おじさんの眼
 ROOF TOP 2005年7月号掲載
 終末を迎えた新宿歌舞伎町

「青少年健全育成条例」って?

 初夏の霧雨の煙る歌舞伎町の路地で又、嫌な光景を見てしまった。これで何度、こんなイヤな光景を見たのだろうか? って苦々しく思った。この数年の相変わらずの光景ではあるのだが、ただ歌舞伎町を歩いているだけで、日常的に私服や制服の「職務質問」に引っかかってしまう。今回も、パンクの格好の青年が巡回の警官に捕まってカバンの中身まで点検させられている。法律(憲法)的には断固断ることが出来るはずなのだが、もうそんな人々の権利なんかお構いなしで、数人の警官に取り囲まれ哀れな「犯罪者扱いされた」若者は、ほとんど泣きそうな顔をしていた。この半強制的「身体検査を含む職務質問」を拒否する事は出来ない。それも理由を聞くと「テロ対策」なんだそうだ。

 この「テロ対策」という名の下に何でも許される権力のプライバシーの侵害傾向は全世界的に広まっており、民主主義を標榜するアメリカでもそれは顕著で、知識人や良心的な市民からも「これはひどい」っていう怒りの声と「抗議運動」が各地から上がり始めている。もし、警官の要求を断固拒否すると、強引に交番に連れ込まれるのだ。これでは戦前の警察の「おい、こら、ちょっと待て、こっちに来い」と同じ「警察国家」の再来じゃないかと思うのは私だけではあるまい。もっと問題なのは、これだけの違法行為を行っている警察官自身が「我々は正しい事をやっている」って信じているから余計に始末が悪い。「平野さん、俺もう歌舞伎町にライブを見に来るのは嫌だよ、なんにも悪いことをしていないのになんでこんな目にあわねばならんの?」とぼやかれる程、石原慎太郎の進める「歌舞伎町浄化作戦」は、甚だしい人権蹂躙を孕みながら、歌舞伎町から始まってこの先日本の全ての繁華街に広がって行き、とどまることを知らないのだろう。

 東京都の「青少年健全育成条例」改正にともないこの一年、新宿いや東京中の繁華街ではものすごい異変が起きているのだ。この改正条例で、18歳未満は夜の11時過ぎの外出が規制されるようにもなった。これは通称「外出禁止令」と言われ、夜中にコンビニに行くのさえ親の許可が必要となるのである(笑)。だからライブハウスもクラブもカラオケボックスも店の前に警官や補導員の姿があり、18歳未満の若者がいないかどうか、警官の店内立ち入りが頻繁に行われているのだ。もし違反してたらすぐに「営業停止」が待っている。だから深夜営業しているクラブやライブハウスは、いわゆる営業停止にならないために必死で、頭の禿上がった中年のおじさんにまでも入場時には身分証明書の提示を求める事になる。


終幕を迎えた歌舞伎町

▲これが日本の伝統芸能歌謡ショーのメッカ、コマ劇場。オイオイ、コマ劇場やミラノ座は解体され、六本木ヒルズみたいに「ツインタワー」になるらしい。歌舞伎町が六本木に? 勘弁して欲しいな。

 確かにその兆候は一年前からあった。50台もの「監視カメラの設置」があったし、歌舞伎町からほとんどの「裏ビデオ屋」や「ディープな風俗店」が摘発され消滅してしまっているのだ。青少年の育成に悪い影響があるからといって、新宿の「ホストクラブ」の看板が撤去されたのは有名な話だ。

 長く歌舞伎町に拠点を構える私達も、当初は「いつもの警察とマフィアの利権構造のこと」と達観して見ていた。だが、どうやら今回はそんな話ではなさそうで、今歌舞伎町は重大な「危機」を迎えている。今や、ほとんどの風俗店が閑散とし閑古鳥が啼きまくっている新宿歌舞伎町。それは現在の新宿コマ劇場のたたずまいが見事に表しているといえよう。「WE WILL ROCK YOU」のクイーンの垂れ幕が町中至る所に飾られている。ここには、私が理想とする雑多なエネルギーと欲望とが混沌と渦巻く町「漂流街・歌舞伎町」での「風俗とロックの共生」はない。8月まで公演するという「クイーン」の会場の新宿コマ劇場は建物全体の色まで変えられてしまって、日本の古き良き文化の最先端を行くこの伝統ある「歌謡ショー」の小屋も見事に変わり果てた。確かに繁華街にも「発生から終幕」までの法則があって、まさに歌舞伎町は壮年期を過ぎ老年期なのかも知れない。この雑多であらゆる人々の欲望を飲み込んで来たこの町も、終末の時を迎えたのかも知れない。ふっa¨?と私は、死んだ町・歌舞伎町にロフトが居続ける理由はもうないのかも知れないと思った。


今話題の包丁妻ってなあに?

