地引雄一(『ストリート・キングダム〈最終版〉東京ロッカーズ80'sインディーズ・シーン』著者)

東京ロッカーズを起点とするインディーズ黎明期を克明に記録した40年前の自著『ストリート・キングダム』が18年ぶりに復刊

閉塞した時代の中で自分だけの音を鳴らすこと、自分の踊り方で踊ることを絶えず実践してきた先駆者による最後の伝言

監督・田口トモロヲ、脚本・宮藤官九郎、音楽・大友良英という俊英が揃い、峯田和伸と若葉竜也のW主演、さらに吉岡里帆、仲野太賀、間宮祥太朗、中島セナ、大森南朋、中村獅童らが共演し、題材は1970年代後半に巻き起こった日本初のパンク/ニューウェイヴのムーヴメントである東京ロッカーズを起点とした1980年代半ばまでのインディーズ黎明期。その内容、豪華キャストと制作陣で公開前から大きな話題を呼んでいた映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』の原作本がこのたび復刻された。

著者は、映画の中で峯田和伸が演じたユーイチのモデルであり、主にフォトグラファーとして東京ロッカーズの立役者となった地引雄一。日本のインディーズ・レーベルの先駆者としてテレグラフレコードを主宰し、オートモッド、チャンス・オペレーション、NON BAND、EP-4、招き猫カゲキ団(ゼルダの小嶋さちほ、高橋佐代子によるユニット)といった先鋭的かつ斬新な音楽性を打ち出すバンドを数多く輩出したことで知られる。

インディーズという言葉がまだ日本に浸透していない時代に暗中模索のなか新興レーベル事業に奔走した記録をまとめた著作『ストリート・キングダム』と今回の映画化、また、日本のパンク/ニューウェイヴの先駆者たちが一堂に集結するイベント『DRIVE FROM 80s』の開催という一連の流れについて、御年76歳の地引は何を思うのか。そして希望の喪失と無力感が社会全体を覆う現代を生きる若い世代へ向けて発する最後のメッセージとは何なのか。千葉県にある地引の自宅で話を聞いた。(Interview:椎名宗之)

*本文に挿入された写真はすべて地引雄一の撮影によるもの

田口トモロヲ監督の劇映画は良質な青春音楽物語

──田口トモロヲ監督の『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』を鑑賞して、率直なところどう感じましたか。

地引 試写会を含めてまだ2回しか観ていないけど、凄くよくできていると思う。内容に関しては、シナリオを見てあまりに事実と違いすぎる部分は直してもらった。自分としては、物語が映像になったらどう見えるのかというイメージがなかなか湧いてこなかったんだよね。それまで企画書やシナリオといった文章を読み込むだけだったから。映画では「売れるために音楽をやっていない」「売れたいわけじゃない」とか理屈っぽいことを話しているシーンが多いけど、実際のところは頭の中でそう考えていても口にして言い合うことはあまりなかった。そういう生き方が各々自然と表れていた感じだったし、そもそも“D.I.Y.”なんて言葉を使ったこともなかった。

──“インディーズ”という言葉自体が浸透する前の時代ですからね。

地引 うん。そうやって言葉で表現するしかない部分が映画にはどうしてもあるのでどうなるかなと思ったんだけど、物語を映像として見るとわりと自然に受け入れることができた。トモロヲ君も言っていたけど、良質な青春音楽映画だね。

──自身の体験が劇映画として大きなスクリーンに投写されるのを見るのは、照れくさい部分もありますか。

地引 不思議な感覚だね。撮影現場にも7回ほど行って、役者の人たちの芝居も見たんだけど、映像を見るとまた印象が違うというか。物語の前編はほぼ記憶にあるもの、多少の映画的アレンジは加えてあるけど事実とさほど変わらない描き方で、それを映像として見ると不思議な感じがして、自分ではどう捉えていいのかわからない。あの頃の記憶が蘇ってくるし、展開していく物語に対して感じるものもあるし、そういうのがごっちゃになってよくわからなくなる。なぜか自然と涙が流れてきた場面もあったしね。『DRIVE TO 80s』辺りの後半以降は物語性が強くなっていくので、いち観客として客観視できて、純粋にいい映画だなと感じたけど。

──地引さんが撮影した当時の写真が随所に挿入され、各バンドの演奏シーンはそのモデルとなったバンドの実際のライブ音源が使われていて、虚構と現実が綯い交ぜになっているので、ご本人としては余計に混乱するでしょうね。

地引 今までさんざん見てきた自分の写真を、当時を知らない観客の人たちが見たらどう感じるんだろう? と思うね。

──SNSの反応を見る限り、当時を知る人たちはもちろんですが、当時を知る由もない若い世代が感銘を受けている投稿をちらほら見受けますが。

地引 それは僕も感じている。公開直後はあの時代を知る人たちの声が多かったけど、ここ数週間はパンクに特に興味もないような若い人たちの感想がだんだんと増えてきた。「とても面白かった」という反応が多いし、その世代のほうが当時を知らないぶん先入観なく素直な見方ができるのかもしれない。当時を知る人たちはどうしても「実際の◯◯はあんな感じじゃなかった」みたいなことを言いたがるからね。

──そもそもがドキュメンタリーではなく、劇映画ですからね。本人に忠実であることを目的としたものまね映画じゃないんだし。

地引 そうだね。バンド名も役名もわざわざ変えているわけで。その部分はトモロヲ君もだいぶこだわっていたし。実は最初は僕の名前だけ本名の「地引雄一」だったんだよ。だけど僕だけ本名なのはおかしいということで、撮影が始まって数日経ってから「響ユーイチ」という役名がついた。

