第107回 ROOF TOP 2007年2月号掲載
「孤立無援の下北沢駅前座り込み闘争顛末記」

<壊したものはもう元には戻らないんだ!>

もう何度もこのコラムに書くことになるが、下北沢のど真ん中に幅26メートルの大型道路を通すというとんでもない計画が、土建行政のもとで着々と進んでいる。

あの雑多な路地裏が特徴の日本の誇る文化発信の街・下北沢は失われる。街は分断され、大量の車が入り込む。高層ビル街では、個性的な個人商店は撤退を余儀なくされ、街が死んでしまう。これはこれまでの再開発の歴史を見ても必然だ。儲かるのはほとんど下北地区には住んでいない一部地主とゼネコンと、利権政治屋だけだ。

さらにはこの開発計画に我々の血税が大量に使われることにも、私は我慢がならない。日本国が抱える膨大な借金はいまや800兆円に迫る勢いだし、年金など今後の負債まで入れると総額1800兆円にもなるという試算もある。豆腐屋じゃあるまいし、一兆という金額がどれほどの額か想像してみて欲しい。長野県では、脱ダム宣言の田中康夫氏が土建族知事に敗れた。新知事が、「これからは国から予算をぶんどってきて、どんどんダムや公共工事を進めます」と公然と言ってのけた。「今、日本は1時間に56億円借金が増え続けているんだよ。これで本当にいいの、私たちの日本?」と言って、田中元知事が長野県を去ったのは記憶に新しいところだ。

私は、30数年前に下北沢にロック文化を持ち込んだ。下北沢ロフトをオープンし、「シモキタ音楽祭」も開催した。現在も、下北沢シェルターというライブハウスを経営している事もあり、この街の成り行きに注目し、再開発見直しを掲げる市民運動団体「Save the 下北沢」に関わることになった。

←12月23日セイブの「会議」が終わって5時頃「かわらばん(セイブのニュース)」を配りに下北の商店街に十数人の若者達が出発した。私はこの瓦版配りにつき合って見た。凄いな。一軒一軒にちゃんと声をかけて、ちゃんと挨拶して下北の店に配り歩くんだよ。丁度飲食店なんか忙しい最中、みんな友好的にニュースを受け取ってくれる訳じゃない。このモチベーションはどこから来るんだろう?このパワーがあるから今のsave the 下北沢があって日本中の市民運動から注目されるんだろう。道路再開発されたら一番困るのはテナントの人たちなのに…下北を愛する若者が配っている。…別に下北がつまらない町になったら他の町に行けばいいじゃん…ってわたしゃ思うのだが…。


<話は「Save the 下北沢」メーリングリストへの書き込みから始まる>

11月29日。私はこんな内容の書き込みを「Save the 下北沢」のメーリングリストに流した。

石原東京都の認可が下りて、世田谷区の官僚による都市計画審議会でやらせ賛成意見誘導でインチキ可決されて下北再開発問題は間違いなく今までとは違った局面にさしかかって来ていると言うことは、皆さんひしひしと実感しておられることと思います。私の結論は結局「所詮市民運動なんぞ、国家プロジェクトには勝てるもんじゃない」という長い間の観念論が私の心を支配していました。でも、セイブの若い連中の1万5000軒のポスティングが開始され、若い連中が更にどんどん集まりだし、まだまだセイブの底力は充分あるんだという認識を改めてしました。これから権力の分断工作、裏切り、分裂、 脱落、等々の軋轢がこの再開発反対の戦いの中で起こりえるだろうと思っていました。私の下北沢に関する悩みは深く潜行してました。この一ヶ月の間、私は会議にも参加せず、ず〜っと考え続けていまし た。と言うことで私が考えた下記のセイブの「キャンドルデモンストレーション」に続く「アクション企画」をご検討下さい。

〜セイブ無抵抗の抵抗アクション第2弾〜
「下北の町を乱開発から守る座り込み」
場所・・・下北沢駅前解放区。(南口&北口)
期間・・・12月24日からとりあえず半年間。

