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第127回 ROOF TOP 2008年10月号掲載
「大海原をゆくー世界一周103日間の船旅に挑戦 第1回」

第一章 横浜からダナン(ベトナム)へ
ロフト席亭 平野 悠

*平野から送られてきた写真が校了に間に合わず、本誌にはピースボートのイメージ画像を掲載しています。船上の平野を捉えた写真を見られるのはこのweb版だけです。

<〜プロローグ〜>

随分長いこと、60歳を過ぎてのバックパッカーとしての世界貧乏旅行は、体力や気力、それに旅人に取ってなにより重要な「好奇心」の点で無理だと思っていた。
自分にとって若いときからの宿望であった、「なにがなんでも世界100カ国制覇をしてやる」というテーマは、80年代の5年にも及ぶ旅でなんとか達成した。さらに1999年6月に決行した、東南アジア(タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス)の1カ月間陸路走破のしんどい旅──『旅人の唄を聞いてくれ』1999年/ロフトブックス)に詳しい──がトラウマになっていて、それ以降は、もうバックパッカーとして世界を回る事は生涯ないと思っていた。
しかし、いくら世界100カ国制覇したとはいっても、私にとって、まだ行ってみたい国や地域はたくさん残っていた。だが一方で、栄光の「バックパッカーの勲章」を持ち続けている私にとって、お金を払えば眠っていても連れて行ってくれる団体旅行など、なんの収穫も出会いも発見もなく、自分の生涯の財産にもならないと思っていた。
2008年の豊潤な東京の春が過ぎ、それなりの責任ある仕事から解放された初夏のある日。私はピースボート・世界一周船旅のパンフレットに出会った。このクルーズのポスターには、東京の至る所で出会っているし、参加した知合いは多かったが、自分が行きたいと思ったことはこれまで一度もなかった。これは若者達向けのクルーズであり、私みたいなジジイの参加は不似合いだとも感じていた。私の信念としては、一人旅こそが旅の基本であり、哲学が生まれ、そこにこそ世界を回る旅のダイナミズムがあり、日常では味わえない貴重なドラマの数々があると思っていたのだが……。
しかし結局私は、ピースボートに乗る決心をした。確かに旅人としては少々軟弱な手段ではあるが、「まだ見ぬ国を訪ねてみたい」という好奇心の方が勝った。それに、数百人が同時に乗船する船の上では、きっと日々、いろんなドラマが起こるに違いない。そんな期待を胸に、おそらく私にとって生涯最後の旅に出よう、と決断したのだった。



