第109回 ROOF TOP 2007年4月号掲載
「浅野都知事候補プラスワンに来たる!」

<新宿少数派マイノリティ総決起集会>

これから必ずやって来るだろう心地よい春の夢を見ながら、冷たい北風が吹き荒む3月の休日の一日、プラスワンのスケジュールをパソコンで探っていたらこんな面白そうなタイトルとコピーに出会った。

2007年3月17日【昼イベント】 緊急決定
『王様は裸じゃないか!!〜新宿から石原を倒せ!! / 少数派総決起集会』

石原慎太郎に不満を持つすべての『少数派』に問いたい。 あと4年、まだ彼にやらせますか!?
もういいでしょう。罵られたり、踏みつけられたりするのは。石原都政に幕を下ろすこと。そのためにまずは「強制、管理、抑圧を強調する手法との決別」を掲げ浅野史郎都知事を実現すること。それでようやく出発点に立てるのではないかと、私たちは考えます。この選挙の主役は、あなたであり、私たちです。石原慎太郎が都庁から見下ろす新宿。彼が恐れ、敵視してやまない街。しかし最も東京的なこの街から、裸の王様にサヨナラするために何が出来るか。 一人一人がやれる事を考えましょう。
報告:山本夜羽音(マンガ家 / DOXA)/ 要友紀子(セックスワーカー支援グループ“swash”メンバー)/ 關根美子(外国人住民と共に生きる道を考える印刷屋さん)/ 保坂展人(社民党衆院議員/国会内少数派w)
追加ゲスト! 松沢呉一(ライター)/ 渋井哲也(ライター)/ 張由紀夫(コミュニティセンター“akta”ディクターfrom新宿2丁目)

「そうか? もう統一地方選挙が始まるのか?」と思い、そういえば私が関わっている下北沢再開発見直しを掲げる市民運動組織「Save the 下北沢」も、この統一選挙を傍観していることが出来なくなった様だ。候補者から支援要請が来ているのだ。そんなみんなが浮き足立つのを横目で見ながら、私は「そもそも市民運動が既成政党なんぞに利用されたら、その市民運動はただの“一票獲得運動”になってしまい、揚げ句の果ては政党指令でこれもダメあれもダメということになり、市民運動は政党に利用されて無力化してしまう。だから市民運動は選挙なんかに埋没することなく粛々と抵抗運動すべきだ」と思っている。だから基本的に私は選挙は嫌いなのだ。「そんなこと言っても、議員や知事や区長が変わらない限りこの下北沢を分断する大型道路は止まらないじゃないか」と言われてしまいそうだが、どうも選挙は苦手で、やはり私は意識的な日本最大政党「日本棄権党」の党員のつもりなのである。


<なんとも破天荒な都知事候補・浅野史郎>

▲プラスワンで客席と交流する浅野史郎都知事候補。とにかく石原都政を阻止するには彼に当選してもらうしかないのだが、果たして……

3月16日深夜、浅野史郎事務所に詰めている「Save the 下北沢」共同代表の下平氏から、「明日のプラスワンのイベントに、都知事候補の浅野史郎が突然やって来る」という連絡があった。

「まさか? だってこの日のイベントの主催者は本当にマイナーで、パネラーといえば、歌舞伎町住人のセックスワーカーであり、ゲイやレズやホームレス支援の連中だったり売れないエロ漫画家集団だよ。こんなところに浅野さんが来たって意味ないよ。そんなことあり得ないと思う」「でも浅野さんはそういうマイノリティの人達と一緒に勝手連選挙をやりたいと言っているんだよ」「だって、お客だってあまり来ないと思うよ。でも本当に浅野さんが来るんだとしたら、俺も行かないとまずいかな」と言いながら、私は当日の動員の心配をしていた。そして私は友人の新聞記者F氏に電話を入れてみた。「浅野氏が明日のプラスワンのマイノリティの集会に参加したいって言っているんだけど、俺は選挙に興味ないし、都知事選挙直前でこんなマイナーな集会に参加する元厚生官僚で元宮城県知事の浅野氏の頭ってどうなっているの? どういう男なの?」と聞いてみた。するとF氏は「昨日だったか? 浅野氏は民主党のカンパも動員も全部断った。民主党の管直人は憮然としていた。彼は勝手連選挙をやりたいのじゃないかな? 面白い候補者であることは間違いない。あの傲慢な石原よりはいいじゃないか」と言う。ついでに当日の主催者であるエロ漫画家の山本夜羽音氏に電話を入れてみた。

