第117回 ROOF TOP 2007年12月号掲載
「デザイナー・熊坂鷹弘さんの死」

<諸行無常、この世のあらゆるものは変化しておりとどまることを知らない>

ネイキッドロフト制作中の熊坂さんである。とにかくこの格好で平気で電車にも乗るし工事現場にも泊まり込む人だった。この素敵な笑顔があったから35年もつきあうこともできた

新店舗の阿佐ヶ谷ロフトAを作るにあたって、とても悲しい事件があった。

ロフトの新しい店がオープンする記念すべき12月1日を前にして、新店舗制作チームの一員の熊坂さん(色彩デザイナー)が、工事中に末期癌で死んでしまったという重い事実だ。長いこと熊坂鷹弘さんが「癌との闘病生活」をしていると聞いたのは、もう半年も前のことだった。彼はこの2年間、病床にあり、担当の医者は1年しか生きられないだろうというのに、2年間も血液の癌といわれる白血病と戦い続けていたことになる。

彼と私との付き合いは、烏山ロフトから阿佐ヶ谷ロフトAまで続く。76年、新宿LOFTの店内を飾った巨大オブジェ「幻の潜水艦」を設計、制作した人だ。残念ながらその潜水艦は、いわゆるライブハウスブームの中、ステージが見えにくいということで1年あまりで取り壊されたが、それは「本物の潜水艦」とみんなから思われるくらいものすごいオブジェ作品であった。

ロフトプロジェクトにはもう、35年間も続く芸術家集団「店舗制作チーム」がある。このチームは過去数々のロフト系店舗を作ってくれている仲間だ。現在の新宿LOFTもプラスワンもシェルターもネイキッドも全て関わってくれた人達だ。ロフトグループが制作する店舗がいつも異彩を誇っていて、常に巷の話題になっているのも、彼ら制作チームのおかげなのだ。その制作グループ3人のうちの1人、熊坂さんが工事中亡くなったということは、私たちの気持ちを萎えさせた。


<「自分にも参加させろ!」>

私が突然、阿佐ヶ谷に新店舗を出すと決め、ビルオーナーと契約を交わした今年9月、熊坂さんの病状はそれなりに安定していたはずだった(本人曰く、だが)。ミトさん(ロフト工事責任者)は、彼の工事参加は絶対無理だと思っていたけれど、病気お見舞いをかねて新店舗イメージの報告と、ちょっとアドバイスをもらおうと阿佐ヶ谷ロフトAのイメージを熊坂さんの病室に持っていった。

それまで抗ガン剤の副作用の苦しみと闘っていた彼は、ミトさんから新店舗計画を聞きながら、「自分にも是非参加させて欲しい」と目を輝かせながら言ったという。「今の状態では無理だろう」というミトさんに向かって熊坂さんは、「自分は、烏山ロフト(1972年オープン)から始まって、一昨年のネイキッドロフトまでロフト全店の制作に関わってきた。この仕事が自分にとって最期になるかも知れない。だからなおさら参加したい」と強固に言い張った。

翌週、熊坂さんから「今から現場を見たい」という突然の電話があった。熊坂さんは、杖をつきながらそれはよろよろでやってきた。彼は私から、新店舗のイメージやコンセプトを聞き出し、目を輝かせながらメモをとった。

帰り際にクマちゃんは私にこう言った。「悠さん、この2年、毎日抗ガン剤の副作用に苦しみ、食欲もなく気持ち悪いだけで何も考えられず、ベッドにうつぶせになって、死んだような状態で暗澹たる暮らしをしていたんだよ。そこには何の希望も夢もないし、ただ死を待つだけなんだ。悠さん、よくもまあ全く希望のない生活に、こんな素敵な仕事を持ってきてくれてくれました。今、僕は久しぶりに明日も希望を持って生きたいと思い始めました。本当に感謝しています。ありがとう」と言い、涙目で私に握手を求めてきた。

