第110回 ROOF TOP 2007年5月号掲載
「ロックは悲しみを歌うだけでよいのか?
『ROCKIN' ON JAPAN』編集長・山崎洋一郎氏に公開討論の呼びかけ」

<コラム「激刊!山崎」に異論あり>

ご存じの通り、音楽と演劇そして人情あふれる下北沢に、膨大な血税で幅26メートル(なんと環七より広い)の道路を貫通させる計画が進行中だ。これによって下北沢には大量に車が入ってくることになる。都市再開発という名の下に、駅前マーケットは取り壊され、町は60メートルもの高層マンション街に変ぼうしようとしている。『ROCKIN' ON JAPAN』4月号の山崎洋一郎編集長の連載コラム「激刊! 山崎」で、その下北沢問題について触れている。

「……そういえば下北は町の再開発の計画が進んでいて、住民や下北にゆかりのあるアーティストたちが反対運動のようなことをしているみたいだ。一度、『協力してください』みたいな書類が送られてきたことがあるが、まったく興味がないのでお断りした。町の再開発なんてどうだっていいし、それに反対することも僕には別にどうでもいいし関係ない。」。

まあ、山崎氏の個人的スタンスは自由なのだが、「次々と風景が壊されて新しい建物が作られていくのはなんか悲しいよね。そしてそれに反対するエゴもまた悲しい」とまで言われてしまうと、同じロック文化で禄を食み、30年前の下北沢ロフト、15周年を迎えた下北沢SHELTERと、下北ロック文化を支えてきた私としては、「おい! 山崎さんちょっと待ってよ!」と言いたくなってしまう。山崎さんは「自分はマンションやアパートに住んでいて、新しいのが建設されるとなるとなぜ反対できるのか」という話を例に、上記のように語っているけれど、下北沢の問題はそういう個人間の利権争いとはちょっと違うと思うのだ。

さらにこのコラムの最後では、「次々と新しい建物が建ち、どんどんゴミで汚れていく、この世界に降り積もるブルースを鳴らせ。そして変える力がある人ならば、巨大な敵とロックで戦え。どうでもいいことに気をとられてブレる必要はない。そうやって続いていくのだ。」と結んでいる。山崎氏にとって巨大な敵とは何なんだろう? 「下北を再開発という破壊から救おう」と協賛している多くのミュージシャンはブレているのだろうか? 坂本龍一、フジコ・ヘミング、曽我部恵一、銀杏BOYZ、フラカン等のどこがブレているのか教えてほしい。

▲Save the 下北沢主催の「下北沢に大型道路はいらない! お花見パレード」で、CLUB251のライブに飛び入り参加してくれた曽我部さん。感謝

私が見るところ、山崎氏は下北の都市再開発の実態をほとんど理解していないし、反対運動をしている人たちに対し「エゴ」と切り捨てるのはとても悲しい。「なんで町の真ん中に26メートルもの道路が必要なの?」という素朴な疑問から始まったのが、山崎さんが毛嫌いしている市民運動団体・Save the 下北沢だ。彼らは下北という町を愛するロック好きな市民(ほとんどが若者)で、もっともっと下北の町を良くするための新しい創造的な町造りの提案をたくさんしている人々なのだ。異議を申し立ているグループには、Save the 下北沢以外にも、下北沢商業者協議会(510店舗加盟)、下北沢フォーラム(都市計画学者の集まり)、おやじの会(下北の学校を卒業した同窓生の集まり)、住民行政訴訟の会(立ち退きにあっている地権者や支持者)などもある。

「激刊! 山崎」の書き出しは「銀杏の峯田くんの取材で久しぶりに下北沢へ行った」となっている。峯田くんは敏感少年隊で、下北沢再開発に音楽で異義を唱える「Sound Of Shimokitazawa」プロジェクトからCDも出している。これって山崎さんが言う「ロックで戦う」ということじゃないの? そこをスルーして批判をぶつのはちょっとずるくないだろうか。

下北問題の本質はまさに山崎さんが「悲しい」と語っている「街の風景の破壊」の問題であること。そしてロックはその悲しみに対してただ哀歌を奏でるだけでいいのか、ロックはそれにどう対峙すればいいのかということ。前者については山崎さんは、単純に情報不足で誤解している部分も多いと思う。後者についてはいろいろな考え方があるだろう。どうする「巨大な敵と戦え」と言う山崎さん。一度私たちと下北再開発問題を一緒に考えてみませんか?


