ROOF TOP 2006年4月号掲載
「魂こがして……石橋凌ARB脱退」

わが心のARB

 なるべくこのコラムでは音楽ネタは書きたくないのだが、やはり石橋凌さんのARB脱退発表には少なからずの衝撃を感じた。3月1日、私はキースからの苦渋に満ちた重たい電話でこのニュースを知った。外は激しい雨が降っていて、キースのか細い一言一言は、打ちつける雨音に消されがちだった。このバンドの歴史は長い。はたして私ごときにこの「栄光のバンドARB」の事が書けるのか、そして私とロフトの思いがこのコラムの読者や関係各位に、さらには石橋凌に伝わるのかどうか……。全く自信がない。途中で何度もタイトルを変えたい衝動に駆られながらの原稿です。そう「沈黙」が一番いいと思いつつ……。


かくしてARBはロフトに登場した

▲ARBの内藤幸也とEBI、8年間おつかれさん。でも、このメンバーの音をもっと聴きたいな〜。

 乾燥する黄色い東京、新宿に生ぬるい夏風が吹き抜ける蒸し暑い日だった。その頃、そう、1979年は日本のロックにとって激烈な年になった。同年8月新宿ロフトで行われた「Drive to 80's」には東京ロッカーズを始めとするパンクバンドが全国から結集し、その成功によって一斉に新しい音楽シーンが開花し始めた。日本のロックに新しい革命的な波が押し寄せて来るという予感がしていた。

 1979年8月11日、ARB(アレキサンダー・ラグタイム・バンド)は新宿ルイ―ドから離脱し、新宿ロフトでの初ステージを踏む為にやって来た。ルイードからロフトにライブの拠点を移すということは、すなわち小沢音楽事務所的芸能の世界からの別れを告げる再出発を意味していた。まだ全員が所属事務 所・シンコーミュージックをやめていなかったと思う。79年10月、新人バンドARBが契約を解除される2カ月前の話である。

 当日、藤井隆夫、山村正宏のスタッフに連れられた田中一郎、キース、石橋凌の3人が、カウンターの前に立っている私の所に挨拶にやって来た。その時点ではARBという名すら知らなかったが、メンバーやスタッフ全員が私にまで挨拶に来てくれるなんて事が珍しかったので記憶に残っている。ピンクレディーの前座や、チューリップや甲斐バンド的なアイドル路線での会社の売り出し作戦に反発しての「決起」として、ロフトを選んだらしかった。「すぐにでも独立して自分たちの事務所を持つんだ!」と息巻いている熱い青年達の姿が私の目に映った。リハーサルを観た。ロフトのカウンターの前で、そ の照明に映し出されるメンバーのキラキラする振る舞いを観ていて、「こいつ等なら本当に全世界を獲得するかも知れない」と何かしら胸に来るものがあった。私は翌年1月からのARBのレギュラー化を決めた。

 1980年1月15日、ARBは独立後、初めての新宿ロフトのステージに立った。メンバーは一郎、凌、サンジ、キース。バンドを代表して凌が「これからこの新宿ロフトを、俺たちのバンドの拠点としてやりたいのでよろしくお願いします。見ていて下さい。俺たち絶対天下を取ります。その時こそロフトに恩返しします」と言い放った。

 その脆弱な事務所とちっぽけなバンドは、ロフトのステージから8年の歳月をかけて武道館まで駆け上がって行った。1988年10月31日、初の武道館公演後に凌はこうコメントした。

