GUEST:伊藤浩樹(ex.ECHOES)

梶原 今回のお客様は、伊藤浩樹様ということで、よろしくお願い致します!
浩樹 よろしくお願い致します!
梶原 浩樹君とは、すごく古いつきあいになるわけですが。ECHOESもBLUE HEARTSも事務所が一緒だったんだよね。
浩樹 そうだね。ECHOESが解散したのが91年だから、17、8年のつきあいになりますね(笑)。
梶原 そんなになるんだよね。
浩樹 そうだよ、気がついたらお互い今年は、40だよと(笑)。梶君と僕は同い年なんだから。
梶原 そうそう。ビックリしちゃうよね。デビューがECHOESの方が早かったからね。なんかこう、私達はスタイルとしてはパンクをやっていたんだけど。
浩樹 俺たちはブリティッシュ・ロックだね。いわゆるポリスとかU2系だとかね。
梶原 バカテクバンドだったよ〜! テクニックがすごくて、本当に適わないって尊敬していましたから。
浩樹 いやいやいや(苦笑)。

梶原 それからいろいろありまして、一昨年ドラマでのヒットがあってね。
浩樹 一瞬ECHOES再結成をして武道館でやってみたりしたんだけど。

梶原 そういう流れを踏まえつつなんだけど、その後浩樹君はWarRockというレーベルを立ち上げたんだよね。今は私も参加していますが、その辺の話をしてもらえますか。
浩樹 WarRockっていうのは、コンセプトは「ミュージシャンがつくるレーベル」なんだよね。レコード会社といったらいいのかな。そういうのを立ち上げてみたかったんだよ。単に立ち上げると言っても、親会社があっての話なんだけど。「ミュージシャンがつくる」って言っても、最初ミュージシャンが俺しかいなかったんだけど。じゃあどうしようかなって考えて、80年代くらいに活躍していた自分の仲間がいるじゃん。そういう仲間を集おう! って思って。まずは梶君ね。やっぱり長いつきあいだったからさ。それから、(Street)SlidersのJAMESとか、プリプリだとAKKOちゃんに声をかけてみて、やろう! っていうことになって。その4人でWarRockというチームを組んだんだよ。その他にも手伝ってくれる人が沢山いるよね。ライブを手伝ってくれたりレコーディングを手伝ってくれたりね。そういう仲間も沢山いるね。いまは、まさにいろんな事が始まる時なんだよね。俺は女の子2人のユニットでMYを手掛けてみたり、梶君はCURLというバンドでしょ、JAMESはアコースティックのソロの女の子をプロデュースしたりさ。そういう活動をしているんだよね。
梶原 そうだね。でも、自分たちのソロだったりバンドだったりをWarRockでやろうという視点はないんだよね。
浩樹 そうだね。プロデュース集団っていう風に考えてもらってもいいかもしれないね。
梶原 ミュージシャンでありながらプロデュースもするという考え方なんだよね。その上で自分たちが気に入ったアーティストなりミュージシャンを見つけてきて、自分たちの手で生み出していくということだよね。
浩樹 なんで、活動しているミュージシャンがプロデュースに乗り出すかって言ったらさ、現実ステージというものを死ぬ ほど味わった俺たちが、これからのアーティストに直接ノウハウを教えてあげることが出来るのは、ダイレクトで判りやすいんじゃないかなって思ったのよ。育成という事に関しては。レコード会社の悪口を言う訳じゃないけれど、ディレクターが俺たちのように、現実ステージを経験している訳でもないじゃないですか。武道館だったりでライブをやったことないでしょ。そういう人が「ライブって、どうこう、、、」って教えるよりも、実際体験した我々が直接培ったノウハウを、そのまま教えてあげる方がいいんじゃないかなって思う訳よ。新人にとったらそうでしょ。
梶原 それはすごく大きな事だよね。
浩樹 反面、事業としても成功させなきゃいけないっていう大変さはあるけどね。ビジネスとしても回さなきゃいけないっていうさ。そういうこともありつつ、根底は現役ミュージシャンが新人の育成をするということなんだよ。

