http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/ おじさんの部屋

第119回 ROOF TOP 2008年2月号掲載
「LOFT IS BACK TO THE CHUO-LINE……中央線文化の復権を!」

<阿佐ヶ谷ロフトの雄叫び 今なぜ中央線なのか?>

「今、中央線がとても面白いんだ!」と叫び始めて数カ月。なぜロフトが阿佐ヶ谷に新店舗を出したのか、という疑問に答える意味で、私は執拗に各所で触れ回っている。だからこの間、いろいろなマスコミから「取材」を受けた。ちょっと宣伝っぽくなってかっこ悪いが、インタビュー内容はだいたいこんなところだ。


マスコミ「平野さん、今、なぜ中央線なんですか?」
平野「昨年の始めぐらい、そう、統一地方選あたりからだろうか? 「政府転覆」を公約に掲げ、一大センセーションを巻き起こしたアナーキー的都知事候補・外山恒一や、作家・雨宮処凛が煽動(?)する“プレカリアートの反乱”とか、そういう動きがあって。高円寺駅前でもつ鍋なんか食べるイベントやったり、『撤去自転車返せ! 家賃タダにしろ!』なんてデモで警察と追っかけっこをやっている松本哉君(素人の乱・リサイクルショップ経営)が杉並区議選に出たときには、中央線を中心に若者達がなんだかわからない感じで相当盛り上がった。中野の警察学校跡地問題や、国立や高尾の環境問題とかもあったし、土建屋(ゼネコン)と利権政治屋が駅前再開発がまだ遅れている中央線に狙いを定めてきて、いろいろな駅で若者の反乱が起きている。中央線には、お上に反抗する、『お前らの言うままにはならんぜ』って伝統があるんだよね。昔の京都みたいな雰囲気かな……」


<中央線文化はジャズ文化から始まった?>

1月16日開かれた「阿佐ヶ谷ロフトでなにかやりたい人集まれ」は60人近くが集まり、激論したよ。それでとりあえず「ミニコミ・チュウチュウ・トレイン(仮)」を発行することになった。お客が呼びたい人を阿佐ヶ谷に呼ぶ会も発足予定。詳しくはホームページをご覧下さい

平野「そう言えば、貧乏文士と猫の町って言われている(笑)西荻窪なんか、朝から酒飲んでぶらぶらしていても、そういう連中が沢山棲息しているから目立たないし、住民から何も変な目で見られない(笑)。高円寺には“無頼の徒”の若者が駅前を闊歩している。中央線の一駅一駅を分解すると、とても面白い事象にたくさん出会う。中野はいつの間にか「オタク」な町になって丸井が逃げ出したし(笑)。
中央線文化発信が盛んだった70年代〜80年代初期には、三寺文化(高円寺・吉祥寺・国分寺)といって、数多くの文士やミュージシャン、芸人、漫画家がこの沿線には棲息していたんだ。フリージャズの大御所・山下洋輔さんや矢野顕子さんは荻窪に住んでいたし、はっぴいえんどの面々は福生に住みついた。中川五郎、高田渡、友部正人、シバ、南正人、三上寛とかの中央線フォークの連中は、吉祥寺のぐぁらん堂にたむろしたり、小さいけれどヒッピー文化の流れをくんだ自給自足なコミュニティを作っていた。特にこの辺(中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻、吉祥寺)は、ジャズや古着、古本なんかの素晴らしい情報を発信し続けていた。『名前のない新聞』なんて吉祥寺発のロック系ミニコミもあって、それが僕ら若者文化を代表していたのかな」
マスコミ「吉祥寺が中心だったんですか?」
平野「やはり、リズム&ブルースやロックはあまり受け入れるそぶりはなくって、吉祥寺の“ファンキー”(この店はレコード3万枚とJBLパラゴンのスピーカーシステムがあって、そこから素晴らしい音を出していた)を中心としたジャズ文化が主流だった。ジャズを聴くヤツは偉いっていう風土はあった」


