http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/ おじさんの部屋

第132回 ROOF TOP 2009年3月号掲載
「大海原をゆくー世界一周103日間(+26日間)の船旅に挑戦」

第6回 ドミニカ〜ギアナ高地〜イースター島
ロフト席亭 平野 悠

11月23日/航海78日目
<因縁深いドミニカをあてどなくさまよう>

 モナリザ号は朝8時、予定より少し早くサントドミンゴ港に到着した。デッキから遠くを見上げると、コロンブスが作ったといわれる城壁(カサデコロン)が船の上から見えた。まさしくコロンブスが大航海の末、初めて着いた地、ドミニカ共和国だ。
 朝、デッキで桃井氏に会って、別れの言葉をかけた。
「知り合って二週間、本当に楽しかった。僕にとっては因縁深いドミニカです。今日、自分はやらねばならないことがたくさんあって、桃井さんの見送りが出来ません。お達者で。来年東京で会いましょう」
「ビエン、ビエン、アデオス、セニョールヒラノ、アスタマニアーナ(良いね、良いね、さようなら平野さん。明日は明日の風が吹くさ)」「ムーチャスグラーシャス、セニョールモモイ、アスタ、ラルエゴ、エンハポン(ありがとう、桃井さん。日本で会いましょう)」私たちはヘタクソなスペイン語で別れを惜しんだ。
 9時過ぎザックを担いで一人で船を下りた。かつて20数年前、5年間私はこの地に住んでいた。市内地図は不要だった。私はひたすらマリコン(ジョージワシントン通り)を歩いた。サントドミンゴは寂れ果てどこもがすさんで見えた。
 オープンカフェの隣がディスコ、その隣が私の店、その隣がイタリア系の有名レストラン「レスビオ」、そしてガソリンスタンド。その先を右に曲がるとカジノだ。
 不覚にも私は知らぬ間に、かつての自分の店のあった場所を通り過ぎていた。それほど周辺は変わり果てていた。ディスコもカフェもなくみんな空き地になっている。思わず呆然としてしまった。私はガソリンスタンド周辺にいる老人達に声をかけた。
「23年前、私はここで日本レストランを持っていた。覚えているか?」と尋ねた。「おお、覚えているとも。昔ここにハポン(日本)のレストランがあった」「私はそこのプレジデンテ(経営者)だった」「そうか? 20年以上も前のことだ。あの頃はここらもにぎやかで良かった」
 ガソリンスタンドで車を洗っていた黒人(ハイチ人)が言った。「そうとも、覚えているよ。俺はあんたを知っている。レストランのオーナーだろ。俺はガキの頃、あんたの店の前でいつも車を洗って金を稼いでいた」「あの頃、あんた達はいつも、レストラン前のハルデン(庭)の池から車を洗う水を盗んでいた。ついでに金魚もかっぱらっていた。それで俺はあんた達を追い回していた」「そうそう、俺たちはあんたといつも追われたり逃げたりしていた」「それがなんだ、一体どうしたんだ」「観光客はみんな旧市街に取られた」「ドミニカも変わったな」「そうよ、今は泥棒や殺人ばかりさ」と、老人は自分の首を切る仕草をした。
 「それでなんで又お前はここに来た?」…。私は何か悲しくなって、一人、店の前の海岸に立った。昔私は1日何時間も、ここでカリブの海を見ながら思いにふけっていたものだ。思い出深いカリブの海だ。しかしこの日私はゆっくり感傷に浸る時間はなかった。
 急ぎ私は、「ナテイオナル、セメタリオ(公営墓地)」に向かった。たどり着いた墓地のたたずまいは変わっていなかったが、私の友が眠っている場所がどこか分からず、事務所に向かった。「1994年12月だ。何日かは解らない。一人の日本人がこの地で死んだ。名前は藤井義之。その墓がどこにあるのか教えて欲しい」と伝えた。人の良さそうなおばさんの管理人は30分もかけて調べてくれ、私を広大な墓地の一画に案内してくれた。
 巨大な墓石群の陰に小さな墓があった。墓石の蓋から名前も消えていた。しかし見覚えがあった。ここに藤井は眠っているはずだ。あれだけドミニカを愛した彼は日本でパンクバンド(バナナリアンズ)をやっていて、私を慕って異国の地までやって来たのだ。彼に店のほとんどを任せていた。そして私が留守にしていたある日、突然自ら命を絶ったのだった。首つり自殺だった。原因は誰に聞いてもわからなかった。29歳だった。
 墓は荒れていた。私は墓の掃除をしようと思ったがやめた。なぜかこのままの方がいいと思った。そのへんにある無数な「無縁仏」の如くと思った。墓を前にして膝が自然に崩れた。「静かに眠れ藤井サンスケ」。涙がこぼれ胸が熱くなった。
 肩を落とし、私は一人墓地を後にした。南国の太陽が頭から照りつけていた。消耗した私の体は無性に酒を欲していた。「そうだ、あのカジノに行って飲みながら博打をやろう」と突然思った。23年前、ドミニカを去るまでの数週間、カジノで毎日2000〜3000ドルは使っていた。タクシーでカジノの前まで行ったが、そこでふと足が止まった。「又、俺はここで敗北して、哀しみを背負って、酒飲んで博打やって……良いのか? 23年前と同じじゃないか……やめよう……結果はわかっている」という声が聞こえた気がした。



