おじさんの眼
 ROOF TOP 2005年8月号掲載
 プラスワン10周年と極私的60歳

60歳(還暦)の憂鬱(ゆううつ)

「人生50年」とはよく言ったもので、私はその格言からさらに10歳も年を重ねることになった。

 後厄か前厄かよくわからないけれど、この60歳という苦し紛れの1年は終わりつつあって、後数カ月で61歳になろうとしている。現在の私の周辺では、団塊の世代というか全共闘世代がもうすぐ「定年」を迎えようとしている。それまで威張っていた会社での名誉ある地位をはぎ取られて、天下り先もなく会社で記念品と一通りの「退職パーティー」をやって貰って、それからは何もすることがないという状況になる。さらにはそれまで何十年間もサラリーをせっせと家に運んでいたのに、妻や子供達から粗大ゴミ扱いされそうな奴らを沢山知っている(笑)。これから何年か先に60歳(還暦)を迎えようとしている連中に60歳という年齢の重さを、私が味わって来たこの1年の苦闘をそんな奴らに何とか伝えてみたいと思った。

 はっきり言って私は還暦を迎えてこの1年、間違いなく毎日がブルーだった。「このまま足腰が弱って何もできなくなって老いさらばえてゆくのか」という漠然とした不安がいつも頭の隅に存在している。これは私が過去40歳(独身だった)を迎えた1年間よりも数倍つらい1年であった。40歳になったときのつらさは「俺はもう若くはない、これがいわゆる中年という奴か? もう女も気軽に口説くことができないな〜」っていうぐらいのブルーさであって、まだまだ仕事とか恋愛に頑張ることはできるが、「将来(老後)への設計」をも含めて「40を過ぎるということはこんなに辛いものか?」なんて思っていたものだ。しかし60歳という重みというか実感はそんな柔(やわ)なつらさではないのだ。


60歳の喜怒哀楽

 まず、60になっていいことがあるとすれば、映画館が一律1000円になるぐらい。後はいいことなんて一つもない。「あの人はもう年なんだから勘弁してやろう」と、「あの人60にもなってなんてざまだ……」との相反する癒しと陰口に日々さらされるだけだ。

 昔のように「お〜い、新聞!」なんて家長が一番威張れるような家庭制度なんかもう崩壊しているし、20年も連れ添った古女房と何かの「コラボレーション」があるわけでもない。ただ一人ぽつねんと深夜自宅に帰り、迎えてくれるのは猫一匹、書斎に閉じこもって返球のないピンポンであるパソコンをいじるのが精一杯なのだ。ゲートボールや地元の老人会に入っての温泉旅行なんて自分の「美学」にはとても相容れない。さらに一番きついのは、新聞の死亡欄を見ても周囲を見ても、50代後半から60代で死にゆく人たちが断然多いこと。自分の現在の年と重ねると、「終末に向かって毎日を過ごす」ことにとてつもなく慌ててしまうのだ。相変わらずの自堕落な生活をしている自分を見据えるたびに、「いつ死んでも全くおかしくない年になったな」ということが常に深刻に忍び寄って来て、「死への恐怖=いつ死んでもおかしくない年代」に自分がいるのだということを否応もなく確認させられる。これはどこまでも底深い。  特に深夜自分の部屋で「孤独」を噛みしめる時など、どんどん深遠な摩訶不思議な幻想的な世界に入り込んでしまって意外としんどいのだ。


60歳の孤独な「決起」──自由への旅立ち

 あと数年もすると我が健康保険証に参ったことに「(老)」が付くのだが、60歳を過ぎるということは毎日が「終末」に向かっての時間との戦いになる。私の母が62歳で肺ガンで死んだことが何度も何度も思い起こされ、要するに「もう自己に取って残された時間がどんどんなくなってゆく」というのが実感なのだ。この強迫観念は実に厳しく、すなわち「自分は死ぬまでに後一体何ができるのか」、いや言葉を言い換えれば「人生で何かやり残したことって何だろう」と、せっぱ詰まって一人ぽつねんと考える時間が多くなっているのだ。