──テレグラフレコードはそのままでしたね。

地引 ロフトもそうだったでしょう。屋根裏や京大西部講堂も同じ。人物名やバンド名は変えようってことになったみたい。

──トモロヲさんから『ストリート・キングダム』を映画化したいと打診されたときはどう感じましたか。

地引 夢のような話で、最初は実現できればいいねというくらいの気持ちだった。途中でコロナ禍になって頓挫するかと思いきや、構想から10年以上を費やして完成に漕ぎ着けたのはトモロヲ君の執念だね。トモロヲ君とは、テレグラフが復活した2012年にガガーリンの『地球は馬鹿だった』という未発表ライブ集を出した縁があった。トモロヲ君から電話をもらって、別のレーベルから出す予定で進めていたんだけどうまく行かなくなっちゃったみたいで、テレグラフが復活したのなら出してもらえないかということでね。それで80年代のライブカセットを20本くらい全部聴いた上で選曲した。そのCDの発売記念ライブをロフトでやって(2012年3月9日)、その打ち上げで「『ストリート・キングダム』を映画にしたい」という話をトモロヲ君から初めて聞いた。その後、KERAがロフトで生誕50周年とナゴムレコード30周年の記念ライブを4日間やったとき(2013年12月7日、8日、14日、15日)に撮影を頼まれて、そこでもトモロヲ君と会って「以前話した映画の件はぜひやりたいので」と聞いたんだけど、そのときに初めて本気なんだなと思った(笑)。それからしばらく経って、2015年に浅草の喫茶店でトモロヲ君と会って映画が本格的に動き出すことを伝えられた。脚本は宮藤官九郎君に、音楽は大友良英君に頼みたいという話も出ていたね。

銀杏BOYZも東京ロッカーズの流れを汲むバンドなのかもしれない

──地引さんの著作を原作としているのだから当然なのですが、東京ロッカーズというムーヴメントとその後に続く80年代のインディーズ・シーンという複雑な人間模様が入り乱れる群像劇を、地引さんを狂言回しにすることで客観的視座とする構成が上手いなと思ったんですよね。

地引 最初はもっとドキュメンタリー性の強い話になると聞いていたんだよ。2017年に初めてトモロヲ君、宮藤君、映画のプロデューサーの4人で会って、当時はこういうことがあったみたいな話を僕がしながら物語を組み立てていくシナリオ・ミーティングみたいなものがあってね。その時点で一番ドラマ性の高いリザードの話をメインにするのがいいんじゃないかと話したけど、それをそのまま落とし込むのではなく、当時の時代背景を基に架空のバンドを登場させるフィクションの物語にするのかと僕は思っていた。その中で東京ロッカーズのムーヴメントが実話として挿入されていくみたいな形というか。トモロヲ君は『24アワー・パーティ・ピープル』(ファクトリーレコードの社長だったトニー・ウィルソンの回顧録を基に、マンチェスター・ムーヴメントを描いた劇映画)が好きで、ああいう映画を作りたいと話していたね。その打ち合わせを経てシナリオの第二稿が届いたら、ほぼ実話を基にした物語になっていて、しかも自分まで出てきてびっくりした(笑)。

──「東京ロッカーズの映画なのにスターリンやじゃがたらのことまで入っている」みたいに的外れなことを言う人もいるようですが、そもそも地引さんの原作本は「東京ロッカーズと80’sインディーズシーン」というサブタイトルなのだから全く間違っていませんよね。東京ロッカーズに端を発したインディーズ・シーンの栄枯盛衰を描いているわけで。

地引 東京ロッカーズというワードがキャッチーなので、宣伝として使いやすいんだと思う。「わずか1年の間に、のちの音楽シーンに影響を与えた東京ロッカーズ」といった感じで。実際の映画に東京ロッカーズと呼ばれるムーヴメントが描かれるのは前半の半分くらいで、あとはリザード(劇中名:TOKAGE)を中心とした物語だからね。

──先ほど「事実と違いすぎる部分は直してもらった」とお話しされていましたが、具体的にどんな部分だったんですか。

地引 たとえばリザードの「SA・KA・NA」のジャケットは最初は僕が撮ったことになっていたので、あれは自分が撮った写真じゃないことを伝えたり。あと、スターリン(劇中名:解剖室)の学園祭のステージを終えた遠藤ミチロウ(劇中名:未知ヲ)がパンツを探しているシーンが最初はあったけど、それもミチロウが全裸になるときは絶対にパンツを穿かなかったと指摘したり。それであの「表現者はパンツなんか穿かない!」という台詞に繋がったのかな(笑)。ちなみにミチロウは公然わいせつ罪で逮捕されたときも「パンツは普段から穿いてません」と警察に主張したらしいね。ライブのときだけ穿いていないと、最初から脱ぐつもりだった計画的犯罪だと受け取られてしまうから。そのときファンから下着類が差し入れされたんだけど、警察から「お前、パンツは穿かないんだよな?」と言われて渡されなかったみたい。その体験から「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」の「パンツのはけない留置場は寒いです」という歌詞が生まれたという(笑)。

──峯田和伸さんの演技はいかがでしたか。

地引 最初はもっと若くて頼りない感じの役者が演じるといいんじゃないかと思った。峯田君の実年齢と当時の僕の年齢の開きが少し気になったし、峯田君は人前に立つミュージシャンで存在感もあるけど、僕はただの裏方だったからね。ろくに知らないロック・シーンへふらっと飛び込んで、あんなにアクの強い連中と交流を持ちつつ翻弄されて(笑)。でも結果的に峯田君に演じてもらって良かった。撮影前に僕の家へ来てくれていろんな話ができたし、僕も事前にGOING STEADYや銀杏BOYZの作品をできるだけ聴き込んでね。話を聞いてみると東京ロッカーズのことも凄く詳しくて。

──『CHANGE 2000』(1979年4月、小嶋さちほらによって創刊されたミニコミ誌)もお持ちだそうですね。

地引 そう、神保町の古書店で買ったとか言ってたね。それに『EATER』(地引が1995年に創刊し、2001年までに8号を刊行したオルタナティヴ・カルチャーマガジン)も愛読してくれていたみたいで。東京ロッカーズや東京ニューウェイヴはもちろん現役の世代ではないけど凄く聴き込んでいて。銀杏BOYZも途中からノイズ・アヴァンギャルド的要素が増して変化していったし、日本のニューウェイヴ、オルタナティヴの流れをちゃんと意識して体現しているんだなとわかって、ある意味、東京ロッカーズの流れを汲むバンドと言っても過言ではないと感じた。それにあれだけ人気があるのに、ずっとインディーズでの活動に拘っている。そういう活動ペースが可能になったことが僕としては感慨深い。映画の最後は希望に溢れた終わり方をしているけど、実際の80年代末期はインディーズにメジャーな資本が介入して、真の意味でのインディーズは壊滅してしまったわけだから。

──1986年7月にミュージック・マガジン社から発行された『ストリート・キングダム』の初版では、一大ムーヴメントと化したインディーズ界に向けて地引さんが警鐘を鳴らすというか、シーンの未来が明るくないことを懸念する文章で締め括られていましたね。