藤井の墓は荒れ放題だった。多分この20数年誰も訪れていないのだろう

11月24日/航海79日目
<琥珀とハイチ画をみんなに>

 夜、桃井さんのワークショップで仲良くなったサークルに招集をかけた。昨日ドミニカで買った、琥珀のペンダントトップとハイチ画をみんなにプレゼントした。不思議なことに6人が好んだ物は、みな誰ともバッティングしなかった。琥珀は幸せを呼ぶ石と言われている。だからどうしてもみんなにプレゼントしたかった。



かつて、ここの空地に日本レストランがあったのだが…

このカジノは私のレストランのすぐ裏にある。ドミニカで一番庶民的なカジノで1ペソから賭けられる。だから喧嘩が絶えない面白いカジノだった

11月25日/航海80日目
<これが見知らぬ町を訪れる醍醐味なんだよ>

 べネズエラのラグアイラ港着。雨模様の中、港町に出てみた。小さいが中米の典型的な普通の港町だ。狭い路地にひしめき合う自動車、立ち並ぶ露天、町一杯に流れるラテンミュージックの激しいリズム。サルサが音の割れた古いスピーカーから目一杯こだまする。中米を覆う光と影。果たして反米の闘士チャペス大統領は独裁者なのか否か? 通りを打つ雨は激しくなり、私は小さなカフェでコーヒーを頼み、道行く人々の表情を楽しんだ。そうなんだよ、これが見知らぬ町を訪れる醍醐味なんだよ。


11月26〜27日/航海81〜82日目
<エンジェフォールは私に神秘のベールを開いてくれた>

 ギアナ高地をゆく3日間のツアーはハードだった。1日目は、朝8時に船を出、ジェットとセスナを乗り継ぎ、カナイマ国立公園内のロッジへ。翌日は朝5時に起き、背もたれもないボートで4時間もアマゾンのジャングル地帯の川を遡る。フルスピードのボートはしぶきがかかり全身濡れネズミだ。途中、沢山のテーブルマウンテンが見え何本もの滝が流れ落ちている。これを見るだけでも圧巻である。
4時間かけて遡ったベースキャンプから、遠くにエンジェルフォールが見えた。今度は山道をトレッキングしてジャングルをかき分け登った山の頂の小さな空間が、距離にして800メートル、エンジェルフォールに一番近い見学場所だった。森林を抜けるまで空は重い雲が立ちこめていて、果たして滝が見えるかどうか心配しつつ、10人も立てば一杯の小さな展望台に立った。
 それは突然だった。重い雲が二つに割れて、滝に吸い込まれ霧消してゆく。その合間から、見事にエンジェフォールが全容を現した。昨日来の雨で豊かになった水の流れ。それはまさに雨霧となって霧散し、低くたれ込めた雲と同一になってゆく。凄い。エンジェフォールは私に、神秘のベールを開いてくれた。