1−私たちSaveのメンバーが基本時間(12時〜24時)座り込みを貫徹し、あらゆる下北沢を愛する著名人、表現者達にたとえ10分でもいいから下北のため一緒に座ってくれる時間を下さいと呼びかけます。そのスケジュール(ブッキング)はネット、瓦版、座り込み現場に張り出します。記者会見もここでやります。来年の地方選挙も、日本から世界中の環境団体に参加を呼びかけます。例えば、
X月X日・・・リリーフランキーさん(作家)(夜8時〜9時まで)
X月X日・・・杉作J太郎さん(漫画家・男の墓場プロ)(午後3時〜4時30分)
X月X日・・・二子玉道路なんとか会議(午後4時〜)
X月X日・・・衆議院議員 保坂展人さん(社民党・国会議員)(23時〜)
という風にブッキングして公表します。ただ黙って座るのもいい、唄うのもギターを弾くのもいい、議論するのもいい、サイン会するのもいい、自作の本を売るのも、全ては自由です。
2−この座り込み現場から下北問題の全ての情報発信、町行く人たちとの討論、コメントキャンドルスタンディング、弾き語り、演説、等々が話し合われ、行動提起されます。

▲横断幕を作ってくれる絵描きも来ない。でも私は一人座るしかなかった。寂しいな。

……このイメージは、もう30数年前のベトナム戦争に反対する新宿西口フォークゲリラとべ平連の「殺すな!」から来ています。当時ほんの数人の若者の新宿西口でのベトナム戦争反対の座り込みから始まりました。そして道行く人々主婦、通勤サラリーマン、酔い客、とそれぞれが輪になって討論し始めた事がきっかけでした。それが大きな社会問題になるくらい広がりました。それに恐れた権力は広場を通路と改名しました。相変わらずのお粗末な権力でした……。


<忘れ去られた座り込み計画>

▲午後3時save代表の金子賢三が「座り込みって署名運動やるより楽ですね」って3時間ほど私と一緒に座っていて、「あっ、嫁さんと子供から帰るコールがあった」って言って帰った。
杉作J太郎さんの「男の墓場プロ」が隣で「無料くじ引き」パーフォマンスをやっていて、当たると、座り込み場所に連れてきて、「はい、当選のついでに下北の道路問題を勉強して帰ってください」といろんな人を連れてきた。1等景品が「即席ラーメン」2等が「ボールペン」だった(笑)

しかし、座り込み決行に対するメンバーの反応はあまり芳しいものではなく、大半は「そんなことをしたら街の人々から反発される」というものだった。このままでは気が済まない私は、「ついに単独『決起』する事にした」と、またもやメーリングリストに流した。

「今年の抗議納めは座り込みで……」
12月24日正午から12時間「シモキタの町に大型道路はいらない」というメッセージを持って駅前で抗議の「一人座り込み」をしようと計画している。雨降ったらいやだな。雪だったら一生忘れないと思う。 クリスマスイブ……一人孤立無援に、「連帯を求めて、孤立を恐れず」って横断幕作って、町行く 人々の好奇の目に晒されながら座るのもいいな……っていう感じで62歳のわたしゃ一人で座り込みを決行する。

この話、下北の再開発反対運動を担う「Save the 下北沢」にも提案したんだけれどなかなか実現の運びにならないので、めんどくさいので私一人でやることにした。

その昔私の若い頃1960〜70年代は「座り込み」が流行った。最近はそんな話はあまり聞いたことがなかった。 しかしネットで調べると沢山あったよ。今年の4月に法政一高の生徒450人が「茶髪とか、校則強化反対」でやっているんだよな 沖縄のジュゴンの海の辺野古でもやっている。国会前でもやっているから特別珍しいことでもないな。私が座り込むことが「下北の運命を左右する」なんて思わないけど、楽しそうでみんながうらやむ「座り込み」にしたいな。そんなことどんな意味があるか解らないけど「この下北再開発ってどうも面白くない。抗議したい、座り込みたから座り込む」っていう感じさ。勿論これって誰かに呼びかけて、徒党を組んでやる気はないので、誰も来 なくっていいんだ。小田急の連中や警察や商店街のボスどもが阻止に来るかも知れない。そんな時、わたしゃどんな対応をするかも決めていない。いや、そんな時どうするのかという自分の行動意識に興味さえある。正月の「留置所生活」が出来たら初体験だし、果たして寒空の中、一人座り込んでわたしゃ「何を思うのか」にも興味がある。可愛い子がみかんでも差し入れしてくれたらうれしいな。さてわたしゃ哲学者になれるのか? いつの日にか、この抗議の座り込みが無期限で続くことをねがって……。


