第105回 ROOF TOP 2006年12月号掲載
「晩秋の東北紀行-2」

<本州最北端・大間岬と霊場・恐山>

▲本州最北端の宿は青森ヒバづくし

 10月上旬、東北を徐々に北上していった私は、まさかりの様な形をした本州最北端の下北半島にたどり着いた。先月号で書いた通り、半島の柄にあたる部分にある六ヶ所村は、核燃料サイクル基地、国家石油備蓄基地、使用済み核燃料中間貯蔵施設が集中するエネルギー産業の宝庫だ。なぜこれほどまでに危険な施設が集中するのか。六ヶ所村の現状は、行き場のない日本の僻地を象徴しているようだった。

 六ヶ所村を後にした私は半島をさらに北上し、津軽海峡を右手に見ながら国道279号をひた走り、本州最北端の大間岬へと向かった。大間岬からは、海峡を挟んで北海道の地が見える。ここからは函館ゆきフェリーも行き来している。岬にたどり着いた私は、「本州の最北端に来た」という小さな満足感を感じていた。大間はマグロの一本釣りで知られる日本有数の漁港だ。さらには大間温泉という素晴らしい温泉もある。私は、温泉の帰りに近くの食堂でかの有名な大間マグロとイカのどんぶり飯を食べ、大間の少し手前、風間浦村という寒村にある「わいどの家」という木工所のオヤジが運営する宿に着いた。素泊まり4500円はまあ、決して安いとはいえない。この宿は青森名産ヒバの木づくし。天井板以外は全てヒバ材。木工所のオヤジがふと思いたち、勢いで建ててしまったのだということらしい。宿についてしばらくすると、宿主から「平野さん、函館から女性の常連のお客さんが来ているので一緒に飲みませんか」と誘いを受けたのだが、多分パパラギの里での修行と憂鬱な六ヶ所村での疲れが溜まっていたのだろう、珍しく飲み会の誘いを遠慮して、早々にベッドについた。

 次の日、快晴の中、私は日本三大霊場の一つ「恐山」に一路向かった。高校時代、今から45年前に一度ここにやってきて、何日か宿坊に泊まったことがあった。それから何度かの「恐山ブーム」があったので、いまやこの地は相当「俗化=観光地化」してしまっているだろうと思っていた。

▲日が差して三途の川も怖くない

 寺の手前に流れる三途の川を渡ると、あたりは火山性ガスが充満していて特有の硫黄の臭いが鼻を突く。やはり恐山は霊場恐山で、寺のたたずまいも少なからず摩訶不思議な妖気が漂っていると感じた。下北地方では「人は死ねば(魂)お山(恐山)さに行く」と言い伝えられていて、霊験豊かなイタコの口寄せを聞くと、あの世から死者が舞い戻ってきてイタコを通じて死者と話が出来ると言われている。

▲風が悲しく吹き抜ける恐れの山と寺

 私は寺の本堂から離れてお山を注意深く回った。風景や寺のたたずまいは確かに霊場の面影がある。だが駐車場は整然と整備され、そこに観光バスが次々と到着する。その昔私が味わったような、深く沈んだ瞑府魔道的な、死者と今をつなぐ霊感ある雰囲気はほとんど感じ取ることはできなかった。昔、私がここに来たときは、幻想的なイタコの口寄せに集まって来る老人のすすり泣きが聞こえたものだと思い返していたが、今の時代そんなことを期待する方が無理だと思った。そのイタコの口寄せ場をちょっと覗いてみたが、そこには20〜30人の観客が正座していて、口寄せもどこか演出されたショーのように思えてしまい、入場料3000円を払う気もなくなった。私は少々がっかりした気分で、この俗化してしまった霊場をそそくさと後にしたのだった。


<一足先に八幡平の紅葉と温泉を堪能した>

▲山また山の一軒宿

 恐山を後にして私は、東北自動車道を秋田方面に向けて走っていた。向かう先は八幡平の麓にある山あいの素朴そうな一軒宿、「ゆきの小舎(こや)」という宿だ。『ニッポン放浪宿ガイド200』(06年改訂/編集:ロフトブックス/発行:山と渓谷社)に載っている宿主夫妻の優しそうな表情の写真を見て、この宿主ご夫婦と是非とも会ってみたいと思ったのだ。

 旅は心の中に眠っていたいろいろなものを呼び起こしてくれる。私はこの宿に向かう道中もまた、40年も前、八幡平を一人ザックを担いで縦走していたことを思い出していた。八幡平の近くには当時、松尾鉱山があり、鉱山鉄道が走っていた。私は鉱山駅から一人、山中にある大沼に向かった。霧に迷い、下手をすると山道に迷って遭難するかも知れないと思いながらとにかく歩いた。疲れはて、日もとっぷり暮れたころ、蒸の湯温泉という素朴な湯治場に着いたのだった。

▲この旅で最後に出会った二つの笑顔

 今ではこの山深い八幡平も立派な縦貫道路ができ、全く変貌していた。恐山や八幡平が変わってしまうのはこれも時代の流れ、仕方がないのかも知れない。昔私が味わった素朴な東北(みちのく)を期待する方が無理なのだ。そう嘆く私でさえこのように、何の苦労もなく車で東北を縦断しているのである。

