第153回 ROOF TOP 2011年1月号掲載
おじさんの眼
「10年ぶりのアメリカに行ってきた」前編

息子の卒業と9.11以来のアメリカ訪問

 息子が留学生としてアメリカ南部にある片田舎の大学に行ってから早5年になる。おそろしいほどの人種差別があり、未だ進化論も通用しない人もいるだろう田舎である。  そしてこの程、めでたく卒業となった。そこでかみさんが張り切ってしまった。「どうしても息子の卒業式には出席したい」と目を輝かせながら言うのだ。「そう、行けば」と私は無関心に答えた。「息子をアトランタの空港まで迎えに来させればいいよ」「あなたは出席しないの?」「俺は忙しい。今年中に本も書き上げなければいけないし、俺はそういう儀式には一切興味がない」と、冷たく返事をして抵抗していたのだが、彼女の強い説得もあって、とうとう私も行く羽目になった。
 私には10年ぶりのアメリカ訪問である。前回は9.11テロの直後、どうしてもその渦中のニューヨークを見たいと思い、グラウンド・ゼロに立ち尽くしたのが最後だった。


ラスベガス名物・ホワイトライオン2匹。これは見たかった。ラスベガスは30年ぶり。凄いな。眠らない街。そして安全。別にギャンブルをしなくても充分楽しめるし、ホテルはギャンブル場に人を集めるため本当に安い。私が泊まった豪華ホテル、ミラージュも1泊100ドルちょっとだ

シスコの地に「Talk&Rock」のライブ空間を

 それ以来、「もう俺は外国には興味がない」と言っていたものの、ふっと考え直してみた。
 私は長きにわたって、ロフトプラスワンやNaked Loft、阿佐ヶ谷ロフトAのような、「TalkとRock」の融合を図る、そしてできるなら、日本と全世界を繋ぐ空間を作ってみたいと思っていた。
 もし、アメリカのその店に、日本と現地の音楽家やサブカルチャー文化人を招いたらどうなるか?
 そして、現地からそういったアメリカの人々を日本に招く空間や事務所を作ったらどうなるか? という好奇心だった。
 特にトークライブの空間を、アメリカに作ってみたい、と思っていた。ロフトプラスワンみたいな空間は外国にはない。世界の人々は、とりわけアメリカ人は大の論争好きである。もしプラスワンみたいな空間が全世界に広がったら、面白いことになるだろう。
 もう20数年前。私は、スペイン語もほとんど出来ないままカリブ諸国で初めて「日本レストラン」を、ドミニカ共和国の首都・サントドミンゴのカリブ海の見える海岸に作った。店は5年間続け、結局は見事に敗退した。という経験があるが、もう私は若くないのでそんな面倒なことはできない、と諦めかけていたのだが……。


息子の大学卒業のショールを借りて着てみた。何か偉い大学の学長になった気分(笑)