地引 今回の『ストリート・キングダム〈最終版〉』には原書刊行前後に『ミュージック・マガジン』で連載していたコラム(「地引雄一の現場報告」)を初めて再録したんだけど、『ストリート・キングダム』を出した直後にはもうテレグラフをやめているんだよね、皮肉なことに。1986年の時点ですでにインディペンデント・レーベルの在り方が本来の形を維持することが難しいと書いている。ピナコテカレコードもテレグラフより早く終わってしまったし、インディーズ第二世代と言うべきKERAのナゴムレコード、北村昌士君のトランスレコードも80年代末までに活動休止になってしまった。関西はインディーズ・ブームの影響を受けず、JOJO広重君のアルケミーを筆頭にいろんなレーベルが続いていたけどね。

地方の農村を撮り続けていた反動で都市の文化に着目した

──『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』然り、『ストリート・キングダム〈最終版〉』然り、地引さんの撮影した写真には普遍的な魅力があることを今回再認識したんです。ぼくも映画のロケーション、茨城県行方市の旧私立北浦三育中学校に建てられた旧新宿ロフトの外観、体育館の中に作られた旧ロフトのステージとバーカウンターを見学させてもらい、そのあまりの再現度の高さに驚いたのですが、ロフトも屋根裏もS-KENスタジオも西部講堂も、地引さんの撮影した写真がちゃんと記録として残っていたからこそ美術スタッフのみなさんが精巧なセットを再現できたのではないかとも思って。

地引 現場へ行ったら僕の写真が至る所に貼ってあったね。ロフトからも数々の資料が提供されたと聞いたけど、ロフトの内装は客席の後ろにバーカウンターまで作ってあって、そんな所まで映らないのに凄いなと思った。

──ドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』やクリームの『Disraeli Gears』といったロックの名盤がバーカウンターの壁に並んでいたのですが、よく見たらジャケットはどれもネコが擬人化したイラストで、こんなディテールにまで拘って作り込まれているんだと感動しましたね。

地引 そうそう。“キャット・ツェッペリン”とかさ(笑)。

──『ストリート・キングダム〈最終版〉』の前半には、東京ロッカーズから80年代のインディーズ・シーンの要人たちのライブショットが130ページ以上にわたり掲載されています。今の時代にはない昭和50年代ならではの各自の顔つきに人を惹きつける何かが宿っているのは確かなのですが、やはり地引さんの瞬間の切り取り方が見事で、明暗や濃淡で表現されるモノクロの迫力と相俟って異様な凄みを感じるんですよね。

地引 70年代末期、日本にもパンク・シーンが存在するべきだ、ないのなら自分たちの手でつくるべきだという時代の機運に巻き込まれてしまったんだけど、ちょうどそれまで自分が撮影すべきテーマを模索していたんだよね。都市で生活する中で自分の生き方なりアイデンティティとして何かを表現する人たちにフォーカスを当ててみたかった。まだ20代前半だった僕は日本の伝統文化への憧れがあって福島の農村とかに題材を求めて撮影をしていたんだけど、実際に田舎で生活している人たちは東京への憧れが強かった。若い子はみんな東京へ行きたいって言うし、福島から東京へ出稼ぎへ行くおじさんを車で送るときも「半年も家を空けて大変ですね」って言うと「東京のほうが遊ぶ所がいっぱいあっておもしれぇや」なんて平気で言う(笑)。

──その時代の写真が『別冊ele-king J-PUNK/NEW WAVE-革命の記憶』に掲載されていましたね。

地引 これね(と、『カメラ毎日』1978年9月号に掲載された福島の農村の写真を見せる)。当時、このカメラ雑誌の投稿ページに載るのが夢でね。これに載るのを目標としてカメラを続けていたところもあった。

──写真は昔からモノクロ主体だったんですか。

地引 というか、当時通っていた写真学校でも作品として写真を撮るならモノクロが大前提だった。コマーシャル写真ならカラーが当然だけど、自分でプリントして仕上げるならモノクロにするのが当たり前だった。

──モノクロは見る側に想像の余白が生まれる良さがあるし、カラーという直接的な表現ではないからこそ時代を超えた何かを感じられるのかもしれませんね。

地引 今やデジカメになってカラーが普通で、感度もいいし手ぶれも抑えられる。誰が撮ってもある程度のクオリティになるから均一的で、作品として成立させるのがデジカメだと凄く難しいよね。

フリクションのレックから学んだ未知なる斬新な視点

──地引さんが影響を受けたのはどういった写真家なんですか。

地引 日本だと東松照明かな。海外ならアメリカのブルース・デビッドソンという人。彼がニューヨークのハーレムにある貧困地区で撮影したモノクロの人物写真が好きでね。その写真が大型カメラで撮影されたものだったので、僕も農村の撮影にシノゴ(4×5インチ)の大型カメラを使った。写真学校へ通っていた頃に自分の好きな写真と同じように写真を撮るという課題があって、大型カメラを学校に借りて、浅草寺の本殿の左側にいた露天商の人たちを撮らせてもらった。その手法を農村でも使ってみた。カメラの精度が高いからきめ細やかな写真が撮れるし、どこの農村の家にも飾ってあるご先祖の写真や養蚕研究所に勤める人たちの集合写真などを見ると、僕にはそれが写真の原点のように思えた。当時はスナップ写真が主流で、スナップ写真へのアンチテーゼとしてブレたりボケたりしたコンポラ写真が流行りだった。でもそれもやり尽くした感があったし、それなら写真の原点に遡ってみるのも面白いと思った。あえて三脚と大型カメラを使い、「こっちを見てください」と伝えてシャッターを切る手法が面白いんじゃないかと。そのほうが一瞬のスナップを切り取るよりもそこに暮らす人たちの生活や人生、文化が写り込むんじゃないかと思った。被写体との距離や露出計で光を測ったりする作業もむしろ儀式的な感じがして面白かった。

