http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/ おじさんの部屋

第128回 ROOF TOP 2008年11月号掲載
「大海原をゆくー世界一周103日間の船旅に挑戦 第2回」

第ニ章 ダナンからシンガポールへ
ロフト席亭 平野 悠

9月15日(月) 快晴 航海9日目
<追われる男・Sさんからの相談にとまどう>

ベトナム・ダナンからの出港が遅れている。朝7時の予定が17時、19時、21時半となり、最終的に明日の7時に。延期の船内説明会は荒れ模様だった。ネットをつなぐとアメリカのリーマン・ブラザースが倒産。株価が大幅に下がっている。船内の一部の金持ちは震えている。
20時より、「what is peace?」という小さな集会に参加してみた。「あなたにとって平和とは?
一番の幸せとは何ですか?」という、ベトナムの若者に対しての街頭インタビューの報告会だ。20代中心に14人ほど。みんな本当にあっけらかんと話している。
自分たちの20代の頃は、ドラスティックな政治状況もあり、もっと深刻で一途な感じだった。参加者達には、全く左翼主義的な意識はない。ここでもピースボートのやっていることの意味を重く感じる。
私は「取材したい」と申し込んで、隅でじっと彼らの言葉を黙って聞いていた。ベトナム戦争を知らない世代が、戦争の「落とし子」である枯葉剤や劣化ウラン弾、撤去されない地雷の問題に関心を持っている。
夕食の時、13歳の少年が前にいた。「乗船費用はどうしたの?」と聞いたら、ピースボートの懸賞論文に受かって、無料で乗れたと話してくれた。隣の女の子は19歳、ローンで費用を工面した。その隣の28歳の子は、アルバイトで頑張って、150万ほど貯めたと言っていた。「なぜこの船に乗る気になったの?」という質問には、「とにかく世界一周船旅がしたかった」と言う。
夜、同室者3人でオープンキャビンで飲む。突然、Yさんが深刻な顔をして話しかけて来た。Yさんは何か東京でヤバいことをして、一時身を隠すためにこの船に乗り込んできたらしい男なのだ。気は優しそうだし、静かな五十男なのだが……。
「平野さんは飲食店をずっとやっていて、ヤクザもよく知っていると言っていたけど、実は自分は渋谷の経済ヤクザに追われているんだ。平野さんの知りあいのヤクザを通じて、話をつけてもらえないだろうか?」と、真剣な面持ちで尋ねて来た。一瞬、「こりゃ〜ヤバい」と思った。話から察するに、土地の売買関係でトラブルがあったらしい。 「そりゃ〜無理だよ。ちょっとは親しいヤクザの親分はいるけど、ヤクザと金銭が絡むと紹介した方も義理とか筋が絡んで自分の店にも迷惑がかかるかもしれない。ヤクザとはちゃんと線を引いて付き合わないとエラいことになる」と私は答えた。
「多分言えないだろうけど何をしたの?」「そのうち言いますよ」「いつまでも逃げているわけにもいかんでしょう?」私は尋ねた。
「そりゃ〜まずいっぺ。いかったらおらの田舎さ来たらいいっぺ。どうだい、おらの田舎の古家買わねんだか?」と、酔っぱらった同室のSさんが突然入り込んできた。「そんなこと、Yさんに迷惑がかかるよ」「いいっぺ、おら、もう田舎の生活は嫌なんだ。都会に住むしかないと思っているさ。村じゃ『あの野郎、役場から法外な退職金さとって世界旅行だとさ』って陰口叩かれているだ」「またSさんは無茶を言う、Sさんは都会生活は出来ないよ」と私は笑いながら言い、とりあえずはその複雑な話は終わった。