「俺たちにとって、ロフトステージに上がるたった3段の階段と武道館の長い階段は同じだ」


表現者・石橋凌の決断とキースという男

▲新宿ロフトのテーブル。石橋凌さんが歌舞伎町移転の記念にロゴをプレゼントしてくれた。

 今回私は、実は石橋凌の事を何も知らないということに気がついた。石橋凌が脱退宣言をして、キースから2度ほど電話があって、どんどん重くなってゆく気分をとどめることが出来ない自分をぼんやりと感じていた。「えっ、俺にとって凌の脱退ってこんな息苦しく重たい事だったのか?」ってしばし考え込んでしまった。「俺はどこかARBよりルースターズの音楽センスの方が好きだったはずなのに……。そのルースターズが復活し、感激的なロフトのステージを昨年観たばかりなのに……なんで今更ARBなんだ!」って叫んでいた。かつて、キースと凌は何があっても一生ARBをやっていこうと誓ったのだと聞いていた。バンドを一生やるためにキースはその思いを肌に彫り物を入れてまで決意していたはずだった。凌が脱退したらARBというバンドは消滅する事も織り込んでの今回の脱退劇なのか? 私には解らないことだらけだった。

 彼はこの30年弱、何度かの「決断」をしている。1989年10月27日、松田優作の遺志を継ぎ音楽を一時中断して俳優の道に入った事も、9年後にまたARBに復活したことも……。そして今回の「決断」。私はキースの事ばかり気にしていた。前回の中断の時も、凌が音楽の世界に帰ってくるのをただじっと 待っていた。「凌ちゃんは器用だし、俳優稼業も黒田征太郎さんとのコラボレーションも凄い。でもやはり音楽だ。ステージに立てばスターなんだ」と、ただ凌の背中を見続けてスティックを振るっているキースのスタンスがかっこ良いと思っていた。「俺は一生、凌の生き様の中でしか、いや言葉を言い換えれば、凌という一人の男がいるから俺はドラムを叩く。それ以外の事は考えられない」と言い続け、そのヒロイズムを共有してきたキース。その彼が、凌の背負ってきたものの重さと決断の真意を知る術もない……。

 数日後、私はただただ「感謝」の言葉を伝えるため凌の携帯電話に電話を入れた。私はこの感謝の気持ちを一方的にでも凌に伝えるしかないと思った。

「凌ちゃん。今回の件、なんにも手伝えなくってごめんね。30年間本当にありがとう。ARBはロフトにとって本当にどんなバンドより特別な存在なんだ。 だから、だから一言だけ感謝の言葉を言いたくって……ありがとう……ただただロフトも俺も感謝しています。今の俺に言えることはこれだけだよ。これからの活動頑張って下さい、では……」

 私は携帯電話を切った。凌は終始無言だった。


今月の米子♥

そろそろ避妊手術に行かなくてはいけないお年頃。どこかで変な虫がつかないとも限らないからなあ。






第14回 新宿ロフト風雲録−6(1976〜1980年)

ポストパンクという時代にテクノ・ポップがやって来た

 1978年頃、新宿ロフトは開店以来のニューミュージック路線に見切りをつけ、新しい境地を開拓する必要がでてきた。1970年代も末期にさしかかると、ニューミュージックは「オールドウェイブ」と言われるようになり、いわゆる「ポストパンク=テクノ」の時代に入ろうとしていた。映画や演劇でいえば60年代のゴダールや大島渚、天井桟敷、黒テント、赤テントなんかのヌーベルヴァーグ現象が、10年以上遅れて日本のロックムーブメントの中にもわき起こって来たという感じだった。その代表がイエローマジック(オーケストラ)なのだが、その成功に刺激されたか、ライブハウスシーンにもテクノバンドが数多く登場した。

 テクノポップは文字通りリズムボックス、シンセサイザーなどを多用する機械的なビートで構成されていた。さらに我々を驚かせたのは、その集団の多くはデザイナー、スタイリスト、イラストレーター、演劇人達の、いわゆる素人の「お遊び」的要素を多分に含みながら成立していったことだった。音楽的技巧や主義主張よりも、ファッション感覚まで含んだ「スタイル」がテーマのサウンド形態だったといっていいのだろう。それはまさに当時の日本の「平和と繁栄」を象徴しているようだったし、一方で海外にも通用する唯一の音楽だった。その時代、お客はあまり入らなかったがヒカヒュー、P-MODEL、プラスティックスなんかをとても愛していた記憶がある。しかしそのテクノシーンは、周回遅れで押し寄せてくるパンク、ハードロック、メタルなどの強烈さにはかなうはずがなかった。


