http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/ おじさんの部屋

第131回 ROOF TOP 2009年2月号掲載
「大海原をゆくー世界一周103日間(+26日間)の船旅に挑戦」

第5回 ギリシャ〜マルタ〜イタリア(シシリー島)〜スペイン〜大西洋
ロフト席亭 平野 悠

10月29日/航海53日目
<遂にこの船を捨てる決心をしたようだ>

 昼頃、ギリシャはアテネ近くの港・ピレウスに到着。30年ぶりのパルテノン神殿を見に行った。ジャパングレイス(この旅を運営する旅行代理店。以下JG)はついにこの船を捨てる決心をし、代替船をチャーターしたようだ。乗客へのフォローも頑張っていて、当初予定の12月18日頃に帰国したい人、一度帰国してまたこの船に復帰したい人は、その費用を持つとか。今のところ前回航海で問題になった、乗客軽視(?)の態度ではないように見える。私の周りでもそれほどの不満爆発は起きていないようだ。


10月30日/航海54日目
<港町をよどんだ空気が支配している>

 ピレウスという港町は、何かよどんだ空気が支配している感じだ。乞食も泥棒も多い。電車の中で携帯で大声を出す若者。ゴミだらけの道路、舗道まで一杯に商品を並べる土産物屋……。マナーを守らない奴等ばかりだ。何とも雑な町なのだ。こちらの船の遅れによる鬱な気持ちもあるのかもしれないが……。


10月31日/航海55日目
<アテネの中央駅近くをひとり散歩する>

 運動不足解消もあり、昼過ぎ、船からピレウス駅まで歩き地下鉄でアテネに向かった。シンタグマ広場まで出て、アテネの中央駅近くをひとり散歩した。帰りは無名戦士の墓周辺から港までの直通バスで戻ることにした。船上で見知ったおばさんが二人、私の前を通り過ぎて行く。そっと後をつけたら、案の定、港行きの40番バスの乗場まで連れて行ってくれた。さらに彼女達が降りるところで降りれば、船に帰れると思って近くの席に座った。とにかくおばさん達は外国の町の事をよく研究していて、まず間違えない。下手なガイドブックより精確だ。バスは夕暮れのラッシュアワーで混雑したアテネの町を、海に向かって進んだ。ピレウス港まで1時間半かかった。真っ黒な港と様々な形をした船が待っていた。


11月1日/航海56日目
<世界遺産のメテオラへ>

 朝8時、Nさんという中年男性と2人で、世界遺産のメテオラに向け出発した。バス、地下鉄、タクシーを乗り継いでアテネ郊外のバスターミナルについた。そこでピースボートの別の中年男性2人とアテネから偶然出会い、その先、4人で行動をともにすることに。
 目的地までは6時間のバスの旅だった。飛んでゆくバスの外の風景は、昔スペインやポルトガルなんかで見た記憶のある、荒涼とした赤い土地が続くばかりだった。緑はあまりない。時折、オリーブの低い木の畑が続く。バスは北に向かっている。夕刻、バスはギリシャの北の町、人口6万人のカランバの町につき、さらにバスを40分ほど乗り継いでメテオラに着いた。太陽は沈みかけていて、巨大な石に見下ろされるようにしてカランバは小さく佇んでいた。シーズンオフでガランとしている。
 バス停前にちょうど手頃なペンション風ホテルがあった。一泊朝食付30ユーロ(約3000円)。全員が分かれて個室をとる。19時頃、4人でワインで乾杯して食事をし、私はNさんと町を1時間以上かけてゆっくり一周した。薄暗くなるにつれ、巨大な奇岩がライトアップされ始めた。陳腐である。こういう事はやめて欲しいと思った。町のかすかな明かりでも充分なのに……。町はずれに寂しい停車場があった。私は停車場、終着駅が大好きだ。このメテオラの駅も、どこかアイロニーを感じさせてくれる雰囲気で、なにかの怨念がこもっている駅にも思えてきた。昔、迫害された異教徒の魂? まさかね……。


