おじさんの眼
 ROOF TOP 2005年10月号掲載
 それぞれの夏、おやじの夏

追悼・見沢知廉

 見沢知廉(享年42歳)が死んじまった。遺書はなく、もう至る所で見沢知廉氏の「自殺」は報じられ、「見沢知廉論」がネット上のブログを賑わせている。このところロフトプラスワンゆかりの「表現者」たちが次々と命を落としてゆく。中島らもさん、奥崎謙三さん、林由美香さん、明智伝鬼さん、見沢知廉さん……。見沢さんが逝く前日に、明智さんの追悼をプラスワンでしたばかりだというのに。こりゃ〜一体なんだ〜っ、プラスワンには「疫病神」がついているんではないかいって思うとともに、なぜか私も「次は自分の番かもしれないな?」なんて感じることしきり。「ゴッドワールド」と「血栓溶解法」で85歳まで生き抜いた、あの獄中41年『ゆきゆきて神軍』『神様の愛い奴』の奥崎さん以外、みんな私より年下じゃん。「まいったな〜」と、切実に思っている。


公開すべきか? そっとオクラにしまっておくべきか?

 今、私の手元に、見沢知廉氏の段ボール一杯分の「資料」がある。それは彼の生い立ちから、現在までの全てが詰まっている「パンドラの箱」の様に思えた。

 一昨年、見沢知廉のDVDをロフトシネマから出そうという企画があった。何を勘違いしたか見沢さんは、その一枚のDVDに自分の全歴史をたたき込もうとしていて、これだけのものを送ってきた。制作スタッフとの「思惑」の行き違いとトラブルから、この「幻のDVD」は今だに一般発売されていない(過去CSで放映されたことはある)。

 この資料の中には、見沢さんが過去、収監時代に書いた『天皇ごっこ』(この作品で新日本文学賞を得る)の生原稿、便せん風の紙にそれは小さく細かくびっしりと書かれている現物がある。しばし私は彼の原稿に目を落とし、事務所の雑音をよそに読みふけっていた。む、むずかしい。

 故見沢知廉は、波瀾万丈な人生を送って来たように思う。プラスワンの加藤梅造から「追悼文は少なからず面倒見た平野さんが書くべき」と言われたが……。あ〜、やっぱりそんな大それた「追悼文」なんて書けないな〜。すいません。(10月3日、急遽ロフトプラスワンで見沢知廉追悼イベントを開くことが決定した)


無情な雨に嗚咽するフジロックー地獄編

▲雨のフェス。若いみんなは重装備しているのにわたしゃ、上海シート一枚で防戦。隣は友人のS教授。

 雨、雨、雨。スキー場である苗場の緑濃い山中の雨は、冷たくしんどい。山道はぬかるみ、昨年に続き「田植え状態」な日本最大のロックフェス・フジロックであった。8月29日夕刻、苗場に着くともう日はとっぷりと暮れかけていて、霧雨が降っていた。じじいである私はもう「出鼻」をくじかれて、一緒に行った友人のS氏と、「まあ、あと二日もあるし、今夜はホテルで酒でも飲んで寝ようや」って、おじさん族はこの夜の不参加が決定(笑)。二日目の朝、二日酔い越しのカーテンを開けると見事な晴天。しかし、午後遅く雨に変わった。黒く重たい雲が山のてっぺんに突然現れて、もの凄い雷が鳴って滝のような大粒の土砂降りに見舞われそれぞれのステージを結ぶ幹線山道はフジロック名物「田植え祭」になってしまった。ゴアテックスの雨具など持っていない私はもう処置なしで、またホテルに帰るしかなかった。フェス最終日、初日、二日目同様晴天だったが、夕刻からにわかに土砂降りの雨に変わった。そんな中、気も弱く体の弱い私はただ狼狽えるばかりで、「やっぱホテルで酒でも飲んでテレビでもみよ〜っと」と決断を下すしか選択肢がなかった。「俺はここに何しに来たんじゃ〜」と考え込みながら。更には深夜、昨夜に続いて寝場所のなくなったロフト関連の出演者やスタッフが泥んこのままどかどかやって来て、「平野さん、コーディネーターのあのアホ荒木のおかげで、身体を洗うとこすらないんです。すいません、風呂に入れて下さい」から始まって、「今夜ここの床に寝て行っていいですか、泊まるテントも部屋もないのです」って泣かれる有様。まさかこの冷たい雨の中外におっぽり出す訳にもいかず、若い連中のいびきを聞きながら「なんて事だ!」って、まんじりともしないで夜が明けて行くのでありました。


