第112回 ROOF TOP 2007年7月号掲載
「大都会のジャングルにて。虫食いとか怒る女とか……」

<「虫食い人生進化論」恐怖の(?)イベント現場報告>

6月7日、ロフトプラスワンにてかの佐々木孫悟空の出演イベント、「虫食い人生進化論」を観戦した。彼のイベントを観るのは2回目だ。この佐々木孫悟空、なんと生の虫を平気でバリバリ食う。今回は単独ワンマンライブで2時間以上ぶっ続けで昆虫類を食べるらしい。最大の目玉としては、「10分で何匹のゴキブリを食べられるかでギネスに挑戦」とある。さらには、ミミズやゴキブリや毒虫(サソリ等)を平気でバリバリ食べている彼の体に異常がないか、内科医を呼んで調べるらしい。この強烈な個性を放つ芸人にはLOFT CINEMAの北村が興味を持っており、近々DVDソフト化も予定しているらしい。このイベントは行かねばなるまいと思った。

食糧難のこの難しい時代、彼は「虫を食べても生きられる」ことを実証した。偉大である

前回の出演ライブ、「ロフトプラスワンナイト・REMIX」の時には、孫悟空がコオロギ数十匹の踊り食いやら、カブトムシの幼虫を豪快に噛み千切ったりやらで、「ブチュリ」と内臓や白濁の体液が混ざったものが客席に飛び散ってしまい、まあ凄かった。しかしなんだかわからないが、自分の感覚がどんどん麻痺してゆく面白さもあり、好奇心ゆえの怖いもの見たさと、「嫌だな〜」という思いの同居するまま、最後まで見続けてしまったのだった。

「生で虫食い」なんて、当然テレビなどでは放映できないライブだ。あるCSの番組で孫悟空の虫食いを放映したら、次週のその番組は打ち切りになったと言うくらい過激(?)なのだ。しかしそれが、プラスワンという独特の空間の中で観ると面白いと感じてしまう。今回もまた、どこまで観客として見続けていられるかに挑戦している自分がいた。しかし一方で私の興味を惹いたのは、この虫食い男にも追っかけの女性軍団がいることだった。孫悟空が上州屋で買ったミミズをチュルチュル食べながら、客席に「誰か一緒に食べたい人いる?」って問いかけると、数人のかわゆい女の子が出てきてチュルチュルと一緒に食べ出したときには、いやはやびっくりした。

ロフトプラスワンは基本的には飲食店なのに、これでは誰も飲食してくれないだろうと思いきや、結構平然と食事を注文しているお客がいたのを見て、やはりプラスワンは濃いな〜と思った。そういえばもう7〜8年前になるか、AV監督のバクシーシー山下さんから、「平野さん、今度のイベントのテーマはスカトロなんだけど、イベント中にステージでうんこ食べてもいいか?」と聞かれて、「うん、いいんじゃない。プラスワンはタブーなき空間だから……。でも俺は店には行かないけどね(笑)。」なんてやりとりがあったのを思い出した。

残念ながらこの日、ギネス虫食い記録には失敗した(当日挑戦するまでの別のネタで、張り切りすぎて虫をたくさん食べすぎてしまったらしい)。しかし医者の診断によると、孫悟空の胃は問題ないということだった。一体、この孫悟空というヤツはどんな胃袋しているんだろう? とにかく彼は、奇天烈な「虫食い」を陰の世界から陽の世界に引き戻し、エンターテーメントにしてしまったのには恐れいった。  確かに佐々木孫悟空のこのライブは成功して当然と思った。彼はこの単独イベントに賭けていた。この彼の情熱は凄かった。イベントも構成をいろいろ考えられており、最後まで飽きさせなかった。虫を食うなんていう気持ち悪いことをエンタメにしてしまったのだ(佐々木孫悟空の目下の悩みは、彼が(食材として)愛する虫たちの値段が高いことだそうだ。今回も虫の仕入れに6万円もかかったという)。果たして佐々木孫悟空は、一世を風靡した電撃ネットワークを超えられるか?