「エロ漫画家のヨハネが選挙応援とは驚いた。あんたも俺と同じ選挙なんか信用していない組かと思っていたよ」「あのね〜平野さん、俺も浅野ってどういう男かあまり知らない。ただね、民主党も自民党と同じだし、俺はエロ漫画規制をゴリ押しした文学者石原を落選させたいだけなんだ」と言っていた。

当日のプラスワンでの浅野氏は、目を見張るくらい面白かった。事前にテレビなどで見ていたさえない印象とはまるっきり違っていたのにはビックリした。自ら大好きだというプレスリーの曲に乗ってカラオケを歌い出し、さらには壇上からすぐ降りて、会場に集まっていた客にマイクを持っておやじギャグを連発しながら話し掛けだした。「私は、今回の選挙は宮城県知事選の様に100円カンパと勝手連だけで政党や既成組織にすがることをやめて選挙をやりたい。宮城県ではそれで1800万円集まった」と切り出した。なんとも破天荒な都知事候補者である。次の日の浅野氏のメルマガ日記には、プラスワン出演がこんな風に書かれていた。
「 ……午後は、新宿歌舞伎町の新宿ロフトプラスワンで、『『王様は裸じゃないか!!』〜新宿から石原都政を倒そう! 少数派総決起集会〜』にゲスト出演。セックスワーカー支援グループメンバー、風俗嬢、外国人住民支援者など、社会的にマイノリティと呼ばれるような人たちの会合だった。こういう会合は、どちらかというと好き、得意。出のところでは、エルヴィスの『冷たくしないで』を歌って登場し、帰りは『監獄ロック』で送られた。」

▲平日の観光地は、じじいとばばあばかり。だから見る物は梅しかない(笑)。わたしゃ、どうも梅より桜の方が好きだ。もうすぐほんの短い期間だけど桜三昧の時期がやってくる。それだけが楽しみだ

もう初老と言われる年になって、私は高血圧を理由に会社をずる休みする日が多くなった。そんな平日を狙って、散歩がてら有名な吉野の紅梅を見に行って来た。一度は見たいと思っていた吉野の梅だ。

東京の奥座敷と言われる秩父甲斐国立公園の玄関口にある吉野梅郷は、JR青梅線日向和田駅から二俣尾駅までの多摩川南側の東西約4kmに紅梅、白梅約2万5000本が植えられ、毎年30万人以上が訪れる名所だ。吉野の梅はまだ満開とまではいかなかったけれど、近くにある秩父連山、多摩川源流、そして古くからの宿場街・青梅の街並を堪能した。写真うまくとれているといいな。


今月の米子♥

平野米子1歳7カ月。生まれはペットのコジマ(最悪)のアメショー。血統書付きだがその手続きには何万円もかかるのでやめた。9万6000円で一人ぼっちのおいらに単身売られた。なぜか絶対おいらの膝の上には来ない。






ロフト35年史戦記 第25回  下北沢SHELTER誕生物語−1(1991年)

<ロック音楽が持つ「破壊と創造、暖かさと冷酷さ」>

ロックが登場した60年代半ば、ボブ・ディランのように自分で歌を作り、そこに反戦とか反体制とかの個人のメッセージを込めるというスタイルが登場したのだが、当時の日本の社会では、これらの音楽は不良の代名詞でもあった。ビートルズに武道館を使わせるなとか、1972年、ストーンズ初来日公演の中止などの背景には政治的判断が働いていた。そして日本にロックが生まれてから40数年、市民権を得てから30数年、もはやロックは歴史であり若者文化であるだけでなく、団塊の世代まで巻き込んだ象徴的な存在になっている。

