ROOF TOP2004年2月号掲載
復活第70回
「さすが・・・と言われる豊富な知識と経験こそ我が生きる道・・・」

▲大久保ガード下。ただ寂しく布団の抜け殻の前で。この50メートル先に我がロフトの事務所がある。

 世の中が何かしらどんどん悪くなっていっているようにしか思えない
 東京では〈共同体〉が崩壊して、余計なお世話かもしれないが街行く若者たちも中年族も、何か社会全体が元気のないように見える。  新宿の街にホームレスの数がまた圧倒的に増えたという感じがしていた。百人町にあるロフトの事務所に行く途中の大久保のガード下に、いつも病気がちに寝ているホームレスのおじいさんがいる。私はいつものように200円を渡そうと思って探したのだがその姿はなく、主のいない冷たく湿った布団が折り目正しく並べてあるだけだった。
 私を見ると、無精ひげの精一杯の笑顔で「いつもホントありがとうございます」と言い、私は「駄 目だよ、こんなところでへたばったら、負けたらあかん…」って言って、あの前歯が全くないおじいさんの笑顔を背にして事務所へと向かう毎日だった。
 しかし、そのおじいさんが急にいなくなった。ポケットに200円を握りしめ、私は毎日ガード付近を探すのだが、年末から年が明けてもその姿を見ることはなくなった。通 りがかりにその湿った汚い布団を見るたびに私はそのおじいさんの笑顔を思い出し、なぜか理由もないのに悲しみがこみ上げて来ていた。またも“私はこの老人すら助けることができない存在”といった無力感が自分を支配した。
 もう5年も前に私は新宿で同じ体験をしていた。あの時は少々焦っていたのかもしれない。新宿大ガード下に小さな座布団を引いてちょこんとお人形さんみたいに座っている“正当派乞食”のおばあさんと私は仲良くなった。かの新宿でも、いわゆる“正当派乞食”の存在は私を熱狂させるくらい異色だった。この新宿にホームレスの人たちはたくさんいたが、いわゆる正座している前にかわいい小銭入れのコップを置く乞食は皆無だったのだ。
 もちろん小銭をあげる通行人の私と乞食を生業としているおばあさんといった関係でしかなかったが、その年の冬、その正当派乞食のおばあさんが突然失踪した。  新宿中を探し回り、辺りのホームレスの人たちにもそのおばあさんの行方を訊いたが、「多分、相当の病気になって救急車で運ばれたんだよ」という話しか返ってこなくて、私はおばあさんを捜しあぐねて新宿区役所の厚生課まで乗り込む羽目になった。
「あのいつも大ガードで乞食をやっていたおばあさんを捜しているんですが、どこにいるかわかりませんか?」という私の詰問に、「新宿には何千人というホームレスの人たちがいるんです。毎晩何十人ものホームレスの人が病院に運ばれてきます。ですから、ただ“大ガードにいた乞食のおばあさん”だけでは何とも探しようがありません」と冷たく断られた。
「あなただってあの大ガードをよく通るはずです。そんな乞食の人の存在も知らないんですか?」と、私の怒りはこの気のいい課員に当たるしかなかった。「平野さんでしたね。冬になると毎週4〜5人は寒さでホームレスの人が年寄りから順番のように死んでいるんですよ。もうここまで来てしまっては、とても私たち区のほうではどうしようもできないのが現実なんです」って言われて、黙るより仕方がなかった。
 それにしても、あのおじいさんの笑顔に会えないのは何とも寂しいものだ。1月のごく寒いコンクリート・ジャングルから吹き抜けてくる、メタンガスの匂いのする強い風を感じながらしばらく座り込んでしまう私がいた。

▲反武富士デモ(12月19日昼、ムキンポ写 真掲示板より盗作)。わたしゃ、武富士から高利の金を借りたことはないけど、周りの若い連中がみんなヒーヒー泣いている(大手銀行のほうがまだ悪いが)ので、デモおたくのわたしゃ、渡世の義理(今井亮一さんと寺沢 有さん)で行ってきた。結構面白かったよ。