ジェフ・ベックは知??ってるけどベックなんて知らないよ

▲ヘブンステージでのルースターズ。大江が素晴らしいな。

 結局の所わたしゃ、ブライアン・ウィルソンの抜けたビーチボーイズを観る気はしなかったし、なんのバンドを観たかの印象がほとんどない。うん、でもね、その昔ロフトで一世を風靡したウエストロードブルースバンドの復活を観たよ! メンフィスからわざわざやってきてくれた山岸潤史を観たよ。「おいおいベックぐらい知ってるよ、ジェフ・ベックだろ」「悠さん、ベックですよ。ジェフは来ません(笑)」なんて冗談言っていたけど、初めて観た一人ベックも良かったな。一番最高だったのは、アバロンの小さなステージで観た大江慎也。前回、メインステージでやったときより大江はまるでリラックスしていて、また大江をフォローする花田がどこまでも素敵だったな。

 それでさ、東京に帰ってからホットスタッフのD氏に会ったので言ってやったんだ。「おい! Dよ! いい加減にせんか? あの雨なんとかしろよ! ちゃんと雨乞いの反対の、なんていうかわからないけど、ほら、てるてる坊主飾ったりする儀式やったのかよ〜!」。さすがにD氏キレまくって、「悠さん、そりゃ〜ないでしょ。雨で一番辛いのは俺たちスタッフなんすよ。文句言う前に、お疲れ様でしたとかなんとかねぎらいの言葉ないの?」って抗議され、わたしゃ、すかざす「すんません」って謝るしかなかったな(笑)。


北海道のロックフェスも雨がテーマだった(笑)

▲会場に入りきれない群衆を前に「お詫び」するリリーさん。

 さて、8月も後半。フジと違って雨がほとんど降らないと「伝説」の、北海道はライジングサンに行ってきたよ。なんとか石狩の大地に昇る朝日を見たいって思って、第一日目、札幌のホテルを出発したら、もの凄い豪雨に見舞われた。2〜3時間も降っただろうか、雨は止んだけど、わたしゃ、前日食べた老舗ラーメン屋「S」のギトギト札幌味噌ラーメンにあたってしまって下痢状態。ついにこの日は会場に行かずススキノを散策していた。

 ライジングサン二日目も雨模様ながらなんとか会場に。あったりまえだけど、いかにゃ〜話にならんって訳だ(笑)。すぐに「銀杏BOYZ」を観に行ったけど、お客さんが多すぎてテントの外の遠くからしか見えず。でも一発でこのバンドのファンになれた。「うん、これからは恥も外聞もなくスリルを作れるこのバンドしかないな」って思ったよ。相変わらず、我が友(?)増子さんの「怒髪天」は観れず……ごめんよ。それにしても、人が多すぎてイマイチだらけだったな。リリーさんと猫ひろしを観に行っても会場は400キャパで入れず、清志郎さんやクレイジーケンバンドを観に行っても人だらけ。まあ吉田美奈子を30年ぶりに観たのでよしとしよう(笑)。ライジングサンの次の日からはレンタカーを借り、ニセコ温泉(とほ宿・YOU ロッヂ 旅物語)から幌加内(ライダー宿・吉里吉里)まで『ニッポン放浪宿ガイド200』(山と溪谷社)の次号改訂版の隠密取材をしていた。

「私は又旅に出た。愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ」
「カナカナ鳴いて一人である。/蝉しぐれ死に場所を探しているのか」──山頭火






第8回・ロフト35年史戦記─下北沢ロフト編─3(1975年〜)

片隅の小さな幸せ……時代はシティポップなのだ。ロックなんて呼ぶな!