ロックはいつの時代にもよりラジカル(=急進的)な表現を必要としてきた。しかしロックが市民権を得、産業ロックとして巨大なビジネスとして成立する時代になると、かつてのロッカー達が大物となり、税金逃れのため本国を離れたことに象徴されるように、ロックは死んだといわれるようになった。いつしかロックが持つ本来の生々しい興奮や原始的なエネルギーを失い、「売れたい」という以外なんの表現における共通性もなくなった。ロックとは感性の産物でなくなり、世界市場相手に大量生産されてビックビジネスになってゆき、いわゆるロックがポップスに凌駕される時代もあった。しかしロックの素晴らしさは、そんな連中を横目で見ながらも、次々と新しいサウンドや表現を生み出して進化し続けているのだ。

35年ものライブハウスロフトの歴史は長い。あてどもないくらいとてつもなく長い。最近私はよく思う。ロック音楽が持つ「破壊と創造、暖かさと冷酷さ」、そこには古典として純化し続けるクラシックやその他の古来の音楽とは違って、その雑食性に時にはどう猛さが同居し「何でもあり」という自由さ持っていて、それを聴く全ての人達に勇気や希望を与え、そして人類の未来を展望出来る音楽なのだと。それこそが私が求めるロックのあり方、「ロックの理想の姿」だと主張したいのかも知れない。

それにつけてもライブハウスという空間はいい。どんな素晴らしく出来の良いCDを聴くより、テレビやビデオで演奏を観るより、生音はやはり心に響く。やっとこの年にして私は、いい演奏をした表現者に素直に「ありがとう」と言える存在になったような気がする。勿論ミスや歪み、不協和音が出たりもする。しかし、ライブハウスでのあの高揚感、ステージと一体になった時の感動は何物にも変えられないと思うのだ。


<ロフトの避難場所として誕生した下北沢SHELTER>

シェルターオープンを告げるチラシ。
写真はオープニングウィークに登場したVENUS PETER

1991年、西新宿に数々の伝説を生みながら15年を経た新宿LOFTの歴史も、ビルの老巧化とともにその役目を終えようとしていた。新宿副都心再開発により、新宿LOFTが入っているビルが取り壊され新ビルにその姿をかえようとしていたのだった。ビルのオーナーはゴルフ場などを経営していてバブリーな感じではあったが、ロフト改装計画を持つ私にとっては新築建て替えは渡りに船で、それは大きな冒険でもあるが歓迎すべき再出発でもあると思っていた。

立ち退きか再入居かと迫られていたロフトは、「ビルの地下部分を私達の自由に設計させてもらえる」というところでビルオーナーと合意していた。私達は既に新しい設計図面をビル側に提出していた。

問題はビル立て替えの時期と期間の長さでであった。ビルの立て替えには最低2〜3年はかかる。その間、ライブハウスを休業している訳にはいかないだろう。再入居し、そのビルにさらに大きなライブハウスを作ろうとしていた手前、ビル側に休業資金を出せとは言えなかった。当時のロフトの面積は55坪強に対して新しい店は我々の設計図では200坪、天井の高さ6mを超えるビッグな構想であった。これによって多くのロックファンを驚かせる自信もあった。時はまだあの日本中を狂わせたバブルが終焉するちょっと前で、貸金ブームに酔いしれる取引銀行からは、私の土地と家を担保に差し出すことによって改装資金を借りる内諾を受けていた。

いずれにしろ、新しい新宿LOFTが出来るまでの期間、小さくってもいいからどこかでロックの灯はささやかでも灯し続けなくてはならなかった。毎日の不動産屋通いが始まり、最終的に私は、下北沢の駅近くに物件を見つけることが出来た。時代も時代だったので、この物件は高い買い物だったが、私は過去、下北沢ロフト(1975年オープン、1982年、当時の店長だった長沢幹夫氏に暖簾分け)を開店・運営した経験もあり、下北沢は土地勘もあり新店舗オープンと経営には若干の自信はあった。新店舗副店長の秋山(現・下北沢440店長)の発案で、この新たなライブハウスには、新宿LOFTの「避難場所」の意味も込められ「シェルター」と名付けられた。