ごった煮の町、変な飲み屋、古本屋、インド屋、パンク、ヒッピー、エコロジー……>

平野「いわゆる自由人にとってはムチャ住みやすい、住んだらやめられない中央線。物価も絶対安いよね。いまだに3万円台の安アパートも、銭湯もたくさんある」 マスコミ「過去、ロフトはフォーク系の西荻窪ロフト(73年オープン)やロック系の荻窪ロフト(74年オープン)があって、そこから音楽文化を発信し続けていた。しかし80年代に中央線から撤退した理由は?」
平野「う〜ん、まっ、僕がたくさんの店を持ち、維持することに興味がなくなったっていうこともあるけど、やはり80年代になると文化発信の拠点が下北沢や自由が丘、代官山なんかに移行した。中央線文化は『ダサイ!』って言われて、どんどん取り残されてゆくんだよね。80年代は“文化=オシャレ”ってことだったんだろうけど。でもさ、そんな軽薄な文化は、やはり新宿や渋谷、原宿、六本木に軽〜く取って変わられてしまうんだよね。いわゆる巨大ターミナルを中核とした文化に。だからロフトもその拠点を新宿に構えた」


我が阿佐ヶ谷が誇る美女軍団だ(お持ち帰りはご遠慮下さい)。(左)Qちゃんは目下MMK(もててもてて困る!)。(右)さっちゃんは幸子と言うんだホントはね。でも可愛すぎるから「さっちゃん」て呼ぶんだよ

マスコミ「中央線のロフトは、多くの今活躍のミュージシャンに活動の場を提供し続けていた」
平野「まあ、その時代、演奏出来るライブハウスがほとんどロフト以外なかったしね。当時、東京のロック系のライブシーンをリードしていたのは、ロフト(西荻、荻窪)と曼荼羅(吉祥寺)とJIROKICHI(高円寺)だったけど、それが70年代後半には、渋谷にあの伝説の“屋根裏”やキャパ1000人の大型ライブハウス“ライブイン”(テアトル東京系)が出現し、六本木に“ピットイン”、新宿に“ルイード”、代々木に“チョコレートシティ”が出来て、こりゃ〜ロフトもターミナルに進出しなければ時代に取り残されるな? っていう危機感はあった」
マスコミ「そして時代はさらに変わっていった?」
平野「そうなんですよ。今や新宿も渋谷も下北も町並みが画一化されて、有名チェーン店が並び、監視カメラと警官が監視する町になってしまった。もう、全国どこの都市に行っても同じ風景が広がる。僕の大好きな混沌としたカオスの町・歌舞伎町も、コドモしかいない渋谷も死に体でしかなくなっている。では今、どこの町が面白いか?時代の先端をいっているのか? って眺めても、まさかオタクの秋葉原でも、格差社会の代名詞、ミッドタウンやヒルズのある六本木でも、ましてや恵比寿でもないと思うし、やはり中央線だよねって直感的に思ったの。
一言で言うのはちょっと難しいけど、中央線、特にこの阿佐ヶ谷なんか見ていると、まさに昭和中期のレトロな臭いがむんむんしていて、商店街の路地に行けば、髪の毛逆立てたパンクファッションのお兄ちゃんが地元のおじいさんや婆さんと仲良く話しているんだ。日本人が失ってしまった地域コミュニティ(共同体)がまだ生き残っているんだよね」


正月の正しい過ごし方は、「食う、寝る、見る」なんだそうだ。私はそこに「読む」を付け加えたい。ここ数年、大晦日は(いくら視聴率が下がろうと)紅白を半分観て、年が明ける1時間ぐらい前に家を出て、「新年は一人銭湯で迎える」という、ぽつねんとした恒例行事にをこなす。そして正月三が日は、毎年、10冊近くの本を買い込んで過ごす。そのうち5冊は読み終わった(『一瞬の風になれ』全3巻(佐藤多佳子著/講談社/06年)『僕の歌・みんなの歌』(森達也著/講談社/07年)『ゴールデンスランバー』(井坂幸太郎/新潮社/07年)『獣の奏者』全2巻(上橋菜穂子著/講談社/06年)『愛国者の座標軸』(鈴木邦男/作品社/07年))。あと5冊、1月中には読み終えたいな。