▲包丁妻に股間を襲われる童貞評論家・北村ヂン先生。

 29歳、バツイチ、早稲田出身、趣味リストカット、妻子持ちの禿男と恋に落ちるも捨てられ風俗業界に身を落とす。「自称歌人」なので文章はうまい。『実話GON!ナックルズ』に6月号から連載開始。現在は「元オウム幹部」の浜ちゃんという奴隷を飼育しており、この奴隷が「虚言癖」があるらしくって、5月30日のネイキッドロフトでのイベントでは「俺は、ロシアからオウムが買ったミサイルのありかを知っているんだ。だから、恐いものは何もない」って言っていた(笑)。この包丁妻さんの日記を読むと、多くの女性がなぜお金の為だけでなく「風俗に身を落とすのか?」が良くわかるので是非お勧めしたい。


▲包丁妻に追い回されるGIYAちゃんと私。場内に緊張が走る。

 さて今、私はこの「包丁妻」という一風変わった女性にはまっている、というか面白がっている。「包丁妻」を始めて見たのは、4月に開かれた「ロフトプラスワン」の公開オーディション「プラスワン・ザ・ゴングショー」であった。このゴングショーは半年に一回開かれるイベントで、過去に「猫ひろし」(第一回目優勝)なんかを排出した傑作なイベントなのであるが、私は審査委員長を務めているのだ。ほとんどの出演者は(合計17組がエントリー)時代を反映していて漫才かコントのお笑い中心であったが、この「包丁妻」さんの登場で場内はぶっ飛んだ。彼女はわけのわからん「短歌」を読みながら素っ裸の全身に包帯を巻き付け、片手には100円包丁を持ってお客を挑発しつつ、その包丁で自分の体に巻き付けてある包帯を切り刻んでゆき、だんだん裸になって行くのだ。更にもう一方の手に持った「すりこぎ」を口にくわえながら、「まだイカねえのかよ〜、この野郎〜」と怒鳴る。いやはやそれは凄い迫力で、最後はおっぱい丸出しはいいとして、下半身のおけ毛まで見える様になってしまい、更にはそのすりこぎをあそこに挿入しようとまでしたのだ。

▲包丁妻の「奴隷」はまちゃん。この日も包丁妻さんに逆らったって言うことで新宿のど真ん中でTシャツビリビリに破かれてしまって私の所に助けを求めに…。

 これには司会進行の北村ヂン、急行はあせってしまって、急遽この包丁妻さんのパーフォマンスを実力でやめさせる結果になってしまった。時勢がこんな「賭博はいいけどエロはダメ」というお上の強力な弾圧姿勢も蔓延していることだし、わたしは、包丁妻さんのフィニッシュは見ることが出来なかった。しかし、やはりここまで自己の体を張っての演技は、それがたとえエロであろうとも、その迫力も含め、やはり「感動」を呼ぶものであり、それは確かにテレビなんかにはでれることはないだろうが、私は断固彼女を当日の「優勝者」にした。



 もう私の町にも梅雨の季節が忍び寄ってきた。私の住む町はもう色とりどりの「ツツジ」と「あじさい」の紫色だらけで、その色が真夜中のほのかな街灯に映し出されて浮かび上がるように小雨に煙りながら咲きほこっている。私はその一輪のあじさいを手にとって、花びらをちぎって捨てて、花びらの数を数えながら、傘すらさすのがa¨?なんかもったいなくって、しっとりと濡れながら駅から今まで歩いていた。


