2023年9月
第6回歌舞伎町のフランクフルト学派
OPEN 12:30 / START 13:00
出演
伏見瞬
西村紗知
ゲスト
山本浩貴(いぬのせなか座)
第6回目の「歌舞伎町のフランクフルト学派」は、ゲストに山本浩貴(いぬのせなか座)をお迎えする。ご存じの方も多いと思うが、山本浩貴は2015年にいぬのせなか座という名の集団活動をスタートさせ、詩・小説・エッセイ・批評、あるいはその間にあるなんとも形容しがたいテクストを作り出してきた。自費出版の書籍群は、洗練されたテクストデザイン、プロダクトデザインを含め非常に繊細かつ強烈な面持ちを持っていて、私(伏見)は常にいぬのせなか座の活動から刺激を受けてきた。私が2018年に『LOCUST』という集団活動を開始したときにも、いぬのせなか座との共時性や差異をどこかで意識していた。
いぬのせなか座の山本浩貴と同時代を生きていることは、大変好運な巡り合わせだと思う。私は彼の文章を、たとえばカントやプルーストを読むような心持ちで読んでいる。まだ捉えきれていない可能性がそこにはあるのではないか、という予感と期待のフィーリングが、何度読んでも浮かび上がってくるからだ。こんなことを言われても本人は戸惑うばかりかもしれないが、私の偽らざる実感である。そして、謎と予感につきないテクストを生み出す作り手本人と言葉を交わすことは、世界の残酷な複雑さと共に生きていくための、勇気とヒントになると思う。
今年3月に、去年一年間の批評文・エッセイ等からベストなものを選ぶ「かぶー1グランプリ2022」を開催したが、西村・伏見両名が迷いなく山本の「死の投影者(projector)による国家と死」(ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在ー伝播する映画の恐怖)を選んだ。正直、ユリイカに載る文章としては質量ともにあまりに破格な本論を読んだ時に、これを超えるものはないと確信していた。「国家」や「死」に生活を囚われる自分自身が寄り添い、時に対決しながら付き合い続けていく文章は、山本の論を置いて他にはないとはっきり感じたのだった。
この時代に小説・詩・批評・エッセイといった文章、あるいは映画・音楽・演劇・絵画などのフォーマット、つまり「芸術」や「表現」とひとまとまりにされる形式に則ってなにかを作り、他者の金銭や時間と交換することは何の役に立つのか?それを観客として受け止めていくことにどんな意義があるのか?不格好なのは承知だが、私たちはこのような問いを解消できないまま生活を続けている。山本は、こうした問いを避けることなく、かといって功利的な理由(仕事に役立つや心の拠り所になる、など)にまとめることなく、神秘的なこじつけ(無駄だからこそ意味がある、など)にも逃げ込むことなく、自らの抱え込んだ必然を他者と分かち合い続ける書き手である。
「芸術」や「表現」を問うことを、「国家」や「死」を問うことと切り離すことはできない。同時に、もっと卑近に見える「金銭」や「生活」を問うこととも切り離せない。そうした意識から、現在の状況について語るのが今回の主旨だ。
とはいえ、「歌舞伎町のフランクフルト学派」はざっくばらんに語る会なので、雰囲気はほよーんはにゃーんとリラックスして行われるでしょう。「山本さん、最近どうですか?単著どんな感じ?」「文學界のエッセイ特集どう思います?」「普段どんな音楽聴いてるの?」みたいな話をしつつ、少しずつ深められたらいいなと思っています。あと、伏見の個人的なマイブームとして、「すべての文学を音楽やリズムとして捉えるとどうなるか?」ってことを延々と考えるというのがあって、その辺の話を山本さん・西村さんと一緒にできたらとても楽しそう!なんて考えております。
というわけで、9月2日のお昼にみなさんお会いしましょう!
※状況に応じて出演者の変更、キャンセルになる可能性もございます。ご了承ください。
※会場周辺で出演者の入り待ち、出待ち等の行為は禁止です。