「いや、クマちゃん、そんなことよりも少しでも病状を良くすることの方が先決だよ。絶対無理をしては困るよ」と私は言うしかなかった。

もう35年以上もロフト工事チームである加藤さん(鉄材工芸家)とミトさんはそれを見ていて、「とても参加は無理だ」という意見を翻し、クマちゃんをチームの一員として迎える決意をした。

それから一週間後、クマさんは、工事現場に沢山の資料を抱えやって来た。今度は介護も杖もなしで、背筋はピシッと伸び、彼の身体全体からはオーラというか、明るさとエネルギーが満ちあふれていた。それを見た私たちは、「これは、もしかしE´?たらクマさんは病気を克服できるのではないか? クマさんの工事参加承認は、彼に生きる希望を勇気をあげたことになりいいことなのではないか」と期待を抱かせるほどだった。

それから4日後、ミトさんから私に電話が入りました。「熊坂逝く」と……。


ひまができると山にばかり登っていた山男だった

<せめてこの工事が終わるまで、完成するまで生き抜いて欲しかった……>

熊坂さんは、我々の切なる願いも空しく、10月23日朝、死んでしまいました。61歳の若さでした。

10月25日、熊坂鷹弘さんのお通夜がありました。会場には、クマさんの阿佐ヶ谷ロフトAのイメージコンテが、彼の最期の作品として飾られていました。私は、悲しみに暮れるミトさんと一緒にその夜、クマさんのいた病室に行き、クマさんのパソコンから何枚もの阿佐ヶ谷ロフトAのカラーイメージコンテを引き出しました。なにかとても悲しかったけれど、それが私たちの任務だと思えました。

私たちは、クマさんの遺志を大切にすることに決めました。阿佐ヶ谷ロフトAのライブ会場の天井や壁はピンクとブルーです。もちろん、現在の新宿LOFTもプラスワンも、クマちゃんが選定した色調なのですが、今回の店はものすごく明るいライブハウスです。多分、天井や壁がピンクのライブハウスなど日本中にないと思います。クマちゃんの、自分の死を前にしての作品がどうしてあれほど明るく表現されたのか、とても不思議に思え、人間、死を予期するとこうも明るい色調になるのかと思ったほどです。

年をとると何事にも感傷的になるのがいけない。
私は晩秋の短い風景の中、静寂な冬を迎える前の、自宅の前の小さなお社の森を見ながら、それはとても悲しくなりながら、熊坂氏を、ミトさんから紹介された40年前のことを新鮮に思い出している。青森から上京してきたという青年は明るく、「僕、絵描きになるため青森からやって来ました」と言い、自分のスケッチブックを見せてくれました。彼は心優しい山男でした。合掌。


今月の米子♥

鍋がおいしい季節になった。ふっとテレビを見ていたら、猫は鍋が大好きというのを見ていて、米子にも挑戦させたら、どうしても嫌だという。だから無理矢理土鍋に入れてみた……たいして喜んでいなかったな。また嘘をつきやがって、テレビめ……





ロフト35年史戦記 第33回  新宿LOFT立ち退きへの戦い─6(1994〜98年)

新宿LOFTが新宿西口から歌舞伎町のど真ん中に移転して10年近くなる。もうロフト移転の戦いは過去のものとなり、日本のロックの一つの伝説になろうとしているのだろう。だから現在のスリリングな歌舞伎町ロフトしか知らない表現者がどんどん多くなって来ている。

西荻ロフト時代の常連であり、ロフトを法律面でサポートしてくれている青山力弁護士に、立ち退き騒動から最終的な移転に至るまで、裁判の顛末を聞いてきた。この「ロフト立ち退きの戦い」の記録をあえて長々と書き続けたのも、今回が最終章になる。

この一連の戦いの流れの中でロフトは、なにごとにも「長いものには巻かれろ」的な発想のいわゆるあきらめ系の若者達に対して、「戦えば道は開ける」「決してあきらめてはダメだ」という、私が信じる「ロックスピリッツ」を表現したかったのかも知れない。(構成:今田 壮)