今月の米子

我が家の4匹の猫軍団が新年のご挨拶。……あけおめ……。上から米子(♀・2歳・アメリカンショートヘアー)、黄色い猫がO君(♂・2歳・スコティシュホールド)、大御所テル(♂・7歳・捨て猫)、臆病者のマロ(♂・5歳・捨て猫)





ロフト35年史戦記・後編 第35回 新宿ロフトプラスワン編−2(1995年〜)

「激動の1995年とトークライブハウス誕生秘話」

1995年は大変な年だった。1月の直下型大地震・阪神淡路大震災から始まり、3月にはあのオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり社会は騒然とした。社会全体が暗くくすんでいた時代だ。この連載で詳しく触れた通り、「新宿LOFT立ち退きの戦い」は東京高裁で調停・和解へと話が進んで、ビルオーナーと我々の間には合意形成が出来つつあった。10年もの間日本を離れていた私は、ロフト立ち退き闘争は出来ても、もう日本のロックの最前線に戻ってライブハウスロフトの指揮をとることは出来ないことは充分理解していた。だから戦い済んで日が暮れたロフトには、もう私の居場所も、するべきこともなかった。ただ一方で、ロフトを管理するいわゆる銭ゲバ社長になる気はなかった。
私はもう50歳近くになっていた。「もう私らジジィがエラソーに出来る時代ではないのだ」という空気を、この時代ほど強く感じたことはなかったかもしれない。時代を担う若者達が、「今の時代で良いのだ」と言っている以上、私など表舞台に立つことは必要ともされていないのだと痛感していた。

<NO TALK NO LIFE……話さずにはいられない>

50歳という人生の節目を前にして、私は「何をなすべきか?」という重い課題に直面していた。私はひとりひっそりと、「自分探しの旅=自分の居場所作り」の模索を開始していた。そして行き着いた結論は、世界初のトークライブハウス空間の構築だった。
一体何カ月間、この「トークライブハウス」の構想にはまっていたのだろうか?
もちろん、ロック野郎ばかりだったロフト社内では全くこの企画は理解されなかった。だから店舗探し、スタッフ募集、ブッキング、内装……全てほとんど私一人の作業だった。「NO TALK NO LIFE」のコピーもタワレコからパクった(笑)。幸いにも私には、過去10軒近くの居酒屋やライブハウスを創ったというKNOW HOWの蓄積があった。しかし、なにぶんにも初めての試みだ。店舗を構え、商売として成立するのかどうか私にもわからず、不安はいつもあった。

