おじさんの眼
 ROOF TOP 2005年11月号掲載
 ロフトプラスワン誕生10周年

ロフトプラスワン名阪ツアー

▲大阪梅田バナナホールでのワンシーン。『格闘二人祭』にて、ターザン山本さんと吉田豪さんとゲストのレイザーラモンのお二人。

 ロフトプラスワンが出来て10年も経つ。その結果かどうかよくわからないが、この間いわゆる「トークブーム」なんかが起きて、テレビやラジオ始め日本中の至る所で大小のトーク番組やライブが観られるようになった。週末にちょっとした郊外のこぎれいなカフェで環境問題を話し合ったり、戦争と平和の問題を考えたりの空間も増えて来ている。最近はお笑いブームとかで、お笑い専門劇場が沢山出来た。しかし、プラスワン的な「右翼から左翼、ヤクザ、スケベ、オタク、さらには無名だけれどとてつもなく面白い人や社会的に発言を禁じられたりしている人に発言の場を解放し、何でも語ってもらおう」といった、雑多でかつ恒常的な番組を組むトークライブハウスは、いまだに日本全国に一軒も出来ていないのだ。

 プラスワンでの「10周年イベント会議」でもその事が問題になった。

「なぜだろう? 我がプラスワンは今やお客さんがたくさん入っているというのに……」という私の疑問。「そうですよね。特に大阪なんかにこういう空間が在ってもおかしくないのに? だって大阪の人ってしゃべり好きじゃん」「では10周年を記念してプラスワンの人気番組を大阪や名古屋に持って行ってそのままやったらどうなるのだろうか?」という事から今回のツアーが実現した。このツアーには小林社長始め、最近はプラスワンにあまり行っていない私も興味深々であった。さらには「ノリが良ければ大阪にプラスワン進出するか」という取らぬ狸の皮算用があって、関西方面のイベンター(清水音泉)に会場探しとその番組のプロモーションをお願いした。スケジュール(写真)は9月22日から10月2日、10月8日、10月28日までと18本に渡るロングランだった。私も大阪に2日ほど行って来て、怪談師・中山市朗の「新耳袋 in 大阪」、猫ひろし、活弁監督山田広野がゲストの「伊達男ナイトDX」、特殊歌人枡野浩一、正岡豊の「いまきみが入れた真水のコップに話す(大阪で)」のライブを見学してきた。

 この時期、大阪は阪神優勝がほとんど確定していて、心斎橋や梅田には人が沢山出ていた。街を闊歩する一人一人がキラキラしているようにみえて、「えっ、なぜなんだ〜。大阪の女性ってこんなにきれいだったっけ?(笑)」から始まって、「これって東京にはない雰囲気だな〜」って私を唸らせるものがあった。さて出前ツアーの結果だが、一イベント平均200人近くが入場しており、そのうち半分近くは満員札止めになる盛況だった。しかし、私は大阪人のノリと東京でのノリが大きく違っていることに唖然としてしまっていた。やはり我々は「よそ者」であるのだ。どの会場でも若干冷ややかに「東京ものが何をやろうというの?」っていう雰囲気がどことなく感じられ、特にお笑いものの猫ひろし、山田広野の会場では、「大阪には吉本と松竹があるわい、東京のお笑いなんか話にならん……」っていう、いわゆる「遠巻きで眺める」感じに大阪人の東京人への悪気のない敵愾心が感じられた。そんな風に思ったのは私一人だろうが、まあそれなりの「敗北感」を引きずって早々に大阪を後にした。

プロデューサーの意見も聞いてくれ!!
「プラスワン名阪公演は大成功だったし、「また来て下さい!」と言われて嬉しかったです。早くも12月には『MAN-ZOKUナイト おっぱいだらけのエロエロフードル祭り!!』でまた行くので、よろしく!」 シンスケ横山談


語るところまで来たロック……サエキけんぞう

 秋が深まり行く晩秋の一日、『ロフトプラスワン10周年記念パンフレット』でのサエキけんぞうさんのインタビュー記AE?事を再読してみた。素晴らしいところなんで、ロックファンのみんなにも是非読んで欲しくって、ここに引用してみたい。