<ささくれだった深夜の歩道に……>

佐々木孫悟空のライブを観戦した後、親しい若い友達と酒を飲んだ。ふっと気がつくと0時をすっかり回っていた。この3日、毎日酒を飲んでいて帰りが午前様になっていて、風呂に入っていない。今夜こそはと思うが、いつもの銭湯はもう閉まっている時間だった。ネオンがけばけばしい歌舞伎町を後にして、私は自転車で永福町の銭湯に向かった。あそこは朝1時半まで開いているはずだ。深夜の街角を、風呂に入りたいという一念でひたすら自転車のペタルを力強くこいだ。微かな酔いを含んだ頬を風が撫で、街路灯が流れてゆく。

新宿中央公園を抜け、甲州街道と並んで走る笹塚あたりのなだらかな坂道の暗い路地で、激しい女性の怒りの声を聞いた。

ふっと道路の向かい側から見ると、白いスーツを着た、27・8歳のスタイルのいい、髪の長い上品そうな女性が、泣きながら電信柱、街路樹、停めてある自転車なんかを片っ端からけっ飛ばしているのだ。

「ふざけんな! 馬鹿野郎! だましやがって! 卑怯者!」と蹴りを入れている。自転車が数台倒れた。「ガシャ!」。彼女の眼には涙が光っていた。多分少しは酔っぱらっているのだろうけど、泥酔者ではなかった。全身全霊をかけたそれは激しい怒りだった。見物人は私一人だ。私は自転車を停め、しばし呆然と彼女を見ていた。本当は彼女の話し相手になってあげたかった。でもそんな声をかける勇気はなく、ただただ彼女の怒りの諸動作を眺めるばかりだった。

いつの間にか私は、なぜか自分が責められているような気分になった。「そうか、俺は卑怯者か?」って思った。過去何十年もの間の自分の「卑怯者」な数々の行いが、走馬燈のように私の頭の中を駆けめぐった。「出会いと別離」、「人生を決定するだろうその瞬間」、私はいかに卑怯者だったかを……。偶然、深夜の街角で耳にした見も知らぬ女性の言葉に愕然としていた。

うずくまってしゃがみ込む彼女のシルエットを遠くに見ながら、私はその場を後にした。が、自転車を漕ぐ力がなくなってゆくのがわかった。「卑怯者」の自分が自転車をこいで銭湯に向かっていた。ほんの一瞬、深夜に目撃した風景が私の頭から離れない。彼女に一体何があったのかを、彼女が叫んでいた言葉の節々から想像していた。いつのまにか銭湯に着いていた。1時40分。永福町の銭湯は明かりが消えていた。掃除をしつつある無愛想なオヤジに、「すみません、10分であがりますので入れてください」と頭を下げた。渋々な風で親父は私からお金を受け取った。

深夜の誰もいない銭湯で、ほんの小さな露天風呂に入りながら「意気地なし……卑怯者」って言ってみた。あの白スーツの女性は今何をしているんだろう? って思った。同時に、さっきまで一緒に飲んで私の能書きを聞いてくれていたうら若き女性を思った。オヤジがタイルに磨き粉をかけ掃除を始めていた。

シャッターが半分降りた銭湯を出て、私は自転車にか細い心を積んだ。永福町から荒玉水道に入った。細い暗い道路で、年老いた作業員がランプを振っていた。工事中の赤いランプを振る姿になぜか感動した。なぜなんだかわからないが思わず、「ご苦労様です」と言った。こんなこと、初めてのことだ。「卑怯者」という一言を聞いただけで、何気ない人の造作にも素直な感謝の言葉が言える自分が面白かった。家に着くと、米子(猫)が静かに私の帰りを迎えてくれた。

翌日、私は、真っ赤な17段ギア、細いタイヤのスポーツタイプの自転車を買った。ドン・キホーテで2万9800円。タイヤカバーもないチャリだ。私はついに長年の「ママチャリダー」を放棄した。