 現在、私達夫婦の二人の子供達はなんとか無事高校も卒業し、私は彼らに対しての「義務」は終了したと宣言した。私は二人を前にして、「私の親としての責任はすんだ。悪いけど君たちに遺産は一切残さない。ただ勉強したいんだったらどんなことをしてもお金は作る。私が稼いだお金は私が全部使い切って死んでやる。安心しろ! お前達の世話にはならん。私は養老院で死んでやる」と高らかに告げた。  そして私の「決起」は、20年間連れ添った(このうち半分以上は一緒に住んでいないのだが)妻に真摯に「協議離婚」を申し出るに至った。

「もう私は60歳。私に残された時間は少ない。いつ死んでもおかしくない世代に入った。お願いだから残りの??人生、私を自由にして下さい」と、深々と頭を下げた。実はこの妻さんは一般的に見ればとてもいいかみさんなのである。ただ私との「残りの人生の時間を埋めてゆく為の共通テーマ」がほとんどないのだ。性格の不一致と言ってしまえば簡単だが、いわゆる物の見方考え方の「価値観」が全く違うのだ。私達夫婦はただただ「子供が高校を卒業するまでは」って20年近くも我慢をしてきた(つもり?)。  この私の行動は、よく巷で起こっている何十年も専業主婦なんかで家庭を支えて来て、定年退職した夫に向かって「離婚してください。残りの少ない人生、自由に生きてみたいのです。お願いします」と宣言するバージョンなのだろうと思う。この「申し出」によって、金銭的リスク(慰謝料)はもちろん、親戚関係とかのいろいろなしがらみなどあれこれ面倒くさいことが私を襲う。「結婚するのは勢いだから簡単だが、離婚とはどれだけパワーがいるか?」とよく言われるが確かに本当である。多くの熟年夫婦は別れたくても、そのパワーもなく、財政的にも無理なのでほとんどあきらめきっているという話はよく聞く。勿論それらは覚悟の上。この申し出で私は、自分の生まれた家を含めて、多くのものを失うことになるのだ。

 私は今、家(実家)を出て月10万円の家賃、築40年の2DKの古マンションで一人孤独な生活をし始めた。断じて言うが、下世話な世間にありがちな、私は惚れた女ができたから「離婚」を申し出たのではない。あくまでも最後の自分の「自由と夢」を追いかけたい為に「決起」したのだ。そう、後は全て「孤独死」への恐怖も含めて、「居直り」の境地を持つしかないと思い、一人自炊生活を送り始めた。

奥崎謙三さんの死・享年85歳

▲プラスワン10周年記念イベントにて。85歳で亡くなった、かの有名な奥崎謙三さんの追悼をする。

 私が60歳という「断層と厚い壁」にのたうち回っている最中、映画『ゆきゆきて神軍』『神様の愛い奴』で知られ、反戦、反権力、反天皇イメージで左翼知識人から絶賛されたあの奥崎謙三さんが6月16日、神戸市内の病院で多臓器不全で亡くなっていた。週刊誌の記事では「死の直前までバカヤローと叫んでいた奥崎謙三」と書かれてあったが、奥崎さんを看ていた関係者は、最期は穏やかだったとみんな言っていた。あれだけ世間を騒がせ、殺人者扱いやヒーロー扱いしたマスコミ報道は興味を示さずほとんどがベタ記事扱いだったし、私やその周辺に取材に来たのは、『週刊新潮』(囲み記事)と『週刊朝日』(1頁)という悲しい有様だった。

 2005年7月6日、「ロフトプラスワン10周年記念感謝祭」が企画されていた。私はそのイベントの前半部分を借りて、数日前に病院で息を引き取った奥崎謙三さんの「追悼トークライブ」やろうと決意した。多分「ロフトプラスワン」は、8年前に府中刑務所から出所した奥崎さんの東京での唯一のよりどころであり、最も縁が深かった場所に違いなく、追悼イベントをやれるのは私達以外いないと思ったからだ。この「追悼トークライブ」は漫画家の根本敬さん、湯浅学さん、船橋英雄さん(以上、元・幻の名盤解放同盟)以外の出演者は考えられなかった。出所後の奥崎さんを一番愛していたのも、大混乱したのも、映画『神様の愛い奴』の撮影クルーが分裂仲違いしたのも、反権力の人・奥崎さんにAV出演を決意させたのも、根本敬の特殊世界「因果鉄道」の旅の一環だったのだ。

