第二弾
「光の輪(元オウム)と行く聖地巡礼同行記 その3」

 15年前、オウム事件が起きた。当時は教祖の麻原彰晃以下、在家・出家信者が国内外合わせて約5万人近くいたオウム真理教は、数々の事件後離散し、多くの信者がオウムを離れた。しかし、麻原裁判はまだ続いており、未だ麻原を信奉しオウム真理教(松本家支配=現アレフ)にとどまっている信者も、少なからずいる。
 元オウム最高幹部だった上祐氏は、現在、新しい宗教的実践理論を構築しようとしてもがき苦しんでいる。彼が立ち上げた新しい宗教集団・ひかりの輪は、過去のオウムから批判的に離脱するところから始まった。その活動では、修行のかたわら、ゆくあてのない元出家信者(=全財産を教団に寄付した人々)の救済や、オウム事件の被害者への賠償問題が中心課題として存在している。
 私は、昨年7月にNaked Loftのトークイベントで共演した際、上祐氏が発するオーラというかテレパシーの波動直撃を受け、好奇心を刺激され、昨秋、彼らの日光への聖地巡礼に同行した。以下はその記録の三回目である。


ひかりの輪・広末副代表。こうやって見ると結構凛々しいね。好きだな、彼の存在

今逃げたら、苦しみの中で学び得た教訓が全てなくなる

「この宗教(オウム)が絶対なんだ。他の宗教は全部邪宗だ。ハルマゲドンは来る。輪廻転生で人間は何度でも生まれ変わる。だからポア(抹殺)するのも一つの宗教的行事で悪いことはない」と言いきる麻原オウム真理教。この思想から決別した上祐代表は、「みんな私と、何かしらの縁があってこうやって集まって来てくれている。こんな嬉しいことはない」と、新組織誕生の理由を語った。
「こんなつらい状況下、かつて私は事件の責任から逃げ去っていくことを考えていた。どこかで『あの事件は自分が起こしたわけではない』と思っていた。しかし上祐代表の一言、『今逃げたらオウムが起こした事件の被害者救済も、あの苦しみの中で学び得た教訓も全てなくなる。君も俺と一緒に責任を取って残ってほしい』と、逃げ腰の私に向かって彼は宣言し、そして私は今副代表をやっているんです」と、広末副代表は、笑顔を向けながら言った。
「あれだけの事件を起こして、それを乗り越え苦しみながら新しい境地を模索している元オウム信者の人達から何かを得たい、と思って参加しました。もちろん、この聖地巡礼に参加することなんて、親にも友達にも言えませんよ」と、美しい若い子が、こぼれんばかりの笑顔で話しかけてきた。
「俺はね、自分の親が地下鉄サリン事件で被害に遭い、家庭が崩壊した。まだ高校生で政治結社員でもあった俺は、一番目立っていた上祐を殺してやろうと散々機会をうかがっていた。しかし結局は、無防備で私の前に立つ上祐さんに手をあげることができなかった。それから上祐さんと話すことによって、上祐さんがオウムを反省していることがわかり、今、怨念を晴らして彼を殺しても何にもならないと思っているうちに、ひかりの輪の行事に参加することになってしまった」と、苦笑する若い青年。
「オウムに全財産を取られてしまった。出家するということは、そういうことなんです。私は今、無一文。でもいいんです。その方がすっきりしていて。夫も子供も私から離れた。今は上祐さんの理念をどこまで手伝えるかだけを考えています」と、あっけらかんと言う中年の主婦。
 総勢40名ほど。この聖地巡礼には、いろいろな人が参加していた。今、若いOL達に流行の「パワースポットブーム」とは、目的も趣旨も違っているように見えた。