▲良い道が紅葉まみれで行き止まり

 目的のゆきの小舎は、小川のせせらぎと小鳥のさえずりと緑の山の中に開けた盆地の端に、ぽつんと取り残されたようにあった。この宿をはじめて30数年というご夫妻は、自然を愛し、旅人をとても暖かく迎えてくれた。夕刻、宿に着いてすぐにこの宿の主人が薦める後生掛温泉に向かった。そして温泉の手前の大沼で、あまりにも素晴らしい紅葉と出会った。まさか10月の初めに、これだけの紅葉を見ることができるとは思ってもいなかった。夕刻のせいか観光客はほとんどおらず、私は一人「熊の出没に注意」という看板を見ながら、赤と黄色に燃える木々と青い湖を巡る木道をゆっくり回った。東北の早い秋の訪れに感謝しながら、なんとも素敵な風景を私は体いっぱいで感じ取った。

 温泉を堪能し宿に戻ると、女性のお客が一人いた。今夜のお客は私とこの女性の二人だけだった。宿のご夫妻も一緒に4人で素朴な山菜料理を食べながら、主人に「大沼の紅葉が素敵だった」と報告すると、「そうですか? 八幡平の紅葉はあと一週間ぐらい後だと思っていたのに、今年はちょっと早いのかな?」とビックリしていた。この宿の奥さんは八幡平ユースの元ヘルパーで、ご主人は地元の人だという話から、40数年前の八幡平の風情にまで話が弾んだ。

▲みちのくの色塗りは始まったばかり


<旅の終わりの予感はいつも突然やってくる>

▲湯けむりと鼻をつんざく硫黄

 深夜に私は一人、宿の前を流れる川のせせらぎを聞きながら、なぜか「明日東京に帰ろう」と唐突に思った。

 大都会と反対の自然のままのこの土地があって、大都会での憂鬱から脱出したいからこの旅があったはずだった。大都会は欲しいものが何でも手に入る分、多くの命が叫び、もがき狂い、何が起ころうとも不思議でないコンクリートジャングルだ。私の心には、大都会の刹那を生きるあの混沌とした卑猥な眠らない町・漂流街新宿のけばけばしいネオンの喧噪の世界が浮かびあがっていた。東京を出発してまだ一週間しかたっていない。旅立つ時には、「今回は気の済むまで日本の旅をしよう」と思い、この連載も、その他の原稿も、できたら気に入った住みかを見つけて一冊の単行本程度のものを書き上げようかとさえ思ってもいた。だから車にパソコンや資料まで積んで来ていたのに、まさかこれほど早く東京に帰りたいと思えたのが自分自身不思議でならなかった。

 考えてみれば私は、過去にもちょうど同じような気持ちに襲われたことがあった。

▲秋めく赤紅葉湖水に映え

 もう25年も前、私は会社経営も日本も嫌になり海外に飛び出し、5年間、世界放浪の旅をし続け、最終的にはカリブ海の真珠のような島・エスパニョール島のドミニカ共和国にたどりついた。自分自身の骨をその国に埋めるつもりで、日本レストランと貿易会社を経営していた。ドミニカで5年の歳月が経ったある日、私を慕って日本からレストランに働きに来てくれた友、S君(元パンクバンドのボーカル)が早朝、突然カリブ海の見えるレストランの中で首つり自殺した。30歳ちょっとの若さだった。彼は、日本人で彼ほどドミニカ社会に馴染んだ奴を知らないというくらい、みんなから愛される存在だった。レストランの店長としての業績はあまり芳しくなかったけれど、彼の毎日は現地の友達も多く充実していたはずだった。遺書もなく、なぜ彼が自殺したか謎だった。私は彼を首都・サントドミンゴの市営墓地に埋葬して以降、仕事もする気にもならず、レストランは閉店し、毎日カリブの海岸で悲しみに暮れていた。その時、とてつもないほど大きく日本での若き青春時代が思い浮かんできた。新宿が、中央線が、キラキラとまばゆいほど輝き出したのだ。それから私は、日本に帰ることを考え続けるようになった。「俺にはまだ帰るところがある」と思った。これは私にとって実に貴重な輝きだった。私は全てを捨てて日本に帰国する決心をした。もうこの地では生きられないと思った。

 スケールは違うが、この小さな東北の旅でもやはり、ドミニカでの日本に対する思いと同じように、新宿のネオンが恋しくなったのだった。


<あとどれくらい旅に出られるのだろう>

▲この旅はここで行き止まり

 日本国内の旅はパスポートもいらず、両替も賄賂も必要ないし、その土地土地の持つ風土病や強盗に襲われる危険も皆無だ。みちのく(=道の奥)とはいっても、今や高速道路を6〜7時間も飛ばせば東京に着く。言葉も携帯も通じる。今回の旅には、それほど重要なテーマがあるわけでもなかった。

 東北自動車道を120キロで飛ばし、途中のちょっと気になる宿に投宿しながらその宿の主人や泊まり客ととりとめもなく話し、酒を飲む。道案内はカーナビに任せっぱなし。それはものすごく楽で合理的な東北の旅だった。しかし得るものの多い、ギュッと中身の凝縮したような旅でもあった。パパラギの里のかがり火や禅体験、六ヶ所村で目の当たりにした日本の僻村の生々しい現実、そして八幡平で思いもかけず出会った紅葉の素晴らしさ。旅は、決して期間の長さや行程のハードさが重要なのではない。60歳を越えた今、あとどのくらい旅に出られるのか分からないが、日本国内でも、私が新たな何かと出会える場所もどこかにまだ眠っているのかもしれない。

 ゆきの小舎でのささやかな一夜を過ごした翌日、私は、せかされるように新宿のネオンに向かって車を走らせた。この旅で得た、何かわからないけど貴重なものを、大切に東京に持ち帰りたいと思うだけだった。

web現代でコラムやってます
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今月の米子♥

米子の冒険。猫って高いとところが好きだにゃ〜
(アメショー・一年四カ月・メス)





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ロフト席亭 平野 悠

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