9月18日(木) 晴れ 航海12日目
<同室3人の足並みが乱れてきた>

朝10時から「明治維新から終戦までを考える」という企画に参加。聴衆は40人程度で若者はほとんどいない。乗客の自主企画に参加するのは初めてだ。話はちょっと真面目過ぎてあまり面白くはなかった。主催は「趣味で歴史を勉強している」という元トヨタのエリート退職組。
どうやら、我ら同室3人の足並みが乱れ始めてきた。いつも一緒にいたのが、バラバラな行動をし始めて来たのだ。それは当たり前だった。
Sさんが寝るのは20時前後、そしてなんと朝3時に起きて船内のウォーキングを始める。田舎では、毎日4〜5時間かけて3万歩歩くのが日課だったのが、船内は一周300メートルぐらい。まさか毎朝100周は回れず、「今日は1万5000歩しか歩けなかった」なんて愚痴っている。
お尋ね者(?)のYさんが寝床に着くのは10時頃。この人も朝5時頃起きてアスレルームに行ってトレーニングをしているらしい。
一方、不眠症気味のわたしゃ、寝るのが2〜3時なのだ。朝ご飯はタイムリミットの9時ぎりぎりで食堂に駆け込む。
その時間には、Sさんは何が面白いのか、たいてい船内イベントに参加している。そしてなんと、未亡人であるN子さん(61歳)に熱を上げていて、なかなか振り向いてくれないで悩んでいる。社交ダンスやフォークダンスにSさんが通っている姿はとてもほほえましい。「N子さんってSさんより4歳も年上じゃない。そんなんでいいの?」ってからかうと、「そうなんだっぺ、そこが悩ましいってことよ」って平然としている。面白そうな恋が始まる予感。
Yさんはほとんど一日中海を眺めている。「アァ、この船も相当日本から遠く離れて来たんだな」って思わせる後ろ姿。
狭いキャビンで夜中の1〜2時まで、一つしかない机を占領し、煌々と電気をつけて原稿を書いている訳にもいかない。私は夜はたいてい、フリースペースか図書室で過ごすようになっている。


9月19日(金) 晴れ 航海13日目
<シンガポール寄港>

昼前、船はシンガポールの港に接岸。シンガポールは淡路島と同じくらいの面積で、人口450万人、中国系が80%、マレー、インド系が15%。今航海2度目の寄港地を前に、船客がそわそわしだした。しかし私は、断固シンガポールに上陸するのを拒否するつもりだ。
25年ほど前のバックパッカー世界放浪旅の途中、マレーシアからシンガポールに入り、世界三大鉄道の一つ、シンガポールからバンコクを結ぶマレー鉄道に乗ろうと思ったのだが、「髪が長い」「身なりがヒッピーだ」と、シンガポールの国境で入国を拒否された。「貧乏旅行者は金は使わないし、事件ばかり起こして国の利益にはならない」ということなのだろう。そんなバカなと思ったが、私はただただマレー鉄道を全行程乗りたかったのと、なるべく多くの国を制覇したかったので、仕方なく国境の床屋で髪の毛を刈り、真新しいTシャツと靴を購入してやっと入国した。その時、「二度とこの国には来ない」と誓ったのだ。


9月20日(土) 晴れ 航海14日目
<船内の人間模様は実に面白い>

シンガポールは、世界三大ディスアポイントメント(=がっかり)寄港地と言われるくらい、旅人には評判が悪い。物価は高いし、国は驚くほど小さい。徹底的な管理社会、罰則主義、独裁国家だ。
しかし、あれだけシンガポールは嫌いだと言い切っていた私だが、実は船内模様をインタビューするためにテレコを買う必要に迫られ、ついに下船して町に出て買い物をしてしまった。
船内の人間模様は実に面白い。乗客は25〜30歳、55〜80歳がほとんどで、中年の働き盛りはまずいない。
しかし、やはり20代の子達との会話は難しい。若い子達も結構おじさんに気を遣ってくれて、「お仕事は? 海外は初めてですか?」なんて聞かれる。「え、仕事? 適当に……まあ休職中でして。外国?ええ、ちょっとは行っていますが……」ぐらいしか言いようもない。まさか「世界100カ国以上行って来ているよ」なんて、何が悲しくってそんな自慢をしなきゃならんのかと思ってしまう。
一方、ジジババの自慢話を脇から聞くのは面白い。名古屋から来たよく喋る機関銃オバさんと、大金持ち船旅マニアの貴婦人の会話はこんな調子だ。
「私たちは良い時代に生まれましたわね。ほほほ……あらガラパゴスですか? 良いところですよ。是非お行きなさいよ。南極も素敵でしたわ。わたくし船旅が大好きですし、先日はクーイーンエリザベス号で1カ月ほどクルーしましたのよ。もちろん“飛鳥”にも乗りましたのよ」だと。「この船の有料ツアーのガラパゴス探索は70万以上はかかる。簡単に言ってくれるなよ」ってツッコミたくなったが我慢した。 「クイーンエリザベスっていかほどの船賃がかかりますの?」「いえ、ねえ、2カ月の短期でしたので一日15万円ほどでしたわ。3年ほど前、やはりわたくしこの船に乗ったんでざあますが、1人部屋は寂しかったので今は3人部屋ざあます」ときた。この船の乗客の老人組は金持ちが多い。いわゆる勝ち組なのだろう。この船はリピーターが多い。3回目、4回目の乗船組はゴロゴロいるのだ。
私の「根拠地」である図書室にゆくと、パソコンと戦っているオヤジがいた。その姿があまりに必死なので、インターネットの繋ぎ方などを教えてあげた。長崎のある有名な童話系出版社の社長さんだった。留守を守る社員からの不平不満の中、「ちゃんと船から連絡が取れるのだったら許そう」ということで出てきたそうだ。彼は全くのパソコン初心者。社員達からマニュアルを作ってもらって、会社でも何度か練習して来たそうだ。しかしネット環境最悪な船上、うまくいくはずがない。「今日までに原稿の最終チェックしないと困るんだ……その原稿が受けられない……」と必死こいているのだ。彼には悪いが、これもまた愉快だ。


