第115回 ROOF TOP 2007年10月号掲載
「Asagaya Loft 〜Loft is Back to The Chuo Line〜」

<「どこにも居場所がない」おじさんの憂鬱>

この半年ぐらい、自分の居場所がどこにもないことに気がついていた。家も職場も、自分の周辺の全てが、それは使い古した鉄くずのように何もかもが無意味に見えた。

毎日1時間近く、自転車を漕ぎながら神田川沿いを通って新宿の会社に行く。途中本屋に寄ったり、気に入った喫茶店でコーヒーを飲み本を読んだり、映画を観たりしながら、時間を気にせずそれぞれの町の表情を探索しながら会社に向かう。会社に着くと、自分のデスクに座ってネット囲碁なんかをやって、ウトウト昼寝なんかして時間をつぶし、夕刻、そっと会社を抜け出して酒を飲みに行くかアスレチッククラブに行く。 「なんて素晴らしい日常なんだ。みんな仕事にあくせくしているのを尻目に、俺は寝たいだけ寝てここまで自由勝手で気ままな生活を楽しんでいる」と、みんなに自慢し誇りにすら思っていた。この会社の創設者である私は、会社にいても誰も仕事を言いつけてくれない。会社の管理という仕事は大嫌いだ。怠惰でめんどくさがりやの私はそれができない。

しかし、「どこにも居場所がない」ということは、私にとって相当に深刻な問題だった。さらには、どこにも、誰からも必要とされていない悲しい自分を見ていた。しかしこれも、「老兵の宿命」としてどこか観念的に受け入れようと思っていたのだ。だから、そろそろしおらしく会社を退職することまで考えていた。還暦を過ぎ、世間一般的には退職年齢に達した私は、マジに老後と向き合うことを考え始めていたといえる。

私は猛暑の中、汗を流しながら懸命に「本当に会社を辞めないとダメなのか? どうして会社を辞めたいのか」を真剣に考えてみた。そしてどうして辞めたいのかを全部書き出してみた。書き出せば書き出すほど、会社を辞めることに迷いが出た。


<友部正人「一本道」が中央線を呼んだのか……>

この猛暑だった8月の初め、私は暑さと倦怠感に襲われ相当落ち込んでいたようだ。これは、私特有の孤独願望病といえばいいのか、一人ぽつねんと過ごす時間が多くなった。そんなときいつも私は、過ぎ去った過去、キラキラした面白かった時代を回想する。

突然、私は何の因果か「テーマは中央線だな」って思った。そんな気持ちになったのも、パソコンから、友部正人の曲が切れ切れに流れていたせいもあったのかも知れない。

「ふと後を振り返ると/そこには夕焼けがありました/本当に何年ぶりのこと/そこには夕焼けがありました/あれからどの位たったのか/あれからどの位たったのか……ひとつ足を踏み出すごとに/影は後に伸びていきます……僕は今/阿佐ヶ谷の駅に立ち/電車を待っているところ/何もなかった事にしましょうと/今日も日が暮れました/ああ中央線よ空を飛んで/あの子の胸に突き刺され……どこへ行くのかこの一本道/西も東もわからない/行けども行けども見知らぬ街で/これが東京というものかしら……」(「一本道」)


<過去ロフトが中央線に残したこと>

ロフトA(阿佐ヶ谷ロフト)立ち上げメンバー。 (左より平野・テツオ(店長)・佐々木(副店長)・ミト(工事責任者)・ウクレレ(遊撃隊長))

30数年前、私は京王線の千歳烏山にほんの7坪の小さなジャズスナックとして、最初の店を構えた。そこから、中央線の西荻窪にフォークを中心としたライブハウス・西荻ロフト、隣駅の荻窪にロックライブ中心の荻窪ロフトを開店した。まだライブハウスなんて言葉もない時代であった。