<平野悠一人座り込み前夜のぼやき……>

いよいよ座り込み前日となった12月23日。なんだかセイブの定例会議が終わって一人帰る気がせず、24日の午前様まで下北の史郎さんの店(取り壊される予定のマーケットの中の小さな店)でセイブの金子代表、メンバーの杉本と酒を飲んだ。だんだん「一人座り込み」が重荷になってきた。酒を飲み酔いが回って来ると無性に「どうやってこの苦痛から逃れよう」という悲痛な思いに駆られ、嗚咽までした(これ本当の話)。「なんで俺はこんな事しなけりゃ〜いけないんだ」「俺は下北を本当に愛しているのか?」「ただ目立ちたいからだけなのか?」。あれこれ考え出すと止まらなくなってしまった。

深夜、自転車で家に帰ってからも、眠れずに書斎でひとりぽつねんと悩んでいた。最後に「よし! もう明日はとんずらしよう」と思って、ふっと頭上を見上げたら、3年前、あの苦しかった歩きお遍路をやった時の白装束と菅笠があった。その上から愛猫・米子が私を見下ろし、「悠さん、情けないこと言うなよ!」って言っていた。私はようやっと決心がついた。「やるっきゃない!」って。ふっと窓の外を見たら夜が明けかけていた。なんとも不思議な一夜だった。

▲夕刻になってキャンドルクマも来て、みんながローソクもって来てくれて、急に回りはにぎやかになった。

<かくして24日正午より「座り込み」は決行された>

座り込み当日。横断幕を書いてくれるという友達のクレーン画伯が約束の開始時間に来ない。「これはまいった」と思った。私はただ一人ホームレスのように駅前に座り込むしかなかった。人々が無表情に通り過ぎて行く。私は意味もなく座る。「なんだこりゃ〜」と思い、このままなんのスローガンも持たず12時間座り込むのかと思ったら、泣きたくなった。何だか恥ずかしくって、知っている人と会わなければいいなって思ったのだが……。

いざ座って見ると、多くの市民や友達からの善意と激励に出会った。私の目の前はみかんや酒の差し入れの山ができた。見知らぬ人が「頑張って下さい」と温かいコーヒーをくれる。「私も一緒に座って いいですか?」と可愛い若いカップルが何時間も一緒に座ってくれる。夕刻、キャンドルクマ(セイブの着ぐるみアイドル)、車椅子の人たち、杉作J太郎さんの「男の墓場プロ」の面々なんかも一緒してくれた。

▲道行く人からの質問が足を止め、ちょっとした討論の場になった。

だが、市民の優しいまなざしと善意に触れれば触れるほどなぜか私の心は閉ざされて行った。多分、善意の人が見えていない強大な国家権力の意志がどか〜っと私を覆い潰そうとしているのを感じていたのかも知れない。「土建行政だけは何やったって勝てっこない。諫早湾だって吉野川や長良川だって、あれほど危険な原発だって、あれだけの批判があっても工事は止まらなかった」と、私はこの腐りきった日本に対して自戒の意味も込めて反復していた。

クリスマスイブの日曜深夜。21時頃から、駅前は予想に反してどんどん人通りが少なくなってきていた。駅員が2回ほど通り過ぎて行く。10時頃にはセイブの面々が心配して集まってきて大集合になった。