ストリートカルチャーとライブハウス

 それぞれの街の片隅に息づいてきた小さなライブハウスは、ストリートカルチャーと並行して独特の文化を構築してきた。

 新宿駅西口広場が、権力の横暴にもの申す若者の広場になった事があった。69年2月に始まったフォークゲリラと呼ばれるこのシーンは、ベトナム反戦を主張する若者が反戦歌を歌う集会をこの場所で開いたことから始まった。それは通行人の学生、サラリーマン、買物帰りの主婦までも巻き込んで、またたく間に人民直接参加のベトナム戦争をめぐる討論場になっていった。時の権力とか為政者はこういう雰囲気が歴史的に嫌いだ。同年5月、権力は機動隊を導入し暴力的に広場を規制した。何人もの若者が傷つき逮捕者を出し、この直接民主主義的な「広場」は、権力者の都合上「通路」となり立ち止まる事も禁止され、この画期的なシーンは終息していった。これ以外にも、やれ「交通の邪魔だ」「不良のたまり場だ」ということで、どんどん若者が自由に集え表現出来る広場がなくなっていったのだ(80年代後半、原宿の歩行者天国を始めストリートが盛り上がったこともあったが、地元商店のボス連中の要請もあり閉鎖され、今や東京都知事の「認証」がなければストリートで表現すら出来ない。バカな時代になったもんだ)。

 まあそんな経緯もあって、70年代以降、行き場のなくなった表現者達は同じ匂いを求めるように、ライブハウスに出演するようになって来るのだ。


伝説の森田童子と新宿ロフト

森田童子(もりた・どうじ)
1952年(昭和27)1月15日東京生まれ。
学園闘争で高校を中退。72年、一人の友人の死をきっかけに自作自演で歌い始める。70年代、ライブハウスを拠点に活動を続け、80年代の到来とともに去っていった。カーリーヘアにサングラスというスタイルで、決してサングラスを外さなかった。1983年、新宿ロフトでのライブを最後に活動休止するまで、6枚のオリジナルアルバムと1枚のライブアルバムを発表している。1993年、野島伸司脚本の大ヒットドラマ「高校教師」の主題歌として「ぼくたちの失敗」が話題になる。

 1975年の秋風が心地よく吹き抜ける10月だったと思う。表通りは快晴だった。一人の少女と大人が、一枚のLPを手に、中央線沿線の小さなお店、西荻窪ロフトにやって来た。「すみません、私にもここで歌わせて下さい」と。実はその3日前だったか、やはりまだ少女にしか見えなかった山崎ハコも、「歌わせて下さい」とやって来たばかりだったのでよく覚えている。もう30年も前の昔話だ。

 その森田童子のファーストアルバム『GOOD BYE グッドバイ』は、太宰治の小説の題であり、私はそのLPを聴いて脳天を突き抜けるような衝撃を受けた。これは間違いなく、あの「政治の季節」に青春を送り挫折し傷ついた者にしか解らない歌詞だったのだ。

「この娘の過去に一体何があったんだろう?」という疑問符混じりの好奇心が私の意識を席巻した。それは私自身の青春の蹉跌、マルクスやレーニンなんて大して訳も解らないまま革命を叫び、機動隊に突撃していった「全共闘運動=革命運動」時代の風景と恐ろしいくらいにリンクしていたのだ。後に内ゲバで殺しあうほど激しく対立した党派間の恋に悩み、自殺していった中核派の青年と革マル派の女性との往復書簡『青春の墓標』(奥公平著/文藝春秋)を思い出させてくれた。