 1975年12月に誕生したロフトグループ4軒目の「ライブハウス下北沢ロフト」は、実にその立ち位置は新鮮だった。演劇とジャズの町に新しくわき起こって来たロック文化と共に、ロック好きの若者達の熱い支持を得て着実に下北の町に根を下ろしていった。  初代下北沢ロフト店長、現自由が丘ロフト社長佐藤弘氏(50歳)の回顧は終わりを知らない。若干20歳にも満たない、ポッとした赤ら顔の田舎出の、今で言うロック好きのフリーターでしかなかった佐藤氏も、そして当時30歳前後であった私も、いわゆる「明日の可能性」を信じる青春のまっただ中に息づいていたのだ。「これからの時代は俺たち若者にある!」って叫んでいた学生達の反乱も鎮圧され、世間は権力者が望むように全く静かになった。高度成長期のこの時代、世間一般は苛立つぐらいなぜか「キラキラ」していてとても明るかったように思う。  あの時代の町に吹く微風(そよかぜ)の心地よさはなんだったのだろうか? と私はしばし30数年前の過ぎ去った時代を懐かしく思っていた。何かしら社会を変えようとして戦った若者達の無惨な敗北の「挫折」はどこに行ってしまったのだろうか? って思うことしきりだった。あの血みどろの戦いの終焉をあざ笑うかの様に、いや、違う言い方をすれば、あの「大学解体=自己否定」を叫んだ若者達、幾つもの会社を乗っ取って「自主管理・武装」なんて訳のわからん理論を振りかざしていた無数の若き反戦労働者達。「古い価値観」に戦いを挑んで、圧倒的重装備の機動隊権力に突っかかるしか方法のなかった無数の傷ついた若者達。そしてその結果は無惨な敗北を強いられ、挙げ句の果て内ゲバ・リンチ殺人事件や、日本で左翼が初めて権力との銃撃戦を行った「浅間山荘事件」のあったほんの数年後の時代だった。挫折し、惨めな敗北をした「全共闘」の連中は、髪を短く切ってどこぞの地下室に姿を消した。東京郊外の下北沢には、もうそんな時代は関係ないとばかりにショートケーキを半分にした様な住宅が建ち始め、人々は猛然と会社人間(エコノミックアニマル)として再教育され始めた。成城とか田園調布の成金高級住宅地では、「緑の芝生と赤い屋根、白いスピッツとガーデンパーティー」が市井の人々のあこがれになってゆくのだった。四畳半でギター、裸電球とせんべい布団から這い出た若者達は、おそろいの陳腐な「T−シャツ」を着、若いカップルが町の商店街を手をつないで闊歩してるのが自然な風景になっていた。


佐藤弘・初代下北沢ロフト店長インタビュー──その2

▲ウエストロードブルースバンドの山岸潤史のギターが唸る。是非とも今の若いロッカーに聞かせたいな。

 渋谷から東横線で自由が丘駅(この地名って好きだな)に降り、ピーコック方面に向かう寿司屋の3階に、佐藤弘(50歳)が経営するロック居酒屋「自由が丘ロフト」がある。佐藤弘は娘さんに店を手伝わせながらこの店を経営していた。「もう、この店出来てから25年も経つんだよ。俺がロフトからこの店を暖簾分けさせて貰ってから20年か」と、感慨深そうに遠くを見つめた。気がつくと我々はもういろいろ話し込んで2時間も経っていた。