深夜になり、私の体は心底冷え切っていた。座り込みで心配したトラブルは全くなかった。私はトイレ以外は絶対に12時間ずっと座り込んでいようと決意していたのだが、最終的には、予定より1時間半早い22時30分で座り込みをやめにした。それほど私は疲れていたのだろう。最後に全員で記念撮影して、打ち上げ(?)から逃げるように私はなぜか一人になりたくなった。これはいつもの癖だ。

一人、冷え切った体を自転車の上にのせ、環七の坂を一挙に最後の力を振り絞ってペダルを愚直にこいだ。もうすぐ下高井戸の銭湯に着く。そこには暖かい湯があり、裸のつき合いのたわいもない連中がいる。

私は愚直に自転車を漕ぐ。みんなありがとう。

web現代でコラムやってます
http://web.chokugen.jp/hirano_y/


今月の米子♥

少しデバラになったアメショーはかっこよくないぞ!やせろ!ニャロメ。






ロフト35年史戦記 第23回 「空白の10年」その1(1982年〜1992年)
▲小林社長とのツーショット

私は1982年に、それまで運営していた6軒のライブハウスをのれん分けし、唯一残した新宿ロフトの運営は残った社員に任せ、日本を脱出した。そして92年、新宿ロフトがビルオーナーから移転を求められ、再び日本の地に帰って来る。まさにその時点で私は日本の音楽状況には全くの浦島太郎状態であり、45歳になっておりこの10年もの空白を埋めるには年をとりすぎていた。私は、日本の音楽、というかロック史の系譜をもう一度整理する必要があった。

92年発行の『日本ロック大百科』(宝島社)によれば、日本のロック史は下記の時代的区分に分けられる。ロック好きの諸君にとってはこの歴史は大変勉強になると思うので、ちょっとロフトができた時代以降を列記することにする。もしできるなら、これらのシーンを系統的に聞き込んでいくのも面白いと思う。

69〜72年/ニューロック・インディーズ・フォーク期(はっぴぃえんど・岡林信康・頭脳警察・村八分等)
73〜78年/ニューミュージック期(ティン・パン・アレ−・松任谷由実・山下達郎・キャロル・サザンオールスターズ等)
79〜82年/テクノ・ニューウエイブ期(YMO・RCサクセション・アナーキー・東京ロッカーズ・めんたいビート(ARB・ルースターズ・ロッカーズ・サンハウス等))
83〜87年/インディーズ期(戸川純・尾崎豊・ブルーハーツ・ 有頂天等)
88〜90年/ホコ天、イカ天大バンドブーム期(BUCK-TICK・BOOWY・X・筋肉少女帯等)

私が日本のライブハウス、言い換えればロックの最前線にいたのは82年の10月までだ。確かにこの系譜によれば、最初のロフトが烏山に誕生した71年以降のバンドで、ロフトに出演していないバンドはほとんどいない。しかし私は、その後大ブレイクする尾崎豊や有頂天、ブルーハーツ、X、たま、などはほとんど知るよしもなかった。今さらながら私が日本にいない間、ロフトを支えてくれたスタッフや表現者に感謝しなければいけないんだと思う。

私が日本に帰ってきて一番ぶっ飛んだのは、ARBの武道館や、全くの新人バンドだったBOφWYの大ブレイクであり、ルースターズの活動停止だった。(BOφWYの解散については私はもう82年には予測していたのだが……)。帰国し、いざロフトに足を運ぶとカステラ、グレートリッチーズ、ガスタンク、スピッツ、ポテトチップス、ピーズ、クスクス、ウルフルズなんかの熱気が充満していたが、ただただ、日本のライブハウスシーンの変遷についていけそうもない、と感じていた。


<1982年以降、我が空白の時期のロフト>

▲新宿ロフトのバースペースでライブも見ないでナンパしている小林社長を盗撮(笑)

さて、2007年1月15日午後、私は現ロフト社長・小林茂明氏(46歳)にインタビューを敢行した。10年ぶりのロックシーンの話を描きはじめる前に、やはりこの空白の10年のことを、現場にいた人間の証言を元に振り返っておきたいと思ったのだ。