<西新宿LOFT立ち退きにはバブル崩壊の住専問題が背景にあった>







──最初に立ち退き騒動に至る状況を振り返っておくと、新宿LOFTが入居していたビルが老朽化により建て替えるという話が出たのが平成2年。最初は、大家もロフトも再入居前提で話は始まったんですよね。
青山:話し合いはしてるけれど、本音は入れたくないわけですよ。大家からすれば、文句が言えることがいーーーっぱいあるのよ。交通の邪魔になってるとか、タバコの吸い殻もボコボコ投げるとかね。その頃、バブルの時期だからね、金やるから出てけと、そういう対応なんだよ。だから、口では再入居の話をいろいろしていたけど、本心は金やるから出てけと、それもなるべく安い値段にしたいと。で、交渉が決裂したんで、向こうが裁判に訴えて。一審はあっさり負けちゃったんだけど、この時の立ち退き料が5500万。
バブルの真っ最中にはね、年間家賃の60倍っていう立ち退き料の相場があったんですよ。ロフトの場合は年間1000万近く払ってたから、この計算だと6億円。そこまで払っても出ていってくれ、となったかは分かりませんけど、5500万ってのはえらい低いんですよ。それで一審判決直後に控訴したんです。
平野:それから3カ月後に、3300人が集まった野音のロフト支援コンサートがあって、全国から1万8000人の署名も集まり、マスコミにもずいぶん取り上げられた。それで裁判官が大家に圧力をかけ始めたと。このままだとアンタ負けますよと。
青山:その通りだと思うよ。ただちょっと注釈するとね、じゃあそれで控訴審をやってたら勝てたかどうかは別なのよ。だけど、これだけの支持があるものだし、仮に控訴審で判決を出したとしても、まず最高裁まで行く。そうしたら、また相当年月がかかると。だからおそらく裁判所も、時間的な問題を考えれば、再入居ができるような形で考えてあげたらどうですか、と大家に話をしたんじゃないですか。
それで平成7年3月31日に、高等裁判所でいったんは「再入居」するという和解をやったわけですよ。平成8年に明け渡し、新しい建物を向こうが建てる。で、ロフトはそこに50坪ほど借りますよと。
でもその時点で実はもう、相手方に建て替えるだけの資力がなかったんですよ。正直言うとね。大家が住専の大口借り手、30億円もの大債務者だったわけ。
だから、平成2年にビル建て替えの話が始まった頃はそうでもなかったんだけれど、その後バブルが崩壊して、5500万円も払えないし、それ以前にビルを建て替えるだけの当事者能力がなくなっちゃった。これ見ればわかるんだけれども(と、図面を示す)、銀行からお金を借りて、ロフトが入ってたビルだけでなく裏の土地も買って、全部壊して18階建ての大きなビルを建てたいという計画だったわけ。バブルが崩壊しなければ、建ってたんじゃないの。


──立ち退き料5500万は、一時的避難料ということですよね。
平野:そのお金って、要求したんだっけ?
青山:したよ、一応ね。でも払えるわけがない。
平野:それと再入居の時は100坪を要求したんだよ、確か。
青山:控訴審の和解調書を見ると、再入居時には現在と同じ保証金で、50坪は間違いなく貸しますよと。ただし、それ以上の話は新しい建物の計画を詰めた段階で決めましょうと、そうなってますね。