一般参加者の美女。若い。顔を見せられないのが残念。この体験を今の自分の仕事(芸術系)に生かしたいと言う

死の恐怖と宗教のあり方と無我の境地

 私のインタビューに、上祐さんは全く力を抜いたスタンスで語ってくれた。なんとも、その立ち位置はすがすがしかった。
「人は死んでも生まれ変わる、というのが輪廻転生です。そして、オウムの修行の中で、私もたくさんした修行に、サマディという一種の仮死状態に入る深い瞑想体験があって、それで輪廻転生を信じ、死の恐怖を乗り越えるというのがあります。しかし、悪い意味で、その体験を使ってしまいました」
「もうちょっと具体的に説明して下さい」
「サマディは深い瞑想状態であり、その中では、自分の意識が身体から抜け出し、かつ、自在にコントロールできる状態にあり、意識が上昇して天界の世界を体験したり、下降して地獄の世界を体験することもあります。しかし、あくまでも仮死状態的な体験であり、本当の死ではなく、死後の世界や輪廻を証明する絶対的な事実ではありません。サマディ体験で輪廻を絶対視し、“ポア=殺人”を肯定するのは盲信ともいえます。そして、輪廻転生を主題としていない仏教もたくさんあるわけです」
「多くの宗教者が目指す無我の境地とは?」
「無我とは、“我”はないという意味。死の恐怖は、“我”への執着が原因です。具体的には、自分と他者・外界を区別し、自分だけに執着するがゆえに、自分の死に対して恐れ苦しみます。しかし、よく考えると、実際の自分は他者・外界と不可分一体で、他と独立した自分などなく(=無我)、真の自分は宇宙全体だと悟れば、“我”の生死に関係なく苦しむことはない。無我とは心の科学です。生きている間も人は宇宙と一体であり、死んで“千の風”になって一体であり続ける。千の風とは無限の宇宙に広がった悟りの意識ともいえます」
「終末思想とは?」
「善と悪の闘いが終末思想だと思います。しかし、ポイントは、自分の心の中の善と悪の闘いと解釈するべきです。そうでなく、実際の世界の戦いにすると、世界最終決戦になってしまう。オウムはキリストが麻原で、悪が日本社会とした。こうして、心の中の闘いではなく、外に戦いを求めると戦争になる。そして、今のイスラムとキリスト教の戦いの一因も終末思想の影響がいわれていますが、その原因もこの間違いにあると思います」


瞑想やヨガの修行の前に体をリラックスさせるため、緑の大地で気功を三々五々行う参加者

死は感謝に基づく恩返しの時

「全ての生き物は他の生き物の死があって生きているわけで、それを考え、日々感謝して、その恩返しとして死をとらえるとよいと思います。天寿を無視して死に急いだり、人を殺してはいけませんが、死は無価値になるわけでも悪となるわけでもありません。私達は、他の生き物を犠牲にして生きて、天寿が来たら、その感謝に基づくお返しとして、他の生き物のために死んで行くのです。御飯を食べるときの『いただきます』は、『あなたの命をいただき、善のために使います』という感謝の言葉。そして、『いつの日か寿命が来たらお返しします』が、誰もができる、無我の境地の基本だと思います」
「最近、一番思うことはなんですか?」
「なんて言うのかな、優しさかな? それは決して優柔不断なことではなく、非常に深い知性と精神に支えられるもの。宗教において優しさということを考えると、自分たちの宗教だけが真理だと、いたずらに主張して争ってはならない。全てが仏教でいえば“仏の子”として尊重しなくてはいけない。私たちひかりの輪はそれを実現したいと願っていて、それが21世紀の宗教の課題だと思っていて、そこに向かう過程として今の私たちがあると思っています」

 私は今回、このひかりの輪主催の聖地巡礼に参加しながら、一連のオウム事件がどんどん風化し、結果的に何も解決されないまま教祖と幹部達の死刑は確定したが、この事件を解っていない自分を見た。「この集団の目指すものは何か?」という疑問は、上祐代表の「立ち位置」で、それなりにすっきりした感じが残っている。オウム事件は、未だ市井の目が許していない。この孤立無援の新しい目的を持った集団はどこに行くのか、長い目で見守ってゆこうと思った。


上祐代表と私。後ろは戦場ヶ原。ここで戦争(合戦)が行われた訳ではない。紅葉の戦場ヶ原で上祐氏へ最後のインタビューが行われた


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ロフト席亭 平野 悠

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