梶原 浩樹君とは、かなり身近なところでも顔を合わせていたりするんですけど、事業としてやっていこうとしている努力はすごいよね。ミュージシャンだけで気楽にずっとやっていた私としては、すごいな〜っていう感じなんだよ。
浩樹 そこが、壁なんだよ。レコード会社のディレクターの話とかしたけど、そういう人達は事業としてはエキスパートなんですよ。我々はミュージシャンとしてはエキスパートなんだけどさ。その両方をバランス良くやらなければいけないんですよ。そこが一番大変なことなんだけど、余計なお世話なのかもしれないけど、今音楽業界って、どちらかというと結構衰退気味でしょ。「CDが売れない」とか言われたりするじゃない。そういうなかでやっぱり、いろんなノウハウを詰めこんで音楽での事業を成功させないといけないなと思うんだよ。我々の手でね。やっぱり、飽和状態になっていると思うんだよね。何が良くて何が悪いのかとかも判らなくて、当たり障りなくサラリーマンとして仕事して、二番煎じを出していけばいいんじゃないかみたいなね。極端な話だけどさ。二匹目の鰌を狙っていけば安牌かなっていうのをくり返してきているから、今売れている物が偏って来ちゃっているんじゃないかって思うんだよ。当時、我々がやっていた頃ってもっといろんなジャンルがあったじゃないですか。バンドブームよりもちょっと前の話になるんだけど。もっとみんな、レコード会社もそうだったと思うけど、いろんな音楽を外に向かって配信していこうと思って、すごく鎬を削っていたようにやっていたと思うんだよ。だから、一つの事務所にBLUE HEARTSのようなバンドもいれば、ECHOESみたいな毛色の違うバンドもいたんだと思うしね。それがロック・サーキットと題してツアーを一緒に回ったり出来たじゃない。あの頃って、すごくエネルギーがあったよね。バンドをやる側も出す側も。
梶原 なるほどね、そうだよね。
浩樹 でしょ。そういうエネルギーって大事なのよ。バンドを僕らがやっているときはリスナーに発していたんだけど、今度はつくる側として、つくった物をリスナーに発するべきなんだよ。そういうエネルギーを若いミュージシャンを通 して発することが出来ればってね。もちろんミュージシャンとしてやっていきつつの話ですけど。
梶原 まあねぇ、そういう気持ちもあるよね。

梶原 例えばプロデューサーとしての伊藤浩樹っていうのと、バンドマンとしての伊藤浩樹のバランスはどうなんですか?
伊藤 やっぱりね、最終的には俺はバンドにこだわりたいって言うのが強烈にあるんですけど。やっぱり、事業体として起こした以上は、自分がまたバンドとしてのスタイルに戻ったときの、自分が音楽をやるための、音楽の基盤を作っていきたいのね。新人を出していくっていうのは。音楽を長く続けて行くためにはさ。変な話、音楽とは別 の仕事に就いて、自分の時間で音楽をやっていく人もいるじゃないですか。でも、時分は違う仕事に就いてその生活のペースが出来上がってしまったら、二度と音楽の生活に戻って来れないんじゃないかって思うんですよ。僕はそれがイヤなんですよ。だから、自分で音楽の会社を作って、自分の音楽がやりたいが為に、そういう自分のシステムを作っていかなければいけなかったんですよ。ずっと音楽でやっていきたい! という意思表示の表れですよ。

