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■■■■■■ 孤立無援のめくるめく愛のお遍路紀行─3
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| 足摺岬 この岬から多くの修行僧が極楽浄土を夢見て二度と帰ることのない船出をした |
「お遍路界のカリスマ・田中幸月さん(80歳)の逮捕」
7月5日、歩きお遍路界のカリスマ・田中幸月さん(80歳)が13年前の神戸での殺傷事件で逮捕されたとの報道は、我らお遍路族に何とも大きなショックを与えた。
心の傷を抱いて四国88ヵ所を巡る人。亡き人の供養のための巡礼。リストラや退職でもう一度自己を見つめ直そうという人。病気回復を願って歩く者。遍路の姿は色々あり、私も多くの曰く持ちの人と出会った。その中でも、6年間“生きてゆくから歩くんだ”をモットーに、これまで四国88ヵ所の札所を歩き通
し、28回の満願を達成した猛者の幸月さん(その間、お接待へのお礼に2000冊の自作俳句集を手書きして渡した俳句詠みでもある)の逮捕は、ただただ私を悲しくさせ、この世の不条理を嘆いた。とにかく歩きお遍路さんは、大抵何かの“曰く”を持っていると実感した。
6月12日(木)「お接待の意味を知る」
高知は広く、山道が多い。田舎のお遍路道を歩いていると「お遍路さん、お茶を飲んでいきなさらんか」という声が至る所からたくさんかかる。私の腹の中はその季節最後だというビワで一杯だ。断るわけもいかずありがたく頂戴するが、捨てる訳にもいかない。
もう1200年も昔、四国を回る修行僧がある農家に「水を一杯たもれ」とお願いしたところ、「乞食遍路にやる水はない!」と言われた。それを聞いたお大師さん(弘法大師空海)がひどく悲しんで金剛棒を「えい!」と一振りすると、その農家の一帯は水が全く出なくなったそうだ。そんな伝説から四国地方ではお接待の風習が始まったという。
その昔、修行僧はお接待なしに一人で歩くことは出来なかった。修行僧の命を支えたのは“乞食”だ。乞食は与えられて、与える人がいて初めて成立する。
6月14日(土)「“感謝の心を持って人に優しくありたい”と何の因果
か思った」
3日かけてただひたすら海岸線を歩いて足摺岬に着いた。38番札所「金剛副寺」のお寺の宿坊に泊まった。精進料理2食で一泊6000円。お寺の宿坊に宿をとるということは、早朝(朝5時から)のお勤めが泊まり客の基本的義務となる。この足摺岬でその昔、多くのお遍路さんが死を急いだ。それ以降、ここは自殺の名所と言われるようになった。かつてこの海岸から小さな船で帰れぬ
ことを知りつつ、多くの修行僧は海の向こうにある「観音菩薩浄土」を夢見て船出していったそうだ。岸に残った弟子達は足ずりをして悲しんだ。昔は人家もないし、お遍路するには大変だったという。いわゆるお遍路さんの白装束は死装束で、金剛棒は墓標だったのだ。
私はその名もなき修行僧の人達に敬意を持つためにも、足摺の遠くの海に向かって般
若心経を唱えた。お勤めは本堂で寺の全僧侶が出席して始まる。我々宿泊客も膝をそろえて座る。一緒に般
若心経を唱え、その時ふっと私は「一体何をお祈りしようか?」って初めての迷いが出た。「う〜ん、今まではただ般
若心経をがむしゃらに唱えてきたけど…そうか、私はみんなのように現世利益はあまり興味ないし、お金もあまり欲しいと思ったこともない、家内安全もさりとて興味がない、さて何を祈ろう?」