11月2日/航海57日目
<私はもう遺跡見物は食傷気味なのだ>

 メテオラは巨大な奇岩があって、そこにギリシャ正教の教会や修道院が岩に張り付く貝殻のように取りすがっている。その真下がメテオラの町だ。
 我々は4時間8000円でタクシーを雇って、6カ所の名所旧跡を回った。とにかくどこも長い急な階段を歩かねば目的地に着かない。疲れた。足がぱんぱんになった。別に座りションベンをするくらい感動したとは思えない。相変わらず、「岩だったらエアーズロックの方が大きいし、奇景だったら桂林のほうがすごい。教会だったらスペインの様々な教会のほうが凄かったし」とか思ってしまう。本当にもう私は名所、遺跡見物は食傷気味なのだと思った。
 18時に船にたどりついた。船に戻ると多くの老若男女が軍手をはめ、船の引越し作業をしている。埠頭には代替船が到着していた。みんなの表情は明るい。


11月3〜6日/航海58〜61日目
<連日引越し作業で大忙し>

 船内は連日、引越し作業で大変だ。船内アナウンスで「引越し作業のボランティアを募集します。これは荷物を運ぶ力仕事です」と言っている。情けなくも、「力仕事」という一言で「なんとかおいらも手伝おう」と思っていた気持ちが崩れ落ちた。でも凄い。「俺は金払った客だ、これは全部船側の責任じゃないか?
手伝えるか!」っていう人がほとんどいないのだ。もちろんこういう場面で、そんなことをいう度胸を持った人は余りいないとは思うが。何かしら、みんなこの船旅を成功させるために手伝いたいと思っている。とにかく約2カ月間、我々を悩ませ、怒らせ、絶望させ感傷的にさせたボロ船とはお別れとなる。
 ピレウス停泊8日目、代替船ビーナス号は、次の目的地・マルタ共和国に向け出発した。のべ何百人ものボランティアの協力のもと、1000人近くの引越し大作戦は終わった。船内生活は当分、今までのように行かないだろうと思ったが、案の定、朝食にコーヒーがない、部屋の電気がつかない、鍵がない、セフティボックスはないなどと、レセプションはクレームの列でごったかえしていた。しかし、部屋とか色々な設備や環境は以前の船よりダントツにいい。私の3人部屋も小さなパーティが出来るくらい広いし、バスタブもある。船内の格調も実に高い。50年前、繁栄するヨーロッパで建造された豪華客船をイメージさせてくれた。
 夕食後、21時よりピースボート主催の「移転、ボランティアありがとうパーティ」が屋上プールデッキで開かれた。酒は無料だ。こういう事をちゃんとやれる今回のスタッフはえらいと思った。パーティ参加者の表情は明るかった。


11月7日/航海62日目
<スタッフと乗客の親密感が増した感じ>

 朝起きるとエーゲ海は一面の重い曇り空。昼近くにスコールがあった。横浜を出て2カ月あまり、私の記憶では4回目の雨との出会いだった。海の色と空の色が調和していない。気分は優れない。モナリザ号は少し荒れた海を快走する。揺れはほとんどない。
 大引越し作戦を経験したスタッフと乗客の親密感は一段と増した感じだ。大量の老若男女がボランティアに参加した。150万円以下の船賃で参加した乗客も、500万近くする大金をはたいた豪華な個室リッチマンも、学生も大会社の重役も退職者もおばさんも、等しく汗を流し、同じ食事をする。こんなことが世界一周豪華客船「飛鳥」で実施されるだろうか?


11月8日/航海63日目
<マルタの観光地を漠然と歩く>

 朝8時にマルタ共和国バレッタ港に着岸。9時には下船許可が下り、船は空っぽになる。ほとんど一番最後に船を降り、現在地(港の位置)がどこか解らないのが気になったがとにかく歩き出した。バレッタの繁華街というか大観光スポットは観光客で埋め尽くされていた。この街も観光で成り立っているが、観光客には色々親切で、アテネと比べると段違いだった。ガラス細工、(たぶん)由緒ある教会、十字軍がイスラムの侵入から守ったといわれる城壁。
 しかし所詮ヨーロッパだ。整然とした明るい街並み、こんなところで何か自分が感動することに出会えるはずがないと思った。カルチャーショックを感じることもなく、どこにでもある観光地と何ら変わらない。何も期待することなく、私は漠然と一人観光道路を歩いた。


