第106回 ROOF TOP 2007年1月号掲載
「歌舞伎町秘話……歓楽街にたたずむ謎の女」

<権力よ、歌舞伎町をどうかそっとしておいてくれ>

 50台もの監視カメラ設置や、防災訓練時の新宿コマ劇場前機動隊出動なんてことまでやって、石原都政が進める新宿歌舞伎町浄化運動。権力の「エロと暴力追放」「テロ対策」という大義名分の下に、その作戦は成功しつつある。あの歌謡の殿堂・新宿コマ劇場では、新宿ルネサンスなんて言ってロックオペラ「WE WILL ROCK YOU」なんぞやっている。面白ディープ風俗店も裏ビデオ屋(加藤あい入浴裏ビデオが1000円以下で買えたのはもう昔の話だにゃ〜(笑))もほとんど壊滅して、面白激ヤバな店はみんな地下に潜って暴利をむさぼり、さらに危険になった。

 新宿歌舞伎町の表層は、マクドナルドやドン・キホーテとかの有名チェーン店とガキばかりの面白くも何ともない町に変貌しつつある。「エロ」こそ人間躍動の原動力の根源と信じる、私の歌舞伎町を愛する気持ちは萎えるばかりだ。石原慎太郎さん、身内に甘いのも、膨大な経費を使ってガラパゴスに行くのも、ギャンブル(カジノ)構想もオリンピックも勝手やればいいけど、お願いだから、猥雑で何でもありな歌舞伎町だけは放って置いて欲しい。そう願うのは私だけだろうか?

▲靖国通りからの夜の歌舞伎町の「表の顔」。確かに犯罪や事件が無くなるのはいいことなのかもしれないが……

 しかしながら大都会、特に不夜城である漂流街・歌舞伎町は、依然として独特の活気がある。確かに初めて深夜の歌舞伎町に来た人は、デンジャラスな雰囲気をひしひしと肌で感じるだろうし、数々のドラマに遭遇することになるだろう。世界に誇る歓楽街・歌舞伎町が持つ新宿独特の雑多な「懐の深さ」には感嘆するばかりだ。深夜、歌舞伎町から西新宿の摩天楼へと自転車で抜ける時、「私は世界一の面白空間な大都会に息しているな」って思うことがよくある。歌舞伎町だけではない。新宿西口公園には、AVゲリラ撮影隊がいたり、車椅子のホームレスがぽつんといたりする。そんな、大都会の片隅に棲息するいろんな人に出会って、いろんなことを聞いてみたい。それぞれの「流れ者」が持つ波乱の人生を感じてみたい。でもその勇気がなかなかないのだ……。


<摩訶不思議、新宿の片隅に立ちつくす謎の女性>

 私が事務所のある新宿を後にして、約8km離れた自宅に45分かけて自転車で向かうのは大抵深夜の23時前後なのだが、もう随分前から気になっていることがあった。

 深夜21時頃から23時頃まで、西武新宿駅と新宿プリンスホテルの間の柱の陰に、ただただ立ちつくしている、何となく貧しそうな不思議な謎の女性がいるのだ。私はしばし自転車を止め、彼女を観察する。

 そう、年は50〜60歳ぐらいか? 売春婦のようでもない、人を待っている風でも、何か仕事をしている気配もない。本とか新聞なんかを読んでいることもない。そしていつも同じ服装で同じバッグを持ち、ショールを肩に掛けている。最近はいつも眼帯をかけている。気がおかしそうでも、ホームレス風でもない。とにかくただ立ちつくしているのだ。

 私は、彼女の背後にいつも不思議な暗い妖気というか邪気というか、背後霊のようなものを見てしまう。そのたたずまいが異様なのだ。いつも歌舞伎町を通り過ぎ山手線をくぐる新宿大ガードに向かう途中、「あっ、今夜もいる!!」と心の中で叫び、しばし彼女に見入ってしまう。 「なぜ、彼女は何時間も、あの吹きさらしの寒風の中に立ちつくしているのだろう。何か特別な理由があるに違いないが……」と、疑問はふくらむばかりだった。私は彼女に、「あなたが毎晩ここに何時間も立ちつくしているのはなぜなんですか?」って聞きたくて仕方がないのだった。


