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LOFT PROJECTのスタッフが新宿ロフトで観たライブで一番印象深いものをレポート!隔週更新!!

第5回 「新宿LOFTで観る怒髪天」 椎名宗之

怒髪天

masuko 昨年12月、新宿LOFTにて自主企画『トーキョーブラッサム』を三夜連続敢行するに際し、怒髪天の増子直純は僕にこう語ってくれた。「LOFTはやっぱり日本一のライヴハウスだし、俺達がLOFTでライヴをやるってことは特別なことだからさ。LOFTで3daysだなんて俺達がやってイイのか!? って思うし、目にものを見せるつもりで臨むよ」(『Rooftop』2005年12月号インタビューより

 1999年3月、3年間の沈黙を破り活動を再開させた怒髪天は、翌2000年4月以降、自主企画イヴェント“トーキョーブラッサム”を始動させる。その記念すべき第1回目はOi-SKALL MATESとJackie and Enockyをゲストに招いて下北沢SHELTERで行なわれた(サブタイトルは“故きを温め、新しきを知るとは”)。

 2001年12月に初のワンマン『嗚呼!花の東京十年生』を渋谷ON AIR WEST(当時)で成功させて以降の怒髪天は、徐々にワンマンを行なうハコをスケールアップさせていき、現在行なわれているツアーの千秋楽をSHIBUYA-AXで飾るという飛躍的な成長を遂げるに至った。

kamiharako そんな今や大ホール・クラスのライヴ動員を誇る彼らが、未だに強い拘りを持って継続的に自主企画を行なうハコ──それが、増子兄ィの言葉を借りるならば“日本一爆音演奏小屋”の我が新宿LOFTなのである。

 確かにライジングサンの会場で観る怒髪天にはいつだって武者震いするし、24/7の倉山氏との共同企画『Discovery Japan』が行なわれるCLUB CITTA' 川崎での彼らも文句ナシに恰好イイ。eastern youthがシークレットで出演した『如月ニーチェ』レコ発のSHELTERも感動的なライヴだった(あれからもう5年も経つのか…)。

 だがしかし、やはり新宿LOFTで観る怒髪天というのが僕個人としては格別なのである。キャパシティ500人強という狭い空間でしか成立し得ない、送り手であるアーティストと受け手であるオーディエンスとの近しい距離感、そしてその熱度と得も言われぬ一体感。それらは他のどのライヴハウスでも体感できない、LOFTならではのものだと僕は思っている。往年のARB、アナーキー、ルースターズらに負けずとも劣らず、怒髪天こそ市松模様のステージの似合うバンドのひとつだと敢えて断言したい。第一、「ROCKでない奴はロクでナシ!」と今どき臆面もなく真っ正面から唄い切るなんて、如何にもLOFTっぽいバンドではないか。

怒髪天 彼らが『トーキョーブラッサム』の拠点をSHELTERからLOFTに移したのは2001年5月、オダキリジョー率いるアフロネガティブ3と電撃ネットワークをゲストに迎えた第5回“命知ラズノ親シラズ”が最初である。

 当時の僕はこのLOFT PROJECTに拾われる半年ほど前、以前勤めていた会社で『音楽生活』というごく一部から熱烈に支持された無軌道な娯楽誌の編集をしていた。この雑誌に増子兄ィは「情熱★熱風ホスピタル」という連載を持っており、『爆音侍』というムックの取材で兄ィの実家を訪問するなど親しくさせて頂いていた。

 『音楽生活』の廃刊(編集部の解体、要するにクビ)がその数ヶ月後やむなく決定事項となった時には「今夜呑めない?」と兄ィは親身になって心配してくれたし、友康さんも僕が失業中で腑抜けの時に「お互い頑張りましょう!」とあの大きな手でガッチリ握手をしてくれて、思わず落涙したことがあった。仕事上の肩書きが消えた途端、手のひらを返したように僕の前から去っていった人達はゴマンといる。でも、そんな肩書きとは無縁のところで一個人としての僕と関係を保ってくれたのは怒髪天の皆さんとフライハイト/ミュージックチェイスの及川恵利さん、eastern youthの皆さんと坂本商店(当時)の長森洋さん、そしてbloodthirsty butchersの皆さんとリバーランの渡邊恭子さんだけだ。だから上記3バンドだけは、元からその音楽に惚れ込んでいるという理由だけではなく、微力ではあるけれどいつだって応援したいと個人的には思うのだ。

