|
■■■■■■ 「四国遍路ひとり歩き同行二人」に挑戦?
■■■■■■
同行二人一一四国遍路はお大師様<弘法大師空海>をお慕いして、その足跡をたどる旅であると同時にいつでもどこでもお大師様が一緒にいてくださると言う意味です
 |
| 一番札所「霊山寺」。弘法大師空海はここで初めての解脱をされたというありがたいお堂前。ここで私の霊感が走った。 |
何とも「この国民ありきのこの政治家あり・・・ニッポン」に嫌気がさしてしまったのだ。アメリカの大量
破壊人殺し兵器を使ったイラク侵略が電撃的に成功し、バグダッドが陥落すると、もう日本人の反戦機運などどこにもなく、日本人はあのアメリカの忠実なポチになりきり、それまでは「国連中心に」なんて何十年も言っていた政府は恥も外聞もなく国連決議なんか簡単に無視してアメリカの一方的戦争を「支持する」と明言し、さらには小泉首相の支持率までが上がると言った事態に、これまで私がやった事って一体なんだったのかをも含めてちょっと考えたいな〜って思って(ちょっと格好良すぎるか?)再び「日本のバイクでの旅を続行しよう」と思っていた矢先、プラスワンで大変世話になっているかの有名な右翼暗殺集団「護國團」の結成50周年の式典の招待状が届いた。
「こりゃ〜出席しなければまずいな・・・今度出席しなかったら殺されてしまうよな(笑)」と言うことで4月29日明治神宮に行ったよ。わたしゃ、護國團(井上日召が創設し血盟団事件を起こした)がどうのこうのより、この團を40年も率いて来た、人呼んで「犬・狼老(ローンウルフ)・・・石井一昌(78歳)」さんに、何とも興味というか人間的に惹かれてのつき合いでの出席だ。この親分は大げさでなくホント凄いんだよ。全国のヤクザと右翼諸組織に「ヤクザよ右翼から去れ! 右翼よヤクザと縁を切れ!」という何とも物騒な回状を回し、「この腐りきった日本を何とかしたい、その為にならこの爺の命を庶民に預ける」と言い切っている凄い親分なのだ。
朝9時、快晴の中200名以上の黒ずくめの異様な集団が明治神宮を支配した。その中に元新左翼崩れの私がいる事に何か滑稽な気がしたが、愛国党の芦名議長が「平野さん、いまこの国難の時に右翼も左翼もない! 日本を憂う気持ちはみんな同じだ」という言葉に救われた気がしての参加だった。私はこの石井親分(みんなは先生と呼ぶが)は自分の「死に場所」を何か探し求めている気がしてならないのだ。石井老の今後が気にかかる。
<さすらいのオヤジライダー無期限放浪の旅、改めお遍路の旅に挑戦>
 |
| 雨にも負けず、ただひたすら歩く。 |
さて話変わって、旅人なんていうとカッコいいかも知れないけど、旅をする人間なんて所詮無責任な人種に過ぎない。その場所が嫌になれば「ぷいっ」と又どこかに消えてしまえばいいのだ。気に入ったところで働き、気に入らなくなったら去るまでだ。何とも気楽な稼業なのだ(笑)。
過去20年前、私は元祖無期限世界放浪の旅をするいわゆる「バックパッカー」を約10年間もやっていて、最初の5年は約84カ国を回り(平野
悠:著『旅人の唄を聞いてくれ!』参照/ロフトブックス発売中。買ってくれ〜!)、後半の5年はカリブ海の最後の楽園と言われた「ドミニカ共和国」に市民権を取り、カリブ諸国では初めてと言われた「寿司、天ぷら」等の日本料理店をカリブ海に面
する通りに開店させ、毎日どこまでも蒼く澄み切ったカリブ海を見ながら5年も暮らしていた。そして5年後、ドミニカ共和国での仕事(料理店のほかに貿易会社などもやっていた)に挫折し「もう旅も外国もいいや」って言う感じで日本に帰って来て、又ロフトという会社の経営に精を出すのだが、ロフト再建経営も一段落して社長も辞め(今は会長っていう身分か・笑)又旅がしたくなってきたな〜っと思っていた矢先、昨年の初め那覇の船着き場で一枚のゲストハウスのチラシ(一泊1500円、夜飯300円、泡盛100円)を貰ってぶっ飛んで、その宿泊所「月光」に泊まったことがきっかけで、日本にもかつて私が世界を放浪していた時にこよなく愛した旅人のための定宿(ゲストハウスやとほ宿、面
白ユース)が日本各地にまだたくさん点在するのを知って日本を旅することの面
白さを体験してしまったのだ。そして昨年の7月に一念発起してバイクでの「日本一周の旅=面
