復活22回目

旅人の唄を聞いてくれ! その2

 このくそ暑い夏、なんと図書館通いをしている私がいた。し〜んと静まり返った室内、真夏のセミの声だけがあった。受験生の溜息にまじりながら私は「カンボジャ」の歴史を調べている。
 この摩訶不思議な国を訪ねてから約一ヶ月がたった。なんとも私にとっては理解不能な国なのだ。 普通どこの国を訪ねても、それはどこかに「影の部分」はあっても、やはりその国の人々の意気やたくましさという、未来に向かう雰囲気というか「光の部分」が町全体を凌駕しているのだが、この国にはそれがないのだ。これ程「暗い国」を見たことがなかったのだ。その笑顔の消えた人々の表情は一昨年訪れた北朝鮮に似ていた。私はこのカンボジャにはまりこんでしまった。一体何故なんだろう?どうなっているんだこの国は?という疑問が重なっていった。首都プノンペンは全くの混沌とした無秩序な町だった。圧倒的多くの難民の集落、外国人にたかる物乞い、ナンバープレートのない車、バイクの群、ワイロしか興味のない役人。1975年ヴェトナム戦争はアメリカとその同盟国の敗北に終わり、76年そのどさくさの中で、ポルポト政権が誕生する。人口900万の内3割近くの人々が、なんの理由もなく無造作に都市を追い出され無抵抗に殺されていく。ポルポトの恐怖の大量住民虐殺の事実は重く私にのしかかってきた。人口100万都市のこの町が、ポルポトの一片の通達で無人になった。それも多くは都市商工業者、インテリ知識人、裕福層や元政府、軍人の家族が無抵抗で連行され、虐殺されていった。都市に住むこの人達をクメールルージュ(ポルポト派)は「新人民」と呼び、これらの人々は人間以下で何時殺されても良かった。そしてこれら「新人民」の存在は山村で農耕生活をしていたポルポト兵士のあこがれと憎悪の明確な対象となった。都市の裕福な子女達は自由におもちゃ同然にレイプされた後に殺されていく。金持ちの親たちは銃殺を逃れるために、手当たり次第いわれのない密告をし、自分の娘や妻をポルポトの幹部に差し出す。この時代9割は政府が割り当てた「強制結婚」だったという。新人民と農村の若者の結婚は新人民の生き延びるための唯一の方法だった。
どうしてこんな事が起きたのか?私の興味はつきない。「命令と服従」だけの暴力世界。そして人民は「上からの慈悲をひたすら期待する」それも「反抗は許されない」「相手が強い存在」だと全く抵抗しない。抵抗の最低限のありようの弁明一つしない。ひたすら許しを乞う。「とにかく強い者にはひたすら受動的なところがあって、人間の醜悪さの最も著しい国」(素顔のカンボジャ、渋井修著)真言宗の僧侶で現地で生活し大虐殺の犠牲者を供養している渋井さんの報告に愕然とした。やはり私は不思議なのだ。もしこれがヴェトナム人だったら命がけで抵抗したはずだ。ユダヤ人のように今だナチスの虐殺の犯罪人を追う気力もなく、多くは「もう済んでしまった事」と口が重くなり語ろうともしないのだそうだ。これは今も世界各地で起きている「民族対立や宗教対立」における虐殺とは全く違っていること。同じ国民同士の圧倒的な暴力支配だったのだ。200万以上の人々がなんの理由もなく、同国人に虐殺されて行く。そして今でもその実行者達は平気で都市生活を送っている国カンボジャ。それは今の日本と同じように過去の「戦争責任」が全く追求されずに「もう済んでしまった過去」として過去の過ちを葬り去ろうとしている日本人とどこかで似ていると思ってしまう。このポルポト政権も79年ヴェトナム軍によってタイ国境付近に追いやられてしまうのだが、これも外国勢力の力によってなのだが、このヴェトナムもほとほとカンボジャには弱ってしまうのだ。面倒見きれんという訳だ。全てが強い者まかせで、あとは強い者に「慈悲」をすがる。「自立」という思想が全くないのだと言う。私は今、この東南アジアバックパッカー体験記を恐れ多くも一冊の本にまとめるべく、毎日書き込んではインターネットの「おじさんとの語らい」に載せている。そしてこのページを多くの若い人達が読んでくれている。これは昨日私に来たメールなのだが、こんなメールが来ると「書いていて少しは良かった」と思ってしまう。