 私としては、左翼知識人(?)から「反権力、反戦、反天皇の人」と絶賛されヒーロー扱いされる奥崎さんをAVの世界に引き入れたのは充分面白かったし、「私が76歳で監獄から出て多くの女性とセックスするのは、ニューギニアで無駄な戦死をした戦友の弔いにもなるのだ」と言った奥崎さんに喝采を送った。だから私は映画の制作を引き受けた。当然、この『神様の愛い奴』(このタイトルは奥崎さんがつけ、監督も実質奥崎さんだった)は既成左翼の連中には非常に評判が悪かった。でも私は彼らに言いたい。「奥崎さんをいつまでもヒーロー扱いしている奴ら、ざまを見ろ!」。

 根本さんはこのイベント当日が奥さんの出産日であり、さらには奥崎因果か大変な難産の末に「双子」のお子さんが産まれた。イベント中に「もう2日寝ていないけど、今会場に向かっています」という電話が入った。やはり根本さんもこの「追悼??ライブ」にだけは顔を出したかったのだろう。

こんな私は自由なのか?

 私はいま、この文章を読み返してみて、もう50歳を過ぎた多くの友人達の顔を思い浮かべていた。この蒸し暑い夏の真っ最中、築40年の中古マンションの一室で一人ぽつねんと眼下の街道を疾走する種々の車の赤いテールランプを追いながら、遠くにかすんで見える、新宿の摩天楼に不敵につばを吐きかけたい衝動に駆られた。

 そんな中、ふっと私は先日家出して来た、昔の草深い田園に囲まれていた「実家」を思った。都市はますます自然を食い物にして破壊し増殖してゆく。このバカ日本には都市と自然の共生はない。この原稿を書きながら私は、失った「生まれ育った昔の場所」に思いをはせながら、思わずもう一度少年時代の心に戻っていた。自然に囲まれてあるがままに生活してみたい。雑木林、どこまでも続く田園、近くに無数に流れる清流でザリガ二やドジョウを捕り、その小川で泳ぎも覚えた。狸やムササビの出る田舎だった。春になると無数の蓮華(これは宗教言葉でもある)が咲く田園で育った。それがいつの間にか清流が生活排水の下水となり、田園は住宅地として埋め立てられていった。もし「故郷」と呼べるものがあったら私はそこに帰りたい。だが私にとってはそれは心の中にしか存在しない。もう一度住まいを求めるとしたら故郷を感じれるような田舎に住み人生の仕上げをしたい……。なんてそんな贅沢な空想に耽っていた。

 来週は「フジロック」そして「ライジングサン」にもいくぞ〜!




第6回:下北沢ロフト編─1(1975年〜)

ライブハウスってなに?

 ライブハウスとは完全な日本語の「造語」である。従ってそのシステムやギャラ制度、更には現在多くのライブハウスが出演者に課している「ノルマ」なんていう制度は、アメリカやヨーロッパにはなく日本だけの「特殊」なものであろうと思う。出演者から「お客が入らなかったらお前の責任だから使用料を払え!」というのが凄い。あの矢沢永吉がZepp Tokyoでやったコンサートで3000人以上の客に向かって、「やっぱりライブハウスっていいね」ってステージ上から言ったと聞いた。何千人も収容できる公営の会場や不動産屋や大手放送局が経営する大型な小屋を「ライブハウス」と言えるのかどうかは実に難しい。昔から不良ロッカーなんかが集まる場所は「狭く、汚く、危険、地下室」という怪しげで魑魅魍魎なのが基本であり(笑)、若者が東京なんかに初めて来てライブハウスに行くということは、それ相当の「覚悟(?)」がいるもんだった。そのライブハウスに恐る恐る入場することの勇気と「洗礼」を受けて初めて「ロック小僧」になれたのだ。お金を持っていない奴は、入り口に陣取り、地下から漏れてくるかすかなサウンドを全力で聴き取って育ったもんだ。それが嫌な人はちゃんと管理され(例えば渋谷公会堂)予定調和とアルバムをセールスすること、CDと同じ音を出すことが中心に構成された、大きくて明るい、ちゃんと夜の9時半には家に帰れるホールに行くのが常だった。