「……僕はその頃、トークというものに注目していたんです。というのは、ロックは情報がもはや膨大に集積してきてしまっている。つまり、演奏することも大事なんだけど、話で決着つけなきゃいけない部分もすごく出てきていると。だから、ロフトプラスワンという『話せる場所』ができたってことですごく喜んだんです。(中略)例えば今、隣(コマ劇場)でQUEEN(のミュージカル『WE WILL ROCK YOU』)をやってますが、何でコマ劇でQUEENをやってるのか? 今QUEENは再結成していて、それを揶揄するのは簡単なんだけれど、いい話もたくさんあるんですよ。QUEENって何だったんだろうってことから始まって、あの頃のロックに何があって、今は何があるのかを考えたりしていくと話は止まらない。(中略)ライブハウスというものは、もし荻窪ロフト(サエキ曰く、日本の本格的ライブハウスの草分け)がなかったとしても、他の誰かがやったでしょう。でも、トークライブハウスはできることそのものが革命的だったから……」

 サエキさんとロフトは、彼が高校1年の時の荻窪ロフトでの初体験、ティン・パン・アレイセッション以来のおつき合いだが、このサエキけんぞうさん主催のプラスワンでの「サエキけんぞうコアトーク」はもう73回目を迎える。凄いことだ。


歌舞伎町裏ビデオ情報

サエキさんの他、宮台真司、リリー・フランキー等のインタビュー掲載の10周年記念パンフレットは、プラスワン店頭、ロフトWebShopなどで絶賛販売中!

さて、「おじさんの眼」久々のエロもの復活だ。これはもうロフトプロジェクトのホームページの金曜コラムで書いたんだけど……。世界に誇る「ディープな風俗の町」新宿歌舞伎町もどこもが黄昏れてゆくだけで、ウイークディの人通りもめっきり減って、悲しい思いをしていたんだ。そんな時、あの「歌舞伎町裏ビデオ専門家」のN氏から、悪魔のささやきが……(しかも、ちょうどネイキッドロフトでの三上治・宮崎学出演の「新宿憲法村」の最中!)。 「悠さん、またぞろ歌舞伎町の裏ビデオ屋が死にものぐるいで、そ〜っと店を開けていますぜ。又いつ手入れがあって絶滅するか解らないですからご出馬して確かめられた方が……」

 原稿枚数の関係上詳しく書けないのは残念だが、とにかく物好きな私は「憲法村」を中座して、歌舞伎町のプラスワン前の裏ビデオ屋街に行ってみた。するとなんと、カーテンは低く引いているが、確かに中は明かりがついていて人影がチラチラしている店が数軒ある。店内に入ってみると、4〜5人のお客さんが熱心にカタログを見ながら注文しているではないか? 「本当に好き者はめざといな〜」って感心することしきりだった。店内にはホテル盗撮ものやカーセックスものや熟女ものが並んでいる。それでわたしゃ、読者諸君の為に(笑)いろいろ調査してみた。……で、裏DVDが7枚1万円、更には15枚1万円の店まであったぞ。あったり前だけどモザイクなしのものが1枚750円という事になる。う〜ん、街のレンタルビデオ屋で恥ずかしながらエロビデオを借りるより安い。革命的な値崩れだ。興味のある人は行ってみたら。まだ間に合うかも知れないよっと……。






第9回・ロフト35年史戦記─「新宿ロフト風雲録−1 1976年〜」

夜明け……定着した日本のロック

 75年にオープンした「下北ロフト」の成功は、私を一時的だが有頂天にさせた。3AE?軒のロフト(烏山/西荻窪/荻窪)の営業も順調だった。一方で会社の内実は相当無理な出店計画が続き借金だらけだった。しかし当時まだ30歳を過ぎたばかりの私は意気軒昂だった。「向かうところ敵なし!」といった感じのロック系ライブハウスロフトの増殖作戦は東京に5年間で4軒の店舗を次から次に作ってきたわけだ。

 なんと、ロフトの取引銀行に幸か不幸か「ロック好き」の融資担当者がいて、彼は私がライブのチケットをあげたりしたりしているうちにすっかりロフト(ロック)ファンになっていた。

「平野社長、これからは平野さんたちロックの時代ですよ。応援しますからそろそろターミナル駅周辺への進出を考えてみては……」
という甘いささやきもあって、私は次の店舗進出のターゲットを新宿に定める事になった。