白宿探し=出来たらそれを一冊の本にまとめる事」に挑戦する気になったんだ。その最初の皮切りは、昨年7月で佐渡島で行われる野外レイブコンサート「anoyoライブ」に参加してからの全国横断、名付けて「さすらいのオヤジライダー無期限放浪の旅」だった。しかし佐渡島でのライブ前日、悲しいかな27針を縫うバイクでの大けがを起こしてしまい、まさしく「あの世」のそばまで行ってしまってその旅を断念し、東京に帰って来た。それから傷が癒えてバイクに乗れるようになった昨年9月から秋の北海道を回り沖縄、九州の旅をし、真冬の北海道(これはバイクではなかったが)も回って来た。完全に日本の旅にはまったと言える(笑)。途中アメリカのイラク侵略もあり急遽バグダッドの国際反戦会議に出席するなどという事もあったが、今回の旅の続きは四国からと言う風に決めていたのだ。
 |
| 初めてのお遍路衣装に一人記念撮影。 |
■5月7日(火)
昨日いつもの様に朝10時に起き、何か適当に旅の支度を始めるが、一体今度旅をどのくらいの日時をかけてどういう旅にするのかも、何も考えず、ただまあ、四国から始めようなんて思っていて、全く下調べもせず(これは毎度の事だが)。だからバックに積み込む荷物も適当に、そして新宿の事務所にパソコン(ノート)を取りに行き、そこには椎名「旅人本=自分探しの旅をしよう(仮題)の編集長」と斉藤プラスワン・プロデューサーがいて、今日伊豆下田のとほ宿「ワンゲルハウス」に私たちは列車で取材に行きますということで、私は一足先に一路バイクで東名高速を突っ走り沼津で降り、そこから天城峠を越え3時間半でノンストップで下田に着いた。伊豆急下田からバイクで10分あまり西伊豆方面
の山道をたどると、いわゆる山間部の国道沿いにワンゲルハウスはあった。斉藤、椎名はまだついていない。通
りから見るこの「とほ宿」はただの木造モルタルの普通のペンション風に見えたが、中に入るとそこにはここのオヤジのこだわりが至る所に見える。午後6時、伊豆急でこちらに向かって来ている椎名・斉藤組が下田駅に着くとの連絡があり、ここのオヤジと駅まで迎えに行くことになった。なんと、オヤジが持ち出して来た車は、普通
の出迎え用のワゴン車ではなく、ベンツであった(笑)。それも手入れがよくされていて、まるでヤクザの出迎えの車の様だった。それに迎えられた椎名、斉藤組は驚いた。ラウンジ兼寝室には4台の大型バイク(2台はベンベー)が飾ってあり、このオヤジ(63歳)は元ライダーだったとのこと。ということはここの宿はライダー連中が多いことが伺わせたが、この日の客は私達だけであった。夜飯は猪鍋・魚の薫製だったが、4人で酒を飲み始めたのはいいが、ここのオヤジが全く舞い上がってしまい、とにかくこのオヤジと椎名編集長(年が
30歳離れている)が朝まで意気投合していた。たぶんこの宿はこのオヤジのキャラで持っていると言えそうだし、とても素晴らしいバイタリティーのある人のいいオヤジは何時にもわたって自分の生き様を話してくれた。わたしゃ、血圧のせいにして2〜3杯の焼酎しか飲まず、早々に退散したが。
 |
| この頃はまだ足に血豆も出来ずルンルン気分で歩いていたが・・・
その後、地獄的な苦闘の連続が始まるとは予想もしていなかった。 |
■5月8日(水)
朝から霧雨が降っている。その為今日の出発は見合わせることにした。
目指すは「四国」? 今朝、斉藤嬢、椎名編集長と別れて一人宿に残ってこれからの旅の事を色々考えていた。雨が降ったりやんだりの下田の今日の天気。夕刻二人の青年(30代前半?)の客が私の泊まっいる宿にやって来た。二人は四国のお遍路さんを3ヶ月間やって、その旅の途中に知り合ったそうだ。一人は親しい兄が死んでのいわく付きのお遍路で1220キロ歩き通
したそうだ。片方の青年は自転車で88カ所を回っていた。夕食の時、その二人の青年が話している四国お遍路回りの「感動」の数々を熱っぽく語る隣で、私はぽつねんと酒を飲みながらぼんやり聞いていた。
彼らの話を聞いている内に、何かしら私の今回の旅の目的が浮き彫りになって来た気がした。実を言うと、何か今回の旅に乗り切れない自分にイライラしていたのだ。「又昨年と同じ事やるの?」って。この二人の青年を見ながら「薄く割った梅干しなし」のお湯割りを飲みながら「ふっと」どこかで自分の前に訪れる全てに、誰に対しても、周りの緑の大自然にさえも今降っている雨にさえにも何か「絶望的」な・・・「おっもしろくないな〜!」って思っている自分に気がついていた。今回の旅で伊豆の緑の山々を見ても「感動」しない自分が何か不思議だった。北海道や九州ではあれほど自然や人々との出会いに「感動し別