11月9日/航海64日目
<27歳の若者、モサ君のこと>

 11時にイタリアのシシリー島、パレルモ港ピア埠頭に着岸。  昼食の時、モサ君(27歳)と一緒になる彼が自主企画した「世界を旅する人集まれ」にひょいと私が参加してから、ちょくちょく話すようになった。彼はとても好奇心が強い。先日、中国から参加した若い長太と私のちょっとした論争──私は天安門事件のことで中国共産党をなじった。長太は党幹部の息子で、虐殺を「仕方なかった」と言った──のとき、彼は脇でじっと聞き入っていた。
「平野さん、あの日あれから長太と僕、話したんですよ。彼、平野さんの攻撃に相当参ってましたよ」「いや〜、ちょっと僕も大人げないと思ったけど、エキサイトしてやっちゃった。でも近年の僕にとっては、天安門事件と9.11は最大のショックだったんだよ。だから冷静でいられないんだ」「僕ら若い連中は、平野さんみたいに連続的に攻撃されるともう反論しようがなくなってしまうんですよ」「僕らの若い頃は、毎日のように学習会や読書会があってよく勉強したよ。議論の仕方、というよりも勝ち方かな? も訓練された」「どんな勉強をしたんですか?」「そうだね、その頃はやはりマルクス主義が流行だったから『共産党宣言』とか『賃労働と資本』とか。吉本隆明、サルトル……チューターを決めて本を読んで議論したんだ」「そうですか? 僕らもこの船でなにかそういうことをやりたいな」。
 有言実行の彼は約1週間後、「九条を輸出せよ」輪読会を始めることになった。


11月10日/航海65日目
<水先案内人・桃井和馬氏に出会う>

 べた凪の地中海をモナリザ号は滑るように航行する。波一つない。風のない湖面みたいだ。よく晴れている。
 水先案内人、フォトジャーナリスト・桃井和馬氏(46歳)の第一回講演「この大地に命 与えられし者達へ」があった。いい、特に人物写真がいい。世界の紛争地を、難民部落を駆けめぐってきた一人の男の警告がそこにあった。最近、奥さんを亡くされた故か、話はどこか湿りがちで、さらに地球の未来が絶望的で救いのないところまで行っているのを、それは感動的に、もう芸の領域まで達している感じで語るスピーチだった。


11月11日/航海66日目
<20数年ぶりに街角でスペイン語を話す>

 スペインのバルセロナに着いた。13時過ぎに下船し、港から45分かけて街まで歩く。20メートルもあるのだろうか、コロン(コロンブスのこと。スペイン語ではこう呼ぶ)の像が遠く大西洋のかなたを見ている。20数年ぶりに、スペイン語を使って市民に道を聞いたり簡単な会話をしたりした。最初は言葉に詰まるが、話しているうちにどんどん色々な単語を思い出してゆくのがうれしかった。
 14時から市民公会堂で行われる、被爆者と市長(副市長?)の対話集会へ。ピースボート各寄港地には核廃絶を標榜するNGOの人々がいる。「九条を輸出しよう」というテーマに賛同し、運動を手伝ってくれる若者がたくさん駆けつけていたことに私は感動した。


11月12〜18日/航海67〜73日目
<ついに船内トークライブ企画を立ち上げる>

 船はいよいよ大西洋に入った。カナリア諸島に立寄り、さらに大西洋を航行している。日々、船は南下しているのだろうか? 毎日が暑くなって来ている。ギリシャでは寒かったのに。
 前回の桃井講座でもらった資料「かけがえのない一つの命」という長い文章──自分の奥さんの突然の死の瞬間をつづったエッセイ──を読む。桃井さんの2回目の講演、「命がめぐる星」に出席する。終わりしな彼の写真集を一冊購入し、挨拶する。
「ロフトの平野と言います。資料、エッセイ読ませて頂きました。奥様の死、奥様のことを戦友と表現されていましたね。あの田原総一郎さんも奥様がなくなった時“同士”という言葉を使っていらっしゃいました。感動しました。ありがとうごさいました」「あっ、平野さん、初めてお目にかかります。ロフトプラスワンは良く行かせてもらっています。ありがとうございました。お会い出来て光栄です」。後日飲む約束をする。彼は若い。才能もある。喋りも文章も感性もいい。もちろん写真も。小学生の子供一人抱えて、これから希望を持って前に進める人だと思った。
 大西洋をわたり本来ならベネズエラに向かうはずだったが、急遽先にドミニカに行くことになった。航行が30日間遅れたせいでベネズエラの選挙時期にぶつかり、情勢不安だし、反米の闘士・チャペル大統領が忙しすぎて対応出来ないということらしい。
 1986年、私は世界放浪旅の果てに死に場所を求めてドミニカの地に行く事を決意した。40歳だった。カリブ海を制覇するつもりで私はこの地を選んだ。壮大な夢があった。日本から出来るだけ遠く、日本人が出来るだけ少なく、海が綺麗でそれなりに安全な国。ラテンアメリカで一番激しいリズムと言われたメレンゲの響きがそこにはあった。しかし5年後、私は失意の内に現地を去ることになった。
 あと一週間後に私はドミニカの地を踏み、一体何を思うのだろうか?