<謎の女の正体はいかに?>

▲新宿の謎の女性。彼女の後ろから妖気を感じてしまう……。怖いですね〜。そうか? 政府の裏の仕事をしている人だったんだ〜

 さて、「新宿謎の女」に自ら声をかける勇気がない私は、私が主催する「おじさんとの語らい」というネット掲示板に、「誰か彼女の正体を見極めてくれ」という問いかけをしてみた。そうしたら色々な反応があったので紹介しようと思う。


……小豆色のショールを羽織った、髪の長い女性の事でしょうか? 私も一時期、毎日のように見かけていました。駅の階段や、ぺぺの地下で歩いているのを、そしてぺぺのトイレの中でもほぼ毎日のように遭遇しました。いつも、決まったルートで同じ行動なので、一体なにをされている方なのかなと思い、何度も話しかけようかと思うのですが、 仰るとおり、不思議なオーラを放っていて話しかけられずにいたのです。一度だけ、同年代位の男性と一緒にいるところを見かけたことがあります。私個人としては、「ある人を待ち続けている」のではないかと推測しております。でも、非常に無性に気になりますよね……! お察しいたします、話しかけたい気持ちが……

「謎の女」の写真を拝見しました。そうです、この女性です。 いつも眼帯をつけている訳ではないみたいです。時々です。 他の友人の話では、少なくとも10年前からいるそうです。 歳も、至近距離で見たことがありますが、60歳近いのではないかと思われます。 私達は彼女のことを‘西武新宿の妖精’と言っていました。 誰も気に留めずに素通りしていくので…。 無口ではなさそうです、よくホームレスの人たちとも話をしていますよ

……イベント終了後妻と子供の待つ家庭に早く帰りたいとネイキッドを出たものの、 最近話題の「謎の女性」への好奇心に負けて長い西武新宿駅の反対側まで歩く。その角のとこだったよな、「いた」思わず「謎の女性」に視線を送りつつ、つい階段をあがってしまう、うっ何て切り出せば良いんだ。心の準備が、、いやえいやで当たって砕けろだ、こちとらビール3・4杯は飲んでるぞ(藁 と考える事1・2分で「謎の女性」の前にいた。「あの、すみません、話させて貰って良いですか?」謎の女性「…」(少しうなづく)「いつも、良くここにいらっしゃいますよね? 失礼ですけど何をしてらっしゃるのですか?」謎の女性「仕事です」「あっ仕事なんですか、何時ごろまでなんですか? 謎の女性「11時半ぐらいまで、私深夜喫茶で夜を過ごすので深夜喫茶が始まる11時半ぐらいまで仕事するの」「あっそーなんですか、、、」(ここで話を終えたらあまりに尻切れトンボじゃん、えいや〜)「あの失礼なんですが、、どんな仕事なんですか、あの〜答えにくい〜〜、、」 謎の女性「政府の裏の仕事です、私はここで数人の調査員と、、、」重要な仕事らしく話し方もボソボソと話されるので、ここに書いたのも全部正確とはいえないが、悠さん他の皆さんの疑問が少しでも解けたらさいわいである、ただ地元に帰ってきてふと誰かに尾行されているような気配を感じるが、、確信はない もしかすると俺は政府の裏の仕事に何気なく触れてしまったのかも知れない、もし俺が突然消息を絶ったら、その時は政府の裏の機関のしわざかも、と考えて欲しい、、あっ駐車場で誰かが砂利を踏む音が、、、(藁

 いつの間にか冬が来てしまった。そんな感じの強い冬の訪れのような気がする。自転車のサドルから伝わる振動で狭い舗道の段差を全身に感じながら、 帰りの道中でいつもの銭湯に向かう。深夜の神田川沿いに白鴨が寄り添って数匹いた。それを見ながらふと、「新宿っていいな」って思った。

web現代でコラムやってます
http://web.chokugen.jp/hirano_y/


今月の米子♥

アメショーの米子(左)とスコッテッシュのO-kunは仲がいい。スコッテッシュの猫の耳が折れているのは最大限の特徴で、なんだか突然変異なんだそうだ。折れた耳にダニがたまるのがやっかいらしい。