当時、東京では三寺文化(高円寺・吉祥寺・国分寺)に勢いがあって、それに触発されるように中央線各エリアには多くの若者や表現者達がいて、あらゆる文化の震源地となっていた。活発で刺激的な文化が中央線から発信されていた時代だった。70年代には世の中を変えたいと考える若者が沢山いた。もし中央線文化を新宿から八王子までとするなら、その沿線には横田、立川、府中といった、在日米軍の主要基地が数多くあったからかも知れない。世の中を変えたいという若い世代や表現者の中には、政治運動だけではなく、文学、のみならず美術や音楽、演劇、ファッション、映画などあらゆる表現形態において、「今」を変えることへの可能性を見いだそうとした運動も生まれていた。


<中央線に乗ってあらゆる文化が有機的につながってゆく、か?>

私は、中央線沿線文化は今また花開こうとしていると思った。私がその中でも一番注目したのは、政治色は嫌うが世の中を変えたいという連中が沢山いることだった。その中でも一番目をひかれたのは、やはり高円寺の「素人の乱」や「こわれ者の祭典」の若者達の行動様式だ。中野駅周辺開発問題、国立や高尾山の自然を守る会など、無数の市民運動があり、雑多な表現者や運動者がいたる所で小さな「反乱」を巻き起こしていた。

私はこの地に何でもありの空間を作ることに決めた。中央線のあらゆる雑多な文化や運動者を主体として、オタクやニートやエロやお笑いやいわゆる文化人や左翼や右翼や音楽が、有形無形でどこかで有機的につながれば、きっと何か新しい何かが生まれると思った。今回は思いきり中央線にこだわって、そこに外からの血を混ぜようと思う。一体どんな色になるのか? 偉そうに言えば、テーマは「土着化」であり、寄せ鍋風文化の発信になるのかも知れない。


<「Asagaya Loft」は二つの顔を持つ>

阿佐ヶ谷はジャズの町だ。パールセンターはジャスストリートと呼ばれている。 明日(9月21日)より店舗工事が始まる。

私はこの夏、自分の居場所とロフトの次の新しい展開を求めて中央線での店舗物件探しに精力的に動きまわった。そしてついに先日、阿佐ヶ谷駅周辺に店舗物件を見つけたのだ。

場所は駅から徒歩2分、駅から傘なしでゆけるパールアーケード街の地下1階。約60坪だ。先日ついに契約を済ませた。

この店は二つの顔を持つ。一つはトーク中心のライブスペースで、椅子テーブル付きで約70人収容。ライブ時間にはあまり制限を設けないつもりだ。その隣がバースペースでオープンは夜8時〜翌朝4時まで。ライブより1時間遅れでオープンし、ライブを観に来た人でも観ない人でも、バースペースには入れて談笑できるという、画期的な仕様にするつもりだ。すなわちこの店の狙いは、ライブを観に来る人とバースペースで酒を飲んでいる雑多な人々との融合なのだ。そしてここで怪しげな密談が始まり、東京中、いや日本中に拡散してゆく……なんていう大それた夢を持っている。


今月の米子♥

何をねらっているのか米子? アメショーは猫の中でも最も人間と親密になりやすい動物と言われているが、ハンターとしての戦闘能力は抜群だ。なんで米子って名前をつけたのかって? 何回か言った事あると思うけど、彼女が食べるもの(お米)に困らないようにさ(笑)。名付け親は私だ。





ロフト35年史戦記 第31回  新宿LOFT立ち退きへの戦い─4(1994年)

<ロフトの鼓動は停まらない>

1992年に始まった西新宿LOFTの、ビル側提訴による明け渡し請求訴訟の一審判決は、「ロフトは立ち退き料を貰って出て行け」というものだった。日本のロックシーン、若者文化を約20年近く支えて来た新宿LOFTの重要性をあまりにも無視した判決に、ロフト側は音楽活動の文化的・芸術的意義を主張し、東京高裁に控訴した。