悠さん、こんにちは。**(女性)です。
>アメリカで黒人に公民権が認められたのはほんの30年前)>ケネディの時代だってことを理解していないと、島国に住んで、>惰眠をむさぼっている日本人には解らなくなってくると思うんだ。自分の無知を恥みながら書かせて頂きます。アメリカ黒人に公民権が認められたのがたったの30年前、つまりは私が産まれる直前だったとは、本当に驚きです。「公民権が認められていない」=「国民として扱われていない」はたまた「人間として扱われない」 という事になるんですよね。こんなの遠い遠い昔の話だと思っていました。30年前なんて、ついこの前の事じゃないですか。「ケネディの時代」とだけ言われても私には(「ケネディ」=聞いた事はある名前だから)また歴史の授業で聞いた、遠い昔の人の事かと思ったでしょう。。。〜その19より〜>200万人もの、それも多くは都市の商工業者、インテリ知識人、裕福層の人達が>「無抵抗」で都市を明け渡し(首都プノンペンは本当に誰もいなくなったそうだ、>人口100万の都市が、、)>75年、4月プノンペン全市民が無抵抗で連行され、大量に殺されに行った。この「75年」というのは、まさか1975年ではないですよね?1875年ですよね?「無抵抗で殺されに行った」・・・「無抵抗で」・「殺されに行った」っていうのが・・・>「命令と服従」だけの世界、そして「上からの慈悲をひたすら期待する」それも>「服従」しながら「反抗」は許されない。この「反抗は許されない」というのは「反抗をすると殺されるから」なのでしょうか?前回メールを出してから今日までの間、私は長い時間をかけて1冊の本を読んでいました。どうしても 〜その10〜 で出てきた>アウシュウイッツ(ナチの強制収容所ーここで200万以上の人が殺されたという)の一文が頭から離れず、理解できず、図書館へ行き、とりあえず「ナチ」という言葉の付く本を探しに行きました。が、図書館へ着くなり、私は困ってしまいました。何のコーナーを探せばいいのかがわからないのです。「宗教」「社会」「思想」「人物」・・・・あまりにも私が図書館にそぐわない風貌をしているのか、怪しい動きをしていたのか、図書館の職員の人が私にずっと付きまとう。。。だからと言って「すいません、“ナチ”っていう言葉の付いた本はどこですか?」とも聞く事もできず、とりあえず一番奥の端っこの壁際から探すことにした。(と言っても、一番端っこは「コンピューター」だったので、自信を持って飛ばしたが。。。)幸い四つ目か五つ目のコーナーで発見成功!その本は「白バラを生きる−ナチに抗った七人の生涯−」というタイトル。これ以上「ナチ」の文字が入った本を探す気力はなかった。手にこんな本を持つ自分に酔いながら愛車のチャリンコを汗を流し走らせ、家に辿り着いた。とりあえずシャワーを浴び、気分もサッパリさせたところで本を開いた。が、年号が、地名が、人名が・・・やはりどうも苦手である。しかし、このままでは消化不良のまま。何もわからないまんまで読むのをやめてしまうのは、これまた許せない。しかし、難し過ぎる・・・夜、またいつものようにネットに繋ぐ。悠さんのページを開く。読む。相変わらずわからない事、自分の知らない事が沢山出てくる。でも、それでも頭にあるのは「200万人が殺された・・」の一文であった。 ゆっくりと、ゆっくりと読み進めていった。そう、意味のわからない言葉が沢山出てくる。辞書も必要なのだ。通勤の電車の中でも読んでいた。勿論、辞書片手に。。。中盤までは読むのが苦痛に感じていたけれど、中盤以降になると、文体にも慣れてきたのか、どんどん読み進んでいった。そして、いくつかの言葉をノートに写した。 読み始めた頃、何度か「難しすぎる」と感じていた。すぐに眠くもなった。肩もこった。正直言って「もう読みたくない」と思った事もあった。でも、夜になり、悠さんの体験記を読むと、自分の無知さ加減に嫌気がさす。体験記を読むと、「これは何なんや?」「何の事なんや?」と、あらたな疑問が出てくる。そして必ず「200万人が・・・・」と、追って出てくる。「もうこうなれば悠さんに騙されたと思って読み進めるしかないな!」なんて、訳のわからぬ言い訳めいた思いに背中を押させ、「読み終えても面白くなかったんやったら悠さんのせいにしてしまおう!」なんて、勝手な逃げ道を作り、読み進めた。結局のところ、中盤以降になると、1時間の昼休みもオーバーさせて読んでいたり、電車で読んでいる時には途中で閉じるのが嫌になり、歩きながらでも読んでいたりしていた。昨日読み終えたその本、もう一度、嫌嫌読んでいた最初の方をもう一度読み直してみようと思っている。そして<Vol.20>に出てくる「戦争商人」の言葉・・・ゾクッとしました。ゾクッとしたのはやはり、戦争が商売として成り立つということが理解できたからです。今まで私は歴史や文化、海外といったものに、なんの興味もありませんでした。海外にも行きたいと思った事はありませんでした。でも、今は違いますね。初めてこういうものを知りたいと思いました。アウシュウイッツ・・・この目で見てみたい。いや、「見なきゃいけない」のかもしれない。

ありがとうKさん。このメールだけでも又書く勇気が出てきます。

          ロフトプラスワン 席亭 平野悠

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