 森田童子は、私がロフトで最初から最後までこだわり続けた数少ないアーティストの一人だった。私は彼女に恋心すら抱いたことがあった初めての表現者だった。ステージでいつも、たくさんの、ほんとうにたくさんの涙を流しながら、あまりうまくないギターを弾いていた。この森田童子の独特な世界を観にロフトにやってくるお客は、ほとんどがボロボロのコートに襟を立てて、文庫本を抱え、一人だった。山下達郎や坂本龍一を観に来る層とは明らかに違っていて、みんなうつむき加減で、下を向きながら、休憩時間でもほとんど喋らず、何か過去の重みを引きずるような空気がいつも客席を覆っていた。何も知らない人が見たら、「なんて暗い集団なのか?」と思ったに違いない。彼女が引退する83年、私はその日々の多くを海外バックパッカーとして世界中を放浪してい た。

あの時代は何だったのですか
あのときめきは何だったのですか
みんな夢でありました
みんな夢でありました
悲しいほどにありのままの君とぼくが
ここにいる

ぼくはもう語らないだろう
ぼくたちは歌わないだろう
みんな夢でありました
みんな夢でありました
何もないけど
ただひたむきなぼくたちが立っていた
(「みんな夢でありました」)

「新宿ロフトのステージの左隅に、古いアップライトのピアノがありました。このピアノは、チューニングがくるっているので『あのうーこのピアノのチューニング、まだみたいなんですけどー』と遠慮がちに私が云うと、『山下洋輔だってこのピアノで弾くんだョ』と平野悠さんの声が返って来ました。『そうかァ、チューニングをくるわした犯人は山下洋輔かァ』、『山下洋輔もこれで弾くんだョ』と云われて私はひとこともありませんでした。(中略)私は昭和50年11月より58年12月新宿ロフトでコンサート活動を続けさせて戴きました。ありがとうございました。まだ、新宿ロフトのステージの左端には、少しチューニングの悪いアップライトピアノがあるのでしょうか」(『ROCK IS LOFT』ロフトブックス/森田童子メッセージより引用)


ライブハウスの大型化と大手商業資本の参入

 1980年代に入ると、ヤマハの渋谷エキュピラス、テアトル東京の渋谷ライブイン、日清食品のパワーステーションと、いわゆる大手資本による大型ライブハウスが次々にオープンしてゆく。

 この大手資本の参入は、98年のパワステの突然の閉鎖に象徴されるように、ロックに対する尊敬や造詣の中での空間の創造とはちょっと違っていた。もちろんアングラ系の「手作りライブハウス」はとても太刀打ち出来るはずもなく、それどころかその風潮に飲み込まれるように、元来ライブハウスが持っていた雰囲気を失っていった。客の入るバンドの争奪戦が激しくなり、それまでは私たちも表現者もいい音で聴きたいから少しでもいい環境にしたいというポリシーが、こうしなければ、この機材を使わなければ客の入るバンドが出演してくれないといった形に変容していった。そして多くのライブハウスは、最終的には表現者にノルマを課せることによってしか経営が出来なくなってゆくのだ。

 確かにこれらの空間の出現にはそれなりの理由があった。それまでの大型イベントが出来る会場のほとんどは、東京では渋谷公会堂、新宿厚生年金会館等の公共ホールだった。しかし、巨大ライブハウスには公共ホールが持っていない多くの利点があった。それまでは音響や照明機材を持ち込まねばならなかったのが、そういった空間には最新機材が完備しており、さらにはテレビ放映施設まであったりして、なんとも使い勝手が良かったのだ。

 しかしそんな日本のロック状況でくすぶり続けたフラストレーションが臨界点に達し、まもなく「パンクロック」の怒濤の進撃が始まるのだ。(以下次号に続く)


「ロフト紳士淑女録 Who are you? 〜SHINJUKU LOFT 30TH ANIVERSARY LIVEより〜」

ロフト紳士淑女録 Who are you?

(写真左から)ヒゴヒロシ / JILL(PERSONZ) / SION / モモヨ(リザード) / ジュネ(AUTO-MOD) / 恒松正敏
※先月号の写真は左から、鈴木慶一 / 金子マリ / HIKAGE (THE STAR CLUB) / 高橋まこと でした。

ロフト席亭 平野 悠

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