<再入居前提の和解から一転、競売騒動に巻き込まれる>

平野:それが突然ダメだ、ってなるんだよな。
青山:建て替えに2年くらいかかるからその間、シェルターを出して移転の準備を始めてたわけですよ。そうこうしてるうちに、おかしくなっちゃったの、むこうが。こちらとしては約束の期日に出て、2年後に再入居する計画でいたところが、建て替え自体ができなくなっちゃった。そして、競売の話がそこで出てきた。
これで状況が全く変わっちゃったわけです。というのは、競売が実行されちゃえば、法律的にはロフトは競落した新しい大家に抵抗できない。立ち退き料うんぬんと和解の書類にE´?書いてあったって、そんなもの大家さんから取れって話になるわけ。と言ったって、大家さんから取れっこないじゃないですか。
平野:だって保証金さえ戻って来ないって話だったんだから。
青山:そうそう。イヤ、これは脅かしじゃなくて。ホントに保証金だって戻って来なかったでしょう。結局こちらとしては、競売をやられてしまうとね、今度は簡単に言うと、機動隊と喧嘩することになっちゃうわけですよ。必ず機動隊出てくるよ(笑)。
平野:ハッハッハッハ。
青山:だって篭城するとかって頑張ってたんだから。平野クンはそれで殉死すればいいかしらんけれども、従業員も大変だしね、ファンも大変だし。それじゃ困るから、なんとか話をまとめようということで、私が銀行と共同債券買取機構に、内容証明で申し入れをしたわけです。向こうも競売をやっちゃうと、買い手がつくか心配だったんじゃないですか? こういう方がいらっしゃるところだし(笑)。抗議集会毎月やられるんじゃないかとか、本社取り囲まれるんじゃないかとかね。
(一同笑)


──大家さんはバブル崩壊後も一応、会社としてはあったんですよね?
青山:今はわかんないけど、当時はありました。

──銀行やなんかが、大家さんにお金を貸していてそれが不良債券化して返済が滞っていると。
青山:そう、それで、債券回収しないといけないんで、競売の申し立てになったの。だから実質、債権者が決定権を握ってたわけです。
平野:問題は競売になっちゃうと、店子の権利が全くなくなっちゃう。俺達がここで撤退したのは、そういうことなんだよ。日本のロックが生まれて40年、戦えば勝つんだ、道は開けるんだということをロフトは示した、これは大きな勇気になる、というようなことは、例えば中村とうようさんが『ニューミュージックマガジン』でとか、いろいろなところで書いてくれたんだよね。でも俺達としては、競売されて一銭も入んなかったらヤバいよというのが本音ですよね。
青山:そう。いくらカッコ良くっても、それじゃしょうがないだろうと。で、内容証明出したんだけれど、この時にも野音でやったことなんかもまとめて出したわけ。野音の抗議コンサートに3300人、それから、署名だって1万8000人も集まってますよと。そうやって、競売でお金を回収すればそれでいいという姿勢なんですかと。この人だったらね(と、平野を指す)、篭城するとかムチャクチャ言うでしょう(笑)。で、付和雷同するのもいっぱいいるだろうから、たぶん「騒動」になるんじゃないですかと。だから話し合いをしませんかと。
(一同笑)
青山:そしたら、向こうの方から折れてきたわけですよ。一審判決の5500万じゃなくてもう少し出すから、再入居ではなく移転の方向で考えてくれと。その再和解が平成10年の12月15日。これは、いくらだったかな?
平野:9000万ぐらいじゃなかった? ウチが納めてる1500万の保証金も入れて……。1億まで届かなかったような気がするんだけどな。
青山:(和解文を見ながら)立ち退き料が7750万円。プラス保証金の返還が1500万。敷金が97万5000円か。合計9347万5000円を支払うと。で、その他に、明け渡しまでの賃料を免除すると。明け渡しが平成11年の3月17日。


──最終的には、再和解の段階で再入居じゃなくて別の場所に移転しようという話になったと。
平野:そりゃもう、あきらめたんだよ。
(一同笑)
平野:だって大家がこれじゃ建たねえだろうし、それに50坪じゃ狭いんだよ。それこそパワステ全盛の時代じゃん。50坪じゃ勝てないし、機材も古いし、全部新しくしないとその頃のライブハウス乱立状態じゃ勝ち抜けないという意識があったんだ。
青山:再入居させろって言ったって、また2年待ってみたけど、やっぱり競売になるって可能性の方が強いでしょ。じゃあ出る方向で検討するから、出るに見合うようなお金をきちんと出してくれと。こちらとしても、シェルターは出したからって、新宿LOFTは撤退してもうやんないってわけにはいかないないでしょ。