◆はみだし・おじさんの眼◆

鈴木茂にあった。
 去る6月18日、ロフトプラスワンに茂がきてくれた。サエキけんぞうコアトーク74回目のゲストに呼ばれたそうだ。

 この日本当に鈴木茂は楽しそうだったな。ニコニコしていたな。昔はもっとニヒルだったのに。「バンドワゴン」再発記念? DVD映像特典付きだから、茂ファンはたまらないだろうな。一度、茂の繊細なギターテクニックを聴いてごらん。ぶっ飛ぶよ。サエキさんの隣が日本のロックを作った男の一人、あの伝説の男「長戸芳郎」さんである。この人を知らないロッカーはもぐりだ。隣が幻の名盤解放同盟の湯浅学さん。音楽評論家の土橋一夫さん。
 サエキさん、こんな素敵なメンツを呼んでくれてありがとう。
わーい、茂と記念写真撮った。これも小屋主の特権だ。どっちが若い?(笑)




第5回:「荻窪ロフト」-2 1974年〜79年

日本のロックの黎明期

 一部不良の音楽と言われ、70年代、それは嵐のように新しく台頭してきた「日本ロック」。その中でもティンパン系を中心にしたロックやフォークの表現者達は、いわゆる当時全盛であった「芸能界」である「ナベプロ」や「ホリプロ」等の介入を嫌って、それまでの芸能界的基本スタイル、すなわち事務所がタレントを発掘し曲や詩を与え、マネージャーまでつけて事務所の思惑通り売り出すといった形態とは全く違っていた。それはまさしく新しく日本に起こった革命的音楽シーンで、「シンガーソングライター」という新しい形態を作り出したのだ。

 これは今では普通のことだが、当時としては大変なことだったのだ。音楽家達が全て自分たちの意志でマネージャーを決め、曲を作り詩を書き表現する会場を決めた。だからほとんどのロックの表現者達は生活が成り立たなかった。大手芸能事務所に身売りする事を拒否した表現者達は、その才能で歌謡曲なんかの「スタジオミュージシャン」として生計を立てていた人が多かった。生活苦で挫折して音楽をやめて行くとしても有能なミュージシャンも多く、それによって解散を余儀なくされるバンドも数多くあったし、ほとんどのロックやフォークのミュージシャンはマネージャーや事務所なんか持っていなかったし、たとえマネージャー的な人がいたとしても、それは「友達関係」以上のものではなかった様に思う。まして大手レコード会社やプロダクションは、この新しいロックなシーンに対してどう対応して良いかわからなかったに違いない。しかし、そのシーンを理解し、なんとか会社の上層部(そのほとんどが歌謡曲畑出身)をだまくらかして応援しようとする若きディレクターや音楽評論家は少なからず存在していたし、ここでは名をあげないがまさに彼らの努力があってこそ、こういうシーンが生まれ日本のロックが市民権を得て行ったということを忘れてはならないと思う。


荻窪ロフトから見た日本ロック事情

 1974年にオープンした「荻窪ロフト」は79年まで続くことになるのだが、75年には日本で始めてのミュージシャンによるレコード会社「フォーライフ」が吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげる等a¨?によって設立される。当時、吉田拓郎、井上陽水は100万枚アーチストといわれ一世を風靡していた。これは私たちにとっては画期的なことだった。さらには、荻窪ロフトにも出演していた宇崎竜堂率いる「ダウンタウン・ブギウギ・バンド」の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットする。町ではスペースインベーダーの「キュ〜ン」という不思議な音があふれかえっていた。しかしそういった、大手レコード会社に所属し大成功したミュージシャン達はほんの一部であった。多くのロックグループがアグネス・チャンや南沙織や加藤登紀子のバックバンドで生計を立てていたのだ。