9月7日/晴れ/航海1日目<思わぬ見送り客と2人の個性あふれる同室者>

9月7日。朝7時起床。ちょっと早い朝食を食べ渋谷経由で横浜港に向かう。
前日、車で大きな荷物を桟橋埠頭のコインロッカーに置きに行ったために、今日はデイパック一つで実に身軽な出発だ。パッカーは「いかに持ってゆく荷物を少なく出来るか」にその旅人の質が問われるのだが、今回は3カ月半すべて船旅なので、今までの私の旅の中で最大限の荷物をバックに詰め込んだ。一番多いのは書物だ。まだ途中までしか読み切れていない本や、いつか時間が出来たら読んでやろうと思っていた未読本を、大量にバッグにぶち込んだ。
9時に桟橋埠頭に到着すると、ピースボートの係員から、「船の出発は12時から18時に変更しました」と告げられる。前回の第62回ピースボートの航海は、最終的に予定より10日遅れで帰航した。アメリカとアラスカで船体不備による出航停止を食らい、船主側と乗客が大もめにもめた。それを知っていた私は、さっそくの出航延期にちょっとしたドラマを予感していた。
旅慣れていると自負している私は、6時間の遅れはそれほど苦にならない。こんな事は世界を旅していれば日常茶飯事だ。どこまでも晴れ上がっている横浜の海を眺めながら、桟橋ターミナルの片隅でごろりと仮眠。ヨガマットが初日から役に立った。寝ころびながら読みかけの司馬遼太郎『跳ぶが如く』(2002年/文春文庫)を開く。ほとんどの乗客は、港町見物に行っているようだ。
14時過ぎ、ふっと見上げると、“かみくず”氏が前に立っているではないか(彼は私のネット掲示板の常連だ)。これまでの旅では見送りを受けた経験がほとんどないため、ちょっと慌てる。旅の出発はいつも一人と決めていて、これから始まる冒険とロマンに胸をときめかせるためには、一人ぼっちの孤独が美学と思っているのだ。今回は、mixiや掲示板、『Rooftop』誌上などで再三予告していたから、多くの人たちの知るところとなってはいるが、まさか誰かが見送りに来てくれるとは思ってもいなかった。
が、“かみくず”氏曰く、「自分は神奈川に住んでいて、これから会社に行く途中」とのことだった。とりとめのない話をし20〜30分で別れ、そうこうしているうちに、16時頃、通関のアナウンスがあり出航手続きに向かう。
外から見るこの船はペンキは剥げ相当なボロ船だ。船の建造は37年前。前航海の混乱もあり、悲惨な旅になると覚悟をしていたのだが、船内に入り指定されたキャビン(船室)に入ると、室内はそれほど悲惨ではなく、結構清潔そうで、窓もありベッドもきちんとしているので、ちょっと安心した。
旅の最大の問題の一つは、やはり同室者。今回は3人部屋だ。経験上、同室者が嫌な奴だときつい。陸路ならいざ知らず、船上では逃げ場はそうそうない。一番きついのは大いびきの持ち主。不眠症気味の私にとってはたまらない。そういうときには、断固キャビンを取り替えてもらう交渉をしようと思っていた。何しろ3カ月半の長旅なのだ。
船室に入って先に入室していた同室者と明るく自己紹介を交わし、ちょっとした雑談と船室生活のルールを決める。2人とも第一印象は悪くなく、ほっとする。しかしいい意味で(?)期待は裏切られた。まさかピースボートにこんなとんでもない男が同乗し、さらにはたった3人の私のコンパートメントに割り当てられるとは……。
同室のYさんは52歳、神奈川県出身、職業不明。趣味はギャンブル、競艇がなにより好きなんだそうだ。なんとこの中年男は、何か(ヤクザか借金取りか警察)に追われていて、一時身を隠すためにこのクルーズに乗っているようだった。詐欺師なのだろうか? どこぞの金を使い込んだのだのだろうか?
この男の背中には若干の入れ墨が入っており、本物のヤクザかもしれなかった。これは私の勝手な妄想ではない。出航4日目に船内の酒場で一緒に酒を飲んでいて、「実は当分日本にはいられない身の上なんだ」という一言から、おぼろげながら推理したのだ。しかし禿頭で中年太りで、腰の低い人の良さそうな外見は、とてもヤクザとは思えない。金は大量に持っていそうだ。
と、これらはそのほとんどが私の推測の域を出てはいないので、あらかじめお断りしておきたい。これから長い旅の中でゆっくり、徐々にこの男の素性を聞き出すつもりなので期待して欲しい(笑)。果たしてどこまで書けるのかわからないが……。
もう一人の同室者も紹介しよう。Sさんは58歳、福島県出身。本当に人の良さそうな禿頭の男性で、今年3月に町役場を退職、独身。日本から出るのは初めて。40年間勤めた新潟県境の小さな町役場(人口5000人、冬には3メートルもの雪が積もる)を定年間近にして退職。財政逼迫の折、「あんたは独身だし、退職間近。町を救うと思って……」と助役から懇願されたそうだ。その助役もSさんと同期入所であり、もじもじ下を向きながら通告され、あまりにもかわいそうなので辞め、いまは退職金と貯金を崩して悠々自適な生活をしているそうだ。趣味は、アマチュア5段の囲碁。日課は朝3時に起き、1日3万歩以上歩くこと、毎日30分自転車で近くの天然温泉に行くことと、昼から「暴れん坊将軍」と「水戸黄門」をテレビで観ること。この船に乗った動機は、「こんな生活を毎日していたらダメになる、何とかせねば」ということらしい。Sさんの、福島弁丸出しの喋りっぷりは実に好感が持てた。私も(実力は2〜3級ぐらいだが)囲碁は趣味だし、話は合いそうだ。「世界一周クルーズ」に乗ることを近所に伝えると、皆に「あいつは町から大量な退職金をぶんどり豪華旅行にいきやがる」とさんざんな陰口を叩かれたので、「俺はもう田舎には戻れないかもしれない。どこか外国にでも住みたいよ」と言う。「そりゃ無理だよ。語学の一つ出来るわけでもなく、何のつぶしもきかない。いくらお金があっても外国で生活するなんて……」と言う私を、うらめしそうに見つめていた。
これからの3カ月半、この人たちと同室で生活することになる。この2人に限っては、ピースボートが掲げる「反戦平和、世界の貧しい人たちに愛の手を! 米帝粉砕(?)」なんていう理念やスローガンなんて全く気にしていない風だ。ピースボート発案者の社民党・辻本清美代議士が聞いたら悲しむに違いない。素晴らしい。
18時過ぎ、夕闇の中鋭い汽笛をらし、色とりどりのテープが乱れ飛ぶ中、船はドラムを鳴らしタグボートに先導され横浜大桟橋を出航する。
19時過ぎに今回のクルーズ初めての夕食。500人規模の食事は2回に分かれており、決められた時間に会食するのだが、なんと私の回の組は80%が老人ばかり。それもほとんどが60歳は超えていると見られる。これには絶句してしまった。私は過去、これほどまでに老人ばかりの団体に出席した経験がないので、これは一種異様な光景だった。多分、若者達の食事は2回目に集中しているのだろう。公式の数字ではないが、乗客の割合は若者30%(ほとんどが20歳代)、老人70%といったところか?
確かに考えてみれば、3カ月半、費用150万近い世界一周クルーズに、30〜40代が参加するのはなかなか難しいとは思うが、それでもあまりに極端だ。キラキラした妙齢の女性達とお友達になれるだろうと、ちょっとは期待していたのだが、そんな幻想は一瞬にして吹き飛んだ(笑)。
同室の奇妙な3人組で、食事が終わってから船の前方にあるデッキ酒場「波平」で乾杯する。こういった酒はもちろん自腹。ビール等が500円前後。