一瞬迷ってしまった。そして「人に感謝する心、他者に対してとにかく優しくありたい」という単純で誰にでも持つことが出来、多分一番難しいだろうことを一心にお祈りするしかないと思った。
多分この苦しい旅の中で自分の心が洗われ、それだけピュアになっているんだろう自分の存在が何とも嬉しかった。ひとしきりのお経の朗読が終わり、中年坊主の“お説教”が30分ほど続く。お説教の内容は、キリスト教の牧師のお説教と変わりなく、今日のテーマは「みんなに迷惑にならないようにぽっくり逝こう」というものであった(笑)。
6月16日(月)「やはり追い抜かれるのは悔しい、じじい同士思わず競争になる(笑)」
もう太平洋を過ぎて瀬戸内海に入った。88ヵ所のうち、寺数としてはまだ半分も行っていない。道のりは厳しい。今日は高知県とはおさらばして愛媛県に入る道のりだ。
今日は足の調子がいい。雨の中だったが、一日中山深い緩やかな傾斜の続く緑の渓流を気持ちよく歩く。もう20キロも歩いているが辛くはない、不思議と足は軽やかだ。
そんな時、私を抜こうとする、前傾姿勢でただがむしゃらに歩いている頑固じじいがいた。彼(岡部さん=鉄骨屋)とは色々なところで出会い、いつも私は抜かれていた。
泊まる場所は大抵同じ地域なので、また一緒になり宿でも共に何回か食事をした仲だが、私はその岡部さんを抜きにかかった。必死で私につこうとする岡部さん。だが今日だけは負けたくなかった。私にも意地がある。
私はまるで競歩のように全力で歩いた。彼を引き離しにかかった。なぜか今日は疲れなかった。だが、どんなに頑張ってもなかなかその距離は広がらない。私は最後の手段として、曲がり角で彼から私の姿が見えない時にザックを背負って必死に駈けた。全速力で。さすが曲がり角ごとに走るものだから、その差はドンドン開き、ついには彼は私を追うことを諦めて休憩に入った。
私の完勝である。それ以降、彼の姿は見ていない。潰れたのだろうか? 気にかかる。
6月22日(日)「おらが村の英雄大江健三郎饅頭を作れば良いのに(笑)」
朝から雨の中、今日はつらい一日だった。愛媛に入ってから雨ばかりだ。朝、屋根を打つ雨の音に目が覚める。こんな時の朝が一番嫌いだ。「うぇ〜今日も雨かいな…」ってめげめげの朝になる。朝6時に「お客さん、食事の用意が出来ました」という宿屋の女将の声でいつもやむなく寝床からはい上がる。朝飯は海苔と卵とみそ汁、蕗の煮付けがお決まりの精進料理(?)だ。味気のない朝飯を食べ終え、素足にテーピング、防水靴下、若干の柔軟体操をして気合いを入れて、雨の降りしきる外にカッパを着て出る。
内子町から山深い川を遡ってゆくと街道沿いの小さな集落があり、そこに大江健三郎(ノーベル賞作家)さんの生まれ故郷はあった。渓流の心地よい音を聞きながら橋のたもとで休み、地元民と雑談した。
「ここはご存じだと思うけどノーベル賞作家の…」と始まった。「ええ、知っていますよ。とっても静かないいところですね」と私。「働くところがないので、若者はほとんどいないんですよ。これだけ過疎になってしまって、地元では何とか村おこしをしようと大江記念館とかを作る計画があるんですが、何ぶんにも予算がなくって、大江先生に寄付をお願いしているらしいのですが、返事がなくてね。ノーベル賞って1億円以上もらえるんでしょ? そのうち半分ぐらい寄付してもバチは当たらないのにね?」って同意を求められて苦笑した。大江先生もこれでは生まれ故郷にも帰れないな?