9月21日(日) 晴れ 航海15日目
<シンガポールの寿司屋で……Sさんの決断>

船は朝5時、港を離れ沖合に停泊する。波はほとんどなく静かだ。部屋の隣のフリースペースで、「平和の祈り」の集会をサークルを組んでやっている。外国人3人に日本人10人。今日は平和の日だそう。お祈りのテープが流れ、鐘楼を囲んでサークルになり手を繋ぎあって20分ほど瞑想する。こんなことに素直に参加出来るのも、コミニュティがしっかり形成されている船上生活ゆえだ。久しぶりに私も、心の底から平和を願い、世界をイメージ出来たのがすがすがしくうれしかった。
Yさんは相変わらず、黙って海を眺めている。「シンガポールに降りないんですか?」と聞くと、「シンガポールはちょっとヤバいんですよ。ここは日本の裏社会の連中も多いと聞くし……」と、下を向きながらつぶやくように言う。
昼過ぎ、私はYさんに「Yさん町に出ようよ。船の中ばかりにいると健康に悪いよ。人が集まる観光地には行かないから」と声をかけてみた。Yさんは渋っていたが、なんとか外に連れ出すことに成功した。
港のインフォメーションで「この国の一番大きなダウンタウンエリアに行きたいのだが」と、地下鉄の地図を差し出した。ちょっととまどった案内嬢は、港から12〜3駅先をチェックし、ここに行けと言う。
地下鉄を一度乗り換え、30分ぐらいかけてそのBEDOK駅に着いたが、ただの住宅街であった。私は、東京の浅草やNYやシスコのダウンタウンみたいなところをイメージしていたのだが、全く何もないところだった。帰るしかない。「Yさんごめんね。まさかこんな僻地に来るなんて」と申し訳なさそうに言うと、「いえ面白いです。前からこんな無意味なことがしてみたかった」とニコニコしている。Yさんの笑顔を見るのは、これが初めてだったかもしれない。
同じ地下鉄で帰るのも腹が立つので、帰りはバスにした。ショートケーキを半分に切ったような明るい色調の家が並ぶ、何の変哲もない住宅街の夕闇をバスは進む。綺麗だが、面白くも何ともない町並みが続くだけだ。
チャイナタウンに近づくと、立派な日本料理店があった。
「平野さん、寿司を食いましょう。僕におごらさせて下さい」と寡黙なYさんが、突然、力を込めて言った。
「えっ、日本料理店って一番日本人が多く集まるところでしょ。大丈夫ですか?」「いいんです。もう……」。しばらく重い空気が流れた。私は彼が次に何を言い出すのかドキドキしていた。
一瞬の沈黙の後、「いや、平野さんのお陰でなにか吹っ切れました。ありがとうございます」と深々と頭を下げられた。その顔はとてもすがすしそうに見えた。きっと彼なりに何らかの決断をしたのだろう。バスを降りると、足取りも軽く歩き出した。何か私もうれしくなった。
Yさんの目には、南国の夕日に照らされた涙がうすらと光っていた。言葉はいらない。何故か二人は感傷的になり、高そうな寿司屋の暖簾をくぐった。そして私たちは、何事もなかったようにビールで乾杯した。ふっと、Yさんは独り言のように、「この旅に来て良かった」とつぶやいた。「この旅、まだ始まったばかりですよ」と私は答えた。
結局私は、Yさんが何を思い、どんな決断をしたのか聞き出すことは出来なかった。私は、「まだこの航海は3カ月ある。ことの次第を聞き出すチャンスはあるだろう」と思った。