この滝が世界で一番長い(980m)幻の滝だ。まだこのギアナ高地は余り観光化されておらず、訪れるのは今だ。(1日100人が観光客として来る)

11月28〜30日/航海83〜85日目
<ギアナ高地の夢、覚めやらぬまま太平洋へ>

 ギアナ高地の記憶を忘れたくなくって、1日中夢遊病者のようにまどろんでいる。30日、約1日かけてパナマ運河通過。褐色の泥水の細い通路を船はゆっくり抜ける。スエズ運河ほど感動は無し。夕刻にやっと太平洋に出ると、太平洋の壮大な海が広がって気の方向が変わった気がした。


12月1〜3日/航海86〜88日目
<この船に乗って初めての「つかの間の恋」>

 もうすぐペルーだ。世界遺産・マチュピチュのツアー説明会があった。なんとツアー参加者は400人を越えるらしい。ぞっと背筋が凍ってしまった。400人以上の団体が、数十台のバスで空港に行き飛行場を占拠する。クスコからマチュピチュに向かう列車も、町も、遺跡も占拠する。参った。何が悲しくって私はこの団体客の一員にならねばならないのか? 結局私は迷ったあげく、マチュピチュ行きをキャンセルすることにした。

 このころ船では私のまわりに自然と男女7人のグループができていた。ちょっと知的好奇心が強く、私の怪しげな「論理」が通じる連中だった。このころの私は、何かとてつもない「気」が充実していた。ドミニカ寄港による興奮もあったのかも知れないし、酒のせいかもしれない。私は突如「超能力者(霊能者)&手相見&読心術者」になって、次々と彼らの「心」をズバリ当てていった。いい加減なうろ覚えの手相や読心術、ちょっとかじった西野流の「気功」、以前UFOのレコードを制作した時のウンチク、今なお続けているヨガなんぞの浅はかな知識、全共闘ディベート術。それらを総動員し、そこに集まる人たちにあらぬ幻想を振りまいて行ったのだろう。
 ふと気がつくと、私はある女性に向かってだけ話していた。誰にも悟られぬように気を遣いながら、私はこの船に乗って初めて「つかの間の恋」に挑戦しようとしていることに気がついた。相手の意識は問題ではなかった。その女性は、私より30才近くも年下なのだ。このことは絶対相手に気づかれても、ましてや周辺に気づかれてもいけないのだ。彼女は私と色々な共通項があった。カンボジアという国の共通不思議体験、どん欲な好奇心。私がいつも言う「Alone Together」という語彙を理解した女。とても弱そうで、でも風にそよぐ葦の様な強さに、私はこの人の心を探りたくなった。だが彼女の心の奥に入り込む勇気はなかった。この船に乗って初めての恋だった。