<春の椿事? 「政府転覆」都知事候補・外山恒一物語>

3月1日、Naked Loftでこの外山恒一候補を迎えてのイベントがあった。そう、「政府転覆できたら奴らはビビる。私もビビる」という名言の外山恒一候補である。

「政府転覆共同謀議」
この腐りきった国を、あれこれ「改革」したってムダだ。「改革」はもう、あきらめよう。こんな国はもう、滅ぼすしかないのだ! 知る人ぞ知る、九州在住の革命家・外山恒一氏が、「政府転覆」の巨大な陰謀計画をたずさえ、首都・東京へと緊急出撃。(中略)この日あきらかにされる対抗策の講じようもない恐るべき陰謀計画に、政府関係者は震えあがり、夜も眠れなくなるだろう。諸君も陰謀に参加しよう。第二次西南戦争をおっ始めよう。ムダな抵抗はやめて、日本政府はテロに屈しろ!! (イベント告知文より)


▲都知事選前日、高円寺駅前で集会(?)を開いている外山候補を激励に行ってきた。ピンボケだけど許してくれ。結果は15000票獲得!!! 偉い! そして奴は九州に帰って行った。九州でも選挙に出るとの噂

「テツオ(Naked Loft店長)、こんなイベントやって一体どういうつもりだ」と私は尋ねた。「だって、悠さん、もし東京に政府転覆したいという奴が何万人もいたら面白いじゃないですか?」という言葉に私は反論する気もなくなってしまった。当日、外山は私に300万円の供託金を出せと言いやがったから、「お前いくら持っているんだ?」って聞いたら、「一銭も持っていません」。「お前、貯金全く持ってなくて、都知事選に出るのか?」って聞いたら「そうだ」って言う(笑)。わたしゃ、この外山に怒り半分であきれ、一銭もカンパしなかった。イベント後もお金の無心の手紙が来たりしたが無視した。しかし奴は、一週間でどこからか300万円もの資金を集めてきたのだ。

すごい。スターだ。外山恒一は、石原や浅野に飽き足らない層に脚光を浴びている。何票取るか? まさか当選ははないと思うが……。私は一時、浅野史郎選対に出入りしていたが、彼の腰の引けたスタンスに「これでは石原に勝ってこない」と絶望し、途中から応援を一切やめていた。カンパこそ断ったが、選挙当日、私は清き一票を外山恒一に入れてしまった(笑)。そして外山候補は1万5000票を上回る得票を得たのだ。この東京に愛嬌でも「政府転覆」に期待する輩が1万人以上いることに、私はなぜかうれしくなった。奴の政見放送がYouTubeにアップされ大騒ぎになったのもなんだか痛快だったな。

今年の冬は変だった。1・2月はなんだか奇妙に暖かく気味が悪かった。さらに4月に入ってから急に冷え込んだりして、寒さに震え上がったりした。しかし今週に入って、あたりは春らしくなった。春は素敵だ。私の一番好きな季節だ。まず、自分が若返ったような気がする。町ゆく女性が春風に寄り添いながら分厚いコートを脱ぎ、とてつもなくきれいになる。郊外の住宅街が色とりどりの草花で飾られる。吹雪のようにはかなく散る桜の花びらが身の回りを飛び回る。やがて桜の花一面の舗道になって、雨に打たれ終わってゆく。そして私も「散り時」を考える年になったと実感する今がある。


今月の米子♥

おっと、やっと捕まえた。嫌がる米子と、つい先日新しく購入したパソコン(Mac os x / 10.4.9)を見せたくって記念撮影(笑)。このパソコンはWindowsもやれるのだ。Macは囲碁ゲームソフトが全くない。だからどうしても欲しかったんだよ






ロフト35年史戦記 第26回  下北沢SHELTER誕生物語−2(1991年)

<四面楚歌のシェルター開店>

なんとも、シェルター初期の写真がほとんど残っていない。この写真も編集部が雑誌の切り抜き(『宝島』92年11月24日号)を引っ張りだしてきた。でもカラーでないところがいいでしょ

