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私はこの2年間、“四国歩きお遍路の旅”や“厳冬の北海道”をはじめバイクやらあらゆる交通
手段を使って旅をしてきた。何度も書くことになるが、私の旅の基本的テーマは──
(1)あまりお金がかからないこと
(2)近いのに良く知らないところに行っていろいろな発見をすること
(3)いろいろな年代も含め、価値観の違う人との
コミュニケーションを持つこと
…以上を原則に旅人をやってきたつもりだ。1泊2食付きで6,000円以下の日本中のゲストハウス、とほ宿、ユースホステル、面
白宿やいろいろなテーマを持った宿屋等を渡り歩いてきた。そして“取材”と称して多くの宿屋のオーナーや泊まり客の若者ともいっぱいコミュニケーションを持った。
なかでも印象に残っているのは、日本全国各地の“旅人に優しいやる気のある宿主”の嘆き──つまり、「とにかく今の若者は旅をしなくなった」というものだった。
その昔、特に政治の季節であった70年代は「若い連中がたくさん一人旅をしていた」という話をいたるところで聞いた。
「なぜ、これ程までにユースホステルに客(特に若者)が来なくなったんですかね?」という私の質問に、「一つには、昔のユースの悪いイメージ(酒飲み禁止、門限やミーティングなどお客に課せられた義務が多かった)があってなんだろうけど、酒は飲めるしやかましい規則がなくなった今でも、『相部屋ですけど』って言うとガチャンと電話を切られてしまうんですよね」と皆言う。確かに相部屋って嫌なこともあるけど、面
白いことの方がたくさんあるということを今の若者は解っていないのかも知れない。
一人旅こそ旅する者の原点だ
旅をしていて言えることは、昼間は観光地巡りをしたとしても、夕食後は自分の部屋に一人閉じこもってぽつんとテレビを見て時間を過ごすより、見知らぬ
旅人同士、どこから来てどこへ行くなんてことをわいわい同じ部屋同士で話していた方が面
白いに決まっているということだ。
私が取材で訪れたほとんどの宿主はこよなく旅を愛する人たちで、その多くの宿が“団体客は歓迎するが一人旅は敬遠する”という風潮のなかで“若い時の一人旅は絶対必要なこと”であり、自分たち宿主も過去貧乏一人旅を数多く経験して、実に多くのことを学んだという。
それにしても、この四季折々の素晴らしい日本国内を旅する若者が少ないという事実に愕然とするのだ。なぜなんだろうか? 皆、航空運賃の安い外国に行ってしまうのだろうか? 日本の旅だって安い旅費で貴重な体験をしようと思えばいくらでもできるのに、と私は思うのだが……。
もう一つの旅の形=バックパッカーの旅とは?
バックパッカーとは、その言葉の通り「旅」に持ってゆく荷物をリュック(バックパック)に詰めて旅をする人のことを言う。いわゆるツアーなどに頼らず自由な旅をし、余計なお金を使わず安く旅をすることによってできるだけ現地の人々の普通
の生活を同時に体験するのだ。
ここに込められている意味は、なるべくタクシーや高級ホテルは使わず、団体旅行でもなく、お金がないから安宿に泊まるのではなく、現地でのさまざまなふれあいを通
してお金をかけた旅では見えて来ないものを発見することにあり、パッカーの旅とはお金をかけて“疲れを癒す”ことではなく、やはり一人旅が基本で、日常の生活空間では体験できない新しいことを見つけに「旅」をすることをいうのだと思う。
パッカーの旅の基本は、旅をするための航空券等の乗り物を自分で手配して現地に赴き、路線バス等を乗り継いで移動し、外国なら可能な限り陸路でボーダー(国境)を通
過し、宿も自分で探し生活費を切り詰めながら、あるいは気に入った土地があればしばらくはそこで働き資金を貯め、なるべく長く旅をする時間を楽しむことだ。
それを可能にするには自ずと身軽でなくてはならず、スーツケースではなく、両手が自由になるバックパック(リュック)を使うことになる。夏は北海道のニシンやシャケ工場で、冬は沖縄八重山のサトウキビ工場で働き資金を貯め、気に入った土地のユースやとほ宿でヘルパーとして働き、何年もの間日本中を旅している若者と私は旅の途中でたくさん出会った。
すなわちそこで私が確信したものは、「世界中を回っている旅人と同じようなバックパッカーが日本にも存在する」という嬉しい事実だった。
初冬のめくるめく愛の宿
ユースホステル東北紀行─2<福島〜仙台>
とにかく本格的な冬の到来の前に“東北地方”を制覇しなければならないと思っての出発だった。しかし私が福島へ向けて東京を出発できたのは11月も後半に入ってからだった。一路東北道を北に向かって疾走するのだが、周りの山々はもううっすらと雪化粧をしているなか、本州最北地点の下北半島へと向かった。
途中、私が泊まった東北のユースホステルはやる気充分の元気な宿が多いと見た。福島の<アトマユースゲストハウス>は終わりかけの紅葉の会津盆地が一望できる高台の上にあった。誰もが「レベルの高いユース」と絶賛する(2食付き5,250円)ご機嫌な宿だった。オーナーの平野俊一さんは凄い反射望遠鏡を持っていて、晴れた日にはお客と一緒に星を見るのが一番楽しみという素敵な宿主だった。ユースのすぐそばに高湯温泉という硫黄温泉があり、湯は卵色で共同浴場は250円という実に素晴らしい温泉を堪能できた。
次の日に泊まった、仙台市の一角にある<道中庵ユース>(2食付き4,800円)も仙台藩家老の屋敷を宿屋にしたという素晴らしい雰囲気のユースだった。とにかく初冬の下北半島を目指す今回の私は、ご機嫌な宿だからといって長くは逗留できない急ぎの旅なのだ。でもこの2軒のユースは当たりだ。
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| ▲遠野の曲がり家。馬が一番大切にされた時代の家で、人間と馬が同居し、馬は人間よりも日当たりや風通
しの良いところに住んでいたという。 |
『遠野物語』って知ってるかい?
