http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/ おじさんの部屋

第120回 ROOF TOP 2008年3月号掲載
「春近し……」

<阿佐ヶ谷パール商店街で火事に遭う>

1月16日、北風がとてつもなく中央線のオレンジ色の車体を吹き付ける日だった。駅前広場から見上げる阿佐ヶ谷のプラットホームは、寒々として佇んでいた。 夕刻、阿佐ヶ谷ロフトAが開くまでの時間、私はパール商店街にある上島珈琲店で、コーヒーを飲みながら静かに本を読んでいた。この上島珈琲店は、阿佐ヶ谷ロフトAから30mも離れていない地点にある。確か17時頃だったか、突然私が席の真ん前の赤い非常ベルがけたたましく鳴った。

「リリリリーン、リリリリーン」



始めはこのくらいの煙だった

なぜかこの日に限って店内は満員状態。しかし「中央線の住民って凄い」と思った。お客さんが騒ぎもしなければ立ち上がりもしないのだ。私も、「まあ、この店古いし、火災報知器の誤作動だろう」と思っていた。中にいる店員も、あせった様子はない。
「一体いつまで鳴らしておくのだろうか?」と、私も読んでいた単行本を閉じ、店員のそぶりをぽけ〜っと見ていた。そうしたら、若干店内が焦げ臭くなってきた。でもあせるお客さんはいない。私は、「こりゃ〜本当の火事ではないか?」と若干あせったが、誰もが平然としているので私も平然を装った。


<「すみません〜。本当の火事なんです」>

そのうち、だんだん店内に入り込んでくる煙が濃くなってきたことを、私は感じていた。私が座っている席は、店の一番奥近くだった。煙は入り口から来る。入り口以外の非常口を探すがありそうにもない。これで出口がふさがれたら、これはやばいのではないかと思い、腰を浮かせようとした時、なんか頼りなさそうなアルバイト店員(?)が、 「すいません〜。これって本当の火事なんです。お客さんは全員店外に避難してください」と言うではないか。
「おいおい本当の火事? どこ?


5分も経つと黒雲とともに火が噴き出してきた

あっ、入口方面に煙がでてるぅ〜」と言う客の声が聞こえる。でも誰もが全くあわてていない。わざわざセルフサービスのカップを返却口に持ってゆく客もいるくらいなのだ。店員が、「片付けは結構ですから早く避難してください!」と怒鳴り始めた。私もそれはゆっくりほとんど最後の避難者として店の外に出た。火もとの2階のパーマ屋を見上げたとたん、猛然とどす黒い煙が吹き出してきた。しかも、半端でない凄い量の煙と炎が吹き出しているではないか。
次々とやってくる消防車と野次馬を尻目に、私は開演間近の阿佐ヶ谷ロフトAに急いだ。1時間後、外の火事騒ぎをよそに「アコギなSS(仲野茂(アナーキー)+下山淳(ROCK'N'ROLL GYPSIES))」の軽快なアコースティックライブを観ながら、「避難がもう5分遅れていたら、あるいは火の回りがもうちょっと早かったら、私は煙に巻かれて脱出出来なかったのかも知れない」とふっと思った。ひょっとしたら私は「命拾い」をしたのかも知れない。そして、果たして上島珈琲は私の飲みかけのコーヒー代は返してくれるのか? が気になった(笑)。幸い火事は、一人のけが人も出さなかったようだった。


<13年前、プラスワン開店直後の謎の火事>

もう13年も前になるだろうか? 私はそれまでロフトという店を何店も経営して、まだ一度も「火事」を出したことがなかった。どこかで「ロフトは火事は出さない」という自信もあった。
しかし1995年、出来たばかりの富久町「ロフトプラスワン」で、10日の間に2度続けて小火を出したことがあった。幸いその火事は、2回とも消火器で何とか消し去り、消防車出動までは行かなかったが、その原因はよく分からなかった。
「なぜ!


1月28日『週刊金曜日』PRESENTS「バブルに期待するな 格差社会上等宣言!」。阿佐ヶ谷のホープ、児玉っちが編集長の北村肇氏に、「『週刊金曜日』って左翼誌なんですか」と鋭い(?)質問をしていて、北村さんもたじたじ……