裁判と平行して、「新宿ロフトと音楽文化を守る会」(代表は当時ユイ音楽工房第一制作部長だった土屋浩氏)が結成され、署名運動を始めた。このロフト問題はマスコミで大々的に取り上げられ、「ロフトの大家は日本の全ロックファンを敵に回した」「日本のロックの聖地の危機」と煽り立てられ、報道は過熱していった。そして署名運動の集大成と東京高裁へのアプローチとして、100名にも及ぶミュージシャンやあらゆる分野の表現者主導による新宿LOFT存続支援イベント「KEEP the LOFT “で で で 出てけってよ”」を7月に日比谷野音で開催した。

以下、当時の新宿LOFT店長でこの騒動の渦中にあった、現ロフトグループ社長・小林茂明の回想だ。


<なんであんなに盛り上がったんだろうか?>

ロフト存続運動は大変だったな。自分にとってもこんな大きなイベントを仕掛けるのは初めての経験だった。毎夜打ち上げでミュージシャンなんかとオダあげて飲んでいたのが、それがいつの間にか信頼関係ができて力になっていったんだと思う。なんで2カ月あまりでロフト存続署名が1万8000名にもなったのかって? ……たしか始めはチラシ配ってロフトが開く前とライブが終わった時、店の外に机出して署名用紙を置いたのかな? あの反響は凄かったな。別にこちらからお客さんを煽った訳じゃないんだけど、ライブに参加した客の8割がたは署名してくれた。それも長いこと並んでさ。それがさ、マスコミに報道され全国に飛び火したんだ。地方からもどんどん届くようになって……。署名用紙が勝手にどんどんコピーされて行った。弁護士からは、このコピーでの署名は裁判で有効にはならないって言われてあせったけど(笑)。


<ロフトの危機を救うべくミュージシャンが続々と集まってきた>

「KEEP the LOFT “で で で 出てけってよ”」のイベントの前に、署名運動とともに過去ロフトに関わった文化人やジャーナリスト、ミュージシャンなんかに激励のコメントを貰おうっていうことで活動始めたら、一挙に200近くのコメントが集まってさ。いつの間にか(イベンターの)ホットスタッフの太五から、「7月に野音空けたよ」って連絡があって。その時は「たった2カ月で野音のコンサートが出来るわけないじゃんか?」って思ったけど、もうキース(元ARB)や仲野茂(アナーキー)や稲田錠(G.D.FLICKERS)なんかが動き出していて、スペシャルユニットがどんどんできていて、俺としてはみんなの熱気に任せるしかなかったな。悠さんは、「お前ら若造なんか市民運動一つやったことないわけだから、何も出来やしないよ」っていう顔してたから、結構意地になっていたのかも知れないな。失敗したってどうせ裁判にも負けたし、後は「籠城」すればいいんだろって思っていたかな。まさにロックだったな。

なぜ当日まで出演メンバーの発表をしなかったのかって言われても……。もうライブの場所も日にちも決まっている。みんな出演してくれるのが仲間内みたいなもんだったからこそ、みんな「あいつ誘おう」「あいつは絶対出るだろう」とか言って、そのイベントのプロデューサーだった土屋さんなんか、整理できなくって頭抱えてた(笑)。結局、当日来るメンツ全員なんて誰もわからなかったのかな? 土屋さんが最後はこう言っていたな。「これって、普通のコンサートイベントじゃないじゃないですか? やはりロフトがなくなったら困るとか、悲しいとかそういう思いがたくさん詰まっているミュージシャン達が、ロフトを守ろうって集まったライブなわけですよね。それってすごいことだよね」


<メチャメチャだったけど純粋なイベントだった>

あのイベントが「成功」した理由を聞かれても困るけど。ロフトはミュージシャン同士の交流が深くって、喧嘩もたくさんあったけど、ライブ終了後のパブタイムにいきなりセッションが始まっちゃうことも多かったから、それぞれのバンドメンバーが他のバンドの曲を知っていた。だから、ほとんどリハなしでユニット組んで、当日いきなり演奏できちゃうんだよ。