9月22日(月) 曇り 航海16日目
<ぼったくりに出会ったSさんの告白>

出港許可が下りず、船はシンガポール滞在4日目。食事が終わると、田舎者のSさんがカメラを買いたいので付き合ってくれという。
「えっ、持っていたデジカメは壊れたの?」「いや〜ちょっとなくしたんで……」「なくした? どこで?」「……こっぱずかしいので今まで平野さんには黙っていたっぺ。カメラ、ダナンでぼったくりにあっただ」と悲しそうに言う。私は思わず空を見上げた。
そういえば、どうも最近のSさんはおかしかった。シンガポールにもう4日もいるのに、上陸したがらず船上で囲碁しかしていない。初めての外国旅行で興奮しているはずなのに、おかしいとは思っていたが……。
ダナンでの2日目、私の後ろばかりついてくるSさんに、「Sさん、いつまでも金魚の糞みたいについていってるだけではダメだよ。幸いダナンは誰に聞いても安全な町だし、シャトルバスで市場まで行って、一人で町を一周してきてごらん。そこで現地人の素朴な親切に触れるのが一番、外国に来たという実感にひたれるよ」と教えた。そして午前9時、パスポートやカードは船に置かせ、ピースボート発行のIDカードと200ドルだけを持たせて、Sさんを船から送り出したのだ。
「あの日、シャトルバスで中央市場まで行っただ。それから平野さんの言うように30分ばかし町を歩っただや。ウロウロしているとバイクのお兄さんが近寄って来て、案内してやるからバイクの後ろに乗れって言うだ。おらはちょっと怖かったども、そのバイクの後ろに乗っただや〜。町を回ってからしばらくして、コーヒー屋に連れて行かれただ」
「バイクタクシーがYさんに声をかけてきたの?」
「うんだ。それからしばらく話してコーヒー屋を出るとき、そのバイクのあんちゃんは、おらが払おうとすると止めて、勘定を勝手に払っただ。貧しい国に行けば行くほどそこの人たちは親切だって、平野さんの言葉が思い出されて、ついうれしくなっただがやなぁ。そんでよ、『今度はおらが昼飯おごるだ』って言うと、じゃ〜自分さ知っている店に行こうっていうことでまたバイクに乗っただ」
「そこまではいい話だなあ」
「そうだんべ。そうしたら町はずれの路地奥の変なビルのバーみたいな所に入って行って、そのままその兄ちゃんはいなくなっただ。部屋に入ると照明が急に暗くなって、座っていると女が2人ほど出てきてだ、チーズやらなんかしらねえものが次々運ばれて来るだ。奥にはひげを生やした怖いあんちゃんが見張っていただ」 「それ食べたの?」
「チーズとかむいて口元まで運んでくれるだがや。食べるだ。そんで、女がおらの太ももを触って来たり、おらの手を胸に持っていったりしてきて。こりゃ〜まずいと思って逃げようとして『トイレ、トイレ』って叫んでだら、奥のおっかなそうな男がトイレまでついて来るだ。そんでまた元の部屋さ連れ戻されたっぺよ。その後何度も『ゴーバック』とか言って帰ろうとしたら、今度は部屋に鍵をかけやがっただ。そんで男がレシート持ってきて、500ドル払えって」
「そうなっちゃ後は、料金の交渉しかないな」
「『ノーマネー、ノーマーネー』と叫んだけど、男は、『あんたはこれだけ食べた、そんで500ドル払え』って。それでも『おら〜金もってねえ』って言うと、カメラとズボンの財布から200ドル取られただ。もう怖くって観念するほかなかっただ。外にほっぽり出だされるように出て、その男はタクシーを呼んでくれて船まで戻っただや」
「おいおい、凄いドラマだな。そこはぼったくりのバーだったんだ」
「でもデイパックの中までは絶対開けさせなかっただ。抵抗しただ。いい勉強になっだ」
 まさか日曜日の午前中、ダナンという田舎町でこんな事件が起こるはずがないと私は思っていた。しかし地元民からみれば、Yさんの帽子をかぶって赤いデイパックを担いで歩く姿は、まさに「鴨が葱を背負って歩く」ように見えただろう。私はおかしさがこみ上げてきて、思わず笑ってしい、「平野さん、笑う話ではないがや」と怒られた。 「社会主義国」ベトナムも変貌したなと痛切に思った。その昔、私が旅をしていた冷戦時代には、社会主義諸国ではそういう事件はまず起こらなかった。秘密警察が厳重な監視網を巡らせ、密告組織が出来ていたからだ。中国では、外国人との何か些細な暴力事件でも起こせば極刑が待っていた。だからそれらの国々は、我々貧乏旅行者にとっては極めて安全圏だった。物価は安いし、医者も無料だった。ただし一方で、私たちパッカーが好む怪しげな所は皆無で、名所巡りか美術館ぐらい。踏破した国数を稼ぐ対象でしかなかった。モスクワではちらほら売春婦が出没していたが、中国で売春婦を買えるなんて奇跡に近かった。その他の場所では、夜はただ宿で寝ているしかなかった。
それにしても、Yさんは凄い。初めての海外旅行で、何にも下調べしていないのだ。ベトナムの隣の国がどこかも知らないでこのツアーに参加している。血液型を聞くとB型ということだった。