 その昔、長いことロフトで育ち、私を含めてみんなで頑張ってメジャーデビューを果たした有名なロックバンドがあった。ある新宿ロフトでのライブの時、不覚にも二度演奏中に電源が落ちた。怒り狂うプロダクションやレコード会社スタッフ。「これはひどい。こんなことではもうロフトではライブできない」とマネージャー達。「ライブハウスって、完全管理されない、何が起きても不思議ではないところが魅力なんだよ。電源が切れたくらいでオタオタするな。見ろよ、彼(演奏者)は完全な生音でもやっているし、お客もこのハプニングをそれなりに楽しんでいるではないの?」と私は居直ったことがあった。勿論そのメジャーバンドはそれから一回もロフトに出演することはなかった。


ライブハウスとは不思議なオーラが蔓延する場所

 ライブハウスとは、いつ、何が起こるかわからない空間だ。その小さな空間から肉声をも含めて発せられるなんとも不思議なオーラが蔓延する磁場があった。さらには町の風景の中にとけ込み息づいているのがライブハウ??スの原点だったのだ。ニューヨークのあの何十年も続いているパンクの聖地「CBGB」が今立ち退きの危機に瀕していて、世界中のパンクファンから熱いメッセージや反対運動が巻き起こって来ているという。本当のライブハウスってこうやって、お客からも表現者からも、スタッフからも愛されて初めて「ライブハウス」って思えるのだ。

 10数年前、新宿西口ロフトが不当な立ち退き騒動にあった。「汚い、うるさい、恐い、町の迷惑だから出ていけ!」とビルのオーナーから言われた時、音楽関係者とお客さんで構成された「新宿の文化を守る会」が立ち上がり、立ち退き反対コンサート(100名近くのロフトゆかりのミュージシャンが野音で開催してくれた)や署名運動(3カ月で18000人の署名が全国から送られてきた)が広範に行われたことを、私は今でも熱く思い出す。頑張れ負けるな! 戦え! ロック魂なんてものがあるとすれば「CBGB」よ、その精神で突っ張りきれ! それこそがロックだぜ!


下北沢ロフトオープン

 ロフトが日本のロックシーンの先頭を走ってゆくには、もう終わりつつあった中央線文化を考えながらも、日本にようやく訪れた第一次ライブハウスブーム(ロック系)に対処しなければならない。西荻窪&荻窪ロフトだけではどうしてもこの「勝負」には勝てそうもない、と私は実感していた。

 東京では至る所にロック系ライブハウスが続々と誕生しつつあった。新宿には「クレイジーホース」、「開拓地」、そして元喫茶店を改装した小沢音楽事務所系の「ルイード」がメジャーな芸能系タレントの表現活動の場として活動し始めた。高田馬場「people」、三ノ輪「モンド」などもあった。さらにまだ「屋根裏」ができる前の渋谷の「ジァンジァン」の存在は欠かせない。いくら楽器や楽譜を売るためのライブとはいえ、ポプコンやイーストウエストを開催していたヤマハの「エピキュラス」、更に「VAN99ホール」「東芝銀座セブン」「銀座山野楽器」まで、不定期ながらロックのイベントをやり始めたのだった。

 フォークの「西荻窪ロフト」、ロックの「荻窪ロフト」の限界を突破するには、ロフトにはもう一軒の店が必要だった。それも中央線沿線でないところを模索していた。そして私が最終的に決めた地は、まだ町としては未完成だった下北沢だった。下北沢駅南口商店街(この商店街は下北の4つの商店街で一番人通りがなかった)を下ってゆき、丸井(その昔、あのクレジットの丸井があったのだ)を右手に見ながら古風な電気屋さんや雑貨屋さんが並ぶ商店街を抜ける手前。金子マリさんのお母さんがやっている「喫茶まり」があり、その前に約30坪の地下物件を見つけた。保証金は400万、家賃は15万だった。過去3軒の店をやってきた経験上から、店造りはもう手慣れたものだった。  なんといっても一番ビックリしたのは、下北ロフトは開店初日から毎日満員(勿論パブタイム)で、若者、ロック関係者の客質も申し分なく良質でボトルキープが一カ月で500本を超え、私にとっては現在までも含めて一番楽な、いわゆる何の苦労もなく儲かる店だった。金子マリの母上が、割烹着のまま娘の演奏と歌をロフトに見に来ていた。私にとってはなんともうれしい光景だった。子供ばんどのうじき(つよし)と店員のゴーレム(現ソニー・ミュージックエンターテインメント)が一番悪かった(笑)。