──ライブ撮影は一瞬を切り取るのが勝負だから、手法は真逆ですよね。

地引 うん。だから最初はどう撮っていいか全然わからなかった。リザードはまだ70年代のアングラな香りが残っていたからその世界観が切り取りやすかったけど、フリクションは自分の想像も及ばない感覚というか、凄いことはわかるんだけど、どういう感覚でどう捉えたらいいのか皆目見当がつかなかった。だけどその試行錯誤はやりがいがあったし、レックに教えられたことも多かった。撮った写真をベタ焼きにして渡すと、レックがいいと丸を付けるのは自分なら絶対に選ばない写真ばかりでね。たとえばこの、左側のレックが見切れていて、右半分がドラムセットしか写っていないガラーンとした写真とか(と、Record shop BASEから刊行された写真集『JIBIKI YUICHI FRICTION 1978-1985』の中の1枚を見せる)。でもこれを引き伸ばしてみると、どこか不思議なエネルギーがある。ドラムはあるのにヒゲがいないんだけどね。ドラムヘッドが破れたか何かでヒゲが怒って帰っちゃったらしいんだけど(笑)。

──写りの良さよりも充満したエネルギーが伝わる仕上がりを優先する、当たり前の構図にはないエラーの美を重視するというか。

地引 綺麗に撮れていたり、ピントや構図がいいとかではない何か……その空間の持つ熱みたいなものを感じられるかどうか。レックはデザイン学校へ通っていたし、いい写真も撮るしね。音ばかりだけではなく表現全般においてもそれまでの自分になかったものをレックは持っていて、そういう未知のものを彼から吸収できたことは凄く勉強になった。

──恒松正敏さんも東京芸術大学で油画を専攻して画家としても活躍されていますから、フリクションは音楽だけでなくアート全般に造詣の深い面々が揃っていたんですね。

地引 マッチャン(恒松のこと)が脱退した後にはデザイナーのシェルツ・ハルナ(春名周作)君が加入するしね。彼は音楽をやったこともないのに、たまたまボンゴを買ったらバンドに入れと言われたらしい(笑)。

──2008年12月にK&Bパブリッシャーズから復刊された『ストリート・キングダム』の表紙を飾る“魚男”に扮していたことでも知られるハルナさんですね。

地引 うん。サウンドやヴィジュアルをすべてひっくるめて一つの表現として成立させることをフリクションから学べた。レックたちが編集していた『WATCH OUT』というミニコミも独自のデザインセンスで、フリクションの音に通ずるものがあったね。

1980年代初頭、自分たちでレーベルを発足する必要に駆られた理由

──それにしても、1986年の初版、2008年の復刻版、今回の最終版と三度にわたって刊行される本もなかなかないですよね。

地引 有難いことだね。今回は映画の公開に合わせて入稿作業を進めたので大変だったけど(笑)。

──初版が刊行された80年代中頃といえば、1985年8月にNHKで『インディーズの襲来』という番組が放送され、ラフィン・ノーズ、有頂天、ウィラードがインディーズ御三家と呼ばれ、インディーズが市民権を得た時代と言えますね。『DOLL』のシティ・ロッカー、『宝島』のキャプテンといった出版社がレーベルを発足させるケースが続き、スターリンのタムさん主宰のADK、先ほど話に出たナゴムやトランスといったバンドマン発信のレーベルも続々と頭角を現すなど隆盛を誇るのと入れ替わるように、地引さんはインディーズの在り方に疑問を抱いてテレグラフの事業から撤退してしまう。インディーズ・レーベルの先駆者である地引さんが好機の波に乗らなかったというのがとても象徴的なことに思えるんです。

地引 レーベルのオーナーなんて言っても、レコードを車に積んでレコード屋を回り、商品を卸して集金するという地道な作業だからね。夜中の2時、3時まで帳簿を付けたりさ。こんなことをやるためにインディーズのシーンに飛び込んだのか? という思いがやがてどんどん募っていく。自らレーベルを作ったのも別にレコード会社の社長になりたかったわけじゃなく、シーンを活性化させるために自分たちでレコードを作れる環境を整えることが凄く大事だと思ったから。たとえばジャン=ジャック・バーネルがプロデュースしたリザードのファースト・アルバムは、バンドが原盤制作を行なうためにレコーディングの渡英費用を含めた多額の資金を自分たちで準備する必要があった。それが後にバンドの崩壊に繋がって、借金を払えなくなったカッチン(塚本勝巳)が失踪することにもなるんだけど。僕もリザードのマネージャーに10万円ほど貸して、4万円くらいしか返ってこないままいなくなっちゃったしね。フリクションが在籍したPASSレーベルも、その母体だったジョージアというレコード屋が潰れてしまった。そういった悲劇を至る所で目の当たりにしていたので、自分たちでレーベルを発足する必要に駆られていたわけ。

──先駆者なりのご苦労は多々あったと思いますが、シーンがまだ更地で明確なルールが整備されていなかった手探りの時代だからこその面白さはあったんじゃないですか。それが映画で描かれた青春期独自の眩さにも繋がるのでしょうし。

地引 当時、業界ニューウェイヴという言葉があって、ヒカシューやP-MODELといった本物は別として、スタジオ・ミュージシャンを集めて無理やりニューウェイヴ・バンドを作ってデビューさせる動きがいくつもあった。そういうのに不信感を覚えたし、当時は音楽事務所に所属しないとレコードを出せなかったし、8 1/2(ハッカニブンノイチ)やフールズといった凄くいいバンドがメジャー・デビューできない歯痒さを感じていた。だからインディーズでレコードを出せるシステムを自分たちで作り、そこで得た利益でバンドが生活していくことができないだろうかという気持ちでテレグラフを始めたんだよね。だけどリリースを続けていくと、今度は資本との闘いを余儀なくされる。テレグラフが失敗した大きな原因は、量的拡大を目指しすぎたことなんだよ。

──テレグラフ内に設立したヴェクセルバルグからG-Schmittをリリースした頃ですか。

地引 その前だね。キャプテンが台頭してきた辺りから。でも『宝島』を引き込んだのは実はこっちからだったんだよ。『宝島』で最初にインディーズの広告を打ったのもテレグラフだったしね。1ページ=10万円という当時では格安の値段だったんだけど。で、テレグラフのスタッフに宮部知彦君という音楽ライターがいて、彼が『宝島』の編集部にインディーズのページを作らないかと持ちかけたの。毎号載せるうちに人気が出て、増刊で出したバンド名鑑が凄く売れたことでインディーズは商売になると踏んだらしい。それで『宝島』が徐々にインディーズへ参入してきた。それとエジソンという輸入レコード屋。エジソンはもともとウエストコースト系の音楽に強い下北沢のレコード店だったんだけど、宮部君が親しかったのでインディーズも扱ってもらうことにしたら凄く売れて、社長が色気を出してきた。エジソンの社長に直接言われたからね。「パンクやニューウェイヴには何の興味もないし、売れるからやってるだけだ」って(笑)。結局はこっちが引き込んでしまって、インディーズがお金になることがわかると資本力の強い所がどんどん介入してくるという図式。最終的にはメジャー・レーベルが組織の下のほうにインディーズ・レーベルを作って、ライブハウスで青田買いをしてデビューさせることを繰り返す。そのインディーズ・ブーム以降に出てきたバンドは実質的にメジャーがお膳立てしたところからのし上がっていくのが当たり前になって、本来はメジャーとは別の価値観を生み出していくべきなのに、単なるメジャーの下部組織に属する存在に成り下がってしまった。レーベルもライブハウスも、バンドがもっと上のメジャーへ行くための足がかりになってしまったのは残念だったね。