今月の米子♥

見よ! この凛々しい姿を!
これこそ「明日に向かって撃つ猫」である





ロフト35年史戦記 第28回  新宿LOFT立ち退きへの戦い-1

<西新宿7丁目の栄枯盛衰>

新宿駅西口から、広場を背にして北へ下ってゆくと、青梅街道と靖国通りの始点となる交差点がある。かの有名な大ガードを右手に見ながら交差点を渡り、さらに早稲田方面に延びる小滝橋通りに入ると、そこが西新宿7丁目だ。右手の線路の向こうには西武新宿駅があり、さらに向こうには、世界に名だたる歓楽街・新宿歌舞伎町が広がっている。新宿LOFTは、1976年にこの西新宿7丁目、小滝橋通り沿いにオープンした。1999年、歌舞伎町に移転するまでの23年間、その道路沿いの古いビルの地下に、まるで貝殻のフジツボみたいにへばりついていた。

その西新宿7丁目はかつて、日本の貴重なロック文化の情報発信地でもあって、それはものすごい賑わいを見せていた。ロフトグループ5軒目の「ライブハウス新宿LOFT」が西新宿に店舗を構えた当時は、この小滝橋通りには、「新宿レコード」が一軒だけぽつんとあった。当時小滝橋通りは別名不動産屋通りとも呼ばれ、閑散とした地域だった。女の子が夜一人で通行するには寂しすぎる一帯だった。しかし新宿LOFTがオープンし数年経つ頃には、一帯は約40数軒ものレコード店やロックファッション、グッズ店がひしめきあうようになった。国内外の新譜、中古はもちろんのこと、コレクターが探し求める貴重盤、自主制作盤、そしてブート盤(海賊盤)など、この地に進出した各店舗は豊富で個性的な品揃えを誇っていた。そしていつの間にか「ニシシンジュク」という地名は、世界中のロックファンに通じるものになっていった。ロックのマニアにはよだれが出そうな店が並んだ。さらにロックビデオや、よりマニアックな数万円単位のディスクが並ぶコレクターショップが店を出し始めた。それはVirginやHMVといった大型店とは違った、特異な個性ある店が乱立していたのだ。そしてさらにロックがメジャーな時代となってレコードの流通量が増えるに従い、輸入盤は値下がりしカットアウトという廉価盤も入ってくる時代になった。

この町の進化はさらに進んだ。パンクムーブメントが東京にも波及してきた80年代前後には、ロンドン、ニューヨークの興奮がそのままじかに伝わる場所になり、トウキョウ(=西新宿)は全世界とつながり、お互いが刺激し合いそれが大きなムーブメントの一つになって爆発していった。まさしくその中核に新宿LOFTが位置していたと言っても過言ではないだろう。「西新宿=ロックの町」は世界を席巻し、世界中からマニア達が買い出しにやって来た。革ジャン、黒装束、モヒカンとパンクファッションに身を固めた若者たちが押し寄せ、この一角には世界のロックの情報は何でもあった。

そして時代は加速度的に進み、都市再開発計画の名の下に高層ビルが建ち並び始め、この中心地的存在であった新宿LOFTは立ち退きを余儀なくされ、そしてそれを境に──もちろん時代の流れもあっただろうが──ほとんどのロックな店は西新宿7丁目から姿を消してしまった。あの時代、この場所に来ればどんな珍しいシングルやアルバムでも探し当てられたという、世界でも類を見ない不思議な地域は今はない。その多くの個性的な店は駆逐され大型店に吸収(?)されていったということなのだろうか? 新宿LOFTのあったその場所には、今やずいぶん瀟洒な高層ビルが建ち(なんと31階建て!)、通りにはラーメン屋や居酒屋等の有名チェーン店が並び、哀しい町になった。都市再開発とはそういうものなのだ。「ニシシンジュク」は、老舗の新宿レコードやビニール、エジソンが頑張っているのが唯一、昔をしのばせるたたずまいといった町になった。


<ロフト立ち退き交渉(ビル側)記録>

私は今、6月の雨時の外を見ながら新宿LOFTが入居していたビルのオーナーとの交渉記録を整理している。確かにこんな過去のことをくだくだ書いても仕方がないとは思うが、これも日本のロックの歴史の一片だと思うのでそれなりに書いてみようと思う。