梶原 プロデュースではいろいろノウハウを持っているので、浩樹君に向いているんじゃないですか?
浩樹 向いていたかもしれないな〜っていう感覚ですね(笑)。
梶原 ECHOESの時にも、そういう役割になっていたように見えたんですが。音楽の関わり方だとか。
浩樹 そうかもね。わりとそうだったかもしれない。
梶原 やっぱり、浩樹君が割と中心になっていろいろ作っていたように思えるんですが。
浩樹 そうだね。サウンド的には僕が中心になって、独りで全部やっちゃっていたんで。
梶原 なるほどね。そういうバンドでの姿勢が、現在のプロデュースという形に変わっているのかなって思っていたんですよ。だけど、そのECHOESから今に至るまでの間にいろいろあったんじゃないかなって思うんですけどね〜。
浩樹 そうねぇ、10年くらい間にあるからさ。ECHOES終わって、同時期にレベッカも解散になって、レベッカのキーボードの土橋君と3年くらいバンドをやっていて。CDも3枚くらいリリースしたんだけど。もう亡くなってしまったんだけど、池田貴族をプロデュースしてavexから出してみたりとか。あとは、アニメの主題歌だとかアイドルだとかのプロデュースもやったかな。作家活動してみたりだとか。
梶原 それはやっぱり、ECHOESが終わった時、次もバンドでやりたいという考えの方が強かったわけでしょ。
浩樹 強かった! 強かった!! だから、土橋君と一緒にバンドをやっていたりするんだけどね。まぁ、結局音楽をやり続けるっていうのって、やっぱり生活をしなきゃいけないし、かといって違う分野で仕事をしながら音楽をという発想に辿り着かなかったんだよね。若い連中のやり方で言うと、バイトをしながらバンド活動をするっていう考えなんだけど。そういう事はもはや出来ないなって思って。僕は、18の頃からECHOESをやっていて、それが仕事として、結局27、8にまで来てしまって。
梶原 ECHOES始めたの18だったの?!
浩樹 そう。
梶原 へぇ〜。若かったんだねぇ〜。
浩樹 だから、やっぱりね、、、そこまで原点には戻ることは出来ないというか。ECHOESが解散したのが27、8で、もう一度バンドをやるために自分を奮い立たせて、「よし、俺はラーメン屋のバイトをやって、夜はバンド活動だ!」なんていう若いエネルギーじゃなかったのよ。あくまでも音楽業界の中にいながら、自分というものをうまく転がせないかなという発想が、今いる自分の原点だったりするのよ。
梶原 なるほどね。
浩樹 かといって、スタジオミュージシャンも違ったのね。スタジオミュージシャンもちょっとはやってみたんだけどねぇ。
梶原 そう、そこも聞きたかったことなのよ! 浩樹君は、なんでも結構いけるじゃないですか。
浩樹 そうなんだけど。歌謡曲とかもやりましたよ〜。名前を伏せてとかね。譜面 をパッと渡されて「じゃあ、伊藤さんお願い致しますよ〜!」みたいなノリでさ。譜面 通りには出来るんだけど、自分をそこで出せなかったんだよね。もう、文字通 り譜面通りですよ。プロデューサーだとかディレクターだとかの言うとおりにギターを弾いてっていう感じ。それって、本当にいいのかな?! って思い始めて来ちゃってさ。
梶原 そこでの疑問が沸いて来ちゃったんだ。
浩樹 だって、そういうのってすごく楽なんですよ。烏滸がましい話ですけど、今まで培ってきたテクニックで全部一応まかなえてしまうんだけど。その楽な部分にどっぷり浸かってしまうと、後はそこに落ち着いちゃうんじゃないかっていう不安感が出てきて。怖いじゃないですか。自分のとんがった部分が削れてしまうんじゃないかって思って。音楽作家としてね。
梶原 そこの部分は、生活する上で金銭的には大丈夫だったんでしょ。
浩樹 全然大丈夫だったよ。だけどさ、それもなんか違うなと。
梶原 だけど、学生の頃って、スタジオミュージシャンに憧れちゃっていたりしたでしょ。スタジオミュージシャンになれたら格好いいな〜っていう時期があったでしょ。
浩樹 あったねぇ、あったよ〜。
梶原 そういうのは、軽くクリアして。これじゃダメだという気持ちが大きくなったんだ。
浩樹 そうだね。やっぱりあとは、ECHOESが解散して俺のその後の動きを注目してくれていた媒体だったり、レコード会社の人間だったりが少なからずいて。そういう連中が俺が歌謡曲をやっているという情報を嗅ぎつけてさ、「あいつは魂売ったよ〜!」とかさ、そういう言葉が俺の周りにも聞こえ始めてきてさ(笑)。
梶原 そうね、よくあるよね(笑)。
浩樹 これはまずいなぁって思って。やっぱり、ECHOESっていうのが10年以上続いて、アルバムも10枚以上リリースすることができてね、俺なりのギタリストとしての一応のスタイルだったりブランドイメージが出来上がっていたりするじゃないですか。それなのに、そういった動きっていうのはECHOES時代に築き上げたものを切り崩して売っている状態にみえるじゃないですか。それは守りたいでしょ。自分のスタイルをずっと貫きつつ、ビジネスとしても成功させたいなって思うでしょ。
梶原 なるほどね。自分のプライドの部分だよね。
浩樹 そう。だけどそこを守っていたお陰で、今、こういう事業を起こしていろんなレコード会社を回ってみても、まだみんなの意識の中にはECHOESのギタリストで、俺がギターを弾いているイメージが頭の中にあるんだよね。そういうイメージがあるから俺が俺のスタイルとノウハウで音を発信してくれるんだろうって思ってくれるんだよね。だから、俺は俺のスタイルを守って良かったなって強く思うよ。それがビジネスに繋がって良かったって思ってるよ。 梶原 そうだよね、やりやすいよね。 浩樹 これが、例えばそうじゃなくて、何でも屋みたいなスタンスでさ、まぁなんでも弾けなくはないんだけど、みんなのイメージの中で何でも屋という風に固定されてしまうと、「ECHOESだった伊藤です」ってレコード会社に挨拶にいっても、ECHOES解散から10年も経ってる訳だから、レコード会社の人も「ああ、スタジオミュージシャンの伊藤さんね」っていう意識になってしまうじゃん。そういう風には思われたくなかったのよ。
梶原 なるほどね。
浩樹 「あいつに頼んだら、こういうギターを弾いてくれるだろう」という意識のままで止めておきたかったっていうのがあるんだよね。それは大変だったけどね。10年間っていったら、長いよ〜。独りで10年だから。バンドと違って独りは寄り添うものがないんで。すごく長く感じるんだよね。