東京という街が自分の人生を切り拓く戦場のように感じた

──『ストリート・キングダム』が1986年に初刊行された当時、反響はかなりあったんですか。

地引 全然なかった。周囲の友人が褒めてくれたくらいで。

──本業は写真家ですし、文筆作業に本格的に取り組んだのはこれが初めてだったんですよね?

地引 リザードの『彼岸の王国』というテレグラフから出したライブ音源集に封入したブックレットに、リザード年代記という文章を書いたことがあったくらいかな。

──復刻版から18年ぶりに再読して感じたのは、対象と一定の距離を保ちつつ写実的な筆致に徹し、目の前で繰り広げられている現象を生々しく伝える文体が実に見事だなと。時に文学的であり、レーベルという新たな発信基地で地引さんが七転八倒する読み物としての面白さもあるし、資料的価値も極めて高いという日本のパンク/ニューウェイヴの第一級史料と言えるのではないでしょうか。

地引 自分では『彼岸の王国』で書いたリザード年代記の出来に凄く満足していてね。でも『ストリート・キングダム』に書き下ろした文章は充分な推敲ができなかった。毎日のように『ミュージック・マガジン』の編集者が当時住んでいた西荻窪のアパートまで出来上がった原稿を取りに来て。全章出来上がったら読み直して手を加えたいと考えていたんだけど、そんな余裕もなかったから。

──第1章の中の「東京ロッカーズの時代」のくだりが顕著ですが、都市生活者のための音楽=ロックが持つリアリティの重要性を繰り返し説いているのが印象的ですね。東京が日本の都会の象徴ではなく、自分たちの生活の場としてのいちローカルという解釈も非常に納得のいくもので。

地引 そこを汲んでもらえるのは嬉しいね。それ以前に農村を撮影したり、1年近く日本中を放浪していた時代の経験もあると思う。秋田と岩手にまたがる八幡平の民宿で働いたりして、一冬過ごしたりね。そういう経験を経た上で、都市の音楽として成立しているロックに強い関心を抱くようになった。

──「ビートとはすべての行動に表れる都市の精神の鼓動なのだ」という一文はまさに至言だと思うし、「音楽を演奏する者だけでなく、街(ストリート)のビートを呼吸し自分の生き方を切り開いてゆく者すべてがロッカーなのだ」という一文は、1950年代後半から1960年代中頃にかけてロンドン近辺で流行したモッズ=モダーンズの定義と重なる部分もあるように感じるんです。

地引 大学から東京で暮らしていたけど、生まれ育った千葉辺りじゃ東京は近すぎるから中途半端だった。1時間も電車に乗れば帰ってこれるしさ。でも福島や秋田となればそうはいかないし、70年代当時に東北から東京へ出ることは一大事だった。そうした地方からの視点を持ったことで東京という街が自分の人生を切り拓く戦場のように感じて、ちょうどその頃にロックを熱心に聴くようになった。それまでは岡林信康や長谷川きよしといったフォークソングばかり聴いていた。

──『ストリート・キングダム』はそもそもどんな経緯で刊行されることになったんですか。

地引 『ミュージック・マガジン』の編集者だった藤田正さんに声を掛けてもらった。それまでの5年間、僕は『ミュージック・マガジン』に干されていたんだよ(笑)。ジャンク・コネクション(1980年に地引、ゼルダの小嶋さちほを中心に設立されたレーベル)から絶対零度の7インチを出したんだけど、そこに入れていた小冊子の中でマネージャーが『ミュージック・マガジン』の悪口を凄い書いていた(笑)。絶対零度のライブが『ミュージック・マガジン』に酷評されて、編集部へわざわざ文句を言いに行ったとか。こっちとしてはバンドのやりたいことをそのまま出すのがインディーズだというつもりでやっていたからバンド側の意向を汲んだまでのことだったんだけど、『ミュージック・マガジン』としては僕が編集部を中傷した仲間だということで、それから一切仕事が来なくなってしまった。そんな頃に藤田さんが道を拓いてくれて、まず1年間連載をやらせてもらうことにした。それが今回の〈最終版〉に追加掲載された「地引雄一の現場報告」というコラム。1985年3月号から始まったんだけど、当時はもうインディーズがブームになっていた頃。ただスターリンやじゃがたらが台頭してきた辺りは『ミュージック・マガジン』でもパンク系のバンドを扱わなくなっていたし、藤田さんによると当時はパンクに興味を持つ編集者が他にいなかったので僕に声を掛けたという。編集部内で唯一パンクに興味を持っていたのは中村とうようさんだけだったみたい。とうようさんは新たな音楽の動きも含めて全般的に捉えていこうという人だったので。

──「地引雄一の現場報告」の最終回(1986年10月号)が『ストリート・キングダム』全体の総括のようでもあり、〈最終版〉を締め括る意味でも相応しいですね。

地引 〈最終版〉に何か付け加えなきゃいけないなと考えていたところに、そういえば「現場報告」のコラムはまだ陽の目を見ていなかったなと思い出してね。サディ・サッズ、くじら、チャンス・オペレーション、あぶらだこといったバンドを紹介していて映画とは関係がないし、よりマニアックになってしまうかなとも思ったんだけど、自分の本なんだからいいかなと。FUJIYAMAの店内写真を載せた「現場報告」14回目の最終回は『ストリート・キングダム』の初版が出た後に書いたもので、最終回をまだやっていなかったので書いてくれと頼まれてね。いま読み返すと、「当分レコード制作を休止することにした」と書いてあって驚いた。自分ではもうちょっと長くやっていたつもりだったんだけど、37歳の時点でテレグラフをやめる決意をしていたんだね。