 75年12月に出来た渋谷屋根裏のライブスケジュールが強力になってゆき(このシティポップの時代ですら屋根裏はパンクのライブをやっていた)、新宿ルイードも芸能界絡みのブッキングとはいえ歌謡路線からロック系にシフトしつつあった。そんなことを含めて東京の主要都市(渋谷・新宿・六本木等)からの圧倒的な良質の情報発信によって、「このままではロフトのトップの(?)座は危ない、負けてしまう」といった危機感があった。それが逆に、また大きな借金を新たに抱えるにもかかわらず、私の次の店作りへの背中を押してくれたのかもしれない。時代はユーミン、井上陽水、よしだたくろうとミリオンセラーがいわゆるニューミュージック周辺から排出され、一方で、ヘビメタ、プログレ、グラム、R&Bなど長い間日の目を見なかった日本のロックもまた、次々とレコーディングビューし出していた。


ロフト的立ち位置は……

 ロフト的に状況を語ってしまえば、76年3月31日にはあの山下達郎率いるシュガーベイブが荻窪ロフトで「解散式」を行い、同月、やはり荻窪ロフトで悲しいかな、かの垂水兄弟の永遠不滅のバンドといわれたイエローが解散する。ビクターレコードが「フライングドックレーベル」、徳間音工に「バーボンレーベル」があり、あの歌謡曲の本家、クラウンレコードでさえロックミュージックへの参入が本格化し始め、当時では過当ともいえるロックレコードのラッシュがしばらくは続いた。ゴダイゴ、鈴木慶一&ムーンライダース、金子マリ&バックスバニーが結成され、近田春夫&ハルヲフォン、Char、桑名正博、高中正義、矢野顕子、もんた頼命(現・よしのり)、妹尾隆一郎、大貫妙子、BOWWOW等が次々にメジャーデビューしてゆくのだ。

 ちなみにこの時代、国鉄の初乗り運賃が60円、村上龍の「限りなく透明なブルー」がベストセラーになった。政治的には高度経済背長絶頂期に列島改造論を唱えた田中角栄のロッキード事件があり、カンボジアではポルポトの大虐殺があり、あの「人民から針一本盗まない」と豪語した中国の赤い星・毛沢東が、文化大革命の失敗以降情けないことに「酒池肉林」にまみれて死去するのだ。

 そんなこととは関係なく日本のロック状況は進化し続けて行くのだった。76年8月、それまで手作りのほとんどスケジュールだけの『月刊ROOFTOP』は、本格的デザイナーやカメラマンを入れたタブロイド版でリニューアル再出発した。収支は勿論赤字だったが、このようなロックのフリーペーパーがライブハウスから発行されたということは大変な事だったのだ。新生『ROOFTOP』創刊号はロック業界の話題をさらった。一面は吉見佑子さんの矢野顕子インタビュー「私はビックリすることが大好きなんだ」、次に続く相倉久人さんの連載対談は、矢沢永吉「夢はビックに、俺はチャレンジャー」という内容だった。


日本語ロック論争の顛末

▲新生『ROOFTOP』創刊号。今となっては夢の面子!

 70年代始めだったか、内田裕也さんが「ロックは英語で歌わなければ世界に通用しない」と言い出した。当時一部のロックファンから人気のあった、はっぴいえんどを中心とした怪しげな巻き舌で歌う日本語ロックやフォークに対しての、多分ロック業界初の「論争」が起きた。日本のロックの雄、フラワー・トラベリン・バンドをプロデュースしていた内田裕也さんの言い分は、「日本語で歌う事は商業主義の介入を招き、それでは日本のロックがダメになる」という論理だった。「日本語ロックか英語ロックか?」というこの論争は『ニューミュージックマガジン』誌を中心に展開され、育って間もない日本のロック界を二分させるものだった。それはまさしくはっぴいえんどの路線と内田裕也路線の対立の構図となり、商業主義ポピュラーミュージックまでも含めて「ロックとは何か?」という論争になった。

 当時の私は、「ロックは対抗文化(カウンターカルチャー)たり得る」という風に思っていた。それはたとえ60年代の幻想だとしても、自分にとっての仕事上の意味を見つけるためにも、この論争がロックファンを巻き込んでいった事はとても重要だった。その論争は未だ決着を見てはいない。しかしこの論争の後、内田裕也さんは「コミック雑誌なんかいらない」という日本語で歌う曲がヒットするという、なんとも皮肉な結果になってしまった。