──Charがアメリカから帰って来て、始めてプレミアライブやったのも下北ロフトだったよね。
「多分そうだったな。Charの「凱旋帰国(?)」は衝撃的だったな。だってバックはみんなアメリカから連れてきた外人さんだったし。Charの初ライブを観ていたウエストロードブルースバンドの山岸潤史(G)は、「顔もスタイルもギターもカッコ良すぎてとても勝てない」ってぼやいていたな。故天野茂さん(NSP)がよくCharと飲みながら音楽を語っていた。Charの詩も相当天野さんが書いているんじゃなかったっけ?」

──天野茂さんか? 懐かしいな。今やメンフィスでブルースの山岸潤史さんを知らないアメリカ人はいないっていうくらいのギターの天才に、そう言わせしめたっていうのも凄いね。で、下北ロフトはしばらくしてから、この山岸さんに代表される『関西系ミュージシャンの東京拠点』にもなって行ったんだよね??。
「その頃、ロフトのスタッフ兼医大生で、関西系ミュージシャンに強い奴がいて、俺がロフト事務所の意向を無視して下北独自企画を立ち上げたんだよ。それがことのほかうまくいった。当時の東京の新興ライブハウスには関西まで裾野を広げる余裕はなかったんじゃないかな。そんな事出来るのはロフトだけだった。ソー・バッド(・レビュー)の東京デビューは新鮮だったな。山岸さんはジミヘンばりに自分の歯でギターを弾き、にんじんをピック代わりにギターを弾くんだよ。それがその後下北ロフトで大人気になる加治木剛さんの「東京おとぼけキャッツ」につながったんだと思う。北京一さんのボーカルと関西弁丸出しのべしゃり、石田長生さんの渋く暗い(笑)ギター、旨かったな」

──天下の上田正樹さんは?
「上田正樹さんはその頃、東京ではほとんどボーカルやっていたんだ。カッコ良かったな。それ以降下北ロフトは、ウエストロード、憂歌団、中川イサト、有山じゅんじ、大塚まさじなんかが頻繁に出演するようになる。その頃の大阪のプロモーター、オレンジの阿部登さんや福岡風太さんの力強い協力があった」

──あの昔、俺が一番好きだった「愛奴」の最終的解散劇は下北ロフトの深夜行われたって聞いたけど……。
「う〜ん、いいのかなこんな事喋って……。浜田省吾が愛奴から抜けたのは悠さんも知っているよね。浜省は西荻窪ロフトでギター一本の弾き語りから再起を図り、荻窪時代頂点だった愛奴がどんどん下降線をたどって行って、お客さんも数えるほどになって来ていて。最後はマネージャーとミュージシャンの喧嘩、それも下北ロフトの前の路上で殴り合いの喧嘩が始まった訳」

──なんで喧嘩になったの? 相変わらずの女の取り合い?(笑)
「それは言えないよ。今さら……。喧嘩と言えばブレイクダウンの近藤房之助さんは、『俺は喧嘩には負けたことがない』って豪語していて、酔っぱらって拓大の空手部の数人と近藤さん達グループ15人ぐらいとが殴り合いの喧嘩になったわけ。多分拓大の空手部は悪くなかったと思うんだけれど(笑)。5分ぐらいで近藤さん達が路上に丸太のように転がって倒れていたな。15人だよ。あれは面白かった」


▲冬の扉を歌う?吉田美奈子・・・完璧に復活したぜ。

──中島みゆきの東京進出ライブも下北ロフトだったんだよね。
「中島みゆきのブッキングをしたのは事務所のブックマンだったんだろうけど、俺たち誰も当時中島みゆきなんて知らない訳だし、ブックした担当者も店に来なくって、悠さんだけが覗きに来ていて。なにしろお客が200人近く並んで、とても入り切れなくって、俺と悠さんが慌てて会場造りをしたよね」