土屋さんはあのBOφWYを手掛けた人だったから、マスコミ操作はうまくって、記者会見とかやったしテレビも入った。

一番大変だったのはバックステージ。当日はいろんな雑誌、新聞、テレビが入っていて、出番5分前までインタビュー取材受けているミュージシャンが普通にいて、マスコミも勝手なことを書きまくったけど、事務所とかとなんの揉め事も起こらなかったな。スケジュールが詰まっていて、当日まで来るかどうかわからないミュージシャンも沢山いた。それでもやってきたら、どこかで出さなきゃいけない(笑)。

ニューミュージック系の昔のロフトを支えてくれた、サザンとか山下達郎さんとか坂本龍一さんとか細野晴臣さんなんかが出演しなかったのは、もうそういった人達は現実のロフトのシーンにいなくって、俺たち世代にとってはもう天下人なわけで、そんなもん悠さん達古い人が動いてくれなけりゃ、「おい出てくれよ」なんて言える人じゃなかった。やはりARB、ルースターズ、アナーキー以降の新宿LOFTを支えてくれたミュージシャンが中心になった感じはする。

普段はそれぞれ個々で活動しているアーティスト達が、「ロフトは絶対守るぞ」っていう旗の下に集まったわけでしょ。それで当日観に来た人たちも同じ心(=志)を持っているじゃないですか? ステージ上のアーチスト、観客、スタッフ……会場にいる全ての人間が同じ心(=志)を持っているわけですよね。そういった意味では本当に純粋なイベントだったな。この先こんなイベントなかなかできないでしょ?

「思い起こせば24年前、19歳の田舎者の悪ガキ小僧の私が、西新宿のロフトの階段に、1歩、足を踏み入れた瞬間に“ここだ!”と、ホントに、一瞬の迷いもなく、確信したのでした。そばにいた店員さんに“ここで働かせて下さい!”“今、スタッフは募集してないから無理だと思うけど、夜には店長が来るから聞いてみたらぁ?”。その夜、出直して店長さんに“お金いらないからお願いします!”“お前おもしれぇなあ。わかった。メシは1食出してやるから明日から来い”それから2〜3週間後に初めての時給350円をもらえるようになったのが、全ての始まりでした」(『ROCK IS LOFT 1976-2006』/ぴあ/06年刊)

7月13日野音で開かれた「KEEP the LOFT〜で、で、で、出てけってよ」は10時間近くにわたって熱狂的に行われた。当日の会場では全く混乱はなかった。公式入場者3300名。なんと当日会場での署名者数は2000人を超えた。出演はミュージシャン70名、その他文化人関係30名。私は楽屋にも顔を出さずに、一観客として後方の席にぽつんと座り、「今の若い者も捨てたもんじゃない」なんて思いながらこのコンサートを見守っていた。

さて、野音でのロフト支援ライブからしばらくたったある日、私は、1万8000名の署名簿とマスコミ報道資料とイベントの写真を持って、東京高等裁判所に向かった。予備審問調停室の立ち会い裁判官の前の机に、それらをどさ〜っと積み上げた。裁判官とビル側弁護士は顔色が変わった。そしてこの高裁で、決定的なドラマが起こったのだ。

(次号に続く)