一億総中流はまさに権力の陰謀であり幻想だった
 アジア諸国の反感を浴びながら、小泉がアメリカに忠誠を誓いに靖国神社へ行ったかどうか知らないが、その元日「これで本当にいいのかな〜」と他人事のように思いながら、人通 りの少なくなった商店街を歩いていた。
 70年代の“政治の季節”に青春を謳歌した自分…毎晩大学に泊まり込んで「大学解体だ! 革命だ!」なんて訳のわからんことに熱狂していた時代と、今、この場面! そう、京王線下高井戸駅前のコンビニで正月早々の夜食を買い求め、孤独に肩を落とし、うつむき加減に歩いている若者を「俺たちの青春時代ってあんなに暗かったかな〜」と不思議な感じで見ていた。  とにかく私の周りは新聞すら読まない若者だらけなのだ。風呂屋で知り合った大学生が「イラク戦争? アメリカに味方したほうが日本は得なんでしょ?」という答えが返ってきた時に、私は何も言うべき言葉を持ち得なかった。今回のイラク戦争での何十万人もの難民や飢餓、劣化ウラン弾の爆撃による一般 住民の被害者のことなんかまるっきり眼中にないといった答えに思えた。いや、それよりも「戦争は悪、戦争をやって儲ける奴らがいる。戦争での犠牲者はそのほとんどが非戦闘員なのだ」という認識は今の若い世代にあるのだろうか? と思った。そんななか、ふと私は「これからの日本はどうなるんだろうか?」とまたしても他人事のように思った。
 経済評論家の森永卓郎氏によると、3年後の日本は約1%の上流階級(年収3億円)に6割の使い捨て層(年収300万円)、残りの潜在失業者の4割はパート、派遣社員(年収100万円)なんだそうだ。企業にとってはごく一部の優秀な社員がいれば後は頭数だけ揃えればいいのであって、そのエリートはせいぜい全体の1%で充分なのだ(『ダカーポ』12月号より)。
 夫だけの収入で4人の家族が生活でき、マイホームを建てられて子供2人を大学へ進学させられる──そんな、いわゆる日本人総中流時代はすでに成り立たなくなっているのだそうだ。日本の惨状を一番表しているのは、1年間の自殺者が4万人に迫る勢いという事実だ。こんな国は他に世界にない。
 薄暗闇のなかにぽつんと消えてゆく若者の情景を横目で見ながら、私は思った。“政治には無関心”で、“選挙にも行かず”、この数十年“何もしてこなかった世代”は確実に今“歴史に復讐されている”と言わざるを得ないのだ。まさに何もしてこなかったツケがこの30年の現実だとすると、見事にそれにふさわしい現実の日本がここにあるように見える。

これでいいのか2004年…
 この正月、複数の知り合いのおばさんからもらった年賀状に「悠さん、もう黙ってはいられない。今度反戦デモがあったら是非誘ってほしい」という文面 があった(ちなみに私は年賀状をこの30年一度も出していない)。「う〜ん、市井にどっぷり浸かっちまったおばさんたちは何て思考が遅いんだ!」って思った。「わたしゃ、もう反戦デモに参加することの意味を導き出せなくなっているんだ!」という返事を出そうかと思ったのだが、「果 たしてそれでいいのだろか?」とふと疑問に思った。
“反戦への願い”“反グローバリズム”を実現する戦いは今始まったばかりなのかもしれない、と思った。

ついに「還暦=60歳」を迎える年になった
 わが息子(34歳)が出来ちゃった“結婚”をするらしい。とするとこの年、栄えある“還暦”を迎えるに当たって私は“おじいちゃん”になるのだ。
 私の周りの多くの同年代の連中は“還暦”や“おじいちゃん”と呼ばれることを極度に嫌っていて、「もし、孫が生まれても絶対“おじじ”とは言わせないし、還暦祝いなどするものか!」といわゆる“老人扱い”されるのを嫌って空につばして息巻いている。私は私で、60歳にならん今をそれなりに厳粛に迎えようと思っているのだ。あの日本人最年長現役レスラー、ラッシャー木村が還暦試合をやったように、私も断固「赤いちゃんちゃんこも三角頭巾もかぶって盛大なお祝いをしてやろうではないの…」って思っているのだが、さて一体誰がこのクソ親父の還暦を面 白がって祝ってくれるのだろうか(笑)。
「人は生まれてより、死ぬる日に向かって歩み始める」という言葉が切実な事実となって私に襲いかかって来る。新聞の死亡欄あたりを見ていると、60歳代ではもうどんどん死んでいるし、私の周りも時折「誰々が死んだ」という連絡が入るようになった。「もう若くはない、すなわちいつ死んでもおかしくない年代に入った」と実感するということは、何か甘酸っぱい死への誘惑と居直りがあって、す〜っと無限の宇宙に吸い寄せられるような感覚に襲われる。
 さて、では還暦を迎える今年、私はどういうスタンスで生きようとするのか? という課題を正月から風邪引きのなかつらつら考えるに、「還暦を威張る」にはこれまでの豊かな経験と知恵における“さすが”的な存在になるしかないと思った。