 当時、都内唯一の「ロック専門空間荻窪ロフト」は、多くの日本のロック史に残る数々の名シーンを見てきた。大瀧詠一さんの「ナイアガラ音頭」でぶっとんだ事も、細野晴臣さんの「トロピカルダンディ」発表も凄かったし、鈴木茂はレコード会社をだまして(?)レコーディング資金をふんだくり、単身ロスに行って録音しあの名盤「バンドワゴン」を生み出すのだ。山下達郎率いる「シュガーベイブ」がソングス(76年3月、荻窪ロフトにて解散)を発表したのも新鮮だったし、あの「四人囃子」が茂木由多加をくわえた5人編成で登場したり、荻窪ロフト恒例「ティン・パン・アレイセッション」では荒井由実、吉田美奈子、大貫妙子、矢野顕子がコーラスグループを即席で結成し、歌う場所がなく、みんなカウンターの中に入って歌ったり、私の大好きな「イエロー」(なんといってもお客に美女が多かった唯一のロックバンド?)や日本一の強力バンド「サディスティック・ミカバンド」の解散があり、世にも不思議な即席バンド・バンブー(荻窪ロフトで深夜酒を飲みながら結成された……。メンバーは林立夫・小原礼・ジョン山崎・村上ポンタ秀一・浜口茂外也・大村憲司)の練習風景から立ち会うことも出来、順風快調に飛ばしていた成長著しい若きバンド「愛奴」から浜田省吾が抜けるシーンもあったし、はちみつぱい解散後の鈴木慶一が、75年10月荻窪ロフトでムーンライダースを結成する事になったり、外道の暴走族オートバイ連隊が荻窪中を騒然とさせた事もあった。そんなことを書き出したらとても指定の原稿枚数では足りそうにもない。坂本龍一、忌野清志郎、柳ジョージ、桑名正博、南佳孝、伊藤銀次、村上ポンタ秀一、サンハウス、イルカや太田裕美まで、凄い奴らがみんなこの「荻窪ロフト」で演奏していたのだ。


第一次ライブハウスブームの幕開け

 西荻窪ロフトがいわゆる音量の関係から「フォーク」専門店になり、我らが「荻窪ロフト」は74年11月に誕生する。東京のロックなライブハウスの走りではあったが、同年12月には吉祥寺に「曼陀羅」が生まれ、翌年2月に高円寺「次郎吉」と中央線ロックトリオがそろい踏みする。この3つの空間はいわゆる「共存」していたが、時代は、渋谷の繁華街のど真ん中に驚異の「渋谷屋根裏」が出来ようとしていた。  ティンパン系のミュージシャンに支持されていた「ロフト」も、東京での「ロックの登竜門だ!」なんて偉そうにしている余裕もなくなって来る時代が来ようとしていた。そんな感覚を私は一抹の不安の中持ち続けていた。だが日本のロック熱はどんどん加熱して行き、ライブ以外の時のロック居酒屋ロフトではお客が沢山入るようになっていた。お客が少なくってもロックのライブを続けるということは、その店が都内で有名な店になって行く。ライブではあまり儲かることはなかったが、その「ロック居酒屋」に幻想を持つ若者達で盛況になり「ロフト」は儲かり始めることになる。ロフト各店では出演していたミュージシャンの新譜が巷で発表されるいち早く前に、関係者から音源を仕入れて、居酒屋に来た若きロック青年達にその貴重なテープを聴かせてもいたのだ。だが、私の意識は儲かるか儲からないか以前に「日本のロックシーンの先頭を走り抜け続けたい・オピニオンリーダーになりたい」ということにあった。

 この自負は、私を次なるライブハウス第5の道「下北沢ロフト」誕生に向かわせる事になる。すなわち、「渋谷屋根裏」が出来る前に荻窪ロフトの他にもう一軒のロックのライブハウスを造ろうと思っていた。それは過去ロフトが「中央線文化」の先頭を走って来たことからの「決別」を意味することになり、時代は中央線「四畳半ロック、フォークの時代」からより広汎な「シティポップ」の到来を予感させるものだった。巷のロック好きにはリトルフィートやライクーダーなんかのどこまでも蒼きウエストコーストロックがもてはやされていたのだ。教授とみんなから呼ばれていた坂本龍一もしたたかにその辺に照準を合わせ、「決起」の瞬間を狙っていたのだろうと思う。

 下北のジャニス、金子まり&バックスバニーやうじきつよしの子供バンド、a¨?大橋純子、あがた森魚を中心にし、さらにはその辺の人脈から上田正樹、ソーバットレビュー、憂歌団、ウエスト・ロード・ブルースバンド等の関西ミュージシャンをも含めた「下北沢ロフト」は、なんとも必然的な形でオープンすることになる。「ロック」に飢えていた下北の若者に「下北ロフト」の出現は圧倒的に支持され、演劇とジャズの町・下北沢にロックが共存して行くことになるのだ(下北ロフトからはのちに国民的バンド「サザンオールスターズ」も生まれた)。そして同年同月、2週間遅れて恐怖の「渋谷屋根裏」がオープンすることになるのだ。 (以下次号)


ロフト席亭 平野 悠

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