■9月8日 晴れ 航海2日目<このまま退屈な日々が続くのだろうか?>

船は沖縄沖に向けて進む。退屈な船内では、相変わらず自分から話しかけてお友達になりたい乗客はいない。「お、いい女だな!」って思えるのは、20代の若い子のみ。仕事柄ふだん若い子達に囲まれていて、どうも20代の若い子は苦手なのだ(私には特にロリコン趣味はない・笑)。朝から同じ船室のSさんと囲碁三昧。五目の置き碁をしてもらっている。それでも4回に1回ぐらいしか勝てず、とてもいい勉強になる。Sさんとは、「下船までには初段になれるよう鍛えてあげる」という約束ができている。
食事は1日3回。長いこと1日2食の生活だったので、どうも腹の調子が悪い。やはり明日から昼食は抜こうと思う。しかし食べ物はおいしい。朝昼の野菜が取り放題というのもうれしい。
夕刻。デッキに出て海を見ながら、持参したマットの上で1時間半ほどヨガで汗をかく。本を若干読むが長続きせず。なんとなくあっという間に一日が終わってしまった。何か楽しそうな事件も起こらず、このまま退屈な日々が続くのだろうか? しかし、海を見てても飽きないし、これだけの乗客がいるわけだし、一応皆さんフレンドリーだし、なんといってもまだ2日目だ。飽きずにチャンスを待とう。まだ写真もほとんど撮っていない。