それも10日間のうちに2回も」と私は頭を抱えた。私は当時、プラスワンでレギュラーで出演していてくれた「精神世界系の超能力者」に診断してもらった。いつも霊界とチャネリングしているというAさんは、「平野さん、それはですね、この店が邪気に覆われているからですよ。そしてもっと悪いことにこの店の奥に、神棚と道祖神、神様が二つあることです。これではここに住んでいる霊がどこに落ち着いてよいか迷ってしまっています。このままだと不幸なことがたくさんおきます。早くどちらか一方を、もとあった場所に礼を尽くして返してあげてください」と言うのだった。
私は何回もUFOとも遭遇したことがあるし、お化けとも、亡き母親とも遭った事がある。だからそういう神秘的なことはすぐ信じる、素人神秘主義者なのだ。私は店にある神棚の掃除をし、御神酒をあげ、道祖神はお塩で洗い清めて、買った石屋に返しに行った。石屋のオヤジはびっくりして、「そんなこと聞いたことがない、そんなの迷信だ、嘘だ!」と言っていたが、私は強引に道祖神をその石屋に置いてきた(さすがに買った金を返せとは言えなかった)。そしてその石屋が半年後、跡形もなくなっていたのもとても不思議だった。霊界をバカにしてはいけない。だからロフト各店には、どこも必ず神棚があるのだ。


<血圧200を越える!>

寒い、この冬はことさら寒い。今年に入って私は、ついに冬の自転車通勤を断念した。そして60年間、断固「そんなジジくさくダサイ股引なんか履けるか」とばかりに拒否していた、ズボン下を履きだした。


今月の阿佐ヶ谷美女。あつまみ代300円だけ握りしめてくるお客さんでも、やさし〜く接待してくれると評判の「らぶみ」ちゃん22歳(?)

先週のある日、確か雪がちらちら降っていた深夜だった。よく覚えてないが仕事上のことで、部下と若干の言い合いをして多分少しは興奮もしていたのだろうか。阿佐ヶ谷ロフトAで若干の酒を飲み、そのままほろ酔い気分で自転車に乗って深夜20分ほど自転車をこぎ、永福町の銭湯に小一時間入浴して、また自転車に乗って自宅まで帰った。
多分、血圧には一番悪い「湯冷め」をしてしまったのだろう。家に帰り小一時間も、ぶるぶると震えが止まらない。翌日、血圧を測ったら、上が200-90とエラいことになっていて、慌てて医者に行った。医者は「無理してはダメです」と言って、ただクスリを増量してくれただけだった。そして私はまた、クスリ漬けになってゆく人生を歩み始めた(笑)。


かつて、時代の先端をゆく芸術運動・学生運動や新左翼諸党派が、今やなんの社会的影響力をも持たなくなってからもう30年近く経つのだろうか?
今月15日、若松孝二監督の怨念の作品『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』が、テアトル新宿ほかで公開される。若い人には是非観て欲しい。
あの時代、ロックが、フォークが、あるいは『あしたのジョー』や『カムイ伝』などのコミックが、学生運動や社会変革の巨大なうねりとリンクし大きな影響力を持っていた。時代は遠い昔の話になった。「〜立て! 飢えたる者よ〜暴虐の雲光を覆い敵の嵐は荒れ狂う、怯まず進め〜」「友よ〜、私たちの望むものは……」なんて歌は、今は誰も知らない。それなのに私たちの暮らしは一向に楽にならない……。どうする……希望は戦争か?
「不正義の平和よりも希望の戦争を」と、希望を失った若者達が叫び始めてさえいるのだ。


今月の米子

猫って呼んだって来ない。ご機嫌とっても愛想もない。が、時折なぜか、とてつもなく赤ちゃん猫になってすり寄って来ることがある。ほんのたま〜に……私は何時間もそれをただ待っている。どっちが主人だか分からんな。





ロフト35年史戦記・後編 第35回 新宿ロフトプラスワン編−3(1995年〜)
「世界初のトークライブハウス・ロフトプラスワン始動!」

<“face to face”の討論が日々生まれる場所>

1995年7月、私は無理くりながらも、なんとかトークライブハウス・ロフトプラスワンをオープンさせた。新宿というより四ッ谷の方が近い富久町は、悲しきバブルに踊らされ、町は地上げ後の虫食い状態だった。古くから住んでいた住人達はどこかに去っていった。地域共同体は崩壊し、残るはヤクザか、地上げブームに乗り遅れた老人か、繁華街の夜に働く連中ばかりだった。
出演者(一日店長と呼ぶ)がテーマを決めてゲストを呼んで話したり、映像や写真を見せたりし、それをお客さんが飲んだり食べたりしながら楽しむ空間。そのなかで私が最大限こだわったのは、イベントの最後に客席にマイクを振り、出演者と直接話せる機会を設けることだった。そこでは異論反論飛び交い、その場で出たテーマがすぐに俎上に載せられ議論されてゆく。お客さんに配るアンケートという形式ではなく、質問や異論を言う側もちゃんと責任を持つという意味で、挙手をして相手の目を見ての“face to face”の討論を原則とした。