地元で暴走族の頭だった小林社長は、81年に高校退学(本人は「卒業した」と言い張っている・笑)。上京し、なんの因果か18歳の時、移転前の新宿西口ロフトの扉を叩き、酒とメシだけは世話してもらう「無給アルバイト」を始める。

平野「小林がロフトのぺーぺーのアルバイトに入って、俺はその1年半後に日本を飛び出しているんだな。……で、小林が上京して東京の音楽シーンに触れた感覚ってどうだったの?」

小林「いや、上京してとにかくライブハウスというか音楽の近くにいたくって、一番初めに新宿ルイードに行ったんですよ。丁度シャネルズのリハーサルだっけな、そんなのやっていて、ほら、ルイードって佐野元春とか山下久美子とか、ちょっと田舎モンには格好いいじゃないですか? でもなんか違うな……っていう感じで新宿ロフトに行って。あの暗い汚い地下をおっかなびっくり入ったんですよ。そうしたらロフトもリハーサルやっていて。それがどんなバンドだか全く覚えていなくって、でも、ほら俺って高校時代不良やっていたから、あの不良の臭いがたまらなく自分にあっていて、当時の店長に『アルバイトさせてくれ』って頼んだら『一杯だ』って言われたんだけど、『お金なんかいらないからとにかく自分をここに居させてくれ』って懇願したんですよ」

平野「いやね、俺が小林に聞きたいのは小林がなぜロフトに入ったのかではなく、俺が日本にいない10年のロフトのシーン間のことなんだよ(笑)」

小林「ちょうど、ソニーからウオークマンが出た頃かな? インディーズブームの走りの頃、僕が入った頃のロフトのスケジュールは、何でもありな、まさに画期的な音楽シーンを象徴しているんですよ」


<80年代前半こそ日本のロックにとって価値ある時代だ>

平野「そうか? 俺は82年の10月に、日本も、ロフトがやっているロックにも嫌気がさして海外に出るんだけど、例えばその9月や10月のロフトのスケジュールを見ると、友部正人、ケメ、中川五郎、大塚まさじ、山崎ハコ、加川良、森田童子……俺が69年の中津川フォークジャンボリー時代からこだわっていたフォークがまずあって。44MUGNUM、MARINO、BOW WOW、TEN SAW、アースシェイカーの“ド”ハードロック、メタル群や、ロフトロック御三家のARB・アナーキー・ルースターズが燦然としていて。さらにPANTA、P-MODELやヒカシューもいてそれは百家争鳴だったけど、もう荻窪ロフトや下北ロフトを支えてくれたティン・パン・アレイ系の坂本龍一や山下達郎、細野晴臣、桑名正博、ムーンライダース、四人囃子とかはもうメジャーの世界に行ってしまってロフトなんか相手にされなかった。だから何か悲しくってどこかライブハウス経営に見切りをつけていたみたいな感じだったな。俺も、彼らミュージシャンも若くって手作りで音楽を模索していた時代は自分の心の中にそっとしまっておきたいって思って……」

小林「80年代前半って、日本のロック揺籃の時代なんですよ。東京ロッカーズが静まりかけたかと思うと、いわゆるめんたいビートが入って来て、一方でテクノやピコピコサンドもありつつ、関西メタルが入ってきて。東のBOφWY西のモダンドールズになんて言われてたこともあったなあ。日本のロックが最も混沌としていて、まさに一番価値ある時代だったような気がする。その結果として、85年以降のイカ天・ホコ天の大バンドブームが来るですよ。その時代、悠さんは絶望的だって言っているけど、ロフトは確実に日本のライブハウスシーンを引っ張っていた」

平野「ロフトの80年代前半のスケジュールを見ていると、確かにBOφWY、町田町蔵、スタークラブ、P-MODEL、ヒカシュー、戸川純・オートモッドがあるわけだけれど、でもロフトがロフトであって、生意気だけど『ロフトに出演しなければロックじゃない』って名を馳せたのは85年以降だと思うなあ……」(次号に続く)

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
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新宿LOFT 30th Anniversary
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ロフト席亭 平野 悠

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