って思った。
6月24日(火)「四国に来ればホームレスさんも食いっぱぐれないで済む?」
行程は半分を過ぎ、だんだん終わりが見えてきた感じがする一日だった。今日は断固頑張って、「かの有名な松山の“道後温泉”にたどり着いて、そこで飲むビールはとてつもなく美味しいに違いない!」と意気込んで52000歩(35キロ)も歩いた。
途中49番札所「浄土寺」でついに伝説の“乞食お遍路”さんと出会う。一見彼を見た時、いわゆる托鉢している“修行僧”とは身なりも行儀も違っていた。どこで拾ったか金剛棒と袈裟と肩に掛けるバッグ、そして革靴(?)だけなのだ。「こりゃ〜面
白そうだ」と私も嬉しくなって彼に無理矢理近づいて、色々無礼な質問をした。
「一銭も持たないで、野宿とお接待だけで毎日しのいでいるんですか? 凄いですね」「いや、最悪の時の為に500円は肌身離さず持っているよ」「3食毎日食べることができます?」「いや〜四国は良いところだよ。托鉢に家々を回って、勝手口で『昨日から何も食べていないんです。ご飯粒でも良いですから一握り分けて下さい』って言うと大体は分けてくれて、良い時はお握りの下に2〜3000円入っている時があるんだ」「それは楽勝ですね」と私。「勿論、そう良いことばかりでもないがね。『今日は朝からご飯なんか炊いてないよ!』って怒鳴られて追い出される時もあるけど、ほとんどの家はお遍路さんに優しいよ」と好調にインタビューは始まった。しかし、「都会で腐った残飯を漁るより良いよね」と何とも失礼なつぶやきをしてしまって“しまった!”と思ったが、彼の表情が一瞬変わって黙り込んでしまった。
それでも更に質問を続けた。「…で、どこから流れて来たんですか?」「東京でホームレスやっていたんだけど、都会人は冷たくってね」「そうですよね、四国に来て一応お遍路の格好していれば、尊敬されて飢え死にすることもないですよね」「まぁ、あんた達お金持ちお遍路にはわしらの苦労は判らんよ」「お寺でどんなことを祈っているんですか?」「俺も過去ろくなことやっていないし、かみさんや子供にも愛想尽かされて、追い出された訳だから、もう一度やり直せるために回っているんだよ。うるさいな、あっちへいけ!」と、私の質問があまりに彼のプライドをズキズキ直撃するものだから、インタビューは一方的に打ち切られた。もし可能なら彼としばらくは一緒にいて、彼のしのぎを取材したかったのにすっかり嫌われてしまった(笑)。数時間後、そんな「乞食お遍路さんの苦悩を思って」私は、夏目漱石の『坊っちゃん』の舞台にもなった古い道後温泉の豊かな湯の中に身を沈めた。
6月25日(水)「愚直に歩くことの意味を考えた」
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| 一人愚直に孤高に歩く。菅笠と金剛棒、荒野を凌駕する |
今日はとにかく“歩くこと”の意味を考えさせられる一日だった。松山から今治に向かって、国道196号線のダンプが行き交う人影の全くない歩道をただただ歩き続ける。何の変哲もないアスファルトの細い歩道(名ばかりの)を歩き、30キロ以上歩いている最中に暑さで頭が朦朧としていたのか、足を滑らせて車道へ真っ逆さまに頭から落ちてしまった。ふっと気がついた時には、道路に転がっている自分があった。何とも自動車が来ていれば命も危なかった。
とにかく朝7時から歩き始めて、昼飯30分を除いてほとんど歩きっ放しなのだ。これが楽しい旅なはずがない。私が目指すのは最後の札所88番札所なのだ。その行程1220キロ、それは東京〜神戸間の往復の距離以上もある。7キロの荷物を背負い、私の足で1時間4キロ(6000歩)歩くのが限界だ。一日10時間歩くのはしんどい。勿論各札所のお寺は大抵山の上にある。平坦なコースは少ない。山あり谷ありの行程なのだ。ましてお遍路宿は自分の希望するところばかりにはない。とすると、一日30〜35キロ歩くのが限界となる。
40日間毎日歩かなければ終わりがない。歩くことの凄さを知った。“何でこんな旅をしているんだろうか?”と何度も思った。「寺から寺へ歩く時は山河に身をゆだね、心を空っぽにし、それぞれの風景に身を溶け込ませながら歩けば、超過密社会の日常にあって見えなかったものが見えてくるだろう」なんてセリフに酔いしれて、こんなしんどい思いをし、排気ガスにノドをやられ、アスファルトの道路を歩きながらダンプや大型バスに煽られる今があって、歩く危険まで含めて「これ…すなわち修行」なんて言えることではない!