91年、新宿LOFTが入っているビルが新築建て直しするあおりを受け、その避難先としてロフトは再度、下北沢の町に進出することになった(この連載で以前に触れたように、1975年に下北沢ロフトをオープンさせている。現在はのれん分けして別経営)。この年はKAN『愛は勝つ』、小田和正『ラブストーリーは突然に』が大ヒットした年で、翌92年には尾崎豊が亡くなっている。巷では100歳を超えた双児姉妹、きんさん、ぎんさんの元気な姿が話題になった。まだ日本中が、あの愚かな土地神話バブルに踊っていた年だ。

駅から徒歩4分の立地条件は申し分なかった。ほんの30数坪の小さなライブハウスであり、私にとっては10数年ぶりの新しいライブハウスオープンである。もう今から17年も昔のことだ。その頃は、下北沢にライブハウスといえば「屋根裏」ぐらいしかなかった時代である。先月号でも書いたように、シェルターのオープンは困難を極めた。一番大きなのは音の問題だった。ビルの他のフロアの入居者と、近隣住民と折り合いをつけるのはなかなか難しかった。

店舗の大まかかなレイアウトも出来た。内装テーマは「深海」である。真っ青な壁一面にはイルカやクジラが泳ぎ、小さな店の割には大胆にステージを広くとった。私にとっての内装イメージは成功したように思われたが、しかしこれらも全て、再度の防音工事のための改装により、天井から壁一面やステージの装飾まで取り壊されることになった。

店の防音工事は、ステージの奥に分厚いコンクリートの壁を立て、天井は数段低くしその上に大量の砂をぶち込んだ。すべての壁面は分厚い防音材で覆うことになった。しかし音は完璧には止まらなかった。結局、階上の証券会社とは、17時までは一切の音は出さない、苦情がくれば音は可能な限り低くするということでなんとか折り合いがついた。出演バンドにお願いしてなんとか店内のボリュームを最大限落とすことと、夕刻17時まではリハーサルすらやらず、防音専門家の力を借りて早急に工事をするということでなんとか了解を得た。

しかし一方で、近隣住民の苦情は簡単には収まらなかった。確かにシェルターの周りは一般住居なのだ。ライブの音は、夜に入って茶沢通りから車の騒音が少なくなると、排気口やドアを通じて付近に漏れる。さらには、店の細い路地はある有名塾の通学路で、幼い子供たちが茶髪やギンギラの革ジャンパンク野郎が店の前でたむろっているので怖がっているという。近所のアパートの家主からは、「おたくの店が出来たおかげで、店子が逃だして解約が相次いでいる」という苦情がたくさんあって、某区議会議員の音頭で立ち退き署名運動が起き、なんと区役所の「公害課」までのり出してきた。ロフトにとっては新宿LOFTから数えて3度目の立ち退き運動である。

シェルターの位置する場所は商業地域である。しかし、だからといって近隣住民の迷惑になるような商業行為は許されない。もしこの店の立ち上げにかかった莫大な費用が返却されるのならば、私もこの場所から立ち退きたかった。しかしそうも行かず、換気扇には何十もの蓋をしてなんとか音の漏れは少なくした。しかし、パンクファッションの若者たちが怖いからそこから出て行け、というのは納得いかなかった。

「では、その怖いといわれるパンク青年たちが、塾通いの少年少女に何かしたのですか?」と聞き返すと、「今のところないが、あの連中ならきっと、今に取り返しのつかない事件を起こす」と言うのだ。「そんな馬鹿な! 今やビートルズが教科書に載る時代ですよ。ロックの青年たちにそんな悪い奴はいません」と言っても、なかなか納得してもらえなかった。そんな中、店の警備員は深夜まで店の前に立ち、付近に立ち止まらないように警告し、さらには近くの飲み屋から出て外で騒いでいる酔い客に「静かにしてください」と言ったところ、数人の酔い客に突然ぶん殴られて救急車で運ばれる事件まで発生した。私たちは弁護士も含めてその住民たちと、区役所の公害課を交え、何度も協議した。