写真は印刷されて不特定多数の目に触れるのが一番面白い

──とは言え、1995年に『EATER』を創刊するまでレーベル事業と完全に決別したわけでもなかったですよね。

地引 ディスクユニオンの中にDIWというレーベルがあって、もともとはジャズ専門だけどロックもやりたいということで、1987年にレーベル・プロデュースを頼まれた。そこでZOOMというレーベルを立ち上げ、復活したリザードのアルバム2枚、あけぼの印、のいづんずり、グンジョーガクレヨン、スピアメンのリリースを手伝った。テレグラフでやり残したことを清算する感じだったね。

──地引さんが自ら居場所を離れても、向こうのほうからやってくる不可抗力な何かによって現場へ呼び戻されるケースがたびたびあるように感じるのですが。

地引 そうだね。そもそもインディーズのシーンにどっぷり浸かるつもりもなかったし。シーンと関わりを持つようになった最初の年の大晦日に下北沢ロフトで行なわれたライブ(『東京ロッカー1978大詰めラストライブ』)辺りでようやく自分らしい写真を撮れてきた手応えがあった。別にライブ写真を撮りたいわけじゃなかったけど、シーンの状況とそこに蠢く人たちの息遣いみたいなものをやっと撮れてきたかなと感じた。そうした対象を1年ほど撮り続けてまた新たなテーマへと移行しようと考えていたんだけど、掲載されるのを目標としていた『カメラ毎日』が1985年に休刊となってしまった。『アサヒカメラ』や『日本カメラ』といったカメラ雑誌が他にもあったけど、自分が愛読して本当に面白いと感じていたのは『カメラ毎日』だけだったからね。展覧会をやる発想も自分にはなかったし、写真はやっぱり印刷されて不特定多数の目に触れることが一番の面白さだと僕は思う。誰が撮影したかなど関係なく、その写真を見た人の記憶に残り続けることまで含めての面白さ。僕がそれを一番感じたのは、『DOLL』の読者欄に僕が撮ったミチロウの写真を基に描いたイラストの投稿が載ったとき。ミチロウが裸で横たわって唄うところでね(笑)。

──Comic Stripから発売された“解剖室Tシャツ”に使われた写真ですね。

地引 そうそう。僕が見た場面を撮影して、その写真を見た人の記憶に残って今度は絵になっているというのが凄く面白く感じた。そういう形で写真が広がるのが一番楽しい。

──写真の記名性は不要であり、和歌で言えば詠み人知らずで良いと。

地引 そんなところかな。話を戻すと、ディスクユニオンでのレーベル・プロデュースを経て、ロックに対する熱意が次第に薄れていったのは、やっぱり1990年1月にじゃがたらの(江戸)アケミが亡くなったことが大きい。アレルギーのU子(久保優子)もその2年後にフランスで亡くなってしまったし、一つの時代が終わってしまった感覚が強く残った。

──1990年代前半はどんなことをされていたんですか。

地引 『ミュージック・マガジン』の仕事をしたり、JASRACの会員でもあったのでテレグラフの著作権管理をしたり。友川カズキさんがP.S.F.からリリースしていた頃、ちあきなおみさんへ提供した「夜へ急ぐ人」の楽曲管理をレーベルから頼まれたこともあった。あとは音楽之友社の中高生向け教科書の仕事をしたり、バリ島の文化に惹かれて現地を訪れて撮影してみたり。そんなところへ某出版社の人からじゃがたらの本を作りたいと相談を受けたんだけど、諸事情で頓挫してしまった。でもその流れで出版事業を仲間内で立ち上げることになり、そのときのメンバーの一人が雑誌を作りたいと言い出した。ところがその言い出した本人がいろいろあって編集作業ができなくなって、仕方なく僕が編集を受け持つことになった。それが『EATER』。記念すべき『EATER』第1号は、実は特集が「日本の殺人者100人」になる予定だった(笑)。もともと編集をやるはずだった人の企画で、台割までできていた。でも自分が編集を手がけるのならやっぱり自分だけにしか伝えられないものがいいと考え、それは何だろうと言えばやはり音楽だろうと。

──それでミチロウさん、町田康さん(当時は町田町蔵)、Phewさん、巻上公一さんといった面々のインタビューを掲載した「ROCK SURVIVORS/ロックの果てから」という特集が組まれたと。

地引 うん。自分の中で東京ロッカーズから続く一連の動きというのは新たな音楽のトレンドに限らず、あらゆる表現が混然となった日本の文化運動だと感じていた。そのムーヴメントを音楽業界という狭い社会の中の出来事で終わらせてしまったことが僕は凄く残念だった。だからミュージシャン主体ではあったけれども、もっと幅広い視点で研ぎ澄まされた感性や行動力を持った人たちに話を聞いていこうと思った。日本のパンクを一つの起点として生まれた新しい流れ、サブカルチャーも含めたオルタナティヴな文化を担う人たちを取り上げたかった。『ミュージック・マガジン』でアケミや町蔵、石井聰亙(現・岳龍)さんの取材をした経験は多少あったけど、本格的なインタビューは『EATER』が初めて。最初のインタビューは勝手知ったるジュネ(オートモッド)だったけど、親しすぎて踏み込んだ話をしなかったのであまり面白くできなかったかなと。やがて何人かインタビューして気づいたのは、その人なりの話のリズム感やその人なりの呼吸があるということ。それは音楽と同じだなと感じて、なるべくその人の話し方を活かした文章にしようと心掛けた。

元にいた場所へなぜか引き戻されてしまう

──写真撮影、イベント企画、レーベル運営、文章執筆、雑誌編集と八面六臂の活躍を続けてきた地引さんですが、最も楽しい表現はどれですか。

地引 やっぱり写真じゃないかな。文章を書くのは一番苦労するので物書きにはなれない。

──自身で撮影した写真で思い入れが強いのはやはり東京ロッカーズの時代からテレグラフ発足の頃が多いですか。

地引 その時代に限らないね。福島の農村の写真も好きだし、『EATER』時代に撮影したもので好きなのも多い。ここ4、5年、ずっと自宅で昔の写真をネガからスキャンしてデータ化していて、3年くらいかけて80年代の写真をほぼデータ化できた。今は日本中を放浪していた時代や『EATER』時代の写真のデータ化に取り掛かっているんだけど、『EATER』の頃に撮ったポートレートに気に入っているものが多いね。レックとか、吉祥寺の駅前で撮った大友(良英)君とか。