9月24日(水) 雨のち曇り 航海18日目
<いざマラッカ海峡へ>

朝、「シンガポールの関係各省庁の点検が終わり出航許可が先ほど下りました。出港は午後1時になります」という船内放送があった。私がいた図書室では、乗客から拍手が起きた。寄港するたびに出港が遅れ、そのつど船側と乗客側が揉めていたが、本音では、この船旅がスムーズに進行してくれることを心から願っている。トラブル好きの私ですらそうなのだ。午後1時、船内にドラムの響きが心地よく鳴り渡った。そして船は岸壁をゆっくりと離脱した。
私の心は躍った。シンガポール港を出航すると、船はすぐにマラッカ海峡に入った。海上には、至る所に大小様々なコンテナ船が航行している。思わずPANTAの名曲『マラッカ』がよみがえってきた。I-PODに収録されている『マラッカ』を聴きながら、蒼い海原を眺め続けた。遠くの島影には海賊が潜んでいるんだと思うと、何か心が躍りドキドキした。



9月26日(金) 晴れ 航海20日目
<深夜の展望デッキで聞いたSさんの決断と告白>

Yさんが、忙しそうにレセプションとファックス室を何度も往復している。私は日々、図書館での原稿執筆や船内人物観察に追われていて、Yさんの事はどこか忘れていた。シンガポール以来、私たちはほとんど会話を交わしていなかった。起きる時間も寝る時間もまるっきり違っていたし、三度の食事でもほとんど出会うことがなかった。
夜、22時頃、私はいつものように「取材対象」とデッキ居酒屋で焼酎を飲んだあと、ふっと一人になりたくなり、最上階の展望デッキで星空を眺め、I-PODで森山良子の『さとうきび畑』の長い曲を聴いていた。なぜか今夜はこの曲が似合っていると思った。
目の前にふっと、Yさんの影が現れた。「平野さん、お話があります。お時間良いですか?」と消え入るような声で話しかけて来て、隣のビーチベッドに腰をかけた。私はあわててイヤホンを外した。「あっ、Yさん、元気にしていました?」と、私はこのところ寝顔しか見たことのない彼に答えた。
「僕、次の寄港地、コーチンで下船しようと思ってるんです」「えっ、下船する? またどうして……」「色々考えることありまして、この際、一気に自分の過去を清算するために、日本に戻ろうと思っています」「……どこかそんなこともあり得るなって思っていたけど……でも急ですね。とても残念です」「実は平野さんと寿司を食べてから、シンガポールのネットカフェから、横浜の妻と娘にメールを入れたんです。昨夜、船にファックスが届きました。詳しくは話せませんが……」それ以上は聞いてはならない雰囲気だった。
「そうですか。凄い決断ですね。それで、このツアーの料金は払い戻してくれそうですか?」「いや、それは無理でした。でも僕にとってそんなことどうでもいいんです。船内デスクは、日本に帰る手続きを全てやってくれて助かりました」「それは旅行会社なんで当然ですよ。コーチンから日本までの航空券はとれました?」「はい」
Yさんは仰向けになって空を眺めていた。長い沈黙が深夜の誰もいないデッキを支配した。私はYさんに聞きたいことはたくさんあった。しかし、会話はとても続きそうもなかった。Yさんの内面にまで入り込んで質問し続ける勇気を持てなかった。
「では……」と、Yさんは立ち上がった。「まだ、お話出来る時間はありますよね」と聞いてみた。Yさんは何も言わず、さわやかな“笑顔”だけを残して立ち去った。「ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ〜」森山良子の哀愁を帯びた歌声がエンジン音に紛れて、かすかにイヤホンから流れていた。(続く)




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ロフト席亭 平野 悠

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