あれから15年が経ち、下北沢は商業地としてさらに発展し、現在のシェルター付近は深夜まで営業している居酒屋の数も数倍になった。そんな今からでは考えられない話だが、この騒動は半年以上続いた。私は、当然ながら精力的に誠意を持って近隣住民と対話をし続けた。近隣への騒音も、世田谷区の公害課が「営業停止」にするほどのことではないということで、なんとか落ち着いた。


<シェルター初代店長・平野実生インタビュー>

下北沢SHELTER初代店長・平野実生は生きていた。今は出版校正の会社にいるらしい

当時、10年ぶりに日本に帰ってきた私は、まだ日本の音楽シーンもライブハウス事情もよくわからないまま、シェルターオープンに動いていた。あまりにも長い浦島太郎状態だったせいで、出演者の店のブッキングやポリシーには全く口が出せなかった。シェルター初代店長は、4年間、新宿LOFTでアルバイトで働いていた平野実生(当時20歳)を起用した。実は彼は私と先妻の息子である。「5000曲i-podに入れている」と豪語する、ロック狂い、ストーンズ気狂いの息子なのである(笑)。

親が息子にインタビューするというのもなんかとても居心地悪い。息子には4歳になる子供がいる。認めたくないが、いわゆる世間的に言うと私の「孫」なのである。居酒屋でのインタビューは、彼の私への抗議から始まった。
息子「自分の子供に孫が生まれたのに、なぜ会おうとしない。かみさんや相手方の親戚に立場がないんだよ。孫の誕生日ぐらい覚えろよ」
私「あのな〜、生まれたとき一度病院に会いに行っただろうが。もうその話は決着がついているはずだ」
息子「見に来たの一度だけじゃん。それも産院にお義理で……」
私「俺はね、60歳を過ぎて、周りの友達なんかが情けない顔して孫にちやほやするのを見ていてゾッっとするんだ。俺は絶対ああはならないって決めたんだ。俺の終末は養老院で一人野たれ死にと決めているんだ」
息子「嘘つけ、昨年だっけ? 家出して、なんか病気になって泣く泣く家に戻ったそうじゃないか?(笑) カッコよく家出なんて言っても、どうせ浮気でもしていたんだろ?」
私「大きなお世話だ。親をけなして自分の子供の自慢してどうする。俺は誰の世話にもならないでこっそり死んでやる。俺はさすらい人な天涯孤独が好きなんだ」
息子「それじゃ〜、このインタビューは受けてやらないよ。あの頃の貴重な話、ロックのわからんオヤジに話しても通じないよ。なにが新人ロック評論家だよ。笑うね」
私「いや、それは困る。これはロフト35年史なんだから。シェルターのところだけ飛ばす訳には行かないじゃないか」
確かに私は、この息子に「ロック論」を仕掛けられたらとても勝てない。ロフトから離れて何年も経つが、奴がロックを私以上に愛していることを知っているからだ。

さて、こんな親子問答から始まって、結局は朝まで二人で酒を飲むことになってしまった。奴とは何年ぶりに会ったのだろうか? おそらく数年前、奴の子どもの顔を渋々見に行って以来だろう。私の放浪癖に似ているのか、もう10年も前、私にほとんどの相談もなく、ふらっとロフトをやめて、行方知らずになってしまった息子である。そんな息子から数年ぶりに突然、「結婚した。子供が出来た」と言われたって困るだけだ。しかし、お互い年を取ってふっと俯瞰で見ると、息子の方が私より人間的に出来ているように思えるのが不思議だった。相変わらず駄目な自分を見る思いだった。


