2024年7月

07(日)

第8回歌舞伎町のフランクフルト学派

かぶふら2024夏


OPEN 18:30 / START 19:00

《配信チケット》前売り¥1,500(税込)

《来場チケット》前売り¥2,000(要1オーダー)/当日¥2,500(要1オーダー)
予約はPeatixにて発売中

出演
伏見瞬
西村紗知

※状況に応じて出演者の変更、キャンセルになる可能性もございます。ご了承ください。

 

およそ半年ぶりに、歌舞伎町のフランクフルト学派を開く。

その間、世界では何も起きていない。ある者はSNS上で社会状況のあれこれに怒り、ある者は躍動感のない出来損なったユーモアを披露し、ある者は日々の日課のように特定の人物・団体に攻撃を加える。金銭獲得の目的に特化した言葉は、すべての品性を意に介さず、人の注視を集めることに注力している。そうしたテクストの集合体が醸し出す気配とは全く関係ないかのように、会社員は会社に行き、無言でパソコンに向かったり、電話で相手先に謝罪や感謝の言葉を伝えたりしている。何も起きていない。すべてはあっという間に過ぎていき、ふと立ち止まって自分の状態を考えると、ぼんやりとした疲労が持続する。友人や恋人とは、楽しく話したり、たまに喧嘩したりする。ほどほどの金銭で、ほどほどの食事を摂取する。なんとつつがない、慈しむべき日常。

もちろん、あらゆることは起きている。決定的な、致命的な事態は、いつものようにあらゆる階層、あらゆる場所で発生しつづけている。そうした致命性を、「いつものこと」として感受させるのが、現在の社会システムにほかならない。驚きを麻痺させることに関しては、現在の社会ほど巧みなものはない。

麻痺の力は、「作品」との関わりも包み込む。決定的な作用を及ぼしているはずの「作品」との出会いも、日々の疲労感の一部を形成する「いつものこと」に還元させられる。「作品」の作り手・送り手として関わる身としても、「いつものこと」の再生産に加担するだけではないかという疑いから逃れる術はない。どんなに優れた、鋭い表現だとしても、徒労に似てしまう。そうした感性の世界を、私たちは生きている。

当然、批評の書き手・送り手として名を売っている西村紗知・伏見瞬も例外ではない。西村は昨年末に『女は見えない』を上梓して以降、「推し」と呼ばれる現象へのコメンテーターの立場を外部から担わされることが増えた。社会システムにおいて個人の実存が売買される状況全般について書いた本が、結果的に「推し」をめぐる言葉に回収される。「もう推しなんか知らない!」が西村の弁である。

一方、伏見はYouTuber活動を始めて、運営はおおよそ順調に進んでいる。だからといって、それがあらゆる徒労からの開放を意味するわけではない。書き言葉の売買価値の低さに突き当たったうえでの行動がYouTubeチャンネルの開設であり、YouTubeの磁場を肯定できない気持ちは最初から抱えている。YouTubeに反映されたシステムとの妥協と調整を、日々繰り返さざるを得ない。成功しようが失敗しようが、単純な開放はそこにはない。

「いつものこと」を批評する言葉と行動が、「いつものこと」に取り込まれる。そうした日々に解決はない。いや、解決方法はすでにわかっている。徒労を覚える行為の果てに変化があることも、すでに私たちは経験している。壁をやすりでけずって牢獄にかすかな穴をあけるような行為を、信仰する以外にはない。

私たちが欲しているのは、言ってしまえば互いの信仰のすり合わせである。徒労が別の運動へと向かう精度を上げるために、それぞれの信仰を確かめ合うこと。単純な希望に逃げることなく、まとわりつく「いつものこと」の中に、差異を察知する感性を鍛えること。徒労を捨て去るのではなく、徒労と共に生きる術を有すること。そのための会合の場として「歌舞伎町のフランクフルト学派」は開かれているし、皆様にも活用していただきたいと思っている。

というわけで、文筆や批評の定点観測を今回も行っていきます。お互い仕事が新たなフェーズに入った西村、伏見の現状から見えてきたことを話していきます。みなさん、来たり見たりしてください!