梶原 レベッカの土橋君とのバンドの話に戻るけど、あんまりしっくりいかなかったということなの?
浩樹 いや、そういう訳でもないんだけどね。それはまぁ、会社の体制の問題だよね。いわゆるシンコーミュージックというところなんだけど。そこの会社の姿勢だったりさ。それは政治的な意味で長続きさせる事が出来なかったんだよ。そういうこともあるじゃないですか。やっぱり、お互い前のバンドが売れていたからっていっても、会社として新人もやらなきゃいけないだとか、資金繰りのことだとか。なかなか我々を維持出来ないだとかさ。それは仕方ないことかもしれないよね。
梶原 なるほどねぇ。だけど、常に浩樹君の中では、作家活動をしながらバンドというものもやりたいな〜って思っていたわけ?
浩樹 ずっとやりたいなって思っていたよ。やっぱりバンドが放つエネルギーってすごいじゃないですか。独りの人から発信するエネルギーよりも、3人なり4人なり5人なりで一つの音楽にぶつかっていって、それがはまったときに放つエネルギーのすごさったらないでしょ。そういう時に思うのは、「音楽やっていて良かったな〜」ってシンプルに思える瞬間でもあるけどさ。
梶原 そうだね、その通りなんだよね。
浩樹 その感覚っていうのは、バンド上がりの人間にしか判らない感覚なのかもしれないんだけどね。
梶原 バンドマジックとかあるもんね〜。
浩樹 そういうマジックはスタジオミュージシャンでは判り得ないことなのかもしれないじゃない。

梶原 そうだよね、そういう感覚はあるよね。まぁ、THE 3PEACEも浩樹君とはKYONちゃんがドラムを叩いていたバンドとかで競演はしているじゃない。だけど、浩樹君にとってどこら辺が目指す音楽なのかということも聞きたいんですが。作家もしつつバンドもやりつつでさ。
浩樹 KYONちゃんとやって、その後ASAYANから女の子を引っ張ってきてW VISIONっていうのを出していたんだけど。それがECHOESが終わってからの自分の中の最終目標地点ではあったんだよね。いわゆる女性ヴォーカルがやりたくて。なんで女性ヴォーカルなのかっていうと、10何年ECHOESのヴォーカルだった辻君と顔をつきあわせて来て、男のヴォーカルだったわけでしょ。ECHOESは彼が曲を書いてきてたから、それでも良かったんだけど。僕が曲を書く場合は、やっぱり曲調的に女の子っぽいメロディーしか出てこなくて。それだったら、女性ヴォーカルで勝負してみたいなっていう気持ちがあって。いろんな業界の人達の意見もありつつ、ああいう形に行き着いたんだよね。
梶原 なるほどね。浩樹君の曲は女性ヴォーカルとの相性が良さそうだもんね。
浩樹 W VISIONの話も複雑でさ、ワーナーの一プロジェクト出していたんだけど、その部門全部がなくなっちゃったのよ! そこの一番上の人から何から。それと同時に俺らもなくなっちゃったのよ。
梶原 えぇっ?! そんなことあるの?!
浩樹 ありますよ〜。もうさ、自分でやるしかないじゃん。
梶原 (笑)そうねぇ、自分でなんとかしなきゃね。
浩樹 早い話そういう所に行き着いちゃったのよ。
梶原 そうかそうか、、、そこまでいろんな事があったとは知りませんでしたよ〜(笑)。
浩樹 ただ、そういう経験があったからこそ、ここまで自分を奮い立たせることになっているんだから、状況が今の自分に向かわせたんだって考えるよ。自分たちのせいだけじゃない。「すいません、会社がなくなります〜」って一体何なの?! それは一般 企業のリストラと同じじゃんね。