さすが…の豊富な経験(?)は 年とともに役に立たなかった
 昨年の師走、最後の忘年会=カラオケが終わって、まさにぐでんぐでんに酔っぱらって、よせばいいのに深夜の甲州街道を一路自宅に向かってひたすら愚直に自転車をこいだ。「今夜は冷えるな〜」と身をちぢこませながら、何度も自転車を捨ててタクシーに乗ろうかと思ったが、断固自転車で自宅まで45分の道のりを向かう。途中、寒さで体がゾクゾクし、体の関節が痛み始めた。多分熱もあり、酔っぱらっているせいもあって、何か空中にいるような浮揚を感じながらチャリンコをこぐ。
 帰り道のラストのきつい坂を何とか乗り切って、疲れて「もう自転車をこげない!」と思った瞬間、空を見上げると月光に照らし出された我が家がそこにあった。やっとこさ自室に戻り、我が家にある風邪薬を飲んでそのまま頭がぐるぐる回りながら何とか寝入った。
 次の日、28日の夕刻はどうしてもはずせない用があって新宿に出た。みんなが酒を飲んでいるのを尻目に、私は悪寒が走り早々みんなとはおさらばしてタクシーに乗って自宅に帰り体温を測ったら、39.4分の熱があった。完全に風邪をこじらせたらしい。何ともこれだけの熱が出たのは、その昔バックパッカーをやって世界を放浪していた時にエチオピアで罹ったマラリア以来だ。
 そして“悪夢”は2004年1月、再び私を襲撃した。1月8日、年末から寝込んでいた風邪の具合もだいぶよくなって、それほど用もないのに運動がてら自転車に乗って会社に行った。夜7時30分からミラノ座でトム・クルーズ、渡辺 謙の『ラスト・サムライ』を一人見て、夜中の11時過ぎに自宅へ帰るためいつものようにただひたすら自転車をこいだ。
 甲州街道(国道20号)の環七を過ぎた代田橋付近で“銭湯”の小さな看板が目に入った。何かとても楽しそうな銭湯に見えた。
「へェ〜こんな所に銭湯があるなんて知らなかったな。何? 露天風呂、塩もみサウナ、ジェットバスに打たせ湯、薬風呂とな?」というわけで…もちろん病み上がりでの風呂は危険だとは知っていたが、大の銭湯好きの私は思わず暖簾をくぐっていた。
 そこはホント天井も低く、由緒ある銭湯では絶対に必要な“富士山のペンキ絵”すらなく、いわゆる伝統も文化も忘れた機能だけの悲しい銭湯だったが、とにかく風呂帰りの行程…排気ガス、異常乾燥と関東特有の空っ風、深夜の寒さ等々…の悪条件を考えて、ゆっくり、充分に暖まって出たつもりだった。
 それから20分。自転車をこいで家に帰ると最悪なことにまた高熱が出て、今度も1週間以上寝込むことになった。子供から「ばっかじゃないの?」と言われた。
 昨年の末からついに3回も医者に行く羽目になったけど、微熱の続くなかで、桜の咲く季節がもうすぐに迫っていること、昨年春爛漫の“感動”をまた体験できると思うだけで何か病気を克服しようといった希望が出てきていた。

ロフトプラスワン席亭 平野 悠
●おじさんHPはこちら www.loft-prj.co.jp/OJISAN/

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