1994年7月10日 日比谷野外音楽堂
「KEEP the LOFT “で で で 出てけってよ”」プログラム

「LOFT23時」(ARB)【VO】仲野茂、甲本ヒロト、マグミ、和気孝典【G】田中一郎、真島昌利
「天国へのトビラ」(遠藤ミチロウ)【VO&G】遠藤ミチロウ
「さようなら世界婦人よ」(頭脳警察)【VO&G】遠藤ミチロウ、PANTA、秋間経夫
「ふざけるんじゃねえよ」「コミック雑誌なんかいらない」(頭脳警察)【VO】PANTA【G】今井秀明、秋間経夫【B】内田雄一郎【Dr】梅本勝之進【ゲスト】大槻ケンヂ
「空手バカボン」「福耳の子供」(空手バカボン)【VO】ケラ、大槻ケンヂ【B】内田雄一郎
「不滅の男」(遠藤賢司)【VO】外丸、〓高木、伊藤秀孝
「ワンモアタイム」「お前が欲しい」(シーナ&ロケッツ)【VO】シーナ【G】鮎川誠、渡辺信之【B】橋本潤【Dr】東川元則
「コメント」ゆでたまご、崔洋一
「BOYS&GIRLS」(ARB)【VO】マグミ【G】榊原秀樹、松橋秀信【B】市川勝也【Dr】KEITH【Key】野島健太郎
「空を突き破れ」(ARB)【VO】岡田ヨシアキ【G】松橋秀信【B】古川秀俊【Dr】KEITH【Key】野島健太郎
「Just a 16」(ARB)【VO】OKI【G】SEIZI、今井秀明【B】エンリケ【Dr】KEITH
「Tokyo Cityは風だらけ」(ARB)【VO】ヒカゲ【G】SEIZI、今井秀明【B】エンリケ【Dr】KEITH
「トラブルド・キッズ」(ARB)【VO】井上篤【G】ジャッキー【B】SHON【Dr】KEITH
「魂こがして」(ARB)【VO】甲本ヒロト【G】白浜久、篠原太郎【B】EBI【Dr】KEITH【Key】野島健太郎
「ヨコハマ・ホンキートンクブルース」【VO】原田芳雄、仲野茂【Key】野島健太郎
「MONA」(ルースターズ)【VO&G】花田裕之【G】下山淳【B】井上富雄【Dr】池畑潤二
「FADE AWAY」(ルースターズ)【VO】延原達治【G】花田裕之、下山淳【B】井上富雄【Dr】池畑潤二
「DISSATISFACTION」(ルースターズ)【VO】延原達治【G】花田裕之、下山淳【B】奈良敏博【Dr】池畑潤二
「誰の為でもない」(白竜)【VO】白竜【G】花田裕之、下山淳【B】奈良敏博【Dr】池畑潤二
「IMAGE DOWN」(BOOWY)【VO】南野伸吾【G】田中一郎【B】林田正樹【Dr】高橋まこと
「BEAT SWEET」「NO! NY」(BOOWY)【VO】吉井“LOVIN”和哉【G】田中一郎【B】林田正樹【Dr】高橋まこと
「心のもちようさ」【VO】シャイ、高田エージ、ウルフ、マサ
「ビールス・カプセル」「キングスネークブルース」「レモンティー」(サンハウス)【VO】柴山俊之【G】鮎川誠【B】奈良敏博【Dr】浦田賢一
「銃をとれ」(頭脳警察)【VO】JOE【G】SUGIZO、渡辺亨一【B】ヒーセ【Dr】コバン
「悪たれ小僧」(頭脳警察)【VO】PANTA【G】SUGIZO、渡辺亨一【B】ヒーセ【Dr】コバン
「セルNO.8」(バトルロッカーズ)【VO】中村義人【G】谷信雄【B】穴井仁吉【Dr】コバン
「可愛いアノ娘」「キャデラック」(ロッカーズ)【VO】スマイリー原島【G】谷信雄、花田裕之【B】穴井仁吉【Dr】コバン
「ノット・サティスファイド」「心の銃」「団地のオバサン」「東京イズ・バーニング」(アナーキー)【VO】仲野茂【G】マリ、真島昌利【B】J【Dr】コバン
〜アンコール〜
「LOFT23時」(ARB)【VO】仲野茂、スマイリー原島、延原達治、水戸華之介【G】田中一郎、真島昌利【B】EBI、ヒーセ【Dr】KEITH、高橋まこと


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

↑このページの先頭に戻る
←前へ   次へ→