れが辛かった」のに?って思った。これからの旅・・・それも本を出版する為の作業が本格的になるに連れて・・・私は感動がなくなったのではないか?と思ったりもした。「突然」私は、すげ傘と杖と、白装束で四国を回るお遍路さんを「俺もやってみようかな? だって四国って四万十川と道後温泉ぐらいしかないじゃん?」ってふっと考えていた。寝床に入ってからもず〜っと自分がお遍路さんになった時の事を考えていた。「果
たして自分に出来るんだろうか? 何か面白そうだな、やってみようかな?」って漠然と思い、そして「まだ見知らぬ
四国の人々の情けを感じよう。きっとこれが終わると、変わった自分を発見できるかも知れない」と思った。「うん、明日は一挙に四国の徳島へ行こう」そして「お遍路さん」に挑戦してみようと決心していた。バイクはどうするって考えて、やっぱお遍路途中離脱を防ぐためにも、バイクは東京に送る事にした。早速ネットで「四国お遍路さん」を調べまくった。説明によると、元気な若者でも1時間4キロのペースで一日10時間歩くのが限界と書いてある。このペースで全寺の札所を回ると1220キロ歩きを45日で完走となるらしい。お遍路宿は意外と高くって一泊2食で大体6000円以上だそうだ。一日1万円を使ってしまうと大体50万以上かかると言う予算構成なのだ(笑)。
■5月16日(金)
四国でお遍路さんの旅をするって決意して伊豆を発ってからもう一週間以上にもなる。四国までは簡単に着くことが出来ず、名古屋や紀伊半島とかに旅の落とし前をそれぞれつけながらやっと一昨日和歌山からフェリーで徳島に着いた。そして今日午前中に誰も乗り手のいないバイクをフェリーに積み込み東京に送り、バイクの旅とはおさらばした。
そしてついに今日から私のお遍路さん計画を実行することになった。昨夜は随分悩んだ。「歩きお遍路」決行するかするまいか?って。「お遍路さんの歩き通
しの旅」は想像以上に辛いらしいことがだんだんわかって来た。しかしやるからには最悪なことがない限り、絶対タクシーやバスには乗りたくないし、多分無理かも知れないけれど断固歩き通
したいと思った。だがこの重たい荷物を抱えてほんと一日20キロも30キロも歩けるのかって考え込んでしまった。この朝、徳島の小松島の海の見えるユースで素敵な海風とキラキラするほどのまばゆさの中で「よっしゃ! やるっきゃない!」ってガバ〜って跳ね起きた。徳島駅からお遍路さんのコース「一番札所、霊山寺」に着いたのは昼ごろでもうお遍路さんや観光客はほとんどいなくってお寺は静かな佇まいの中、閑散としていた。一応いわゆるお遍路グッズを購入した。私はお参りの仕方もお経の読み方も蝋燭を何本立てればいいのかすら知らなかった。ただ、誰もいない本堂の前でぽけ〜っと突っ立っていた。ふと隣の紺色のお寺の人かお遍路さんかわからない風体の老婆が「初めてですか? いいんですよ、ただ手を合わして、頭を空にして一心に祈っていれば、宗旨が違ってもかまわないんですよ。それがお参りなんです。」と言ってくれた。その通
りにすると本当に頭が空になっていく自分が見えてきた気になった。そうしたら・・・ほんと、何か電気の様な「霊感」が走って思わず戦慄してしまった。「わ〜っ、すげ〜!」って思った。うん、これは普通
の人にはわからんと思う。スプーン曲げや、お化けやUFOがウソだって言っている奴には理解できないと思うが、すご〜い「気というか霊気」が自分の体内を縦横無尽に走って思わず硬直したんだ。静かな霧雨にむせぶ2重の塔が、蝋燭にともされたお堂内がキラキラしていて「早くあんたもお遍路さんしんさい・・・・」って私に向かって静かに語りかけて来たんだ。何か私は若干恐くなって「はい〜!」って答えたんだ。そして「どうも、ありがとう・・・」とさっきの老婆に挨拶しようと振り返るとそこには誰もいなかった。あたりを見渡しても境内にも誰もいないのだ。静寂とした境内にいる一人のお坊さんに聞いてみた。
「今、そこにいたお婆さんはもう帰られたのですか?」
「いえ、先からこの場にいたのはあなただけですよ」と言われた。私はその坊さんに今あった事を話した。そうするとそのお坊さんは「時々そう言う風に言う人がいます。お寺って不思議な事がたくさん起きるんですよ。きっとお大師様が老女になってあなたに話しかけたんですよ・・・」と言われた。(続く・・・)
ロフトプラスワン席亭・平野 悠
旅人日記が更新される●おじさんのHPはこちら
http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/
|