ロフト35年史戦記 第22回 後編・プロローグ(1990年〜)

<カリブ海最後の楽園・ドミニカ共和国>

ロックを捨てロフトを捨て世界放浪の旅に出、日本を飛び出して激動の長い年月が過ぎた。
私は日本が嫌いだった。日本人であることを放棄し、祖国日本を忘れようと何度ももがき苦しみながら、10年という歳月が過ぎようとしていた。私はもう45歳になっていた。私が世界放浪の末、流れ流れてたどり着いた先は、アメリカの属国ともいうべきカリブに浮かぶ小島、人口600万人のドミニカ共和国だった。

私はこの地で市民権を取り、自分の骨を埋めたいと夢をふくらませた。色々なことがあった。スペイン語もほとんど出来ず、語学の家庭教師まで雇ってのドミニカでの起業は悪戦苦闘を極めた。

しかし今思い起こせば、「ノー天気な、どこまでも陽気なドミニカ」での話は面白すぎて書くことたくさんあり過ぎ困ってしまうくらいだ。カリブ海で始めての本格的(?)日本レストランを開いていたのだが、そこには日本に興味を持つドミニカ人や、カリブ海沿岸諸国の外国人が沢山集まった。この時代、日本の寿司、天ぷらは一種の世界的流行にもなっており、寿司を食べるということは、世界の金持ち連中のステータスにもなっていたのだ。

また、この店は日本(東洋)とドミニカに関する情報の宝庫になった。今だから明かせるが、日本政府から支出されるODA(政府開発援助)の裏取引に関する日本の商社員と役人の会談の場面を何度も目にした。世界レベルの強さを誇るドミニカ野球に修行に来る、日本のプロ野球の若い選手の食事の場にもなった。広島カープの代表団がやって来た時は、現地の野球教室のための球場用地探しの手伝いもした。


<我が友レストラン店長の突然の自殺>

▲ハルディン(庭)から見たレストラン。手前は池と太鼓橋があってつるべ落としまで作ったよ。この建物もほとんど私が建てた

ドミニカに定住して4年目の1990年、大阪で行われた花博でのドミニカ共和国政府代表代理、ドミニカ館館長の役職を獲得した時は、日本に10カ月も住みその仕事を果たしたりもした。翌1991年、OPEC(石油輸出国機構)の石油価格の大幅値上げがあった。何の資源もない貧しいカリブの島国は経済的にも困窮を極めた。私が経営するお店「レストランテ・ハポネス」は、金持ち相手だったために客が激滅し赤字に転落していた。私はドミニカでの経済的な活路をはかるため、現地にいる日系人と組んで「日本・カリブ貿易・観光株式会社」を設立し世界中を飛び回ることになった。

 ちょうど韓国、台湾の会社との輸入商談を成立させた私は、日本に立寄り、つかの間の休暇を取っていた。そんな時、ドミニカから緊急の電話が入った。

▲レストラン・ハポネスの店内風景。はっぴを着たドミニカ人店員

それは、私が経営するレストランの日本人店長が突然自殺したというショッキングなものだった。当時32歳だったS君は、かつて日本で私が経営していた下北沢ロフトの開店当時の店員であり、店の客だったサザンの桑田佳祐や子供ばんどのうじきつよしなんかと、とても仲が良かった男だ。さらに彼は、摩訶不思議な伝説のパンクバンド「バナナリアンズ」のリーダーでもあった。

彼は私を頼りにドミニカにやって来て、私のレストランで働くようになって2年目だった。S君と私は一週間ほど前、カリブ海に面した店内でレストランの今後のことについて話し合ったばかりだった。S君はドミニカが大好きだった。彼は、私のメレンゲ(ドミニカ特有の民族音楽)や、隣国のハイチのブードゥーやレゲエの先生でもあったし、貧しい人たちだったけれどドミニカ人の友達も沢山いた。