とだんだん腹が立ってくる。そう言えば「お遍路って全部善意で成り立っていると思ったんですけど、ひどい金儲け主義のお寺やお遍路宿はたくさんありますよね」という問いに、番外の誰も人の来ないお寺の住職は私にコーヒーを勧めながら「それも修行と思って下さい」と明るく笑った。
6月26日(木)「野宿の出来ない修行者のお遍路修行は50万円かかる」
40キロ弱(58429歩)歩いた。58番札所「仙遊寺」はまた高い山の上にあった。
霧立ったお遍路道を抜け、もう一山越えなければならないと思って車道で休んでいると、自家用車が私の前に停まって「お遍路さん、大変でしょう。車乗りますか?」と言ってきた。「いや、修行ですから…」と断る。まさに善意の押し売りだ。これにやられて歩きをやめてしまったお遍路は多い。お遍路の歩きは大変だ。昔はどんなに希望しても乗り物はなかったから諦めはつく。しかし前回の私の歩きの挫折は、面
白くもない国道を歩いていて一番疲れ、足があがらなくなって「何でこんな苦しいことしなければならないの?」って歩くことの意味を疑っていた時に“高知行きのバス”が丁度私の目の前に停まったのだ。そして私は“霊感が走り抜ける”ようにふわ〜っと背中を押されるごとくそのバスに乗ってしまった苦い経験がある。「くそ!
今度は誘惑には負けないぞ!」と緑の中で心新たにした。仙遊寺の山の上の宿坊から今にも沈み行く真っ赤な夕日を見ながら、精進料理の夕食を食べた。明日は朝5時からお勤めがある。
「歩くのはつらくって何度もやめようと思っているんですよ。よくみんなから『2ヵ月近くもお遍路やって、時間とお金がぎょうさんかかって随分贅沢ですね』って言われるけど、私なんぞ退職してしまった今、ごうつく女房と大喧嘩して50万ふんだくってやっとこの念願の旅に出られたんですよ。そんな簡単につらいからってやめて家に帰ること出来ませんよ。何しろ、『もうあんたの1年分の小遣いないよ!』ってかみさんに言われて出てきたんですからね!」と同宿のおやじが一人延々喋るのを聞きながら美しすぎる夕日を見、明日早朝の現世とは離れ過ぎるお勤めを思った。
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| 最後の難関 結願の88番札所の行く手に立ちはだかる緑深き山を越える |
6月28日(土)「ここまで来て離脱出来ない!」
昨日は雨の中60番札所「横峰寺」40キロを制覇した。だんだん無理を承知で歩く距離が長くなる。この寺の制覇(お遍路用語では“打つ”と言う)は、山の険しさでは88ヵ所のうちの第2の難所と言われるところだ。激しい雨の中、昼休みもとれず、歩きながら菓子パンと牛乳を腹に流し込む。約11時間雨の中イヤになるくらい歩いた。たくさん無理して歩いて、時間を縮めてどうしようと言うのだ。
このところ、早くこの苦しさから抜け出したい、早く終わりたい…と焦りすぎている。しかしとにかく歩かなければ終われない。終わりが見えている今、ここで尻は割れない!
6月29日(日)「感激! 感動! 初めての現金お接待に会う」
湯ノ谷温泉から新居浜に向かう朝の国道の、石鎚山駅近くで車椅子に乗った老婆から「お遍路さん、ご苦労さまです。これ少ないけど…」って言って200円頂いた。
「私もお参りしたいんだけど足が悪くって、私の分までお参りしてくんさい」って言われ、私の後ろ姿を見えなくなるまで拝んでいた老女を今日一日中忘れることが出来ないでいた。何か意味もなく朝から無気力にふてくされて歩いていた私は、何とも、感激の余り後から後から出る涙でぐしょぐしょになってしまった。とてもこの200円使えそうにないよ。解るかなー、この私の今の気持ち。勇気を貰ったあのお婆さんの為にも、明日も頑張ろうと思った。有難う、歩く勇気をくれた愛媛のおばあさん。感謝お接待は数々受けたが、現金を頂いたのは初めてだ。何か今日は一日ハッピーだった。
6月30日(月)「感情がマジに切れた!」
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| 出ました、伝説のハイヒールを履いたお遍路さん。こんなお遍路さんとは残念ながら一度も会うことはなかったな。 |
愛媛を抜け、一瞬だけ徳島県の池田に入る。相変わらずアスファルトの国道をただ下を向いて歩く。「一歩足を前に出さなければこの修行は終わらないんだ!