梶原 W VISIONをやっている時っていうのは、まだ自分でレーベルを立ち上げて〜っていう感じじゃなかったんだ。
浩樹 そうだね。やっぱりまだまだ、自分から発した物をきっちりレコード会社と契約して、自分のバンドで転がせるっていうのが初めてだったしね。池田貴族の場合はプロデューサーとしてavexと仕事をやっていたし、その前の土橋の時もシンコーミュージック主体で、僕は加入しているという感覚だったから。そのKYONちゃんとやっていたW VISIONは自分が発想して、自分でメンバーを捜して、自分でレコード会社を決めてね。全部自分主導でやったものだったんで。 梶原 そうか、その自分でやり始めたものの結果がそんな風に出ちゃったんだよね。
浩樹 そうそう。もう、これはいかんぞ〜! って思うでしょ。 梶原 そのあと、W VISIONがなくなってから、今回のWarRockの社長と出会うまではどれくらいだったの?
浩樹 それでも、1年半くらいかな。 梶原 その1年半はどういう感じだったの?
浩樹 相変わらずだよね。また自分を維持するための作家活動だよね。そういう人脈はあったから。ガンダム20周年のアルバムをアレンジしてみたり。そういう仕事をしながら、色々考えていましたよ。 梶原 だけど、そういう仕事もこなせるっていうのは、浩樹君はすごいよね。
浩樹 うーん、だけどミュージシャンとして食っていくのって、本当に大変だよね。
梶原 そうだねぇ、、、。浩樹君はその時期に作家活動をしながらもレーベルを立ち上げようという気になっていたんだよね。これはもう、自分でやるしかないって。
浩樹 まぁ、簡単に言ったら、そうだね。
梶原 だけど、やっぱり出会いが必要になってくるでしょ。
浩樹 それで、偶然なんだけどさ。想いは人に通じるもんなんだなって思う。自分がずーっと思い描いている理想があるとしたら、出会いは偶然なのかもしれないけど、自分の人脈だったりが必然的にその方向に傾いていったりするんだなって。
梶原 へぇ、それは例えば?!
浩樹 だって、会社を起こそうとしても、自分にお金があるわけじゃないじゃない。やっぱり自分の理想に賛同してくれるスポンサーが必要になるじゃない。そうやって、いろんな事務所だったりレコード会社だったりにアプローチしていくうちに、自分が必要としていた人に出会えるんだよ。
梶原 今のWarRockの社長になる人もそうなの?
浩樹 そうだよ。だから、若い人に言いたいのは、「諦めないでいく」ということ。ずっと思い描いていれば、いつかその場所だったり人に出会えるから。それもね、広い範囲にどんどん自分の理想をぶつけてみるっていうのも、一つのアーティストパワーなのかもしれないよね。
梶原 それはよく判る。一つのことを一直線にやる時期っていうのもあるし、それが上手いこといかないなっていう客観的な判断をして、手を変え品を変えて、遠回りになるかもしれないけど、いろんな道を探るっていうのもあるよね。いろいろそれを考えないとダメだよね。
浩樹 そうでしょ。最近の若い子達って、なんだかリタイヤするのが早すぎるなって思うのよ。
梶原 あぁ、それも判る気がする。 浩樹 諦めるのが早すぎるのよ。なんかすぐ諦めちゃう。じゃあ、そんなに諦めるくらいの簡単な気持ちで音楽やっているんだったら、俺は今すぐ辞めた方がいいんじゃないの?! って思っちゃうんだよ。
梶原 なるほどねぇ。
浩樹 そんなに簡単なもんじゃないでしょ。正直言って。音楽ってさぁ、音楽で飯を食うなんてね、形のない物で飯を食うってことよ! いわゆる空気の振動を人に伝えて、それを売っているだからさ。その上にメッセージだ何だっていうのは、後付けじゃない。言葉としては格好いいかもしれないけど、形のない物を人に売るわけですからね。