▲スーツを着た40代の「ビジネスマン」のワタクシ。こんな背広を着てた時代もあったんだなあ〜

ドミニカに来てから2年の間に、S君の天ぷらを揚げる技や寿司を握る腕はどんどん上達し、スペイン語は気が付けば私より上手になっていた。ドミニカ国内の世界的な有名ホテルから寿司職人としての誘いもあった。首都・サントドミンゴから各地の観光地のホテルにヘリコプターで出張出前までしていたのだ。

彼は芸術家でもあった。彼が描く不思議な絵画もドミニカで少しは評判にもなり、レストランに飾っていた絵がポツポツ売れ始めて、個展まで開けるくらいになっていた。あらゆる意味で、彼の前途は輝かしいものであったはずだった。何度も、「日本を飛び出してきて良かった。俺はこの国が好きだ。この国に骨を埋める」と言い続けていた。「そうか、それは良かった。レストランの赤字は心配するな。景気が良くなるまで俺が貿易で稼ぐから」と言い残して来た矢先の、思いもしない悲報だった。


<悲しい異国での友の葬儀>

私は急遽、日本からドミニカに立ち帰った。日本の岡山におられたご両親の希望もあり、彼をドミニカの市営墓地に埋葬した。日本では見られない土葬だった。小高い丘にある市営墓地からは、遠くにカリブ海が見えた。葬儀には、ドミニカの明日の暮らしもままにならない人たちが、手に手に一輪のハイビスカスやヘルコルニア(極楽花)を持ってたくさん集まった。

なぜ彼が自殺したのか? 色々な説はあったが謎のままだった。遺書もなく、彼の愛犬のドーベルマンと、彼の描いた何点かの作品だけが残された。彼の遺骸は、「みんなごめんね、そしてみんなありがとう」と言っているような安らかさだった。

▲ソフトパンクバンド「バナナリアンズ」のメンバー写真か? 担当の今田がこの写真を持ち出してきた。もう25年前のそれも新宿ロフトで撮った写真らしいな? みんな若い。一番左がS君だ(『ROCK is LOFT』(LOFT BOOKS/97年)より転載)

親友でもあり、ドミニカでのレストランの板前兼店長でもある男を失った私は、消耗しきっていた。私はもう、ドミニカでのレストランやその他の事業を継続する気力はなかった。私は、たくさんの涙を紺碧のカリブの海に落とした。レストランの再建も含めて、この地での仕事をする情熱を失っていた。なんとも言えないやるせなさを感じながら、何週間も私はカリブ海を見続けていた。まさに、「無念さを思えば言葉なし。供養の思い我は生きる。友よさらば」と言う以外、絶句するばかりだった。

そんな時、楽しかった、いや楽しすぎたロフト創世記の若き日の思い出が、花の中央線が新宿の歌舞伎町のけばけばしいネオンがキラキラと輝きだした。S君と違って私は、ドミニカの地に本当の心からの友人は皆無だった。ビジネスを優先するというのはそういうことだった。ふっと私は、「ドミニカでの生活を本当に楽しめたのだろうか?」、と思えてきた。気がつくと周りの多くの人は、私のわずかなドミニカの財産を狙うハイエナばかりに思えた。いつしか私の心は、この地ではいつもだまされ続けてていたとしか思えない心境になっていた。