<GO!GO!LOFT─20th.ANNIVERSARY─>

<ロフトの避難場所として誕生した下北沢SHELTER>

ロフトグループ20周年を記念して新宿LOFT、渋谷公会堂、日比谷野外音楽堂と場所を変え12日間連続開催された「GO!GO!LOFT─20th.ANNIVERSARY─」。出演バンドの幅広さと豪華さを見よ!

シェルターのオープン工事が続く中、一方ではロフトプロジェクト20周年記念事業が、1991年9月より新宿LOFT店長・小林茂明、シェルター店長・平野実生の下で慌ただしく始まっていた。同年10月がシェルターオープンだから、なんとも忙しく大変な作業だった。この20周年イベントは、9月14日の日比谷野外音楽堂から始まって、最終日9月25日の渋谷公会堂まで、全11日間のロングラン公演をやり遂げ、その熱気を、翌月10月1日のシェルターオープンにもちこむ作戦だった。

バンドブームが終わり、日本のロックの真価が問われた時代。当時新宿LOFT店長だった小林茂明氏は、のちに過去を思い出して当時のロック状況をこう語っている。
「あの頃は(80年代後半)イカ天というのがあって、ライヴハウスシーンの間口が良くも悪くも広がって、“なんでこれがそこまで評価受けちゃうの?”っていうバンドと“これは評価受けて良かった”っていうのがはっきり明確になった時代なんですよ。バンドブームと呼ばれた時代が来てライヴハウスシーンで各メーカーの青田刈りがあって、良い、良くないのちゃんとした物差しを持っていないメーカーの人間が電卓片手にバンドを見るような時代だったから。(中略)で、このイベント『GO! GO! LOFT─20th.ANNIVERSARY─』もその直後にあったから、本当の意味でのバンドっぽいバンド、うちからちゃんと推薦できるようなバンドを20年というのを期にイベントとして大きな小屋でやってみたいなっていうのがきっかけ。(中略)ロフトで演っていた、ARBやBOφWYも解散してその世代が一つ終わって、また新しい時代の始まりを予感するイベントになったと思うよ。“ロフト・グループは20年経ったけど、これからもまだまだロフトは続くんだ”ということで先を予感させるイベントになったと思うよ。」(『ROCK IS LOFT』(LOFT BOOKS/97年)より)

このイベントのチラシの出演者を見ると、まさしくあの愚かな(?)バンドブームや大手メーカーの青田刈り(メジャーデビューと言えば聞こえはいいが、要は使い捨て、売れなかったら即サヨナラ)の時代を生き残ったバンド野郎ばかりだったような気がする。


<しょっぱなから苦難続きの新店舗スタート>

1991年8月、シェルターはビルのオーナーと慌ただしく契約を済ませ、店の内装工事に取りかかっていた。

ライブハウス運営で一番の厄介な難題は、近隣への騒音と入場前の大量のお客さんをどう整理するかである。まず防音費用だが、これは莫大な費用がかかる。この悩みはどこのライブハウス経営者も同じだと思う。もちろん店のスペースが狭かったせいもあるが、シェルターではステージと客席を大胆なまでに近くした。テーマは「深海」だった。目指すはニューヨークのパンクの殿堂・CBGBのような、小さいが個性を持った店作りだった。

しかし私の安易な店作りは、大きな落とし穴に落ち込んでしまった。地下一階のシェルターの上は証券会社であった。事前のビルのオーナーの説明では証券会社は午後3時にシャッターを閉め、5時には誰もいなくなるということだった。だから防音工事を適当にやっていたのだ。
「下北沢に新たなロックの拠点が誕生した。その名も「SHELTER」。新宿ロフトの姉妹店だ。年々多様化する音楽状況と入場者の増大化に対する一つの答えがシェルターの役割で、今までロフトでは出来なかったジャンルや企画なども積極的に取り入れて行こうという考えだ。そんなわけで初日からの6日間の企画は早くも異色な顔ぶれになっている。1日のセッションは言うに及ばず、VENUS PETERや有山じゅんじと言ったミュージシャンの出演は、これまでのロフトの枠を打ち破る可能性に満ちていると言えるだろう。」(『Rooftop』1991年10月号より)

