪という広さは、ちゃんとしたライブハウスをやるには狭すぎる。とてもステージなんか作りようがない。
 しかし私は、以前からやりたかった「実験空間劇場」を実現するには、ちょっと面白いかもしれない、と感じていた。動員力の少ない無名な表現者ほど、面白いライブを作ることができる、というのは、私の長年の信念だ。この“雑多な塊”にこそダイアモンドの原石がごちゃまんと存在するはずなのだ。私はそういう原石を発掘し、世の中に出してみたいと思っていた。
 この店のイメージは、ライブをよりシンプルな形に戻して、音楽やトーク、パフォーマンスを原点から再度見直してみよう、ということだった。店名はこのコンセプトと、1階で通りに面している立地をかけて、“Naked(=裸の)Loft”とした。(以下次号へ続く)

歌舞伎町ではなんの根拠もなく突然警官に囲まれ、暴力的にカバンやポケットの中身を探られる。私でさえ何度もやられた。歌舞伎町は戦前の警察国家に戻ったのか?

ロフトの歴史 ※新宿各店舗を中心に

1976年10月 新宿西口に、65坪・キャパ300人のライヴハウス「新宿LOFT」オープン。
1992年4月 新宿LOFT、ビルオーナーより立ち退きを命じられる。
1994年3月 新宿LOFT立ち退き問題、東京地裁でロフト敗訴の判決、即日控訴。
1994年4月 「新宿LOFTと音楽文化を守る会」結成され、署名運動が行われる。
1995年4月 新宿LOFT立ち退き問題、和解成立。新ビル建設の際には再入居を前提にすることで決着。
1995年7月 トークライヴハウス・ロフトプラスワンオープン。
1997年7月 新宿LOFTオープン20周年記念イベント「ROCK OF AGES 1997」開催。同月24日には日本武道館で「LOFT 20th ANNIVERSARY ROCK OF AGES 1997」開催。
1998年6月 ロフトプラスワン、歌舞伎町移転。
1999年4月 新宿LOFT、「Rockin’ Communication 新宿LOFT」として歌舞伎町に移転、リニューアルオープン。
2004年12月 新宿・職安通りにNaked Loftオープン。


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

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