12月4日/航海89日目
<リマの街で運命の女とデート?>

 朝から曇り空。ペルーは寒いくらいだ。モナリザ号はリマに寄港している。ほとんどの乗客はマチュピチュ観光に繰り出している。船内は閑散としていた。 10時頃、私の部屋の電話が鳴った。
「すみません、平野さんでしょうか? 私Kと言います。リマ市内に行くのなら、私もご一緒させて頂きたいのですが」「……僕は基本的に町の散策一人に決めているんです。ダメです」「でも、女一人でこの街は危険で、問題あると思いません?」「そんなこと言われても困りますよ。誰か他の人を探して下さい」と電話を切った。 1時頃昼食を食べ、パソコンを担いで船外に出た。一人の日本人の女がいた。見知った顔だった。あの電話の子だと思ったが私は無視した。湾内を巡回するバスに乗ってゲートを出ると、彼女がタクシー運転手ともめていた。
 私はそばにゆき、「市内まで一緒しよう、俺のタクシーに乗れよ。」とにっこり笑いかけた。「いや、良いんです。私一人で行きますから……」彼女は下を向きながらもついて来て、私のタクシーに乗りこんだ。しばらくして二人で笑い転げた。「君と一緒に行動することをあんなにはっきり拒否したのに、俺たちは一緒のタクシーに乗っている」「私だって、意地でも平野さんと一緒したくなかった」「解った、今日はあきらめた。君と1日付き合おう!」
Kは私よりずっとスペイン語が話せた。「おい、あのパセオ、パセオって言ってるミニバス。あれって市内観光バスの勧誘じゃないか? 聞いて来い」と命令する。Kはさっそく聞きに走った。「平野さん、さっき警官に危険地帯だから行ってはダメだという地域を通る、モンターニャ(市内を一望できるガレキの山)へ行く観光バスだそうです。料金も5リマですよ。乗りましょうよ。面白そう」とニコニコしながら言った。
 バスは我々以外はみんなペルー人だった。ペルー人がみんなKをチラチラ見る。一緒にいる私でさえ誇り高くなった。Kはキラキラしている。道行くペルー人が「チイナ ハポネス(訳:中国の日本人? / ラテンアメリカの一部には日本が中国の一部だと思っている人がいる)」と小声で言う。
 市内を散策し、小さなレストランでコーヒーを飲み、日が暮れて来た。
「おい、今夜はなんか不思議だ。日本食を食べに行こう。食べたいのはラーメンか寿司だ。安心しろ、俺が奢る」「ラーメンか寿司ですか? 随分開きがありますね」「うるさい、調べろ」。
 私たちは旧市街から新市街にタクシーで移動し、「しろう」という高級そうな寿司屋に入った。ビールを飲み寿司を食べた。Kの笑顔が素敵だった。


12月5日/航海90日目
<「Kちゃん泣いているよ」>

 今夜Kがこの船を降りる。北陸の小さな田舎町の数学教師になるため、手続きが年末までに必要なのだ。昨日親しくなって、小さなドラマがあって、そして突然下船する。「ダメだよ、そんな小さく収まった人生を送っては。君はまだ結婚前だし、一度だけの人生、いや青春を、田舎の教師如きで終わっては」なんて、無責任な事を昨日私は彼女に言ったのだった。
 夜、Kを送るためみんなが集まった。ほんの20分位の送別会だった。暗くなった空を見上げた。雲が重かった。船の上から、Kがトランクを下げ迎えのバスに乗るのが見えた。「Kちゃん泣いているよ」って誰かが言った。


12月6〜8日/航海91〜93日目
<モナリザ号は一路イースター島へ>

 やっと海の色が変わって来たと思った。紺色に染まった大海原。モナリザ号は一路、神秘の島・イースター島を目指す。リマから6日もかかる。  昼食時、ある若い女の子から突然話しかけられた。「私の父は平野さんと同じ全共闘だったんです。父からちょっと聞いた事があるんです。ふっとそんな臭いがしたから、平野さんとお話がしたかったんです」「僕なんか良いから、君はオヤジさんの話を精一杯聞いてあげて。きっと喜ぶよ。その前にちょっとだけ、当時のことを勉強してからね」「はい。私、マチュピチュはツアーでなく一人で行ったんです」「そうか? それは良かった。苦労して自分の力で行くのと、団体で目をつぶって連れて行ってもらうのとは、全く感激が違うよね。旅の選択肢はたくさんある。どれを選ぶかは自分次第だ」