下北沢SHELTERオープニングウィークラインナップ

10月1日“EASY SESSION”
まもるくん(グレリチ)/ ガッくん / 大島治彦(ドクターズ)/ 奈良敏博 / 石井(パンパンハウス)/ 中尾(パンパンハウス)その他ゲスト多数!
10月2日“Wonder Release Record Presents”
SECRET GOLD FISH / SUGAR / CANDY MOUNTAIN
10月3日“カラスミュージックPresents”
プロトエアー / ツェツェグ / FUN HOUSE
10月4日 THE DISMATE / FAVE RAVES
10月5日“Wonder Release Record Presents”
VENUS PETER / DJ:SOME CANDY TALK
※ALL NIGHT
10月6日“RICE Record Presents”
有山じゅんじ / リクオ / ROTTEN HATS


<「今すぐ音を止めろ!」「シェルターは出て行け!」>

工事が大幅に遅れ、店のサウンドチェックさえ満足にできずに、それでもなんとかオープンを迎えた。オープン初日はセッションバンドの登場になった(オープニング6日間は無理矢理大物を呼ばず地味な作戦をとった。ブッキングでは現CLUB Queの藤井氏やスマイリー原島氏にもいろいろ世話になった)。

初めてリハーサルの音が鳴った。そこには涙ぐむシェルター店長・平野実生の姿があったのだが、そんな感傷は階上の証券会社の怒鳴りの抗議で打ち破られた。もちろん、開店前の近所住民への挨拶は済んでいるはずだったのだが……。
「今すぐ音を止めろ! これではうるさくって仕事にならない」と言われ、私とロフトの工事責任者のミトさんと階上の証券会社に足を運んだ。確かに相当な音が響いて聞こえる。なんともう時刻は6時を過ぎているのに、証券会社では沢山の人が忙しそうに働いていた。「オーナーの話ではこの時間はこちら様は5時には仕事は終わると聞いていたので……」と言い訳はするが、そんな事で収まるはずがなかった。「とにかくなんとかしますので今日のところは我慢してください」とひたすら土下座するしかなかった。

外に出ると、今度はシェルターの前のビルの持ち主や付近住民が集まって私達を待ち構えていた。「あなたの店のお客が、空き地にまで入り込んで来ている。これは困る。第一この小さな道路が通れない」と言う。「はい、とにかく整理員を置きますので、今日のところは……」と、またも言い訳するしかなかった。これらの苦情についてはただただ深々と頭を下げ謝るしかなかった。特に、階上と近隣への騒音問題には、解決出来る見透しはなかった。まだ出来て間もないビルはコンピューター化に対応するため、地下と一階のスラブ(天井)は沢山のケーブルを通す穴が空き放題で、考えられないくらい薄かったのだ。防音工事には相当な期間と費用がかかる。この音を防音するには、ライブスケジュールを全部キャンセルして工事するしかないと思った。しかし、某大な予算と時間を使って工事しても、完全に防音できるという確証はなかった。この店の開店総費用は、この時点ですでに1億円以上かかっていた。さらには近隣住民の立ち退き要求に私の頭の中は真っ白になっていった。

「あ〜ぁ、これで1億以上の金とロフトが延々と築いて来た信用はパァ〜か?」と思ったら、食事すらのどを通らなかった。高い保証金を取り、我々を安易に入居させたビルのオーナーを恨んだが、全て自分の甘い見透しが原因だった。終電間際の下北沢のプラットホームには、ギターを持った若者がぽつんといた。この小さな町・下北沢が、日本の音楽シーンに大きな影響を与えその中心地になってゆく「夜明け前」のことだった。 (次号に続く)

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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