 挨拶を交わして以来、桃井氏とは毎晩酒を飲んでいる。4日連チャンで朝3時頃までだ。世界の激動の地を回って来たカメラマンだ。彼のイベントはいつも沢山の聴衆が参加する。喋りもうまいから若い女がたくさん群がる。私は当然のようにそこに参加し、若い子と酒を酌み交わし、議論し、知ったかぶりを披露する。
 私も桃井氏に刺激されてか、前々から要請されていた船内企画を、ついに立ち上げることになった。桃井氏との話し合いなども含め、ピースボート主催の私の船内イベント「徹底トークライブ 団塊世代vs新人類vs若者世代」の企画書が完成した。出演者は元エリートサラリーマン、NGO活動家、フリーターなどなど。私、桃井さん、第63回ピースボートの最高責任者・上野祥一さんも参加する。


11月19日/航海74日目
<こんなイベント、百戦錬磨だったはずだが……>

 私のイベントの日。朝からどこに自分の身を置けば良いのか解らない。船内新聞は、にぎやかしくこの日のイベントを書きたてている。私は一日中緊張していた。食事も満足に出来ないほどだった。昨日も朝3時まで飲んでいたせいで胃液が逆流し、安定剤と眠剤を立て続けに飲んでその効果でやっと眠れるという状態だった。自分ながら不思議だった。こんなイベント、私は百戦錬磨だったはずだが……。


11月20日/航海75日目
<私にとって久々のステージは大評判だった>

 前夜22時30分から行われた私のイベントは、予定通り朝4時まで行われた。このイベントはどこでも大評判だったらしい。確かにそれなりにエキサイティングだった。ロフトプラスワンではそれほど珍しい光景ではないのだが、初めての人々にとってやはり新鮮なのだろう。サロンカリブには150あまりの人が集まった。80%は若者。このクルーズで初めての、酒ありたばこ自由の討論イベントだ。みんなの興奮度はたかまっていた。熱気が感じられた。私にとって久々のステージだった。


11月21日/航海76日目
<何が悲しくって運動会に参加するのだ?>

 今日は運動会だと。「何が悲しくって運動会に参加せねばいかんのか?」と、午前中、私は部屋に鍵をかけて一歩も出ず籠城していた。若者もジジババもこの運動会という妖怪に熱中し、これこそが「コミュニケーション」だとばかりに興奮している。「こんなに頑張って準備しているのに、なぜ?」と詰め寄られると、私はいっそう腹が立って来る。あの桃井氏が運動会に参加していると言う。まあ、いいさ。


11月22日/航海77日目
<桃井さんとの別れとある女性との出会い>

 悲しいかな、知り合って2週間弱のフォトジャーナリスト桃井さんと別れが近くなって来た。彼は明日船を降りるので、お別れのパーティーが行われた。
 カウンターバーに座ると、彼女(音)がいた。音は桃井さんのワークショップの会員メンバーだった。この音との出会いが私の船内生活を変えたかも知れない。遠くにいても、ただの笑顔が鏡に映し出されている彼女の表情を見ているだけでも楽しかった。絶対、私がこの音を注視していることを感づかれてはいけなかった。それが年老いた私の美学だ。むやみに近寄らないことを決めた。この船に乗って私が初めて意識した女性だった。ふっと彼女は、ドミニカで私が使っていた女中のマリサに似ている、と思った。(続く)



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ロフト席亭 平野 悠

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