■9月9日 快晴 航海3日目<フォーマルディナーで被爆者に出会う>

朝、インターネット用のカードを購入。ウインドウズなので勝手がわからず、結局つながらないまま一枚3900円のアクセス時間オーバー。つながってもアナログ回線で写真もほとんど送れないと聞いた。これから3カ月半、ほとんどアクセス出来ないのもいいのかも思う。しかしそれでは『Rooftop』の原稿も送れないか。まあ、ダナンで下船したら、ネットカフェでも探して頑張るしかない。くよくよしても始まらない。船上にて一人ヨガ。1時間半後、びっしょり汗をかきシャワーを浴びる。
午後、事務局に行って自分の名刺を出し、ピースボートの責任者へのインタビューを申し込む。シンガポールからインドのコーチンに向かう船の中で応じてくれるという。ロフトの事はよく知っており、「インタビューを楽しみにしている」という返事をもらった。
16時、やはりヨガを1時間。私の現在の健康管理はこれだ。初めて船内を散策。小さいながらアスレの機械が数台、ほかにプールもある。300冊ぐらいの書架や談話室もあり、それなりに充実した日々が送れそうな予感。スペイン語の語学講習を受けようかと思うのだが、まだ人見知りをしてしまっていて、自分からクルーたちに話しかけたり質問したりすることもほとんどせず。
夕刻、フォーマルディナーが開かれる。ブレザーと白ズボン、靴で出席。みんなものすごく着飾っている。こういうのは実に苦手だ。私の隣の紳士は、原爆被災者でこの船に招待されているそうだ。同様の人たちが104人乗船しているとか。その紳士は私と同じ64歳で、被爆当時は1歳。自分はほとんど被爆の被害がなかったし、後遺症もなくて、原爆病は他人事としか思えなかったが、自分の息子が15歳で白血病で亡くなったそうだ。パーティの席上でもあり、それ以上のことを聞けなかったが、凄い話である。
20時より、高遠菜穂子さんのイラク戦争についての講演と、彼女が制作した映画の上映会があり、出席してみる。彼女とはロフトでも会っているが、何か話しかけるのは面倒で一乗客として見ていた。そうなのだ、今回のクルーズでは、私は一乗客として一人静かに乗るのだと決めていたのだ。
23時過ぎ、同室のSさんにこれから飲もうと誘われ、夜中の2時まで酒を飲む。焼酎を4杯。食事の時、毎回缶ビールぐらい飲むのだが、ちゃんと飲むのは乗船後初めて。この夜、なかなか寝つかれず。



■9月10日 曇り 航海4日目<どうやら台風が接近しているらしい>

朝方から曇天。風、波が強くなり船体が揺れ出す。台風が接近しているらしく、午後から船は揺れている。船は石垣島を越えたようだ。ベトナムのダナンまであと2日ぐらいか? 船内では船酔い者が続出。昨夜は相当な揺れで、自分も若干気持ち悪くなり、船酔いの薬を飲むことになった。みな早々と自室にこもりベッドに横たわっているようだ。私も軽症ながら早く寝る。



■9月11日 曇り 航海5日目<ピースボートに対する考えを改める>

夜、石川文洋さんのお遍路の講演があって聞きに行ったが、あまり面白くはなかった。それから図書室で、持参のMACノートでネットにつなぐため奮闘していると、ピースボートのボランティアが40〜50人集まり、熟年者と彼らの質疑応答形式の「原爆」の基本講座が始まった。そういえばこの船に104人の原爆被災者が招待されているのだった。しばらく聞いていたが、なかなか感動的な話だった。
乗船前までの私は、「ピースボートは金儲け主義じゃないか」なんて批判していたのだが、反省。こんなこと一体誰がやれるんだと思った。どこかで私も手伝いたいと思いながら、その場をそっと後にした。
『跳ぶが如く』はやっと第四巻が終わった。明後日はダナンに到着する。初めての寄港地だ。ベトナムにはあまり興味がないな。あとは、このMACがネットに繋がれば文句はないのだが。



■9月12日 曇り 航海6日目<名画の一コマのようなひととき>

波は午後から収まり始めたが、船の揺れは相変わらず。同室のSさんはほぼ食事もせず、ほとんどベットから起きない。私は平気だ。Yさんは、ほとんど語らず黙々とデッキに出て海を眺めている。根は明るい中年なのだろうが、今は何か思い詰めた風であり、彼が遠くの海を見ている表情は、あの『望郷』のジャン・ギャバンをイメージさせる。
午後、ダナン上陸説明会が開かれる。予定では明日14時、ダナン港に着岸予定だそうだ。「乗客の皆様はとてもラッキーです。この2日の船の揺れを経験したので、これからもう船酔いは怖くはないです」と、この2日のモンスーンとの出会いを説明していた。