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<店舗物件探しの難……突然のキャンセル>

新しい店「トークライブハウス・ロフトプラスワン」の店舗物件探しは、なんとも困難を極めた。この構想は、雑多で怪し気な町・新宿だから出来るのだと思った。私が欲しい面積は40坪だった。数々の不動産屋、「トークライブハウス居酒屋を作りたいのですが?」と申し込むと、「ライブハウスには貸す物件はない」という返事がすぐ返って来た。当時でも「ライブハウス」は、どこでも騒音問題やゴミ捨てなど、いろいろ近隣住民とはトラブルを持っていたのだ。ましてや、つい先日まで「立ち退き問題」でマスコミや世間を騒がせたロフトである。新宿の不動産屋さんはみんなこの事件を知っていた。いくら「バンド演奏はやりません。トークのライブハウスなんです。わかってください」と説明しても、ほとんど理解されなかった。
毎日毎日、店舗物件を探すこと数カ月。95年5月、やっと地下鉄・新宿三丁目駅前、新宿御苑の近くに35坪の物件を見つけ、オーナーからの内諾をもらった。新店舗のロケーションとしては申し分なかった。
やっと物件が決まり、私はスタッフ集めから内装工事準備、トークライブの企画、宣伝と大忙しになった。工事日程も決まり、スタッフも募集し、ブッキングにも取り掛かった。
店舗契約当日、無常にも不動産屋から電話が入った。
「ビルのオーナーさんより、この物件の賃貸借契約をキャンセルしたいと言って来ているんです」冷たい声が電話口から聞こえた。「そんな馬鹿な、口約束だけど仮契約もしているし、もうこちら側はどんどん準備に入っているんです。何とかなりませんか?」と私。「ビルオーナーさんがロフトさんのことを調べたらしいんです。それで『このロフトという会社はとても怖いらしい。新聞で立ち退き問題を読んだ』と言っています。『そんな会社に貸せない』と一点張りなんです……」もう、どんな話し合いをしようと無駄だった。貸し主側の一方的キャンセルだったが、こちらが頑張る法的根拠は薄かった。私はまた、物件探しの不動産屋巡りをすることになった。今度は時間的に余裕はなかった。雑誌などの広告〆切もあったし、出演者のブッキングもそれなりに完了していたからだ。
やっと見つけた物件は、靖国通りに面してはいるものの、新宿駅から歩いて20分、新宿厚生年金会館より先、新宿より四谷に近いという新宿富久町。広さは35坪。最寄り駅は、地下鉄丸ノ内線の新宿御苑駅、徒歩4分だった。富久町は、地上げ屋に食い荒らされた死んだ町だった。果たしてここまでお客さんは来てくれるか、と心配だった。

<ブッキングとスケジュール告知も困難を極めた>


オープンを告げるマスコミ記事。前代未聞のコンセプトの店らしく、中には微妙にズレている見出しがあるのも御愛嬌(笑)

先月も書いたが、一番苦労したのはやはりブッキングとスケジュールの告知であった。何しろ前代未聞のトークライブハウス、出演を依頼しても、先方が何のことだか解らないのだ。ロック系ミュージシャンには、「俺たち楽器やったり歌を歌うことが仕事で、喋るのは無理だ」といたるところで言われた。それなりに有名な文化人に出演交渉すると、「酒の席で私に喋れと言うのか? みんな酔っぱらって誰も話を聞きやしないじゃないか?」「何、ギャラはお客が飲食した分の20%? 固定ギャラはないのか?」「客がタバコを吸うところではやらない……」などなど、散々だった。
さらに困ったことは、情報誌『ぴあ』からスケジュール掲載拒否にあったことだった。開店前、ぴあ本社を訪れた私は、担当者から「明日にでも会議にかけます。多分大丈夫ですよ」と内諾は受けていたのだが、返事は、「“トークライブ”というカテゴリーが誌面上ないこと、ロフトプラスワンの情報を載せるとありとあらゆる情報を無条件で載せなければならなくなり、収拾がつかなくなる」というものだった。
「ありとあらゆる情報を載せるのが、いわゆる情報誌の基本的ありかたではないか」と反論するが、もうこの時代の『ぴあ』は、立ち上げ当時の30年も前の手作り情報誌とは違って、利益を追求する巨大企業の構図ができあがっていたからか、こんな小さな、ワケのわからない日本に一軒だけの「トークライブハウス」に誌面を割く余裕はないということだった。
とはいえ、サイは投げられたのだから、私は腹を括った。35坪の店のど真ん中に掘りゴタツ式の席を設け、「この居酒屋でたぶん、一番面白い話をしているのはここだろう」という感覚で、そこにマイクを持ち込んだ。出演者を「一日店長」と呼ぶことにし、その出演者はその日は全部自分の思うがままに仕切れるというスタイルにした。そうやって、とにもかくにもオープンに向けて動き始めた。(続く)




『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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