<敢然と抗議して当然なんだけど、戦わない人達が多すぎる>

平野:いやあ、だけどよく記者会見だなんだとやったよな。
青山:やったよ!(力強く)
平野:ハッハッハッハッハ。
青山:当時の新聞記E´?事に相当載ってるよ。
平野:『筑紫哲也 NEWS23』の「異論!反論!OBJECTION」(その時期話題の社会問題について率直な意見を聞く、街頭インタビューコーナー)にまで、「ライブハウスロフト立ち退きに賛成? 反対?」って出て。とにかくあらゆるマスコミが食い付いてきて。新聞も一応、大手は全紙載ったよね。読売新聞なんか、こんな一(いち)お店の立ち退き問題が三面カラーだよ。
青山:でも、それだけインパクトのある事件だったと思うよ。こういう場合、言いなりのところがほとんどだったでしょ。それに対して、敢然と抗議していったということが認められたんだから。ある意味じゃ当然なんだけどね。当然なんだけど、戦わない人達が多すぎる……。
平野:と、顧問弁護士が言っております(笑)。
(一同笑)
平野:それでまた、警察に睨まれたという。
(一同爆笑)
青山:この裁判やった時に思ったんだけど、ライブハウスっていうのをね、裁判所なり大家なりが認知してないんですよ。ある意味、蔑んだような見方をしてる。ロフトは悠ちゃんが、自分の人生かけて築いてきたものでしょ。僕らにしても溜まり場なわけ。そういうものを否定されると、自分の人生を否定されたようで、非常に腹が立つわけですよ。法律家としての部分以外にもね、俺のことバカにしてんのか、という感覚になる部分はあるね。よく勝ったな、というのは、当然評価されていいことだと思いますよ。だってね、黙って出てくのがほとんどなのに、おかしいじゃないか、再入居させろと言ってそれを認めさせたんだから、それはロフトの力だと思うんですよ。ファンが支えてくれてたから、大きな力を結集して、示すことができたんでしょう。ファクターとしてはね、やっぱり騒ぐというか、抗議をするというのは非常に重要ですよ。抗議をして、社会的な運動として盛り上げなければ、当然そういうのは伝わんないじゃないですか。
平野:競売がなければもっと頑張ったよね。
青山:いや、悠ちゃんはその頃でもまだ言ってたよ。国家権力の言うことなんか聞くもんか、なんてね(笑)。俺は最後の一人になっても、三里塚の農民みたいに鎖で柱に自分の身体を縛りつけて、機動隊なんかに抵抗するんだ、って。
平野:あの時、40幾つか。
青山:いや、だからそれはそれで分かるけれど、どうなんだって、脅かしもしたし、いろいろ話をしたよ。
平野:(笑)
青山:自分のことばっかり言ってて、それでいいのかと。
──でもま、どこかでパッと飽きますからね。悠さんは。
(一同爆笑)
青山:いや、あのへんはまだね、飽きてなかった(笑)。けしかけてたら、たぶんそうなってた。
──でもこうやって経緯を振り返ってみると、やっぱり裁判の上でも、篭城するとか言った方がいいんですね(笑)。
青山:まあ、それをちゃんと支持する人がいないとね。野音ができたり署名が集まったりっていうのは、ミュージシャンにとってもお客にとっても、あそこが育った場、自分達の思い出の場だってのがあるからでしょ。
平野:ま、これも歴史だよな。
青山:歴史だよ。


<ロフト立ち退き裁判の経緯>

1976年(昭和51)7月30日 建物賃貸借
1990年(平成2)12月25日 更新拒絶/18階建新ビル建築計画に関する再入居交渉開始
1992年(平成4)4月12日 再入居交渉決裂/大家より立ち退き訴訟提起
1994年(平成6)4月12日 立ち退きを命じる一審判決
1994年(平成6)7月10日 日比谷野音にてロフト支援コンサート
1995年(平成7)3月31日 再入居前提の和解成立
1998年(平成10年)12月15日 退去前提の再和解成立
1999年(平成11年)3月17日 完全退去



『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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