──今回の映画も、地引さんが48年前の写真をしっかりとデータ化していたことが製作に大いに役立ったのは間違いないですね。

地引 600枚くらい資料として製作会社へ渡したからね。こうしてデータ化しておけば、さっき言ったみたいにいろんな所へ写真をばら撒ける。自分が撮ったことは別にどうでも良くて、その写真があちこちへ広まって何らかの形で世に出たりするのが面白い。その在り方自体が一つのコンセプトアートみたいな感じっていうか。

──今月末には映画の上映、原作本の再刊と続いた80’sインディーズムーヴメント・リバイバルの総決算と言うべき『DRIVE FROM 80s』が新宿ロフトで行なわれます。今回は地引さんと高木完さんによる共同プロデュースですが、当初から映画と連動して開催しようと考えていたんですか。

地引 というか、ロフトの(加藤)梅造君がぜひやりましょうと言ってきたので。ゼルダ(劇中名:ロボトメイア)のシーンを撮影したロフトで「来年はロフトが50周年なのでぜひ」と言われてね。最初はもっと映画寄りというか、映画の公開前に開催して、そこへ役者の人たちにも顔を出してもらう内容を考えていたんだけど、純粋な音楽イベントの形に落ち着いた。

──1999年に行なわれた『DRIVE TO 2000』、2009年に行なわれた『DRIVE TO 2010』、2016年に行なわれた『DRIVE TO 2100』と比べると、1979年に行なわれた『DRIVE TO 80s』に寄せたラインナップと言えますね。

地引 そうだね。映画の公開記念を兼ねているので、最初のコンセプトとしては映画のモデルになったバンドをやっていたミュージシャンに出演してもらおうと考えた。でもそれは現実的に難しくてね。リザードはモモヨがステージに立てる状態じゃないし、レックは「楽しくなきゃやらない」って言っているし(笑)。

──ゼルダも難しいですよね。

地引 せめて招き猫カゲキ団でも……と思ったけど、小嶋(さちほ)さんは沖縄で、(髙橋)佐代子ちゃんは熊本とタイを行き来しているからね。じゃがたらも動いているけど、OTOがお茶畑の収穫のシーズンで難しいみたいで(笑)。そんなことがいろいろとあって、まずは『DRIVE TO 80s』に出ていた人たちに完ちゃんと手分けして声を掛けようと。『DRIVE TO 80s』に出演していて、今なお現役で音楽をやっている人たちに。面白いことに、一番元気なのは最年長のS-KENなんだよね。来年で80歳になるのに(笑)。

──パンク/ニューウェイヴの先駆者ですから、昔の看板を背負って立つような懐古的な表現とは無縁な顔ぶればかりですよね。

地引 みんな第一線でやっているからね。『DRIVE TO 80s』の面々にまず声を掛けて、その後に1981年にやった『FLIGHT 7DAYS』の面々に声を掛けようと思っていたら、『DRIVE TO 80s』に出ていた人たちだけで一杯になっちゃってね。みんな快諾してくれたおかげで。本当は『DRIVE TO 80s』で東京デビューを果たしたスタークラブにも出てほしかったんだけど、移動費とかのことを考えて諦めた。

──では、来年は『FLIGHT 7DAYS インディペンデント レコードレーベル・フェスティバル』のアップデート版の開催をぜひお願いいたします(笑)。

地引 もう体力が持たないよ(笑)。10年前にロフト40周年ということでやった『DRIVE TO 2100』が僕としては最後のイベントにするつもりだったのに、なぜかこうして引き戻される。『EATER』が止まった後はホラー映画の本を作ったり、『BURST』でディープな人生を送る女性のレポ連載をしたりとロックとは別の仕事をしていたのに、『ストリート・キングダム』を復刊する話を突然もらってね。それ以降、『DRIVE TO 2010』をやりましょうとサエキ(けんぞう)君に提案されたり、ディスクユニオンからテレグラフの再発をしたいと申し出があったり、『EATER』の総集編を出したいとリクエストをもらったり……元にいた場所へなぜか引き戻されてしまった。『DRIVE TO 2100』の後に体調を崩して体力がだいぶなくなってしまったので、のんびりと余生を暮らそうと思っていたら今度は映画の話が舞い込んで。面白いものだね。

新宿ロフトで行なわれる『DRIVE FROM 80s』は“DRIVE”シリーズの集大成

──今回の『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』という映画、『ストリート・キングダム〈最終版〉』という著作は、地引さんにとって人生の総決算と言えますね。

地引 『ストリート・キングダム〈最終版〉』のあとがきにも書いたけど、70年代末期から動いてきたわれわれのインディーズ・シーンの物語がいよいよ大団円を迎える時が来たんだなという思いが強い。この先は次の世代の人たち、あるいは世代の近い別の人たちが新しい物語を作っていくんだろうなと思う。それだからこそ、僕らの過ごしてきた一つの時代の物語をしっかりと残しておきたかった。この歳になると映画の反響がどうとかはあまり考えなくて、自分たちのやってきたことを如何に残すか、どう伝えていくかを真剣に考える。時間は限られているからね。本当はやりたいことがまだあるんだよ。フリクションだけでなく、リザード単体の写真集も出したいし、noteに載せたミチロウのインタビューも一冊の本にまとめたい。昨今の価格高騰、物流費高騰で本を作るのも大変みたいだけど、その中でやれることを考えたいね。

──昨年リリースされたあけぼの印の38年ぶりの新作もテレグラフからでしたし、レーベル事業も完全にストップということではなさそうですけど。

地引 いや、レーベルはもうあれで最後。ただ、オートモッドの新作(『In The Wake Of KING AUTO-MOD』)が7月にディスクユニオンから出るんだけど、それは“TELEGRAPH II”というレーベルからのリリースなんだよ。ジュネから相談を受けていたし、ディスクユニオンの担当の人とも話をしていたんだけど、個別に話していたことが一つになったみたいで。僕は制作にはノータッチで、ディスクユニオンとしてはテレグラフの名前を継いでリリースしていきたいそうだけど、プロジェクトとして成立するかどうかまではわからない。

──テレグラフの最初のリリースもオートモッドの7インチでしたし、不思議な巡り合わせを感じます。自分の音を鳴らすこと、自分の踊り方で踊ることの大切さを伝えるという意味で、映画も原作本も、そして今度の『DRIVE FROM 80s』も、若い世代にぜひ触れていただきたいですね。