<空しいサントドミンゴでの生活>

▲レストランの警備員。ドミニカではお金持ちは大抵いつも銃を持っている。私もみんなに持てと勧められたけれど、平和愛好者の私は断固拒否した

私はもう、ドミニカには住めないと直感的に思った。私は世界を回るバックパッカー時代からの「夢」がもう一つあった。アメリカでの「ゲストハウス経営」である。ドミニカでいくらペソを稼いでも、外国に行けばただの紙きれでしかないということを、この国での仕事で思いきり知った。私はマイアミに行ってフラットを一軒買って、そこで世界を回るバックパッカー相手に「ゲストハウス」経営をやろうと考え、その準備に取りかかろうと思った。当時のアメリカで一軒の家を買うのは意外と安く、日本円で2000万円も出せば、広くて素敵な一軒家が買えた(当時バブルの真っ最中の日本では同じような物件を買うには1億円以上したはずだ)。しかし、消耗しきった私の体はなかなか動かなかった。とにかくもう一度英語の勉強だけはしようとは思ったのだが、そんな気力も失せてしまっている自分を見、ただ毎日、海を見ながら抜け殻の様な生活をしていた。

サントドミンゴにある行きつけのカジノで、私は毎晩無造作に何千ドルもの金を浪費した。ルーレットがむなしく回転し、ブラックジャックのディーラーに絡んでいる自分がいた。気がつけば行きつけの売春宿にいた。さらには売春婦を平気で自宅に連れ込み、「そんなことをするのならもう私は出て行きます」と、女中のマリサから顰蹙を買った。マリサは、毎日花瓶の花に語りかけるような優しい心の持ち主で、いつも控えめで仕事も実直にこなす信頼できる女中だった。

そんな虚無と脱力の世界にいた私に、のれん分けせず東京に一軒だけ残しておいた新宿ロフトから一本の電話が入った。店を預けてあるB氏からだった。「新宿ロフトの大家からビルを建て直すので立ち退いて欲しいと言って来ています。どうしましょうか?」という内容だった。この問題は、私が日本に帰らなければ解決できる事ではなかった。これから先、ドミニカを去ってどうするか? と迷っていた私は、ドミニカから完全撤退し日本に帰る決断をした。


<ドミニカ共和国完全撤退、そして日本ロック界復帰へ>

その時の私は、車やレストランなど、残されたドミニカでの財産を処分し、ドルに換え日本に持ち帰る気力すらなかった。使用人や、ビジネスで付き合いのあるドミニカの「自称」私のアミーゴス達は、その財産目当てにハイエナのように群がってきた。私は、それらの財産を彼らがどう処分したのか、レストランは転売出来たのかすら知らなかったし、知りたいとも思わなかった。特別お金に困っているわけでもなかった私は、ドミニカでの持ち物一切の処分を彼らに委ねた。数日後、誰の見送りもなくサントドミンゴの空港に一人立ち、5年にも及んだドミニカ生活に別れを告げた。空港で、最後のメレンゲの演奏を聞いた。私は一人「アディオス、ドミニカーナ」とつぶやき、ニューヨークに向かった。

▲ドミニカの空港では、観光客のチップ目当てにメレンゲのグループがサントドミンゴの空港を徘徊している。1ドルあげると私のために演奏してくれる。ついでにラム酒もくれたりする南国特有の風景だ

ニューヨークには一週間ほど滞在した。毎日ライブハウスを回り、ガレージや教会で行われている小さなライブにも通った。音楽に関してはこの数年間、ほとんどメレンゲと隣国のジャマイカ音楽しか聞いていなかった。だからいわゆる欧米のロックに慣れようと試みたのだが、結局のところ楽しむことが出来ず、日本でロックの最前線に戻るには一抹の不安が残ったままで、焦りを感じるばかりだった。

ニューヨークから日本に戻る前日、ホテルにドミニカから電話が入った。「自称」アミーゴス達からだった。彼らは「女中のマリサが家財道具を持ち逃げした!」「今ドミニカの秘密警察に頼んで行方を追っている」というのだ。

私は本当に久しぶりに笑った。実に痛快だった。受話器の向こうのアミーゴス達の狼狽する様子が、おかしくてしかたなかった。そして私は「逃げろ、マリサ、逃げぬけ!」と喝采を贈った。

次の日、私は「ドミニカでの決着は、女中のマリサによってつけてもらえた」という気持ちで、ニューヨーク最後の朝を迎えた。「これでもう二度とドミニカに戻ることはないだろう」と思い、日本行きの飛行機に乗り込んだ。(次号へ続く)

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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