仙台から東北道を一挙に青森まで行くつもりだったが、昨夜は八幡平付近で雪が降り、チェーンがないと通
れないというので、北上インターで北道とは別れて太平洋側に車を進め“遠野”というところに行く気になった。インターから1時間30分ぐらいで、何とはなしに遠野盆地に着いてしまった。そして何の期待もしていなかったこの遠野の醸し出す摩訶不思議さというか、幻想的な世界に私はすっかり魅了されてしまったのだ。
人口28,000。主要産業は農業、林業、放牧。人口密度は日本で3番目に低いところだという。だからこの盆地は広大で、大古は湖だったらしく、その水が溢れて北上川をこしらえたのだそうだ。典型的な昔からの農村だ。とにかく四方八方があまり高くはない緑の山々に囲まれている。今の季節だと周りの山はうっすらと雪をかぶっている山もある。どっちにしてもえらく寒い。
さて、この遠野について語るときどうしても柳田國男の不朽の名作『遠野物語』に触れない訳にはいかない。今から90年前(明治42年8月22日)、柳田國男は上野から東北線に乗って13時間かけて花巻に着き、そこから客馬車で遠野に着いた。若年・柳田國男、35歳。
それから10ヵ月後、日本民俗学最初でかつ不朽の名作『遠野物語』が出版される。
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▲河童淵。
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柳田國男は遠野で何を見たのか?
江戸時代、遠野は盛岡と並ぶ城下町だったそうだ。商業活動は盛岡より活発で、内陸部と沿岸部(太平洋)を結ぶ生活物資、交易品を運ぶ経済、交通
の要所であった。商人、山師、僧侶、山伏、旅芸人が交流し、各地に産物、信仰、伝承、民話、歌謡、舞踏などが伝わり、この地に根付いた。いわゆるこの地は日本最大の民俗学の宝庫だった訳だ。
柳田國男はここでの取材を通して民俗学者としての今の地位を築いた。この地の出身である佐々木喜善が、早稲田大学で柳田國男にこの地の不思議さ(?)を延々報告したのだそうだ。
私もこの遠野の発する“霊感”を強く感じてしまって、ここのユースに連泊した。いわゆるこの地は不思議な創造地なのだ。だから私は夢遊病者のように精力的にこの盆地の隅々まで歩き回った。
その昔話を今に伝える“語り部”も町では掘り起こしていて、何人もの“語り部おばさん”がいる。今日は「座敷わらし」と「神隠し」の“語り部ライブ”を聞いてきた。まぁ、いわゆる“語り部”は正確な方言でしゃべる訳で、私にはほとんどその意味が通
じず、物語の筋道をつかむのに苦労したが、何とか少しだけでも解った感じがした。少なくとも小難しい柳田國男の民俗学の本を読むよりは私に合っている。
その他、この地域には小さな観光名所がたくさんあって、“曲がり家”、“河童淵”、“コンセイサマ(男根信仰)”、“続石”(巨大な石が岩の上にあり、まるで誰かが置かなければ成立しないような感じ)、“水車小屋”等、何となく見過ごしてしまいそうな民俗学的貴重なものがたくさんあった。だから一日中飽きることはなかった。
人間より馬が大事だった時代の、かの有名な“曲がり家”がそのまんま保存され、今でも人間様と同居していた。ユースホステルのピアレンツの紺川さんが「この遠野をちゃんと見るには一週間近くかかりますよ」と言っていた。
うん、確かに説明書を片手に見回ると面白い。村々を歩くだけで1,200年前の奈良時代(?)の農村の姿を垣間見ることができた。ユースで一緒になった高校の日本史の先生の説明を聞きながら、汗をかきかき緑のなか、終わった紅葉の落ち葉を踏みながら見て回った。
たった2日間で「遠野を見た」とは言えないな〜という何か引きずるような心残りを感じながら、私はこれから一路太平洋沿いを走り抜け、下北方面
へと旅をさらに続けようと思っていた。だから、自動車部品屋に行ってタイヤチェーンを買って出発しようとしたが、「自動車の運転が下手」だと自負する私に皆から激しく止められた。
今日は朝から激しい雨。これがもし雪だったら……と思ったらぞ〜っとした。だから下北方面
に行くのは諦めて、遠野から太平洋沿いを走り、松島方面に逆戻るしか方法はないと思った。激しいみぞれの北上川を下り、石巻市に出た。
途中、雨と霧に霞む山々、雄大な北上川の流れに出会って、ふむ、なんて素敵なんだと思った。この風景を見ただけで私はこの川のファンになってしまった。しばし四国の四万十川や中国の桂林のとんがった山々を連想した。
私にとっては“遠野”も旅のなかの偶然だったし、雨と霧に霞む北上川上流も、思わず車を止め雨のなかを座り込んでしまうほどの何とも美しすぎる日本の景色だった。これだから“行く当てのない流浪〈さすら〉い人”の旅はやめられないと実感した。
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| ▲コンセイサマ(金精様)は縁結び・子授け・安産などの神とされ、生殖器崇拝の寓話と考えられている。右の写
真も男根の性神様。 |
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| ▲続石。この巨大な石は左の石には全くかかっておらず、なんとも不思議で、一体誰がここに置いたのだろうか? |
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