<目指すは「新宿LOFT打倒!」だった>

私「それでさ〜、シェルターが出来た頃っていうのはどうだったのよ?」
息子「あのね、悠さんは、突然俺に店長やれって言って、若干20歳の若造にだよ。それで、当時の東京のライブハウスの状況ってノルマと素人へのレンタルで相当儲けているじゃないか? ロフトじゃ伝統が邪魔してそういうこと出来ないけど、シェルターは、当分はそれを中心にやって金稼いで、新しい新宿LOFTが出来るまで店を維持しろって。あんたはそう言ったの」
私「えっ、チョッと待てよ。そんなこと俺は言わないよ。俺はライブハウスのノルマ制を批判しているんだから……」
息子「いや、言ったね、本当に無責任なんだから……。日本のロックの元祖みたいなイメージ作っちゃって……、最悪だな。その頃からノルマがなかったのは新宿LOFTだけだったけど、やっぱり新宿LOFTもちょっと落ち目になっていて客入りも悪かった。だってバンドがチケット売ってくれないから。ほかのハコはみんなノルマかけて、パーティーやって儲けていたんだよ。それに対して悔しかった悠さんの気持ちは間違っていないと思うよ。でも俺たち現場はそんなことやりたくなかった」
私「その頃の下北の音楽事情ってどうだったの?」
息子「あのね、俺だって意地があったのよ。だから目指すは打倒新宿LOFT。当時の新宿LOFTって小林さん(小林茂明・現ロフトグループ社長)が店長やっていたじゃない。だからロフトが出来なかったことをやるって畠山(シェルター副店長・当時)と決めたの。」
私「それで俺の方針に反抗して(笑)どんなことをやったの?」
息子「シェルターの最初の頃は、ロフトの二軍としてしか見られなかった。だから悔しかった。一番誇れるのは、日本で初めてクラブDJ文化を導入したことかな? 当時下北にはライブハウスは屋根裏さんしかなかったし、天下の屋根裏さんとは出演者の取り合いはしたくなかった。演劇とピンクの下北沢を、俺らと屋根裏さんが、ロックの町に変えたと自負しているよ」
私「ハイスタやミッシェルなんかは屋根裏のバンドだった?」
息子「おっ、良く知っているね。その頃の日本には、BOφWYとかARBとかに代表されるような日本語ロックばっかで、英語で歌うバンドが陰を潜めていた。人気がなかったと言えばそうだけど、それらを積極的に出演させた。例えば、シェルターによく出ていたビーナスペ−ターも、シークレットゴールドフィッシュもそうだったんだ」


<テーマは「Do it yuorself」なんだよな?>

私「……で、とにかく酔っぱらう前にちゃんと話しておいてくれよ。お前が今、何を喋ろうと、時効だから大丈夫だ。何しろ16年も前のことだから……」
息子「シェルターがやった革命ていうのはね、ロフトでもライブインでもラ・ママでもみ〜んな出来なかった、オルタナな時代をきちんと意識していたこと。当時のライブハウス系バンドは、ライブハウス〜渋谷公会堂〜日本武道館というステップアップの公式があって、みんなそれを目指していた。ロフトなんかを一旦卒業してしまうと、みんな出演しなくなった歴史があるじゃない。でも、アメリカではインディーズのアーティストがメジャーレコード会社に頼らず、何百万枚のセールスをあげられる時代になっていて……。だからね、別に武道館でやった次の日でもシェルターでやれるバンドを探すことから始めたんだ。小さなハコでやることが、ちっともイメージダウンにならない雰囲気作りから始めたかな? 当然始めはお客は入らなかったけど、5年後にはそれが成功したと思っている。俺たちは懸命に、ニルヴァーナとかのグランジブームを勉強した訳よ……」
私「そのニルヴァーナに勉強したってどういう意味よ。この頃はライブハウスはパワステ・カップラーメン全盛の時代だろ」
息子「それ、悠さんに説明してもわからないと思うな。まあ、小さな箱の意地というか……。メジャーくそくらえっていう意識かな。『DO IT YOURSELF』を目指そうとしたの。パワステは全くのメジャー志向だし、レコード会社か大手なプロダクションの紹介がないと出来なかったから……。ウヒヒ、高橋さん(現auxs)に怒られるからやめよっと……」
私「話が長くなるから次の話題に移るけど、シェルターはビジュアルは絶対やらなかった、それが店のポリシーだっていう噂があったけど?」
息子「それはね、ただビジュアルって出演者の入り待ち、出待ちでたくさんの少女が店の前でたむろするでしょ。近所迷惑になるからやれなかっただけの話で、本当はやりたかったな。嫌いじゃなかった。客入るし……。あっ、これだけは書いといてね、UK(PROJECT)の与田さんには世話になった。感動するくらい」
私「まだUKのCLUB QueやCLUB251の出来る前の話しだよな」
(次号に続く)

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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