■9月13日(土) 曇りのち雨 航海7日目<度重なる運行の遅れに乗客の怒りが爆発>

船が遅れ、着岸予定が延期になるという。
ということは、本日予定されていたツアーはほとんどキャンセル。大きなラウンジで説明会があった。紛糾し、血気にはやるオジさんの怒りが爆発。出航自体がはじめ7日、最終的にはさらに3日遅れ、出航時間は12時が18時になり、そして今回だ。ピースボートの係員に食ってかかるオジさん、オバさん。「船長を出せ! ちゃんと説明責任を負え!」と迫るが、係員は逃げの一手だ。これからこういうトラブルが続出すると見られるが、しかし私はその輪にはとても加わる気にはなれない。それよりも、このボートが担っている事の大切さに感動しているのだから……。
船は16時過ぎに着岸し、岸壁にはアオザイを着た女性や若者達が歓迎式典で出迎えてくれた。多くの若者が、一列に並んだベトナムの若者と手をつなぎ、バスで交流会・親善会に出発していった。
とても感動的な光景だった。本来ならばこんな事は政府がやらねばならないのを、ピースボートがやっている。こうやって青年達は国際意識を学んで巣立ってゆくのだと思うと、やはり胸が熱くなった。ピースボートを批判する連中は、こういう光景を一度でも見たのか? 過去の自分を振り返り、反省しっぱなしであった。
いろいろ揉めはしたが何しろ初着岸、乗客の大半は上陸し、船内に残っている人はほほとんどいない。がらんとした船内で一人夕食をとり、いつもは一杯なのに今日はガランとしたトレーニング室でランニングマシンで走ってみる。今月に入って一度も本格的運動をしていないので相当体力が落ちていると思っていたが、快調に5キロを34分で走れた。何かとてもうれしかった。



■9月14日(日) 晴れ 航海8日目<世界遺産ツアー、まるで感動なし>

朝7時より世界遺産の一つ、ミソン遺跡ツアーに参加(参加8000円)。ダナンよりバスで2時間あまり、遺跡は深いジャングルの中にあった。団体でゾロゾロと回るのは気が進まず、一人でジャングルの小道を汗をかきかき上る。遺跡は3〜4カ所に点在していた。保存状態は悪い。本当かウソか知らないが、長年の盗掘とアメリカ軍の無差別爆撃で破壊されたそうだ。規模は小さく、以前訪れて感動したカンボジアのアンコールワットなどとは比べものにならない。30分ぐらいで全て見終わって、何の感傷にも浸れず。
午後は、ミソン遺跡から発掘された数々が納められている博物館に。特に興味を持てず。その後ミソン市場に。沖縄の那覇にもあったし、中国やタイにも、つまり世界中のどこにでもある、雑多な市場だ。感動なし。市場でグミ(?)を1ドル買う。今回の旅で、船の中以外で初めての出費。
16時に船に戻ると船内アナウンス。「これから重要なお知らせがありますので、全員ラウンジに集合」。これは凄いことになりそうだとの予感がしつつ顔を出すと、「突如、船主の意向でこの船の船籍がパナマからセーシェルに変わり、その手続きのため、出航が一日遅れて明日になります」。
昨日とは打って変わって、オジさん達の怒りもあまり見られず。あきれて怒る気にもならない、という雰囲気が大勢を占め、特に混乱はなかった。
夕刻、何か血圧が相当上がっている気配。口の中が異常に辛い。降圧剤を飲み夕食はとらず、早めに床に着く。昨日のランニングと今日の真っ昼間の行軍が悪かったのか?
安定剤を飲むとスッキリしてきて安心した。
(次号に続く)




出航2日目、船長主催のフォーマルパーティ。みんな着飾っていたな。さすがに私も綺麗なおじさんに変身。みんなはしゃいで写真を撮りあっていたが、わたしゃ、恥ずかしくって早々に引き上げた

船の遅れに関しての説明会。おじさんの怒号がキャビンをこだまする。もう予定より4日遅れている。果たして正月まで帰れるかどうか? こういった抗議、不満に一切参加しないと誓って乗船したので、興味深く観察中。こういう船には全共闘世代が沢山乗っていて、怒らせると大変だ。暴動ー船長室占拠ーシージャックまで発展したら面白いかも?(笑)


ミソン遺跡ツアーに参加。何の感傷にも浸れず、「あ〜あ、遺跡巡りも飽きた」と思っただけだった

ダナンにて青年同士の親善交流に参加して、船の前で別れを惜しむベトナムと日本若者達。どっちが日本人かわからない。こうやって国際交流を通して若者達が国際人として成長して行くって良いな

夕食時、13歳の少年と17歳のハーフの女の子。「ここの費用はどうしたの?」と聞くと、ピースボートの懸賞論文に応募して一位になり無料で乗っているという。「学校は? 親は?」なんて野暮な事は聞けなかった

毎日船内新聞が発行され、ピースボート主宰の催し物から船客の自主企画が一日30本近く催される。この集まりはダナンにての街頭インタビュー「あなたにとって平和とは? 幸福な時とは?」の報告会。わたしゃ「取材」という事で参加した

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
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ロフト席亭 平野 悠

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