マイナーからメジャーに……新宿ロフトオープニングスケジュール

 私は今、新宿ロフトのオープニングスケジュールの華麗さ、豪華さに戦慄するぐらいの興奮を感じている。このオープニングセレモニー10日間は、確かに今で言えばもの凄いスケジュールなのだが、当時の状況としては、各バンドの動員力は限られておりやはりお客さんがちゃんと入る(100人以上か?)バンドは数知れていて、30日間スケジュールを埋めるのは相当無理があると判断していた。やはりライブは週末、金・土・日曜と祭日に限定して、後は過去ロフトの各店で成功した「ロック居酒屋」を中心にした営業形態をとるのが一番の方法論だと信じていた。相変わらず私は「ロックのライブ」だけでは利益を出すことは出来ないが、ロックに群がる若者たちをターゲットにした「ロック居酒屋」(ライブが終わってから朝の4時までロックパブとして営業していた)で営業利益を上げることによって、未来はあるがお客の入らないと思われるロックバンドのライブでも続けられる。「これぞライブハウスの役目だ」といった信念を持っていたのだ。

 当時、いや多分今でもそうだろうと思うが、お客が入らなくっても素敵なバンド群は沢山いた。ロック居酒屋スタイルを固持することによって、お客の入らないバンドにもそれなりに優しく付き合うことが出来た。その当時は意識していなかったが、ロックが持つ無限の可能性を信じロマンを感じていたのだろうと思う。私は相当な冒険だが、「新宿ロフト誕生」のイメージを前向きに考え始めていた。それは新たに台頭しつつあった若者の文化「ロック」を、その底辺のライブハウスという空間で支えられるのは「ロフト=私たち」以外ないのだという、高慢な自負を持ち続けていたからなのだろう。

 新しくわき起こって来た「日本語ロック」は、はっぴいえんどを中心に受験生相手のマイナーな深夜放送を経て次第に若者に浸食してきて、それ相応の支持を得るようになって来た。確か75年後半ぐらいからだろうか、大手メジャーレコード会社も、時代に遅れてはならないとばかりに「売れそうなバンド」を物色し始めた。これを第1次ロック「青田買い」という。

 それまでの日本のロックは、ただのマイナーな存在でしかなかった。だからそれぞれのバンドのスタッフには、プロのいわゆる業界に精通した「マネージャー」なんかほとんどいなかった。ただのバンドのファンである友達が無報酬で面倒を見ているというのがほとんどのバンドの在りようだった。しかしそのバンドがメジャーデビューとなるともうそれはプロのお仕事になるわけで、アマチュアである友達マネージャーにはその科せられた役目は荷が重すぎた。契約から印税計算、プロモーション、広告出稿、タイアップ……。それまではスタジオでの練習や、ライブハウスにブッキングしていれば済んだ彼らの任務にプロとしての仕事が要求され始め、その混乱は至る所の現場で起きていた。そしてそれまでお友達、無報酬で長年頑張って来たマネージャーが、大手レコード会社の要求でどんどん切られてゆくという、涙の別れを私は沢山見てきた。ロフトの柱の陰で友達マネージャーやスタッフが泣き、

「俺はいらないって言うの? 一体俺は今まで何をやって来たんだ!」
と悲しい声を出し、
「な、解ってくれよ、レコード会社から言われているんだ。今俺たちバンドにとっては一番大切な時なんだ」
って苦しそうに説得するバンドリーダーが肩を抱きしめる。
「解った。俺は去る……。バンドの成功を祈るよ」

そういった涙の別れを経て、いつの間にか、多くのバンドのマネージャーやスタッフは、ライブハウスなんか来たこともない大手レコード会社のプロのスタッフに代わっていった。そんなAE?悲しい幾つもの光景を見ながら私は「私は絶対バンドのマネージャーにはならない」と心に誓ったものだ。(以下次号に続く)


新宿ロフトオープンセレモニー
1976年10月
1日(金)ソー・バッド・レビュー/金子マリ&バックスバニー
2日(土)加川良/大塚まさじ/西岡恭蔵/金森幸介/中川イサト
3日(日)鈴木慶一&ムーンライダース/南佳孝&ハーバーライツ/桑名正博&ゴーストタウンピープル
4日(月)サディスティックス(高中正義/今井裕/後藤次利/高橋幸宏)
5日(火)吉田美奈子/矢野顕子
6日(水)斉藤哲夫/遠藤賢司/大貫妙子
7日(木)リリィ with バイバイセッションバンド
8日(金)山崎ハコ
9日(土)センチメンタル・シティ・ロマンス/めんたんぴん
10日(日)長谷川きよしサンデーサンバセッション

ロフト席亭 平野 悠

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