初代1日店長はキース。右はG.D.フリッカーズのJOE

一方、私の「営業上」の方針はこうだった。飲食料金を普通の飲み屋より10〜15%割高にし、お通しを高くする。その分、出演者に最低交通費程度のギャラを払う。だからビールが600円、カレーなんか1000円も取っていた。もちろん、いわゆる講演のプロ、ライオンズクラブとか大企業で一時間何十万円も取って生活している文化人に出演を依頼する気はなかったし、そんな偉い人が私の店でしゃべってくれるとも思わなかった。
しばらくたってからだが、私はこんな店のコピー宣伝文も作った。
「アメリカ文化が世界を席巻している。映画、芝居、音楽、限りないパフォーマンスといい、その多様さは日本に住んでいる私たちに切れ切れに伝わって来るだけでも、いつも興奮させてくれる。NY、LA、サンフランシスコの夜を歩き回った人ならばわかると思うが、それは至る所で、教会やガレージや地下鉄の構内、道ばた、公園と、多種多様な自由な表現者によるイベントが開かれている。この圧倒的なサブカルチャーの軍団が、今のアメリカの世界に発信する文化の根源を支え“懐の深い国”と言わしめているように思う。
世界初といわれる“トークライブハウス”新宿ロフトプラスワンは、それぞれの地域や街の隅々に息づいている、あるい埋もれている、サブカル探しの旅から始まった。
当然ロックのライブみたいに3000円とかのライブチャージをとることは出来なかった。その日の主催者を“一日店長”と呼び、規制もタブーも取り払い、『一日店長は、お客さんの質問には誠意を持って答えなければならない』という、主催者側の義務をもうけた。そんな熟達したサブカル探しの“旅”を始めてみると、様々な発見があった。大手マスコミのテレビや雑誌、新聞で見ることが出来ない、とてつもなく面白い人、日本の現状を憂えている市民や右翼、左翼の人々、限りなく奥の深い、いぶし銀のこだわりを持った恥ずかしがり屋達、愛すべきオタクの群れ、エロ道にたけたスケベなんてものを遙かに超えた性的障害者がいて、社会から発言を封じられ、日陰道を行く伝統ヤクザの入れ墨者、忘れ去られ黙殺されてしまった“元犯罪者”の人々。私は直接、こういった人々と不特定多数の人々の前で、彼らの思い、こだわって来たことを聞きたいと思い、こういう空間を構築したのです」。


<ブッキングは予想通り悪戦苦闘の連続だった>

さて肝心のブッキングは、もちろん最初から毎日スケジュールを埋めるのは無理だったが、オープニングセレモニー10日間は、なんとか埋めることができた。しかし登場してくれた人たちは、その全部が私の友達関係か、その友達に紹介された人であった。「なんのことか分からんけど、平野が酒でも飲みながら話そうぜ!
っていうから来た」という連中がほとんどだった。私は、それくらいのテンションで充分だと思っていた。
第一日目のキース(ex.ARB)や、東京ロッカーズの産みの親の地引雄一さんや、元伝説のハードコアパンクバンド・非常階段のJOJO広重さん。当時オウム騒動三人衆の一人といわれ、ワイドショーに頻繁に出演していた二木啓孝さん。みんな、ロフトや私と繋がった連中だった。
もちろん、当初からハプニングがなかったわけではない。7月10日、あのパリ人肉食事件の佐川一政さんの登場には、「そんな日本人の恥さらしを出演させるのなら殴り込みにゆく」と、右翼を名乗る男からの脅迫電話さえあった。しかし私はそんなことは平気だった。どうせいつまで持つか見当もつかない空間である。混乱があって面白い方がいいに決まっている。それに火がつけば話題にもなると思っていた。
オープン直後の10日間は、ロフト新店舗としてのお祝いもかねて、多くの人々が駆けつけてくれた。しかし、新宿駅から遠いということもあり、お祝い期間が過ぎると、お客は全く来なくなった。
オープンして一カ月たったころ、一日の売り上げ(夕刻5時〜朝4時まで)の売り上げが600円という日があった。イベントのお客さんはゼロ。私の36年のロフトという空間経営で、この最低記録は未だ破られたことがない(ちなみに73年、一号店・烏山ロフトの最低売り上げ記録は2500円だったが、それすらも大幅に更新した)。

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<「店側にもお客や出演者を選ぶ権利がある」>

店を始めてみると、居酒屋である以上しかたがないのだが、みんな酒を飲み始めると、誰もステージの話を聞かないという事態が起きるようになった。
「一日店長のトークを無視しての雑談も結構ですが、やはり、わざわざ出演してくれる人は、これが言いたいためにここに来たというのがあります。その時、一日店長はこの鐘を鳴らすときがあります(プラスワンの店長席には、天井から鐘をつるしてあった)。その時は皆さん、ぜひなんとか聞いてやってください。もしそれでもダメなときは、一日店長はぷっつんして帰ってしまうか?