──当時の中島みゆきって北海道はもとより、東京でも相当なコアなファンを持っていたんだな。でも我々の所には全く中島みゆきの情報は入って来ていなかったね。そういう感じで言えば、やはりタモリさん初ライブも無茶無茶面白かったな。
「タモリ東京初ライブは『冷やし中華愛好会』主催で、山下洋輔さんと坂田明さんが、『九州に面白い奴がいると風の噂があって、会場費は出せないけど、是非彼のライブをシークレットで』って。確か深夜の0時頃から始めたんだ。夜も更けて客の半分は寝ていて、俺がライオネル・ハンプトンの「スターダスト」をBGMでかけたら、タモリさん、ステージで全裸で踊り出し、もうそれは抱腹絶倒だったよな。あれからロッカーの多くがステージで裸になることが流行りだしたのかな?」

──ブルースハープの天才・ウイーピングハープ妹尾さんのマネージャーは、あのビーイングの長戸大幸さんだったし、売れ線の大橋純子さんはなぜか「北島三郎事務所」に入って、俺は北島三郎さんから直接事務所に招かれて「今度、私たち北島音楽事務所も今はやりのロック音楽に挑戦することになりました。よろしくご指導お願いします」なんて言われてびっくりするやら恐縮するやらで。音楽業界は、新しくわき起こって来たロックというかニューミュージックには注目していたんだよな。
「歌謡曲が地盤沈下して行く時代だったので、そうかも知れないね。ロック御三家ってありましたね。桑名(正博)・世良(公則)・Charさんだっけ?筒見京平さんに曲を貰ったのは桑名さんの『哀愁トゥナイト』?」

──最後に、こんないいバンドなのになぜお客が入らないんだろうって悩んでいたバンドをあげてくれる? 続けたいけどあまりにもお客が入らないバンドっていつの時代にもブッカーや店長を悩ますよね。いつまで赤字を続けたらいいんだ〜って……(笑)。
「う〜ん、そんな事言っていいのかな? まあ、もう30数年前の事だから良いか……。まずは荻窪時代のRCサクセションが筆頭だよね。後はカシオペア、もんたよしのり、来生たかお、越中屋バンドとかたくさんいたし、今なお生き残っている強力バンドもあるしね。意外とそういうバンドって、お客が入り出すと出演してくれなくなるんだよね」

──弘さん的に一番気に入っていたバンドって? やっぱ金子マリさん?
「もう、サザンと金子マリさんグループは別格で、ホント下北ロフトの身内みたいだったし、南佳孝、桑名正博、Char、石田長生、山岸潤史、ジョニー吉長さん達もロフトとの付き合いは長かったし、今のライブハウスの様にただ演奏しに来るっていうだけでなく、ほとんどのバンドは友達以上のマネージャーなんかいなかった。酒を飲みながらPAやったり。出演者やスタッフは店長や店員と仲良くなっていないと、演奏が終わってからタダで酒が飲めなかったし、焼きそばも作って貰えなかった(笑)」
東京都目黒区自由が丘2-14-20第7千陽ビル3F 03-3717-9699

 まだまだ不十分だが、やっと下北沢ロフト初代店長・佐藤弘さんのインタビューをもって「下北沢ロフト編」が終わった。もっとたくさんインタビューしたい業界の重鎮(この時代はみんな青春のまっただ中で謳歌していた)がいろいろいるのだが、それは原稿枚数のあまり制限のない「単行本」発行の時期に挑戦しようと思っている。

「ふと後ろを振り返ると、そこには夕焼けがありました。あれからどのくらいたったのか?」と友部正人の名曲「一本道」が私のマックのパソコンのスピーカーから聞こえて来た。遠くにかすむ摩天楼新宿は真っ赤な夕焼けに包まれていた。もう年老いた私は、これ以上あの伝説の「下北沢ロフト」を思い出すことはないのかもしれないと思った。夕焼けはいい。夕焼けは己がどんな状態でもぞっとするほどいい。今夜も良い月夜(中秋の名月)なんだろうって思った。

 次回から始まる、もう30年の歴史があり、いまだに現存している「決戦風雲録・新宿ロフト編」。一体どうやって書き連ねようかというプレッシャーが私の目の前にが〜んってあって、もう今から頭を悩ませているのだ。


ロフト席亭 平野 悠

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