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| 何書いてもいいと思っているこのコラム。いざ何か書こうと思ってもなかなか出てこない。考えてみれば実にむずかしい。そんなコラムをもう4年も続けている。このルーフトップも発行部数は飛躍的に伸びて、2万部、しかもフリーペーパーでだ。そんじょそこらの雑誌よりも読まれているのだ。それだけ多くの人に読まれているとなると、以前(4年前は5千部だった)の様に余り無責任に書くわけにいかない。すぐに反響がありいつもお客さんとふれ合っている私は、この記事についていろいろ抗議を受けたりする。 ふっと春一番の風に誘われて、なにか「感動」出来るものに出会ってみたかった。それは毎日のように、プラスワンで魑魅魍魎な世界と対峙している私としては、右翼も左翼、スケベ、鬼畜、ヤク中、そしてオタク等々の世界、それは実にスリリングで、危険きわまりなく面 白いのだが、、、もうどこかでげんなりなのだ。無理矢理でもいいからなにか高尚なもので感動してみたかった。幸いリストラ状態の現在の私には時間があった。少々のお金もあった。それでいろいろ考えてみた。 「俺ももう50歳の半ばになってしまったし、いつ死んでもおかしくない年になった。ましてろくな生活をしてはいない。何か心残りはないか?」と思っていた矢先に、エッセイストの山口路子さん(絵画が専門)とお茶を飲む機会があって、それ以後、彼女のホームページを覗く様になった。 「あ! やばい! 俺はゲルニカをまだ見ていない!」と彼女のホームページに向かいながらなぜか思った。「今この俺を感動させられるのはピカソのゲルニカしかない!」と瞬間的に思った。そんなことをまじで思い空想に浸る自分が心地よかった。 過去20年前私は世界中を放浪(パッカーの旅5年、そしてあとの5年はドミニカ共和国に定住)していた。アフリカの1年にも及ぶ過酷な旅を終え、アルジェリアから船でマルセイユーパリまで来て、後は日本に帰るだけのある日、長旅の疲れからマラリアが再発しそうな気配だった。日本に帰る一日前、私はパリの印象派美術館(現在はオルセー美術館)でゴーガン(ゴーギャン)と出会った。それまでの私は「絵画とは結局は私には理解不能なもの」という意識が強く、外国での観光定番の美術館めぐりは滅多にしたことがなかった。運命的に出会ったのはゴーガンの『白い馬』であった。生まれて始めて、その絵の前に立ち尽くし、感動のあまり動けないでいる自分がいた。なぜあれ程まで感動出来たのか? 今にしても分からない。この時私はほとんどの画家の名前すら知らなかった。それ以後私は「印象派」を中心に世界中の美術館めぐりをそれは熱狂的にした。ゴーガンの絵が一枚でも置いてあると聞けばそこまで行く苦労を厭わなかった。それ程「印象派」にはまっていたといえる。しかし、なぜかピカソのゲルニカだけは運命的に出会える事はなかった。 さて、「自己の終末まで時間がない!」と思っている私は、以前のプノンペン(興味ある人は、私の単行本『旅人の唄を聞いてくれ』を参照のこと)にはまっていたと同じくらい、瞬間的にスペインまでのチケットを買っていた。ただ、『ゲルニカ』を見るために。 スペインは2度目の訪問だった。私が過去訪れたスペインはまだあの悪夢のファシスト、フランコが独裁政権をひいていた。だから当然ゲルニカはスペインにはなかった訳だ。もう一つの私の興味は、過去ドミニカであれほど勉強したスペイン語をどれほど覚えているか? という興味はあったが、10年以上全く使ったことがないスペイン語はみるも無惨に通 じることがなかった。 『ゲルニカ』はマドリードのプラド美術館のすぐそばのソフィア王妃国立美術センターに、それは物々しく警戒が引かれた中にあった。3、5×8メートルの巨大なモノトーン、キュービズムの独特な技法は、私を圧倒させた。この巨大な絵の前に数時間立ち尽くした。 2日目の出会いで私はやっとピカソの思想性(制作意図)を感じとれることが出来た気になった。 1937年スペインにはアナーキストを中心とする「人民内閣」が成立しようとしていた。世界中の若き芸術家達は迫り来るヒットラーの恫喝に反対し、人民内閣を支持し義勇軍として世界中から駆けつけた。ピカソもへミングウエイ、ジョージオウエル、イブモンタンもそうだ。イギリス、フランス、アメリカはヒットラーを恐れて何もしない。人民内閣の中心があの素敵なアナーキストだったからだ。ソ連スターリン共産党の裏切りにも合い、この世界でも始めての人民の試みは重装備のファシスト軍に敗れていく。 この『ゲルニカ』はスペインはバスク地方の全く戦略的価値のない名も知れぬ 小さな町を、ドイツファシストが猛爆をし、多くの市民が死んだ。これに抗議したピカソはゲルニカを制作する。 「これをお前が描いたのか?」とのヒットラーの質問にピカソは「そう、お前達が描かせたんだ!」と答えたという。ピカソはこの作品の中に普遍的なドラマを描いた。「スペインの戦争は人民と自由に対する戦争だ。私の全芸術的生涯はただ芸術の死と反動に対する戦いのみであった。」とピカソはさらに続ける。「他人に無関心でいられようか! 絵画は家を飾る為にあるのではない! これは敵に対する戦争の防御と攻撃の手段なのだ!」「私は怒るべき時に怒る大切な勇気が沸いてくるのだ」と言ったピカソは故国スペインからスイスに亡命。独裁者フランコのいるスペインには一度も帰ることがなかった。 耳をふさぎたくなる様な爆音、悲鳴、苦しみ助けを求める市民、思わず眼を塞ぎたくなる様な迫力だ。この10日間の旅の中で、それはバルセロナ、ニース、パリで美術館めぐりを堪能したわけだったが、ゴヤ、シャガール、ルーベンス、マネ、モネ、ゴッホ、ゴーガン、を見ても、やはりこの『ゲルニカ』には勝っていないな〜という意識が私の脳裏から離れることはなかった。 帰りの飛行機の中で、もう、長いこと日本のロックから「感動」を味わっていない私は、「日本に帰ったら、ちゃんとロックを聴いてみよう! そして、ロッカー達と感動を味わいたい!」という何故か殊勝な変な意識をもってヨーロッパを後にした。 プラスワン席亭・平野 悠 |
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