浩樹 まぁ、社長自体が音楽が好きなんだけど。俺的にはレーベルがやりたくて。そこが合致したんだよね。面 白いよね。 梶原 音楽が好きだという所も大きいと思うけど、ビジネスとしても成功させないとダメだよね。そこの辺のバランスが上手くいけばね。
浩樹 社長は経営コンサルティングもやっていて、きちんとしたビジネスプランがないと話にならないでしょ。下手に取り繕ってもばれちゃうしね。
梶原 だけど今回の話を切り出すときに、コマ的なものは浩樹君の中にはあったの? プロデュースしたい具体的なアーティストだったりさ。
浩樹 なんとなくおぼろげにはあったんだけど。今のMYもこういう風にやりたいなっていうのはあったよ。だけど、事業を始めるときにありものを持っていって、これはどうですか?! ってぶつけるよりも、輪郭がはっきりしていないけど、一緒にやっていきましょうよ! っていう方が面 白いんじゃないかって俺は思ったのよ。
梶原 そうなんだよね。3PEACEの時でそれは散々経験したよ。音が出来上がっちゃっていてメンバーもそれなりにネームヴァリューがあるとあんまり喰らいついてこないもんなんだよね。
浩樹 出来上がっている物はみんなとかくイヤなんだよ。やっぱり共に考えましょうって言った方が、テンションもあがるじゃない。
梶原 そういう心理になるんだろうね。
浩樹 だから、意気投合出来るかは大きいよね。