地引 そうだね。若い人たちに伝わらないと意味がない。あの時代を知る人たちが映画を見てもう一度元気になったり、生きるエネルギーを補うのも大切なことだけど、それ以上に若い世代の生き方に火をつけることが一番意味のあることだと思う。いろいろと大変な時代だとは思うけど、どんな時代でも困難なことは付いて回るわけだからさ。まあ、僕らの時代はお金の心配はあっても何とかなったからラッキーだったのかもしれない。その点で今の時代は物価高も止まらないしキツいよね。あと、昔は“ドロップアウト”という言葉が社会の規範から外れて新しい道を自分で切り拓くというポジティブな意味で使われていたけど、最近は落ちこぼれと同義語になってマイナスの意味で使われているでしょう? その点だけでも世の中が凄く変わった気がする。若者は既成の価値観や権威に反発するのが当たり前、自分だけの音や踊りがあって当たり前だったのに、今や何かを批判すること自体が良くないという風潮がある。でもそんな閉塞した時代に自分らしさを貫き通す、どれだけ自分だけの道を模索していけるか、そのヒントみたいなものが特にあの映画の中にはあるんじゃないかな。昨日、映画を見た若い男女がポッドキャストで『ストリート・キングダム』について話しているのを聴いたんだけど、90年代生まれだというその女の子が好きなバンドとしてガセネタを挙げていたんだよ(笑)。映画の波及効果がちゃんとあるんだなと思ったし、『ストリート・キングダム』が映画になった価値があるなと感じた。

──なかなか引退できませんね。映画の公開によって巻き込まれ事故がこの先もまだ続くでしょうし(笑)。

地引 映画のほうがようやく一段落したので、まずは『DRIVE FROM 80s』のアピールをしないとね。昔撮ったバンドの写真をSNSで出しながら情報発信に努めようと思っている。いずれにせよ今回が“DRIVE”シリーズの集大成になるはずなので、3日ともぜひ楽しんでもらえたら嬉しいね。

書籍『ストリート・キングダム〈最終版〉東京ロッカーズ80'sインディーズ・シーン』

著・写真:地引雄一
仕様:A5版・全360ページ(内、写真135ページ)
価格:3,600円+税
ISBN:978-4-909856-34-0
全国書店発売:2026年3月27日(金)
刊行:SLOGAN / indies press

【内容】
1970年代の終わり、ロンドンとニューヨークから始まったパンク/ニューウェイヴのムーヴメントは日本にも伝わった。カメラマンの地引雄一は、東京のライブハウスでこのインディーズカルチャーが生まれる瞬間に立ち会って衝撃を受け、写真を撮るだけでなく『Drive to 80s』などのライブイベントを企画し、主宰する「テレグラフレコード」から新しい音楽を発信した。このインディーズ・シーンの中からは、リザード、フリクション、ミラーズ、S-KEN、Mr.カイト、NON BAND、スターリン、ゼルダ、じゃがたら等、後に伝説化されるバンドがいくつも登場した。書籍『ストリート・キングダム』は、そのシーンを体験した地引が著した唯一の記録本である。
2026年3月、本書『ストリート・キングダム』を原作とした、田口トモロヲ監督の映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』が公開。1986年初版『ストリート・キングダム 東京パンク/インディーズ・シーンの記録』(ミュージック・マガジン刊)、2008年改訂版『STREET KINGDOM 東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーン』(K&Bパブリッシャーズ刊)と更新され続けてきた本書が、この映画公開を機に写真を選び直し、新たな資料やテキストも加えた決定版の『ストリート・キングダム〈最終版〉東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーンの記録』としてSLOGAN / indies pressから刊行された。

SHINJUKU LOFT 50th ANNIVERSARY|DRIVE FROM 80s

【開催日程】
2026年4月30日(木)、5月6日(水・祝)、5月7日(木)※3DAYS

【会場】新宿LOFT
東京都新宿区歌舞伎町1-12-9 タテハナビルB2

【出演】
▼4月30日(木)OPEN 18:00 / START 18:30
《メインステージ》
ヒカシュー
ノンバンド
ホンノマジカナハル[ヒゴヒロシ(b, vo)、ラピス(gt, vo)、藤掛正隆(dr)]、ゲスト:ヤマジカズヒデ
戸川純[中原信雄(b)、矢壁アツノブ(dr)、山口慎一(synth)、ヤマジカズヒデ(gt)]
《サブステージ》
コンクリーツ
N13
kummy(ex.Boys-Boys)
たぬとわ

▼5月6日(水・祝)OPEN 15:30 / START 16:00
《メインステージ》
s-ken&BimBamBoom、ゲスト:町田康
オートモッド
突然段ボール
リザード・トリビュートバンド[宙也(vo)、Yukino(gt)、岡村静良(key)、岡本雅彦(b)、ナカムラキヨシ(dr)]
SHE TALKS SILENCE
《サブステージ》
「リンゴリラのサブステージ大作戦!」
リンゴリラ(ex.あけぼの印)、ゲスト:JON(犬)、シルエット近藤

▼5月7日(木)OPEN 18:00 / START 18:30
《メインステージ》
捏造と贋作
立花ハジメ+Hm
Here is Eden(秋山勝彦+泉水敏郎)
LUVHOTELS
《サブステージ》
AOIZO

DJ(全日出演)
高木完

【チケット】
1日券 前売5,500円 / 当日6,000円(共にドリンク代別)
3日間通し券 15,000円もあり
[発売]3月21日(土)12:00よりイープラスでチケット発売開始
▼3日通し券
https://eplus.jp/sf/detail/4501530001-P0030001
▼4月30日 1日券
https://eplus.jp/sf/detail/4501540001-P0030001
▼5月6日 1日券
https://eplus.jp/sf/detail/4501550001-P0030001
▼5月7日 1日券
https://eplus.jp/sf/detail/4501560001-P0030001

【主催】
新宿LOFT

【企画プロデュース】
地引雄一
高木完

【メインビジュアル】
河村康輔

▼地引雄一オフィシャルXアカウント
https://x.com/teleeater

▼『DRIVE FROM 80s』特設サイト
https://www.loft-prj.co.jp/drivefrom80s/

▼新宿ロフト50周年記念オフィシャルXアカウント
https://x.com/loft_50th

INTERVIEW LIST
LOFT
TADANORI YOKOO