私の持っている資料によれば1990(平成2)年12月に、ビルオーナー(ミソダ設計事務所)から内容証明付き賃貸契約更新拒絶の通知が来た。理由はビルが古くなったのでビルの立て直しをしたいので来年度の契約更新は出来ないというものだった。当時私はカリブ海の島国・ドミニカ共和国に住んでおり、その通知にあわてて急遽日本に帰国することになった。1991年に入ってから、私はビル側と精力的に交渉することになる。ロフト側の主張は、「我々は都市再開発を一方的に拒絶するものではない。このビルも相当古くなっているのでビル建て替えは拒否しない。しかしその条件として再入居させてほしい。出来るなら現在の坪数(65坪)の倍以上の面積が欲しい。家賃や保証金は時価で払うようにしたい」というものだった。

時はまだあの愚かなバブル時代の最終場面であった。ビルオーナー会社側はいくつものゴルフ場なども経営しており、その時点ではオーナー会社側は潤沢な資金を持っていたのだろう、我々に対する回答には余裕すら感じられた。その初期の回答は我々の意向にかなうものだった。私の思惑は「このままでは新宿LOFTも機材や照明設備も老化しており地盤沈下し新しいロックの波に対応できない」という考え方をしていた。だから、このビル側の建て替え計画には条件次第では賛成で乗り気であった。もう一度「過去のロフトの栄光よ再び!」という甘い幻想にはまっていたともいえる。そうして私は、ドミニカでの仕事を放棄し日本に住む覚悟を決めたのだった。

ビルオーナー会社側によると、「再入居は認めるが、まだ新ビルの図面が完成していないのでちょっと時間が欲しい。ビル建築計画遂行も数年後になる予定」ということであった。その1年後、ビル側より「新ビルの図面が出来たので見て欲しい」という連絡があり、具体的な諸条件を詰めることになった。それからロフト側の店舗設計者とビル側の設計者との間で、何度もの打ち合わせがあった。ビル側の若い設計者の中にもロックファンがいて、双方の意見を入れた新店舗の図面作成は順調に進んだ。


<新宿LOFTが一番ヤバかった頃>

オーナー会社側は、あの80年代に起こったパンクムーブメントの混沌とした、お客や出演者のアナーキーさに恐怖していた。確かにパンクが日本に上陸してから数年後、いわゆるハードコアパンクが主流となったあの混沌とした乱暴な時代には、ビルや付近住民に多くの迷惑をかけた。昼間から黒装束のパンク連中がロフトの前にたむろし、至る所でしょんべんをし、ゴミや痰を吐き……それは異様な光景でもあった。店にも入らず路上で酒を飲み、店の前でたき火をして通行人を襲ったり、バンドやファン同士が殴り合いをしあったりしていた無頼な時代を、私は今でもライブハウス運営側の当事者として、時には楽しく、時には苦々しく思い出すことがある。

近隣住民の「ロフト立ち退き署名運動」が起こったのもちょうどこの頃だ。もちろん私たちライブハウス側も、付近に迷惑にならないようにと、近隣住民と話し合ったり警備員を増強したりと努力はしたつもりである。観客や演奏する側には、新宿LOFTには「何が起こるかわからない」といった好奇心を含めたスリルはあり、ただただ混乱と暴力を期待するお客がつめかけた時代であった。高度経済成長期の、マネーゲームに踊る世の中に取り残された若者たちの反抗の発露が、このパンク音楽に凝縮された時代だったのかも知れない。

確かにもし新ビルが出来て、その付近があの時代のようにうつろなパンクな無頼集団に占拠されたら、他のテナントやそのビルの居住者にはものすごい迷惑になってしまうだろう。ビル側の悪夢はそんなことだったのかも知れない。しかし新宿lOFTでは82年9月に、「消毒GIG・特別編ハードコアパンク2DAYS」をもって、いわゆる過激な末期的状況にあるハードコアバンドを一切締め出しを決意し、宣言していた。