足を出せ! 平野!」って念仏のように唱えながら歩いていた。今度はどんなお寺に行くのかなんてまるっきり興味はなく、ただ「今度の寺、山の上にないように、階段が少ないように…」と祈りながら。「このまま頑張れば、あと一週間で結願出来そうだ」
それだけがこの愚直にただ歩くことの理由でしかないと思って。しかし今日は長いトンネル(880メートル)の中で、排気ガスとやたらに飛ばすダンプに思わず気が狂いそうになった。発狂に近い状態の中、長いトンネルをがむしゃらに大声を出してわめきながら、小さな出口に向かって危険な車道を全力で走っていた。
7月5日(土)「結願…88番『大窪寺』を打つ」
あれから数時間が夢のように過ぎ、結願の喜びもどこかに置き忘れたかのように、徳島から飛行機に乗って東京に向かう機中で「88番札所に行く時に出会ったあの摩訶不思議な女性はどうしただろう」ってず〜っと思っていた。もしかしたら私はせっかくの“運命”に逆らってしまったのかな?
って少しだけ残念に思ったりもした。
歩きお遍路の行動はいつも一人で孤独だ。だからいつの間にか哲学的になる。歩きお遍路の旅は一日中歩いて一人とも出会わない日もある。深い山の中で日が暮れかけて、携帯も通
じず道に迷い、一人を意識して絶叫しそうにもなった。一日中、長い大型トラックが疾走する国道で、白線一本の長い排気ガスが充満したトンネルの歩道を歩きながら切れそうになったりもした。
結願する最後の札所に向かう深い山の中で「念願の『大窪寺』に着いて、一人で感激にふけるのかな?」「何とも寂しいな。誰か共にこの結願の喜びを分かち合えたら最高なのにな?」って思いながら歩いていた。今日もただ一人で歩くのかな?
って覚悟していた。
雨模様の午前8時頃だった。きつい女体山を登って降りて、88番「大窪寺」に向かう深い山の中でこの歩き女お遍路さん“Y子”さんと出会った。何か、私のさっきの「寂しいな」っていう思いを見透かされたような、深い山の中でのまさに運命的な出会いだと思った。これこそ本当にお大師様が導いてくれたのかもとマジで思った。
一人歩き女性お遍路さんは少ない。深い渓谷のそばからイノシシが竹藪を徘徊する不気味な音が聞こえ、遍路道にはヘビがとぐろを巻いて怯えて動けないカエルを狙っていた。「イノシシは気が立っていると襲って来ることがあるらしいから気をつけて」なんて言いながら、彼女と一緒に励まし合いながら大窪寺に向かって歩いた。「結願してからどうするんですか?」と訊いてみた。「はい、まだよくは決めていないんですけど、やはり一番札所の『霊山寺』には行こうと思いまして…そうしないと私の気が済まないんです」と言った彼女は、何かとても重いものを持っているようにその全身から吹き出るような霊気が感じられた。「そうですか、私は……」と私はいつの間にか口ごもっていた。それは「このまま彼女と一緒しようかな?」という意識が働いていたのかもしれない。この最後の山登り「女体山」での2時間で、それ程私たちは打ち解けていた。
一緒に“結願の喜び”を分かち合いたいという気持ちは同じだったのかもしれない。88番「大窪寺」に着いてこの喜びを分かち合えるのはやはり2人しかいなかった。「大窪寺」の山門で2人で堅い握手をして抱き合い、記念撮影をし、一緒に讃岐うどんを食べた。
「私はこれから、ここから2時間ほど歩いた白鳥温泉に今夜は泊まって明日一番札所の『霊山寺』に向かいます。ご一緒出来ませんか?」と彼女が唐突に目を伏せながら他人事のように言った。「いや〜私はもう歩くのは御免です。一にも早くこの現場から去ることしか考えていません。だからすぐにもバスに乗って山を下ります」と言ってしまっていた。
話はこれで終わりだ。笠を取った彼女は坊主頭で、まるっきりのスッピンだった。彼女の年齢は38歳で大阪出身だということは何とか判ったが、携帯電話も持っていないという。この遍路旅をした曰くについては、何かとても重そうで訊くことが出来なかった。そして最後の最後、何とも奇妙な悔恨(?)を残しながら私の“お遍路紀行”は終わる。
ロフトプラスワン席亭・平野 悠 旅人日記が更新される
●おじさんのHPはこちら http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/
ロフトプラスワン席亭・平野 悠
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