12月9日/航海94日目
<私もワークショップに作品を出すのだ>

「……でだ、桃井和馬が去った後のワークショップに出席したんだよ。日本にいる桃井和馬からの意向で、もう一回作品を募集すると言うんだ。それで俺は参加出品を申し込んで来た。テーマは土にした。みんな参加してくれや」と意気込んで言うが、誰も反応してくれない。
「私たち、以前の出品で燃焼しつくした。疲れ果てているのよ」とるみ姉が冷たく言う。私は意気消沈してしまった。仕方がない。この二人がやらないのだったらなんとか以前作品を出さなかった私とモサでやるしかないと思った。モサに電話を入れた。「すいません、平野さん、俺、カメラなくしたんですよ」「そうか? でもパソコンに取り込むのは手伝ってくれるよな。」「OKッすよ」
 夜、音が居酒屋波平に現れ、前回の彼女の作品を見た。「凄い、完璧じゃん。この作品がなぜ入賞しなかったのかな? これ見たら、音抜きで作品を作りきれないよ。頼むよコーチしてくれ。実は俺、こういう形で作品を作り発表するのって初めてなんだ。そもそもパソコンにどうやって映像を入れるのかもわからない」と頼み込み、ちょっと前に書いた「割付表」を音に見せた。「そう、一番始めイメージはなんとか決めたんだ。この写真を使って、コピーは”はじめ、光あり”から出発しようと思う」と私のストーリーを説明し始めた。やっと音もやる気になってくれたようだった。これでなんとか出発出来ると思った。音様が頼りだ。


12月10日/航海95日目
<イースター島に近づくにつれ気が強くなる?>

 海の蒼さが凄い。モナリザ号はイースター島に近づいている。「瞑想の会」に参加した子が「だんだん船が島に近づくに連れて不思議に気の力が強くなって来ている」と、私に言ってきた。この会は、みんなで輪になって座り、手を取り合って「世界人類が平和でありますように」「核兵器をなくそう」なんて幻想を振りまくグループだ。主催者はベジタリアンの外人。参加者は外人が多い。こういう外人って船に英語やスペイン語の適当な先生をしながら無料で乗っている。どうもうさんくさい。船上で私も気功をやってみた。イースター島の方から鋭い気が押し寄せてくる感じがして、全身に何度も電流が走った。「この島には何かある」と感じさせてくれた。


12月11日/航海96日目
<死ってなんだろう?>

 イースター島に到着。島の周囲2000キロは何もない、全くの絶海の孤島だ。今はチリ政府が管理している。
 夜、るみ姉と飲んだ。ちょっと遅れて咲子とモサが合流する。るみ姉は看護師だ。多くの人の「死」を看取って来ている。それなりに酔っぱらって「自殺」の問題を話していた。「半自殺肯定論者」の私は、 「どんな人間も存在のすぐ裏側に死がある。それぞれが生きていて、色々な場面にぶつかって、時には自殺したくなることがある。死の量が生の量を上回った時、自らが死を選ぶのは仕方がない。すなわち止めようがないということさ」と言った。
「許せない。自らの命を絶つなんて」と、ぽつんと遠くを見ながら独り言のようにるみ姉が言った。「私ね、自分の職業って一体なんだろうって思う時があるの。担当した患者さんが死んで家族から、『死化粧をあなたがやってくれないか? それはこの人の遺言だし、私たち遺された家族の意志なの、お願いできますよね』って言われたことがあって、その時戦慄してしまった。この患者さんを看護して良かったって、悲しいけど思う時が、生き甲斐かな」。瞬間、テーブルのみんながふっと顔を伏せたように見えた。


12月12日/航海97日目
<絶海の孤島・イースター島上陸>

 ツアー参加はやめて、自由行動組の一人としてイースター島に上陸。連絡ボートに乗り、ふと見ると隣にモサがいた。船は10分ほどで岸に着く。ほんの小さな町だ。港から200メートルばかり行くとメインストリートがあり、そこに数軒のレンタルバイク屋があった。無言でモサもついてきた。
「お前、誰か女と約束していたんじゃないのか?」「ええ、一緒に瞑想しようって約束していたんですけど、やめました。僕も平野さんと同じようにバイクを借りて島回ります」「あっそう。俺だったら女と二人で瞑想の方を選ぶけど」。
 原付バイクででこぼこ道の牧場を抜けると、未完成モアイに遭遇する。初めて見る。いわゆる有名なモアイの形とは全然違う。ただの流石か? と思うぐらいだ。これら未完成がモアイの全部だったら、この島は観光地にはならなかっただろうと思った。(次号へ続く)



イースター島は大型客船が停泊出来る設備がない。上陸はタグボートだ

これがかの有名なモアイ像だ

これもモヤイ像だ。きちんと立っているモヤイは日本の建築業者がクレーンを運び込んで立てたと言う

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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