shimizu 閑話休題。先述した“命知ラズノ親シラズ”(打ち上げの席で「オマエはバンドをやる必然性があるのか!?」と某アーティストがオダギリジョーに絡んだそうですが・笑)、アナウンサーの鈴木史朗がシークレット・ゲストとして見事に演歌を唄い上げた“平成男合戦ズンドコ!”など、未だLOFTのスタッフではなかった時期のライヴは今も思い出深い。それ以降も今日に至るまでレピッシュ、THE BACK HORN、THE NEATBEATS、Oi-SKALL MATES、ミラクルヤング、フラワーカンパニーズ、特撮、THE GROOVERS、そしてbloodthirsty butchers(同郷ブラッサム!)…と実に多彩かつ豪華な顔ぶれをゲストに招き、スリリングな競演を果たして我々を心から楽しませてくれた。切れば赤い血がドッと流れ出るような丸裸の歌と4人の温かい人柄で、時に腹の底から大いに笑い、涙と鼻水が洪水の如く流れまくって大いに泣きじゃくった(特にブッチャーズとのライヴは、個人的に2005年最大級の夏フェスと言っても過言ではなかった)。僕はいつしかLOFTに入って『Rooftop』の編集をするようになり、再び媒体の人間として怒髪天と接するようになった。

shimizu 2003年の大晦日、新宿LOFTのステージで増子兄ィは突然こう言い放った。
「来年の目標は……Rooftopの表紙になること!」
 テイチク/インペリアルへのメジャー返り咲きのタイミングに、この兄ィとの“小さな約束”をほぼ1年越しで何とか果たした時は僕自身感慨深く、怒髪天が初めて表紙を飾った2004年12月号はこれまで手掛けてきた号の中でもとりわけ愛着のある一冊である。

 誰しもが共感する普遍的な歌詞&つい鼻歌で唄いたくなるメロディという公約数的かつ深みのある音楽を生み出す苦労、困難さを微塵も出さずにサラリとやってのける(ように見せる)風情が実に粋でいなせ──そんな怒髪天の音楽とは、聴けば必ずその人の血となり骨となり得る“癒し系”ならぬ“肥やし系”である。“人生の応援歌”などと大仰なことを言うつもりはないが、彼らの音楽に励まされて今日の自分があると明言できる。

sakazume そして、怒髪天の真髄はやはりライヴにある。結成から20年、今のメンバーになって18年、活動再開から7年を経た今も、その姿勢は一貫して変わらない。彼らはこの先、もっともっと大きなホールでライヴ活動をしていくだろうし、“ロックの殿堂”日本武道館でその勇姿をいつの日か観てみたいとも思う。でもきっと、かつてARBが日本武道館でのライヴの翌日に敢えて新宿LOFTでライヴを行なったように、怒髪天はいつまでも新宿LOFTというライヴハウスを愛し続けてくれるはずだ。バンドのメンバー及びスタッフと店との信頼関係は強固なものだし、僕も現場では直接関われないものの、Rooftopの誌面上で他のどの雑誌よりも彼らを恰好良く見(魅)せることでサポートするのだと自負している。

 北の大地から飛び出した“放吟者”達の旅はまだまだこれからも続く。その行程をこうして同じ時代に共に見守れることをkocoroから嬉しく思う。

以上ライブ写真全て
2001.5.25 新宿LOFT トーキョーブラッサムVol.5〜命知ラズノ親シラズ〜
w / 電撃ネットワーク (O.A.:アフロネガティブ3<オダキリジョー>)
写真:柴田恵理



椎名宗之
文 ◎ 椎名宗之(Rooftop編集長)
昨冬のK氏結婚式にて。ホロ酔いの坂さん(左)と椎名(右)↑

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