梶原 そんな中で今浩樹君が手掛けているのがMYなんだけど。ヴォーカル2人がそれぞれがソロだったときはバックがかなりハードだったじゃないですか。
浩樹 グランジっぽかったもんね。僕は女性ヴォーカルとバックの対比みたいなものが出したかったんだけど。それはそれでなかなか世間には受け入れられないと。だったら手を変え品を変えでしょう。路線を変えてみようっていうのはあり得るよ。そこは音楽プロデューサー特権で、僕はいろんなジャンルが出来るから。一番彼女たちにいい物が見つかればいいわけじゃない。
梶原 浩樹君がやりたい音楽性とMYの音楽性との違いはどうなんですか?
浩樹 MYはアコースティック・ポップだもんねぇ。基本的には彼女達がソロでやったような、グランジっぽい、ハードなものの方が好きだったりするけど。割とその路線で押したかったというのもあるけど。ビジネスとして考えた時に、レーベル第1弾として出したときに、彼女達が売れなかったらビジネスが成り立たないでしょ。そういう所ですよ。妥協とも違うんですよ。今のアコースティック・ポップっていうのも、僕の一面 の中にあるわけだから。 梶原 じゃあ、自分の中の許容範囲の中なんだね。
浩樹 許容範囲に収めているつもりだよ。
梶原 そうかそうか。MYはいい感じに行ってて、次のセカンドシングルが出る予定になっていてね。次が私がやっているCURLというバンド、そしてJAMESがやっている“りつ”という女の子でしょ。レーベル的には、かなりバラエティーに富んでいるよね。
浩樹 結局、その一つ一つがバラバラなんだけど、レーベルに関わっている梶君だったり、JAMESだったりAKKOちゃんだったり俺だったりっていうのも、バラバラなんだからさ。いいんじゃないかなって思って。例えば俺独りでMYやったりCURLやったり、“りつ”やったりしてたら、そりゃ〜こいつ何がやりたいんだ?! って思われても仕方ないと思うけど。その為に俺以外のメンバーがいるんだと思っているんで。
梶原 なるほどね。
浩樹 だから、各々のやりたいことだったり得意な分野をこのレーベルの中で活かしていけるっていうのは、重要な事だし面 白い集合体になるんじゃないかな。幅が広がるじゃないですか。レーベルとしても。これが今は、各メンバーが一つづしか手掛けていないんだけど、これが2つ3つづつやるようになったら、セクションのように確立していくよね。
梶原 そうだね。そこまで広げていけたらいいよね。
浩樹 だけど俺の理想では、そこまで行かないと意味がないと思っているんだよ。だから、梶君もいろんなバンドを連れてきてやって欲しいんだよ。あと2、3やるとかね。俺も他のアーティストを2、3やるようにしたいし。
梶原 そうかそうか。例えば今まで浩樹君が関わってきたレーベルとWarRockの違いはなんだと思う?
浩樹 やっぱり、最初に言ったようにね、現役ミュージシャンが直接そのノウハウを教えてあげられるっていうことが圧倒的に違うんじゃないかな。あとはやっぱり宣伝力だよね。割と他のレーベルにひけを取っていないと思うよ。
梶原 サウンド的な統一性はバラバラになってしまうだろうけど、そこが面白いのかもしれないね。
浩樹 そうだね、やっぱりその辺も一つベンチャー的な要素だよね。WarRockっていうのは、魔術師っていう意味もあるんで。RをLに変えると魔術師でしょ。僕は造語にしているんだけどね。結局音を自由に操るという意味で付けているので。だから、いろんな音があってもいいんじゃないかな。
梶原 なるほどね〜。
浩樹 でもさ、この会社で1枚出してみてダメだったから、やっぱり辞めましょうっていうのは違うと思うんだよ。これは最初に言ったけど、他のレコード会社と変わらないじゃん。そういう風には絶対にしたくないよね。だからこそ、ビジネスという側面 も脳みその半分くらい、置いていて。常に会社としてどう転がして行くのかを考えないとダメだよね。
梶原 ほんと、そういう考えが素晴らしいと思うよ。だって、浩樹君昼間に営業にいろんな所に行ってるもんね。すごいよ。
浩樹 でも、答えは単純でしょ。もちろんWarRockをちゃんと存続させないとだめなんだけど、一番は自分がミュージシャンであり続けるためにだから。とどのつまりが。非常に答えは簡単だよ。
梶原 そうか〜。今回で一番大変だったのはどの辺りになるの?
浩樹 やっぱり、レーベルを立ち上げたってことを認知してもらうことと、流通 だよね。流通の人に納得してもらって、きちんと商品を預かってもらうっていうことが一番大変だよ。まぁ、ミュージシャンの俺が言うもんだから、どこもイヤだとは言わないで、快く引き受けてくれたというラッキーな状況もあったんだけどね。
梶原 そうだよね。今となったら、CDを作るなんて誰でも出来るじゃないですか。外資系のレコード店を始め、インディーズのコーナーも充実してますよね。そういう何千枚ってリリースされる中で、他とどうやって差別 化させるのかが大事だなぁって思って。
浩樹 だけど、その分やり甲斐はあるよね。一つ一つ実っていくっていう実感は、自分が動いている分ダイレクトなわけじゃん。反応が返って来ることとか。いい所とか悪い所は自分で判断していくっていうのが一番だよね。レコード会社が入ってくると、第三者を経由してのものになっちゃうでしょ。実際の所が判らないじゃないですか。
梶原 そうだね。その人はこう言うんだけど、本当のところその人がどういう動きをしているのか判らないっていうのがあるよね。
浩樹 例えば、3枚目のアルバムが全く売れなかった場合、俺たちからしたら「レコード会社はきちんと宣伝しているんですか〜?!」っていう不満が出て来るじゃない。一方では「やってる、やってる!」っていう言葉しか返って来ない訳なんだから。だけど、実際に自分で動いてみると判るよ。どれだけ動いたのかとか、どこに苦労があってどのくらい大変な事なんだとか。全て納得出来るもんね。それ以上のことはないよね。
梶原 そうだね、時代的にもインディーレーベルの立場的にもすごく面白いよね。

WarRock more info.  
http://www.agp.co.jp/warrock


伊藤浩樹PRODUCE
1st. single
MY
STAY WITH ME

NOW ON SALE
WARR-0007 1,000yen (tax in)

MY 2003年春に2nd. single リリース予定!