この店の規定で、一日店長は嫌いな客は実力で追い出せるというのがあります。店側は手伝いませんが、私たちはそういった立ち回りもショーとして楽しんでもらおうと思っています」なんて、前説でお客さんを煽ったりして楽しんでいた。
ロフトグループは、西新宿LOFT、下北沢SHELTERなどロック部門の営業成績は順調だった。何度も書くが、私がこのプラスワンを作った動機は、「自分のわがままに出来る居場所が欲しかった」ということだった。だから利益をあげることだけが中心課題ではなかった。すなわちどこかで赤字でも平気だった。
 予想したとおり、店は2年間赤字模様だった(笑)。私は、さらに好き勝手なことをやっていた。「ここは俺の店だ。店側にもお客や出演者を選ぶ権利がある」とどこかで思っていた。だから平気でイベントが気に入らないと出演者とお客さんともども、「ここは俺の店だ。俺のやり方に文句があるなら出て行け!」なんて言い放ったこともあった。イベントスタート時にゲストを呼び込んだ直後、私は店からの質問という形で、その出演者に遠慮なく好きなことを聞いていた(今はほとんどやらなくなってしまったが)。ブックする側の意図、なぜ今日のイベントはこの人なのか? ということをちゃんと店側も主張したいということだったのだ。
ロフトプラスワンのトークライブ企画を考えることは、「この50年、俺は何をしていたのだろう?」と、そんな思いを抱えながらの旅のようなものだった。気になる人、あってみたい人、不思議な超能力を持った人、こんな人たちを招請し、話し、質問し、その人の「こだわり」を聞き吸収する。
いざ、ブッキングをしてみると毎日が興奮の連続だった。そして、来店してくれる若いお客さんの姿勢も変わり始めた。トークの最後に行われるディペートコーナーでは、開店当初ほとんど手も上がらなかったのが、だんだん質問、反論、意見が出るようになって、朝までトークが続くことも珍しくなくなっていった。
「一日店長」がたじたじになることもしばしば見られるようになって来て、時には「殴り合い」も起きるようになった。本音と本音がぶつかり合う場、“face to face”の現場は、とてつもなく美しく見えた。開店して数カ月足らずで私は、ちょっと意見や思想が対立すると「ま、いいか」で終わってしまう、今の若者達の中途半端な論争をぶちこわすことが出来るのではないか、と思い始めていたような気がする。(次号へ続く)

■ロフトプラスワンオープニング月間スケジュール
7/6(木)「一度カウンターに入って見たかった」キース(元ARB)
7/7(金)「東京ロッカーズから雑誌EATERまで」地引雄一(EATER)/ 他
7/8(土)「結局オウムって何だったのか」二木啓孝(日刊ゲンダイ)
7/9(日)「私のコレクション−野球カードの巻−」JOJO広重(非常階段)
7/10(月)「華のパリ愛のパリ」佐川一政 / 他
7/11(火)「ひょうきんプロレス」ドン荒川(現役プロレスラー)
7/12(水)「世界を放浪して−正しいバックパッカー道とは?」飯沼康児 / 大窪浩
7/13(木)「Vシネマの存在理由−その制作プロセスと今後の展開」佐々木哲也(シナリオライター)
7/14(金)「新宿ゴールデン街」渡辺英綱(なべさん店主)
7/15(土)「西表山猫からワニの保護まで考える」山瀬一裕(自然環境センター理事)
7/16(日)「ウルトラマンに取りつかれた人生」ウルトラ語教授 / 今井朝幸(円谷映像プロデューサー)
7/21(金)「勝手にトゥナイト−あなたもbakaナTVレポーターになれる」せがわきり / 生江有二
7/22(土)「バリ島の夜(MALAM BALI)」バリ島芸能研究会会員 / 竹内邦愛 / 他
7/23(日)「アムネスティって何?」
7/28(金)「ゼロからつくるネットワーク術」金丸弘美(ライター)
7/29(土)「ALTERNATIV MUSICに世代交代はあるのか?!」Tigerhole Ken Isikawa / Nissie Nsimura
7/30(日)「東京大震災を生き抜くには」民間地震対策研究会 / 清水寛(建築家)


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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