そしてロックの震源地・サンフランシスコへ

 そういうテーマもあって、息子の卒業式に行くついでに、私はサンフランシスコにマーケティングに行く気になった。シスコには、小林社長の音楽関係の友達もたくさんいたし、もう潰れてしまったが、実はロフトもレコード屋を一軒持っていた時期もあるのだ。60年代、後に世界を席巻するロックミュージシャン達を世に出した、ビル・グレアムさんの“フィルモア”もこの町にあった。まさに西海岸のロック震源地なのだ。  今年、アメリカの大学を卒業する予定の息子にその話をしたら、乗ってきた。ちょうど時代は就職難。巷には彼が望む仕事が少なかったのかもしれない。さらには、シスコは私の爺さんの生まれ故郷だ。墓もある。親戚もたくさんいるらしい。今まで会ったこともない従兄弟たちがいるはずなのだ。  私は息子に言った。「ロフトには、英語をちゃんと喋れる人材はいない。君がこの計画に挑戦してみるのも面白いかもしれない。日本と全世界の文化をライブハウスで繋ぐ仕事だ。やるか?」。息子は、「一年程、本場のアメリカでショービジネスの勉強をしたい」と言いだした。アメリカの大半の日本人留学生は、卒業と同時にさっさと帰国してしまう昨今、まだアメリカに残って働きながら勉強したいということに驚いた。しかも、大学での彼の専攻はコンピューターサイエンス。全く違った分野だ。  ロフトと馴染みのあるミュージシャンもシスコには少なからずいる。しかし、そういった文化を繋ぐエージェントは少ない。日本からシスコにやってきて演奏したいロッカーや、トークがしたい文化人、日本のアニメやサブカルを表現する空間をシスコの地に作れるのかもしれない。そう思った。  ひょっとしたら、私のアメリカ進出の夢が叶うかもしれない。そう展望すると、私はシスコの親戚や音楽関係者に挨拶とプレゼンをしに行く必要があるし、ついでに息子の卒業式をのぞいてみるのも面白いと思って、アメリカ行きを決断したのだった。


みんなが止めるのも聞かず、厳冬のヨセミテ国立公園に行くと……。幻想的な光景に出会った

そしてロックの震源地・サンフランシスコへ

 そういうテーマもあって、息子の卒業式に行くついでに、私はサンフランシスコにマーケティングに行く気になった。シスコには、小林社長の音楽関係の友達もたくさんいたし、もう潰れてしまったが、実はロフトもレコード屋を一軒持っていた時期もあるのだ。60年代、後に世界を席巻するロックミュージシャン達を世に出した、ビル・グレアムさんの“フィルモア”もこの町にあった。まさに西海岸のロック震源地なのだ。
 今年、アメリカの大学を卒業する予定の息子にその話をしたら、乗ってきた。ちょうど時代は就職難。巷には彼が望む仕事が少なかったのかもしれない。さらには、シスコは私の爺さんの生まれ故郷だ。墓もある。親戚もたくさんいるらしい。今まで会ったこともない従兄弟たちがいるはずなのだ。
 私は息子に言った。「ロフトには、英語をちゃんと喋れる人材はいない。君がこの計画に挑戦してみるのも面白いかもしれない。日本と全世界の文化をライブハウスで繋ぐ仕事だ。やるか?」。息子は、「一年程、本場のアメリカでショービジネスの勉強をしたい」と言いだした。アメリカの大半の日本人留学生は、卒業と同時にさっさと帰国してしまう昨今、まだアメリカに残って働きながら勉強したいということに驚いた。しかも、大学での彼の専攻はコンピューターサイエンス。全く違った分野だ。
 ロフトと馴染みのあるミュージシャンもシスコには少なからずいる。しかし、そういった文化を繋ぐエージェントは少ない。日本からシスコにやってきて演奏したいロッカーや、トークがしたい文化人、日本のアニメやサブカルを表現する空間をシスコの地に作れるのかもしれない。そう思った。
 ひょっとしたら、私のアメリカ進出の夢が叶うかもしれない。そう展望すると、私はシスコの親戚や音楽関係者に挨拶とプレゼンをしに行く必要があるし、ついでに息子の卒業式をのぞいてみるのも面白いと思って、アメリカ行きを決断したのだった。


わが従兄弟・ラスティとその妻・ポーラ。2人とも日本が大好き。特に銭湯が気に入っているという

 ここ2〜3年のロフトは、秋葉原、沖縄、渋谷など、いくつかの出店計画があったのだが、なかなか条件が合わずうまく行っていない。どっちにしても、私は相当歳をとった。「ロフトはもう、俺の時代ではない。老兵は静かに去るべき」とは実感しているが、また少し、最後のあがきをやってみたくなった。困ったもんだ。(続く)

※ロフト席亭・平野悠の「好奇心 何でも見てやろう」は、海外出張のため今月はお休みです。2月号で続きを掲載します




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ロフト席亭 平野 悠

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