 店は例によって朝の4時まで営業していて、深夜になると店の前にタクシーの客待ち行列ができたくらいだった。この時点で私は初めて下北沢に「事務所」というものを持つことになった。もう「どんぶり勘定」の適当さは「会社」としては通用しなくなっていたのだ。とは言っても、当時は「税務署」も「ライブハウス」なんていうものは全く業種的にもわからず、あの文化庁や文部省のお金持ちの天下り機関「JASRAC」も、まだライブハウスからお金を取ってやろうという発想すらなかった時代だったのだが。


演劇の町・下北沢はまだまだマイナーな存在だった

 まだ現本多劇場のある場所に駐車場とアパートがたっていた時代の下北沢(その安アパートに売れないアルフィーの貧乏坂崎が住んでいた)。この店はロック音楽に飢えた下北沢を中心とした若者の圧倒的な支持を獲得し、この下北ロフトの誕生は下北の町(南口商店街)の若者の流れを大きく変えたと言われた。その頃、若者文化は時代と共に中央線沿線に集中していたいわゆる三寺文化(高円寺、吉祥寺、国??分寺)から、渋谷、新宿を中心に下北沢、自由が丘等に移って来ていると私は分析していた。下北沢は当時から演劇の町ではあったが、今の繁栄なんかは想像もできないくらいのマイナーな町だった。いずれはシャッター通り商店街になる運命にもあったような気がする。そのころの私には、大好きな新宿に店舗進出する勇気はまだなかった。新宿進出にはもう少し時間と金銭的な余裕が欲しかった。一方ではロフト全店が「ロック・フォークブーム」に乗って──ライブの客入りはあまり良くなかったが──パブタイムで儲かり始めていた。

 さらに下北ロフトの開店は関西系のミュージシャンにも東京進出の大きな扉を開いたと言える。それは金子マリとバックスバニーが下北ロフトを拠点に活動し始めたのが大きく影響していた(マリは当時、関西系のミュージシャンと仲が良かったのだ)。石田長生、北京一、山岸潤史、有山じゅんじ、金森幸介、上田正樹、優歌団、ウエストロードブルースバンドなどが東京の拠点にしてくれたことも大きかった。山下洋輔さんの要請で、怪しげなネタ「四大陸麻雀」のタモリが東京進出して初めて深夜こっそりライブをやったのも下北ロフトだった。売れる前の南佳孝さんは、ざわつくパブタイムにウイスキーのロックを片手に一人、ピアノを弾いて気軽に歌ってもいた。


演劇の町・下北沢はまだまだマイナーな存在だった

 まだ現本多劇場のある場所に駐車場とアパートがたっていた時代の下北沢(その安アパートに売れないアルフィーの貧乏坂崎が住んでいた)。この店はロック音楽に飢えた下北沢を中心とした若者の圧倒的な支持を獲得し、この下北ロフトの誕生は下北の町(南口商店街)の若者の流れを大きく変えたと言われた。その頃、若者文化は時代と共に中央線沿線に集中していたいわゆる三寺文化(高円寺、吉祥寺、国分寺)から、渋谷、新宿を中心に下北沢、自由が丘等に移って来ていると私は分析していた。下北沢は当時から演劇の町ではあったが、今の繁栄なんかは想像もできないくらいのマイナーな町だった。いずれはシャッター通り商店街になる運命にもあったような気がする。そのころの私には、大好きな新宿に店舗進出する勇気はまだなかった。新宿進出にはもう少し時間と金銭的な余裕が欲しかった。一方ではロフト全店が「ロック・フォークブーム」に乗って──ライブの客入りはあまり良くなかったが──パブタイムで儲かり始めていた。

 さらに下北ロフトの開店は関西系のミュージシャンにも東京進出の大きな扉を開いたと言える。それは金子マリとバックスバニーが下北ロフトを拠点に活動し始めたのが大きく影響していた(マリは当時、関西系のミュージシャンと仲が良かったのだ)。石田長生、北京一、山岸潤史、有山じゅんじ、金森幸介、上田正樹、優歌団、ウエストロードブルースバンドなどが東京の拠点にしてくれたことも大きかった。山下洋輔さんの要請で、怪しげなネタ「四大陸麻雀」のタモリが東京進出して初めて深夜こっそりライブをやったのも下北ロフトだった。売れる前の南佳孝さんは、ざわつくパブタイムにウイスキーのロックを片手に一人、ピアノを弾いて気軽に歌ってもいた。


ロフト席亭 平野 悠

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