しかしあれから10年の月日が過ぎた。ビル建て替えのあった90年代は、そのどろどろしたパンクムーブメントは去っており、日本のロック周辺は実に平和な時代になっていたのだ(もちろん、私にとっては若干もの足らない時代ではあったが……)。私はビル側に力説していた。「もう近隣やビルに迷惑をかける破壊行為は絶対させません。誓約書を作成してもいいです。今や昔不良の音楽と言われたビートルズでも教科書に載る時代です。新ビルは、ロフトが若い青年たちを集めて新宿の名所にしてみせます。それは絶対ビルの今後にとってもきっと有利に働くはずです」と言い切った。ビル側は「ロフト側の主張は理解した。その線で地下の設計を試みよう」ということになった。


<交渉決裂! 「再入居は認められない」オーナー会社側は一方的に白紙撤回……交渉を打ち切った>

話を急ごう。
1992年3月19日。ビルオーナー会社側は突然、「残念だが今までのことはなかったことにして欲しい。上部に持っていったら、全く通らなかった」と言ってきた。「では10数回にわたる交渉とは一体なんだったのか? これからは一切の交渉は弁護士を交えるしかない」と私たちは食い下がったが、再入居交渉は完全決裂した。同年6月、オーナー会社側が起訴、この立ち退き問題は東京地裁で争われることになった。ビル側に何かが起こったようだった。それからのオーナー会社側の裁判での明け渡し請求訴訟の主張は、ただ「うるさい、汚い、近隣の迷惑だ。再入居は拒否する、出て行け」の一点張りであった。

ロフト側は金銭での解決を望んでいなかった。確かにそんなめんどくさいオーナーなら出て行ってほかを当たればいいと思うかも知れないが、ライブハウスという業種は他の業種(例えば会社事務所や普通の飲食店舗)に比べ特殊で、立地存立条件は非常に難しい。物件を探すのも容易ではない。バンド等の生演奏を行うため、防音工事は巨額の費用がかかる。ビルの「設計段階」から関わらないと、そういった条件をクリアし理想的なライブハウスを作るのは無理なのである。さらに、店内にはステージ(間口6メートルはある)や楽屋は必要だ。それなりの天井の高さもいるし、店内のステージの近くに柱があっては困るし、通常の入口とは別に、楽器や出演者の入口や駐車場も設けなければならない。また外回りをとってみても、一時的にでも入場待ちのお客さんが数百人溜まるのは、通行人や近隣迷惑にもなり避けなければならない。さらには店の中の数百人の観衆がステージの煽りに乗って一度に飛び跳ねるので振動対策も必要になる。現在営業している全国のどのライブハウスもが、これらの難題を抱えていると言ってよいと思うくらい深刻なのだ。


<ロフト側あえなく敗訴……上級審への控訴へ>

それから2年もの間裁判は続いた。1994年4月、東京地裁での判決が出た。判決は、「立ち退き料と引き替えにロフトは立ち退くように」という、我々にとっては全くの不当判決だった。新宿に都庁が進出し、巨大な摩天楼が乱立し家賃は高騰し、小綺麗な大型のライブハウスが出来、手作りの臭いのする、床が灰皿みたいな小汚い表現空間・新宿LOFTはなくなろうとしていた。新宿は「丸の内化」しようとしていた。この東京地裁の判決に対して私は、ロック文化に無理解な再開発に踊る連中の「若者も文化も新宿から出て行け」と言うことに他ならないと感じた。私たちロフト側が裁判で主張した「ロック(ロフトという空間)は文化だ」という観点は全く認められなかったのだ。私は一審は全てを弁護士に任せ、ただただその成りゆきを見守るだけに終始した。10年もの間日本を留守にし、帰国したばかりの私の好奇心は、日本の保守化し形骸化した裁判制度を傍観しこの目で見てみたかったのである。私は数々のロック文化を創造してきた「新宿LOFT」存続のためには控訴して戦う以外ないと結論した。

さてこの判決を受けて、新宿LOFTは精力的に高裁への控訴と同時に、その裁判を支えるための多くのロックファンとともに「新宿ロフトと音楽文化を守る会」を発足させ、署名運動やイベント等の市民文化運動を展開することになるのだった。

判決の翌日:読売新聞1994年4月13日号より転載
ロフトがなくなると心配して集まった若者達

(次号に続く)



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新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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